南北朝時代の建武3年/延元元年5月25日(1336年7月4日)、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で、後醍醐天皇に反旗を翻す足利尊氏軍と、迎え討つ後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で、壮絶な戦闘「湊川の戦い」が起きました。
元弘3(1333)年に鎌倉の北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇はおよそ2年ぶりに京都に還幸して自ら政治(まつりごと)を執られますが、武士たちの間では論功行賞を巡って不平不満が高まり、足利尊氏は新政に失望した武士たちに、武家政治の再興を呼びかけ兵を挙げました。
足利尊氏は後醍醐天皇方の軍に破れ、いったん九州に追い落とされますが、九州・中国の軍勢を催し、足利尊氏は船団を指揮し、弟の直義は陸路で進軍を始めます。
迎え討つ後醍醐天皇方の総大将・新田義貞は、主力の1万騎を率いて和田岬一帯に陣を布く中、足利軍の船団は海から押し寄せました。
『太平記』によると、新田軍は波打ち際の松の木に馬を寄せ、船に向かって遠矢を射たそうで、以来その地は「遠矢の浜」と呼ばれ、石碑が建っています。
しかしその時、足利軍の船団は和田岬を通り過ぎ、神戸方面に進路をとったため、新田軍は和田岬の陣を引き払い神戸方面に向かってしまい、このすきに足利尊氏は上陸しました。まさに新田義貞は足利尊氏の陽動作戦にしてやられたわけですね。
その後、楠木軍700騎は、足利軍の大軍の挟み撃ちにあいますが、逃げずに戦闘が続きました。
楠木軍の最後は僅か73騎。楠木正成は現在の湊川神社の辺りで生涯を閉じたそうです。楠木正成の身体には11ヶ所の切り傷が残っていた、と言われています。
兵庫県神戸市には、楠木正成が祀られた「湊川神社」には墓碑(史跡名勝天然記念物)・殉節地、湊川公園には楠木正成像があるなど、「湊川の戦い」ゆかりの地が多数あります。
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