1600年4月29日(慶長5年3月16日)、オランダ商船「リーフデ号」が豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着しました。
「リーフデ号」は1598年6月24日、東洋を目指してオランダ・ロッテルダムから5隻の船団で出航し、南アメリカのマゼラン海峡を経由するコースをとりました。 航行中には嵐や疫病、スペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、リーフデ号だけが日本に漂着したのです。
300トンの木造帆船には、出港時150人ほどの乗組員が乗船していましたが、日本に漂着したのはわずか24人。しかも重傷者が多く、最終的な生存者は14人だったそうです。
「デ・リーフデ号像」
撮影:船の科学館
その生存者の中には、船長のヤコブ・クワッケルナック、後に徳川家康に外交顧問として仕えた航海士ヤン・ヨーステン(日本名:耶揚子)、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らがいました。
また、リーフデ号に備わっていた大砲と砲員を、家康は同年9月に勃発した関ヶ原の戦いに使い勝利しています。
上の写真は、丸の内ビルディング横(東京都千代田区)に設置された「リーフデ号」の彫刻で、1980(昭和55)年4月、オランダのファン・アフト首相が来日した際、オランダ王国政府から日本政府に寄贈されたものです。
この像がある丸の内には、かつて「八重洲河岸」がありました。
リーフデ号に乗船していたヤン・ヨーステンは、和田倉門外の堀に屋敷を与えられ、その辺りはヤン・ヨーステンの日本名「耶揚子(やようす)」にちなんで「八重洲」の地名となったことは良く知られています。
JR東京駅八重洲口・八重洲通りと中央通りの交差点付近には、日蘭修好380周年を記念して、「ヤン・ヨーステン記念碑」が置かれています。
「ヤン・ヨーステン記念碑」
撮影:船の科学館
ところで、ヤン・ヨーステン(1557年頃ー1623年)は、徳川家康の信任を得て外交と砲術の顧問となるほか、朱印船貿易を推進しました。
絵画「東シナ海を航海する朱印船」
作:谷井建三
寸法:630×930
所蔵:船の科学館
この絵画は、長崎の朱印船主荒木宗太郎の持ち船の絵図を元に、東シナ海を航行中の姿として再現し描いたものです。
朱印船とは、幕府から異国渡海朱印状を交付されて東南アジアに渡海した貿易船のことです。
朱印制度は、慶長9(1604)年に徳川家康によって始められ、寛永12(1635)年に鎖国となって海外渡航が禁止となるまで続きました。
慶長14(1609)年にはオランダ東インド会社の船が九州平戸に到着し、オランダ総督からの親書が家康に渡されました。
家康がオランダに朱印状を交付したことにより、平戸にオランダ商館が設立され、日蘭貿易が開始されています。
現在、「リーフデ号」の船体は現存しませんが、船尾に取り付けられていた「エラスムスの木像」は、栃木県佐野市の竜江院に伝存し、国の重要文化財に指定されています。もともと「リーフデ号」は「エラスムス号」を改名した船だったのです。
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