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今日の海の日

太平洋戦争を生き延びた貨客船「氷川丸」は1930(昭和5)年4月25日に竣工

現在、横浜港・山下公園の海岸に係留保存されている「氷川丸」は、1930(昭和5)年4月25日、横浜船渠(株)(現・三菱重工業(株))で竣工しました。
本日、船齢93歳です。

さて、昭和初期から第二次世界大戦までの時期、日本は客船の全盛期でした。 航空機が飛び交う現代とは異なり、国際間の旅客交通の主役は客船で、主要港には日本や外国の定期客船が頻繁に出入りしていました。
一方、航路によっては、日本の客船は、船の大きさ、スピード、旅客設備、船内サービス等において、欧米の汽船会社との厳しい競争にさらされていました。

そのような時代背景の中、日本郵船は、イギリスからディーゼル船を2隻購入してシアトル航路に就航させ、実績を検証します。
そして1927(昭和2)年には、シアトル航路に3隻、サンフランシスコ航路に3隻、欧州航路に2隻、南米西岸航路に1隻、計9隻のディーゼル貨客船を三菱長崎造船所、横浜船渠、大阪鉄工所で一挙に新造することを決定しました。
その9隻の中の1隻が「氷川丸」で、シアトル航路に配船されました。

氷川丸 公試運転.jpg

写真「氷川丸の公試運転」
所蔵:船の科学館

当時のシアトル航路には、日清戦争の後に建造された「加賀丸」(6,301総トン、1901年竣工)や「丹後丸」(7,463総トン、1905年竣工)、「横浜丸」(6,469総トン、1912年竣工)等の客船4隻と貨物船2隻の計6隻が、2週1便の定期運航を行っていました。

同じ航路を走るイギリスの大型豪華客船とは勝負になりませんが、経済性を考えて、ディーゼル貨客船の「氷川丸」(11,622総トン)、同船型の「日枝丸」(11,621総トン、1930年7月竣工)、「平安丸」(11,616総トン、1930年11月竣工)の3隻を新造して、シアトル航路に投入したのです。

そして「氷川丸」の船内には、当時ヨーロッパで流行していたアールデコ様式が採用され、食事の良さと手厚い船内サービスでイギリス客船に対抗しました。

氷川丸模型.jpg

船舶模型 「貨客船 「氷川丸」 (1/1250)」
寸法:130×16×35
所蔵:船の科学館

「氷川丸」の概要

総トン数 11,622トン
全長 163.30メートル
全幅 20.12メートル
主機 B&W複動4サイクルディーゼル機関 2基2軸
出力 11,000馬力
速力 最高速力 18.38ノット
旅客定員 286名
乗組員定員 147名(増員16名含む)

ところで、戦前、氷川丸には数々の著名人が乗船しています。
1932(昭和7)年6月には、喜劇王チャップリンが、横浜からシアトルまで乗船しました。
チャップリンが映画撮影を終えた帰国の途次、東京滞在中に食べた天ぷらが大好物との話を聞き、船内で天ぷらを供したところ、大変喜ばれたそうです。
なんと、料理人をチャップリンが食べたお店に見習いに出して、その味を再現したそうですよ。

1938(昭和13)年4月には、「柔道の父」「スポーツの父」と称される嘉納治五郎が、IOC(国際オリンピック委員会)カイロ会議の後、東京開催を支持したアメリカのIOC委員を表敬訪問し、バンクーバから氷川丸に乗船して横浜に向かいました。
しかし乗船中、過労のために肺炎にかかり、船医の懸命な治療も叶わず、横浜到着2日前に亡くなりました。昭和13年5月4日、享年77でした。

氷川丸は、その後、日米関係の悪化によって、1941(昭和16)年8月にシアトル航路が閉鎖され、太平洋戦争を迎えます。
11年3ヶ月の間、73航海・延べ1万人の乗客が乗船したそうです。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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