嘉永7年2月10日(新暦1854年3月8日)、ペリーは初めて神奈川(横浜)に上陸し、翌日から日本側使節と条約締結交渉を開始しました。
3週間におよぶ交渉の結果、両者の合意が得られ、嘉永7年3月3日(新暦1854年3月31日)、アメリカ側全権の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー、日本側全権の林復斎 大学頭(はやし ふくさい だいがくのかみ)によって「日米和親条約」(通称「神奈川条約」)が調印されました。
この条約は12ヶ条からなり、下田・箱館(現在の函館)2港の開港、アメリカ艦船への物資の補給、アメリカの漂流民の救助、外交官の下田駐在、アメリカへの最恵国待遇(貿易等を他国に許可した場合は、アメリカにも同様に許可する)等が取り決められました。
横浜港大さん橋入口にある「開港広場」には、記念碑が設置されています。

「日米和親条約締結の地」 出典:写真AC
ところで、「 日米和親条約」は日本語・英語・オランダ語・漢文の4種類の文書が作成されています。
当時の日本では、外交言語は漢文を中心とし、西洋言語は蘭語(オランダ語)が使われていたので、条約交渉には言語の問題がありました。
交渉の公用語はオランダ語となり、日本側の交渉の主役は通訳の森山栄之助となりました。
中国語も使用されたので、アメリカ側には羅森(ルオ セン)という中国人の通訳も同席しています。
具体的には、ペリーが話した英語をアメリカ側通訳のポートマンがオランダ語に訳し、森山が日本語に訳して林大学頭を代表とする日本側に伝える。日本側の発言は、反対にオランダ語を経由して、英語になってペリーに伝えられました。
ペリー ⇔ ポートマン ⇔ 森山 ⇔ 林
日英の交渉ですら大変なのに、更にオランダ語を挟んでの交渉は、さぞかし苦労したと思いますが、実は、問題も起きていました。
交渉はすっかりペリーのペースに巻き込まれたのでしょうか、日本側はアメリカ領事を下田に駐在させることを認めてしまったのです。
幕府は、アメリカ船の一時寄港は認めるが、外交や貿易は取り決めない方針だったので、下田にアメリカ外交官の駐在を認めると国交を結んだことになるので、それは認められない、どうやって断ろう、と思案を巡らせました。
そこで日本側が考えた策は、オランダ語版では「双方のどちらかが望んだ時に(駐在を)置ける」と書いてあるものを、日本側が作成した漢文版には「両国が同意したら置ける」と書き換え、アメリカ側に渡したのです。
アメリカ側は漢文版も事前確認したのでしょうが、その違いに気付かず、内容が異なる条約が調印されました。
林大学頭は漢文版を正文とし、その日本語訳を添えて幕府に提出しましたが、老中はオランダ語版の日本語訳と比較し、訳の食い違いを発見したそうで、以後、漢文は交渉に使うな、というお達しが出されたそうです。
ちなみに、アメリカ領事館は下田の玉泉寺に設置され、開国の流れは4年後の日米修好通商条約へと発展していきます。
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