日本におけるキリスト教は、フランシスコ・ザビエルによって1549年に伝えられ、その後、ヨーロッパから訪れた宣教師たちが広めました。
宣教師は、天下人となった織田信長から、1580年にキリスト教を学ぶ施設「セミナリヨ」をつくる許しを得、その施設ではキリシタン大名と呼ばれた良家の子息や、その縁者の子供たちが教育を受けていました。
ちょうどその頃、日本に派遣されていた巡察師ヴァリニャーノの発案によって、ローマ教皇に謁見する「天正遣欧使節」の派遣が計画され、九州のキリシタン大名(大友宗麟、有馬晴信、大村純忠)によって、セミナリヨで学ぶ少年から4名が選ばれました。

「天正遣欧少年使節顕彰之像」 出典:写真AC
「天正遣欧使節」に選ばれた伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノは、ポルトガルの貿易船「南蛮船」に乗り込み、1582年2月20日(天正10年正月28日)、長崎から大海原に乗り出しました。
彼らが乗船した南蛮船の詳細は不明ですが、当時の南蛮船は15世紀に造られた帆船「カラック」、もしくは16世紀から造られた帆船「ガレオン」(「カラック」の後継)で、ポルトガルではナウ船、スペインではナオ船と呼ばれていました。

「カラックとガレオン」
作:山形欣哉
寸法:194×266
所蔵:船の科学館
当時の南蛮船は、「4隻中2隻が帰り着けば幸いだ」と言われるほど、危険を伴った航海でした。
天正遣欧使節は長崎を出港した後、ポルトガルが交易をしていた国々(マカオ、マラッカ、インドのコチン・ゴア、モザンビークなど)に寄港しながらローマに到着し、1585年3月23日に、キリシタン大名の名代として、晴れて教皇グレゴリオ13世に謁見を賜ることができました。
往路に3年を費やしての旅は、13歳ほどの少年にとって、どれほど過酷な旅だったでしょう。
親と別れ、故郷と別れ、幾多の嵐と荒波、日照りと渇きを乗り越えての航海は、風と帆と海流によっての航海というよりも、「祈り」によって成しえた航海と思えてなりません。
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