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1918(大正7)年2月13日、「ラバウルの貴公子」と称された笹井醇一が誕生。太平洋戦争で海軍のエースパイロットとして名を馳せた男が散ったラバウル。

太平洋戦争時、海軍のエースパイロットとして名を馳せた笹井醇一は、戦後書かれた戦記小説で「ラバウルの貴公子」と称されました。

端正な顔立ちから、戦後に「貴公子」という渾名がついたようですが、闘争心が旺盛で海軍兵学校の同期生からは「軍鶏」と呼ばれていました。
そして、戦時中はエースパイロット「撃墜王」としてその名を馳せました。

笹井の撃墜数については、連合艦隊告示36号(昭和18年11月21日布告)に次のように記載されています。

「第251海軍航空隊付(改称後の台南空)海軍中尉笹井醇一 戦闘機隊指揮官又は中隊長として比島、東インド及び東部「ニューギニア」方面等の作戦に従事し戦闘参加76回単独敵機27機を撃墜し友軍機と協同敵飛行機187機撃墜16機炎上25機を撃破せり」

海軍兵学校出身者の公認撃墜数では最高だそうです。

1942年(昭和17年)8月26日、ラバウルから出撃した笹井隊長率いる零戦9機は米海兵隊の爆撃機と壮絶な空中戦を切り広げた後、米海兵隊の撃墜王マリオン・カールによって撃墜され、ガダルカナルの海岸に散りました。

戦死したときの階級は中尉、まだ24歳の若さでした(戦死認定され海軍少佐に二階級特進)。墓所は多磨霊園にあります。

従軍画家が描いたラバウル

戦時中、陸海軍から依頼を受けて従軍し戦争画を描いた画家が多数いました。
この人たちは「従軍画家」と呼ばれていました。

戦中で統制を受けていた作品制作に必要な資材を入手することが困難だった時代です。
軍部に「従軍画家に戦意高揚のための作品を制作させる思惑があった」と考えられる中で、多くの画家が従軍し、戦地の様子を描いた作品を残しています。

絵画 ラバウル野営 12月17年.jpg

絵画:ラバウル野営 12月17年
画:松見吉彦
寸法(mm):260×385
所蔵:船の科学館

今回ご紹介するのは、海軍従軍画家松見吉彦の作品です。

絵の右下にこの絵を描いた時期が記載されています。
日本軍によるラバウル占領は昭和17年1月ですから、その年の暮れに描かれたものです。

この作家に関する情報は少ないようですが、次のようなことが和歌山県立図書館の情報からわかっています。

・明治22年生まれ
・和歌山の士族の家に生まれた
・東京美術学校西洋科に入学(入学年不明)
・没年は不明

引用:レファレンス共同データベース

絵画 モレライ君 ラバウル原住民 十七・十二月.jpg

絵画:モレライ君 ラバウル原住民 一七・十二月
画:松見吉彦
寸法(mm):260×388
所蔵:船の科学館

松見がこの絵を描いた時の年齢は50歳を過ぎていたと思われます。
現地の若者に自分の子どもを重ね合わせたのかもしれません。

絵画 ラバウル原住民 一七・十二月.jpg

絵画:ラバウル原住民 一七・十二月
画:松見吉彦
寸法(mm):264×340
所蔵:船の科学館

右に生えている樹木はヤシでしょうか。
中央から左側にかけて柵が見えます。家畜でも飼っているのかもしれません。住民の暮らしが垣間見えるようです。

ところで笹井が戦死したのは1942(昭和17)年8月26日ですから、この絵が描かれた時には笹井はすでにこの世を去っています。

これらの作品からは、ラバウルが緊迫している様子は感じられません。

ラバウルとは

良好な港があり船による物資の輸送が可能でした。そして、地理的にソロモンやニューギニアに対する作戦の前進基地として適していましたので、この地に航空基地が建設されました。これにより、ラバウルはソロモンやニューギニアへの兵站(補給)基地、つまり、この方面に進攻する艦隊や上陸軍が集結し出撃する基地であり、この方面に送る軍需物資や食糧の集積所としての役割を果たしていました。

地図を見てみると、その意図は一目瞭然です。
(笹井が散ったガダルカナルはラバウルの南東のソロモン諸島にあります。)

今回ご紹介した絵からは、ラバウルが自然豊かな地であったことがわかります。

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