初代南極観測船「宗谷」による第1次南極観測隊が1957(昭和32年)1月29日、オングル島に公式上陸。そこに建設された「昭和基地」は日本の南極観測を支え続ける屋台骨です。
この記事を書いている2023(令和5)年2月も、第64次南極観測隊が同基地に滞在しています。
この昭和基地は閉鎖されたことがあります。
「宗谷」の老朽化もあり、第6次観測で南極観測が中断した時です。
第2次観測時に悪天候で越冬を断念した時にも一時閉鎖されましたが、中断とはいえ閉鎖を前提に観測隊が派遣されたのはこの時が初めてです。
第6次観測時の主な業務は昭和基地の撤収作業になりましたが、この時に活躍したのが「セスナ185」です。
「宗谷」に搭載された固定翼機は、第1次がセスナ180、第2〜3次がDHC-2型ビーバー機、そして第6次ではセスナ185が使われました(第4次・第5次では固定翼機は持ち込まれませんでした)。
第1次のセスナ180は朝日新聞社有機(文部省借り上げ)、第2次からは文部省が整備し、第6次のセスナ185は文部省が海上保安庁に委託しました。セスナ185は南極観測では初の海上保安庁所属機です。
セスナ185は、セスナ 180を元に開発されました。
Bush plane(ブッシュ・プレーン:未開地用の汎用機)としての使用が意図され、エンジンや機体フレームが強化されたほか、降着装置はタイヤからスキーやフロートに変えることができ、南極での使用にも適していました。
主要諸元
全 長:7.85 m
全 幅:10.92 m
全 高:2.36 m
翼 面 積:16.16 u
空虚重量 :769 kg
最大離陸重量:1,520 kg
エンジン :コンチネンタル IO-470-F 水平6気筒ピストンエンジン(260hp) × 1
最大速度 :286 km/h(海面高度)
巡航速度 :274 km/h(高度2,135 m)
実用上昇限度:5,455 m
航続距離:1,576 km
乗 客:5名
乗 員:1名
セスナ185は、昭和基地をベースとして主に航空測量のための航空写真撮影等に用いられました。
実働期間は1月14日から23日、飛行回数は11回、飛行時間は1時間15分でした。
セスナは初代南極観測船「宗谷」に主翼・尾翼を分解して積み込まれていました。
南極に到着後、胴体はヘリコプターで、主翼等は雪上車で昭和基地まで運搬され組み立てられました。
写真中央に写っているのは嘉保博道甲板長、髭のボースン(甲板長(注)のこと)と呼ばれた「宗谷」乗組員、観測隊員で唯一の沖縄出身者です。
まだ写真が貴重な時代ですので、現在のように何枚も撮ることはできません。
荷役責任者の嘉保甲板長が指揮する作業中の一枚ですが、主翼がまだ撮りつけられておらず、降着装置もタイヤのままです(1枚目の写真では、タイヤの下にスキーがついています)。
(注)甲板長は、甲板部員を指揮監督する責任者で、船体・船倉・船用品の整備、荷役(にやく)準備、貨物の保全・保安、船内の見回りを担当
昭和基地を撤収、南極に別れを告げ帰国の途に
撤収作業を終えた第6次観測隊は1962(昭和37)2月16日、「宗谷」で帰国の途に就きます。
そして、同年4月17日6回に及んだ南国観測を成功に導いた「宗谷」は、東京日の出桟橋に帰港しました。南極観測船として最後の航海でした。
偉業を成し遂げた「南極観測隊」を乗せて帰国した「宗谷」は多くの船の出迎えを受けます。
左右の船が放水をしています。放水でできた水のアーチをくぐり、「宗谷」は東京湾を日の出埠頭に向けて進んでいきます。
東京日の出桟橋は、帰国を待ち受ける人であふれていました。
帰国を祝う式典用に紅白の幕が張られ、演台の後ろには「日の丸」と「海上保安庁庁旗」が飾られています。
着物姿の女性、制服姿の海上保安官、旗を振る老若男女、父を迎えに来たと思われる子連れの家族、名前が書かれた幟、報道関係者のカメラ...、戦後の日本に希望と勇気を与えた南極観測事業は、ここで一つの区切りを迎えました。
「昭和基地」はその後1965年11月20日に再開され、現在も南極観測基地として重要な役割を担い続けています。
そして、初代南極観測船としての役目を終えた「宗谷」は勇退しますが、海上保安庁第一管区海上保安本部に所属する巡視船となり、1978(昭和53)10月1日に解役されるまで「北の海の守り神」と呼ばれる活躍をしました。
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