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1913(大正2)年1月31日、下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ関釜連絡船「高麗丸」が就航。

1905(明治38)年から1945(昭和20)年の間、下関から朝鮮半島南端の釜山の間には関釜連絡船によって結ばれた航路がありました。

開設以来、壱岐丸と対馬丸が同航路に就航していましたが、1912(明治45)年6月に新橋ー下関の1・2等特別急行列車が、対岸では釜山ー奉天の直通列車が運行され、新橋から関釜航路経由で奉天へ向かうルートが完成します。
すると、利用者が増加し関釜航路に大量輸送可能な大型船が必要となりました。

その新船として建造されたのが高麗丸(こままる)です。

高麗丸桟橋にて.jpg

絵葉書:関釜連絡船 高麗丸
寸法(mm):87×139
所蔵:船の科学館

この絵葉書は、関釜航路に就航していたころの「高麗丸」です。
機関が故障しても帆走できるように設置されたマストの存在が目を引きます。

次の一枚は「高麗丸」の進水記念絵葉書です。

高麗丸進水記念絵葉書.jpg

絵葉書:「高麗丸」進水記念
寸法(mm):90×140
所蔵:船の科学館

「川崎造船所製造」の文字が見えます。
その下には「鉄道院関釜連絡船(二隻ノ内)」と書かれています。

鉄道院は後の国鉄、現在のJRグループの前身に当たります。
「二隻ノ内」とは、「高麗丸」は同型船が2隻同時期に建造されたためです(もう一隻は「新羅丸」といい、「高麗丸」から2か月遅れで関釜航路に就航しています)。

「高麗丸」は鉄道車両を搭載できる鉄道連絡船でしたので、絵葉書には「機関車」の写真も添えられています。

「高麗丸」は1931(昭和6)年6月には北海道稚内と樺太の大泊を結ぶ稚泊航路に転属(ただし、砕氷機能がなかったため夏季限定運用)の後、1933(昭和8)年に北日本汽船へ売却改造、「満州丸」と改称され、北鮮航路(敦賀ー清津・羅津・雄基)に就航します。

そして、太平洋戦争では日本海軍に徴用され、輸送船として使用されました。

民間商船は戦争で大きな犠牲を被ることになりますが、「高麗丸」も1944(昭和19)年9月9日、フィリピンサブタン島の西約130km付近でアメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの魚雷攻撃により沈没してしまいます。

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