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幕府軍艦「咸臨丸」がアメリカに向けて品川を出航したのは1860(万延元)年1月13日(新暦2月4日)。日米修好通商条約の批准書を交換する往復航海に成功

「咸臨丸」は、幕府の船として初めて太平洋を往復したことからその名が知られています。
太平洋を越えてアメリカへ向かったのは、日米修好通商条約の批准書を交換するためでした。

「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味します。
洋式のスクリュープロペラを装備する初の軍艦です。

咸臨丸帆走時.jpg

絵画:「咸臨丸」帆走時の精密側面イラスト
寸法(mm):305×465
画:西村慶明
所蔵:船の科学館

木造、3本マストが特徴です。
最後尾のマストに縦帆が、他のマストには横帆があります。

上の帆走時イラストと下の汽走時のイラストを比べると、帆走時のプロペラスクリューの位置が違うことがわかります。
スクリュープロペラは主に入出航時に使用され、航海中は抵抗を減らすため引き上げる構造になっていましたが、スクリュープロペラの一部は水面下にあったため、航送時の抵抗を完全に減らすことはできませんでした。

咸臨丸汽走時.jpg

絵画:「咸臨丸」汽走時の精密側面イラスト
寸法(mm):305×465
画:西村慶明
所蔵:船の科学館

品川を出港した後、2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコに入港、往路は38日・4,629海里 (8,573 km)の航海でした。

この航海は出港直後から荒天に見舞われてしまいます。
艦の各所が破損、疲労と船酔いのため日本人乗員では艦を運用できず、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉が指揮するアメリカ人乗員が代行しました。

復路45日・6,146海里(11,382km)の航海は好天に恵まれます。
往路の反省から、日本人で運用できるように体制を整えましたが、順調な航海ではその練度向上を確かめることはできませんでした。
この往復航海に成功したことは幕府海軍にとって大きな自信となりましたが、往路のアメリカ軍乗員の助力は過小評価され、日本人船員の航海・運用の技量が不十分であったことは軽視されてしまいました。

「咸臨丸」は旧幕府軍が北海道函館の五稜郭で降伏、戊辰戦争が幕を閉じると軍艦から北海道への開拓使の物資運搬船になります。
「咸臨丸」の最期は、1871(明治4)年9月(新暦10月)です。
伊達藩の重臣だった片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で松島湾口の寒風沢から北海道小樽へ向け出航、その輸送途中で北海道木古内町泉沢沖で暴風雨にあい遭難、19日(新暦10月30日)にサラキ岬で座礁し、その数日後沈没しました。

なお、「咸臨丸」は2021(令和3)年、咸臨丸終焉150周年の年に公益社団法人 日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されています

主要目

総トン数:620トン
全  長:48.80m
垂線間長:41.00m
最大幅 :8.74m
深  さ:5.60m
吃  水:前部:3.40m、後部:3.85m

(注)咸臨丸出港の日は旧暦1月18日・19日とする説もあります。

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