都(京都)の南郊外、鳥羽および伏見で、新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩が中心)と旧幕府軍は戦闘状態となり、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
日本最大の内戦「戊辰戦争」の勃発です。
1868(慶応4/明治元)年1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、兵力では旧幕府軍の勢力が大きかった(京都近郊では旧幕府軍15,000名、新政府軍5,000名)にもかかわらず、優勢な勢力を活かすことはできませんでした。
そして、1月6日には旧幕府軍徳川慶喜が滞在していた大阪城を離れ、1月8日には海路で江戸に逃れることになります。
徳川慶喜は「開陽丸」に乗船し、1867(慶応3)年6月に幕臣に取り立てられ京都にいた新選組も1月10日海路で江戸に向かいました。
この時、新選組が乗船したのは幕府軍艦「富士山丸」でした。
「富士山丸」は1862(文久2)年に、江戸幕府がアメリカ・ニューヨークにあるウェスター・ウェルト会社に発注した軍艦です。
1864年6月に完成しましたが、下関戦争が勃発したことでリンカーン大統領が富士山丸の出航を差し止めました。富士山丸が日本に到着したのは1866(慶応元)年12月です。
今回ご紹介したリトグラフ(石版画)は、「富士山丸」竣工記念に作られたと思われるものです。
作者のトーマス・ボナー(1820−1891)は1800年代後半にニューヨークで活躍したスコットランド出身の版画家で、南北戦争を題材とした作品等が有名です。彼が制作した艦船のリトグラフには、造船所のデータや船の諸元が記されている事が多く、貴重な資料となっています。
「富士山丸」に関する写真は、1876(明治9)年に3檣シップ型の練習帆船に改装された後のものしか無く、最初からシップ型であったと書かれている資料も少なくありません。
勝海舟の『海軍歴史』には建造時は2檣ブリッグ型であったと記されていますが、このリトグラフによって、2檣ブリッグ型であったことが確認されました。
「富士山丸」は1868(慶応4)年4月11日に幕府から新政府に上納されます。
1889(明治22)年5月除籍されるまで、大日本帝国海軍の練習船として使われました。
一方、「富士山丸」で江戸に逃れた新選組は、その後戦局の不利を悟った隊士たちの相次ぐ脱走、永倉新八、原田左之助らの離隊、近藤勇の新政府軍による処刑、肺結核の持病による沖田総司の死亡、宇都宮城の戦い、会津戦争への参加を経て蝦夷地へ向かいました。
この地で土方歳三が戦死し、食料や水も尽きてきたこともあり、新選組は新政府軍に降伏します。
土方の戦死は1869(明治2)年5月11日、新選組の降伏はその3日後の5月14日。
「富士山丸」が新政府に上納された翌年のことです。
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