
1912(明治45)年に広島で生まれた相生高秀(あいおい たかひで)は、呉一中学(現:広島県立呉三津田高等学校)を経て、1928(昭和3)年4月、海軍兵学校に59期生として入校しました。
1931(昭和6)年11月7日、兵学校を卒業したのち、装甲巡洋艦「浅間」乗組を経て1933(昭和8)年11月、第25期飛行学生を拝命します。
そして1934(昭和9)年7月飛行学生教程を修了、館山航空隊付となり、戦闘機のパイロットとしてのキャリアをスタートさせます。この時、海軍中尉に昇進しました。
相生のパイロットとしてのキャリアは、日中戦争に始まります。
そして、海軍の戦闘機飛行隊指揮官として、数々の空母に乗艦しています。
空母「赤城」
船舶模型:空母 「赤城」
縮尺:1/700
所蔵:船の科学館
(別館展示場に展示中)
空母「赤城」には1938(昭和13)年12月、戦闘機隊分隊長として着任しています。
「赤城」は当初巡洋戦艦として計画されましたが、呉海軍工廠で建造中にワシントン会議と軍縮条約の締結により建造中止となってしまいましたが、同条約の制限枠内で巡洋戦艦から航空母艦に改造され、竣工します(1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で沈没)。
空母「龍驤」
船舶模型:空母 「龍驤」
寸法(mm):860×195×220
縮尺:1/200
所蔵:船の科学館
空母「龍驤(りゅうじょう)」には戦闘機隊飛行隊長として1941(昭和16)年11月に着任しています。
「龍驤」は当初水上機母艦として建造が開始されますが、航空母艦へと設計変更されます。そのため、重心が高くなっているという特徴があります。
空母「瑞鶴」
船舶模型:空母 「瑞鶴」
寸法(mm):2575×440×390
縮尺:1/100
所蔵:船の科学館
1944(昭和19)年8月、相生は第六〇一海軍航空隊(母艦航空隊)の飛行長に着任し、この年の10月に、レイテ沖海戦で空母「瑞鶴」に乗艦しています。
(同海戦で「瑞鶴」は沈没し、相生は駆逐艦に救出されました)
日本海軍は1930年代初頭、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約から脱退します。そして第二次ロンドン海軍軍縮会議も決裂したことを踏まえ、第三次海軍軍備補充計画が帝国議会で承認されました。
「瑞鶴」はこの時に建造が決まった第4号艦で、第1号艦は「大和」、第2号艦「武蔵」、第3号艦「翔鶴」、第5号艦「日進」です。
川崎造船所(現:川崎重工業)艦船工場で建造された三万トン級大型軍艦です。
(1944(昭和19)年10月の比島沖海戦で米艦載機の攻撃を受けて沈没)。
終戦、そして戦後
相生は第三四三海軍航空隊(通称剣部隊)の副長として終戦を迎えました。
(剣部隊は、大戦末期に優秀な搭乗員を擁して、戦闘機「紫電改」を用いて活躍した部隊として知られています)
戦後は、海上自衛隊の前身「保安庁警備隊」に入隊し、初代鹿屋航空基地司令、訓練飛行隊群司令などを経て自衛艦隊幕僚長、第3代航空集団司令官、第11代自衛艦隊司令官を歴任し、1967(昭和42)年7月1日に退官しました(1993(平成5)3月6日没、享年81)。
【海軍の撃墜王】と名をはせた相生は、指導力に優れた指揮官でもあったといえるでしょう。
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