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1956(昭和31年)12月26日、シベリア抑留からの最後の引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港へ入港

シベリア抑留からの帰還者千数百名を乗せた客船「興安丸」が1956(昭和31年)12月26日、京都の舞鶴港に入港しました。

次の絵は「興安丸」が舞鶴へ向かう様子を描いたものです。

絵画 舞鶴へ「興安丸」.jpg

絵画:舞鶴へ「興安丸」
画:野上隼夫
寸法(mm):630×885
所蔵:船の科学館

先の大戦後、シベリアに抑留された人は厚生労働省の発表によれば約575,000人、帰還者は約473,000人、死亡55,000人とされています。

1947(昭和22)年から日ソが国交回復する1956年にかけて行われたシベリア抑留者の帰還は「興安丸」の舞鶴港帰港で区切りを迎えることになりました。

この時「興安丸」はシベリアからの最後の引揚げ、クリスマスの帰港、お年玉帰国になるとのことで、はじめて船内慰問用として日本赤十字社は1,400本のブドウ酒、1,200袋入りのたばこ、キャラメル、雑誌を、舞鶴地方引揚援護局も1,400人分の日用品を積み込んでいたそうです。

この絵からも、抑留されていた人々が数十年ぶりに帰還できた喜びが伝わってくるようです。

シベリア抑留からの最後の引揚げ船(第11次ソ連帰国船)となった「興安丸」は、この時「赤十字船」から「政府船」になったため、「赤十字」が緑に塗り替えられたようです。
この絵の「興安丸」の船腹は「緑十字」ですから、最後の帰港時の様子を描いたものになります。

歓喜あふれる帰国の様子を描いた絵ですが、多くの方が帰国を果たせずに亡くなっていることも忘れてはいけません。

次の写真は、ナホトカ近郊にある日本人墓地です。

ハバロフスクの日本人墓石01.jpg

船の科学館スタッフが個人的に同地を訪れた際に撮影したものです。
抑留中に亡くなった方、帰国船乗船を目前に亡くなられた方、遺骨が残されたままの方もいらっしゃいます。

悲しみの深さが、歓喜の大きさになっているとすれば、やはり戦争というのはむごいものだと言わざるをえません。

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投稿者:うっちー カテゴリー:歴史・人物 コメント:0

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