1944年(昭和19年)12月2日、九州門司港を出港しフィリピンに向けて航行中の軍隊輸送船が東シナ海でアメリカ軍の潜水艦「シーデビル」の雷撃を受けて沈没、そこには27歳の沢村栄治が乗船していました。
沢村栄治といえば、現在もプロ野球投手最高の栄誉の一つ「沢村賞(その年の日本プロ野球で最も活躍した完投型先発投手を対象として贈られる特別賞)」にその名を残す、不滅の大投手として有名です。
しかし、この時の沢村は3度目の招集だったこと、召集の前年に巨人軍を解雇されていたことは、あまり知られていないかもしれません。
ベーブ・ルースを快速球で打ち取り、アメリカ人が最初に覚えた日本人野球選手「スクールボーイ・サワムラ」は巨人軍に約9年在籍しましたが、そのうち約4年は二度の出征で戦地にいました。
一度目の出征ですでに肩を壊していた沢村の全盛期は約2年。
生涯成績63勝22敗は、"不世出の天才投手”として名を残すほどの素晴らしいものとは思えません。
なぜ「沢村賞」が設けられるほどの伝説の名投手として記憶されるのかは、「沢村栄治 裏切られたエース」を読むと見えてきますが、戦争とはむごいもの、ということも改めて感じさせます。
そしてもう一つ、沢村栄治は戦死したことは知られていますが、戦地へ向かう航海の途上、船ごと沈められた、ということをどれだけの人が知っているのでしょうか。
若者の命が失われた船
沢村が乗船していたのは、陸軍省に徴用された大阪商船(現株式会社商船三井)の貨客船「はわい丸」または川崎汽船の「安芸川丸」と言われています(沢村がこの時の輸送船に乗っていたこと、この日沈没した輸送船はこの両船だけとうことです)。
第二次大戦では兵站輸送は民間船団が担っていました。
この戦争における被害は次の通りです。
機 帆 船 2,070隻
漁 船 1,595隻
合 計 7,240隻 戦没船員数 陸軍徴傭船:27,092名
海軍徴傭船:17,363名
陸軍配当船・海軍指定船:15,043名
社 船:833名
合 計 :60,331名
船員の損耗率(戦争に参加した員数と戦死者の比率)は軍人を大きく上回っています。
また、戦没船員には年少船員が多いことも指摘されています。
海軍16%
船員は43%
(漁船、機帆船の正確な数字が把握困難なので推計) 戦没船員の年齢別分布
年 齢 | 人数(推計を含む) | 比率 |
---|---|---|
14 | 988 | 1.63 |
15 | 2,868 | 4.73 |
16 | 3,184 | 5.25 |
17 | 3,967 | 6.54 |
18 | 4,208 | 6.94 |
19 | 3,845 | 6.34 | 20未満小計 | 19,060 | 31.43 | 20以上30未満 | 16,610 | 27.39 | 30以上40未満 | 13,196 | 21.76 | 40以上50未満 | 8,539 | 14.08 | 50以上 | 3,238 | 5.34 | 合 計 | 60,643 | 100% |
沢村栄治の戦死が洋上、船上であったことから、民間船、船員の被害について調べてみたところ、戦争に徴用された船員の手記が残されていました。
制海権を失っていた日本は、昭和19年一年間に一千九隻もの船舶が沈められたそうです。
船員不足から年少の船員が徴用され、戦争を通して10代の船員が19千人以上犠牲になりました。
この本には、在学中に実習生として乗船した船舶が沈められた船員の家族が、子どもがどこの海にいるのかを知らされることもなく、乗船一年後に
「海軍軍属」として「戦死ヲ遂ゲラレタル旨広報有之候条茲ニ御通知申上グル」
との悲報を受けたと記されています。
「海に沈んだ者に遺骨のあろうはずはない」ということで、出港の際「万が一のときのことにと、遺髪・遺爪を残して行った」骨箱も、本土爆撃で「お寺ごとふっとんでしまった」そうです。
遺髪・遺爪がなくなってしまって後に帰ってきた「白木の箱」の中には「天皇陛下祭粢料」と特段の大きさに包まれた「香奠」、その中味は二十円(その時の実習料は五十円=普通船員の最低給と同額)。
「不滅の大投手」沢村栄治兵長(戦死により陸軍伍長に特進)の享年27もそうですが、若者の命を軽んじた戦争というものについて、改めて思いを巡らせる必要を感じる日と言えるでしょう。
注:引用元の数値をそのまま使用しているため、「戦没船員数」と「戦没船員数の年齢別分布」の合計数に違いがあります。
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