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短期建造世界記録を樹立した「来福丸」は、大正7年11月6日竣工

日本の海運業と造船業は、第一次世界大戦(1914年7月〜1918年11月)に伴う好況によって発展しました。
海運業においては、交戦国の徴用船と戦没船の増加により、世界的に船が不足し、海上運賃や船の建造費が高騰し、多くの船会社が設立されました。

造船業においては、物資の輸送が活発になるにつれ、多くの船が造られるようになり、大正8(1919)年にはアメリカ・イギリスに次ぐ世界第3位の造船国となり、建造量63万総トンを記録しています。
造船所では、建造期間を短くするため、竣工後の売却を見越して標準船型の「ストックボート」を大量に造り、右から左に売りさばいて高収益をあげました。

その一例が、第一次世界大戦の終結直前、川崎造船所神戸工場で大正7(1918)年11月6日に竣工した貨物船「来福丸」でした。

来福丸写真 大正7年.jpg

写真「来福丸」
所蔵:船の科学館

「来福丸」は、10月7日に起工してから23日間で船体が完成し、進水・艤装・試運転を経て、起工からわずか30日間という超スピードで竣工しました。この速さは、当時のアメリカの記録を抜いて、短期建造世界記録の樹立でした。
川崎造船所では、「ストックボート」が95隻建造され、「来福丸」はそのうちの同型船75隻の1隻で、初めてブロック建造が採用された事例でもありました。

「来福丸」の概要

総トン数 5,857トン
載貨重量トン数 9,081.9トン
長さ 117.35メートル
型幅 15.54メートル
深さ 10.97メートル
喫水 8.263メートル
主機 三連成レシプロ機関1基
最大出力 3,776馬力
航海速力 10.5ノット
乗組員 38名

一方、海運業においては、第一次世界大戦後の大正9(1920)年の汽船船腹量(100総トン以上)は、戦前(1914年)の1,100隻・152万8,000総トンから、1,700隻・299万6,000総トンに増大し、イギリス・アメリカに次ぐ世界第3位の海運国に躍進しました。

しかし、第一次世界大戦が終わると状況は一転し、船が多すぎることによる不況が到来し、海運・造船業界は大きなダメージを受けました。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
箱館戦争の新政府軍主力艦「春日丸」は、薩摩藩が慶応3年11月3日に購入した「春日丸」

黒船来航によって鎖国を解き開国すると、列強の軍艦や商船が頻繁に来航するようになりました。
こうしたなか、幕府は列強の圧力に対抗するため、近代的な海軍をつくることを決意し、「大船建造禁止令」を解くとともに、海外に新造艦を発注したり、中古艦を買い入れたり、近代的な海軍の増強をはかりました。
また有力な諸藩も洋式軍艦を建造・購入し、海軍力の強化を進めました。

なかでも、中古の蒸気軍艦では、幕府がイギリスから購入した木造外輪軍艦「回天」(1855年建造、排水量1,678トン)、薩摩藩がイギリスから購入した木造外輪軍艦「春日丸」(1863年建造、排水量1,015トン)、幕府がアメリカから購入しようとしたスクリュー推進木造軍艦「甲鉄」(1864年建造、排水量1,358トン、後の「東」)が知られています。

甲鉄と春日.jpg

絵画「幕末軍艦「甲鉄」と「春日」」
作:山高五郎
寸法:149×246
所蔵:船の科学館

このうち軍艦「春日丸」(絵画右後方)は、薩摩藩が慶応3年11月3日(1867年11月28日)、長崎のグラバー商会の仲介で、清国向けの通報艦として建造・キャンセルされたイギリス船籍のキャンスー号(江蘇)を購入し、「春日丸」と改名した軍艦です。
「春日丸」という船名は、島津家が豊臣秀吉から朝鮮出兵を命じられた時に建造した軍船と同じ名前が命名されています。

軍艦「春日丸」は、300馬力を誇る1,015トンの外輪蒸気艦で、長さ74メートル、幅9メートル、大砲6門を装備し、戊辰戦争(箱館戦争)では「甲鉄」に次ぐ新政府軍の主力艦でした。
また、「春日丸」は試運転で平均16ノットの速力を出し、旧幕府軍の新造蒸気軍艦「開陽丸」の速力 10ノット(汽走時)を大きく上回る速さでした。

ところが、明治維新によって藩がなくなると、戊辰戦争で活躍した志士たちは、その方向性を巡って敵味方に分かれます。
明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると、皮肉なことに、戊辰戦争の時に新政府軍の主力艦として活躍した薩摩藩の「春日丸」によって、鹿児島の町は砲撃を受けたのです。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
【海の学び】敦賀市立博物館 特別展『日本横断!運河計画』は、2024年11月24日まで開催

令和6(2024)年3月16日、北陸新幹線の金沢〜敦賀間が開業し、東京と敦賀が直結しました。
敦賀市立博物館」(福井県)では、敦賀に新たな歴史の1ページが刻まれたことを機に、敦賀の魅力を多くの人に知ってもらおうと、2024年10月18日から11月24日まで、特別展『日本横断!運河計画』が開催されています。

  

チラシ.jpg

画像提供:敦賀市立博物館

開催期間: 2024年10月18日(金)から11月24日(日)
※休館日:毎週月曜日(11月4日を除く)、11月5日(火)
会  場: 2・3階 展示室
展示構成: 第1章「古代から中世までの運河伝説」
第2章「近世の運河計画(一)」
第3章「近世の運河計画(二)」
第4章「近世の運河計画〜日本横断!運河計画〜」
  

◎詳細はウェブサイトから確認して下さい。

古くから、日本海側で最も太平洋に近い「敦賀」から、京都・大坂に近い「琵琶湖」の間に運河を設置し、水運によって太平洋側と日本海側を結ぼうとする「運河計画」があったことをご存じでしょうか。

二つの海をつなぐこの「運河計画」の実現は叶いませんでしたが、計画段階の史料が多く現存しているそうで、敦賀の疋田地区に残る「舟川遺構」は、その計画の一部が実現したものと言われています。

特別展『日本横断!運河計画』では、海と共に栄枯盛衰の歴史を歩んできた敦賀の、知られざる歴史の一端が紹介されています。

重盛像.jpg

「平重盛座像」
所蔵:敦賀市松島区
画像提供:敦賀市立博物館

敦賀の運河伝説は、平清盛の命で、その息子・重盛が敦賀に滞在したという伝説から始まります。
本展では、敦賀市内の重盛が開いたとされる寺院ゆかりの「平重盛座像」が展示されています。

見取図.jpg

重要文化財「越前敦賀庄之川尻ヨリ深坂山中追分辻迄見取図(部分)」
所蔵:高樹文庫(射水市新湊博物館保管)
画像提供:敦賀市立博物館

この見取図には、敦賀湾にそそぐ笙ノ川河口から疋田・深坂まで、荷物を運ぶための舟川(運河)が描かれています。会場では8m以上に及ぶ資料が展示されています。

また、本展では講演会等の関連イベントも多数開催されるそうですよ。

特別記念講演会 「敦賀から琵琶湖を結ぶ加賀藩の大運河計画」
日時:2024年11月2日(土)午後2時〜4時
講師:島崎 毅氏(一般財団法人高樹会代表理事)
会場:敦賀市立図書館(〒914-0047 敦賀市東洋町2‐1)3階
定員:100名(当日先着順)
参加費:無料
敦賀市民歴史講座 「日本横断!運河計画ー敦賀〜琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発ー」
日時:2024年11月16日(土) 午後2時〜4時
講師:杉江 進氏(大津市歴史博物館 館長)
会場:敦賀市立図書館(〒914-0047 敦賀市東洋町2‐1)3階
定員:100名(当日先着順)
参加費:200円(協力金)
展示解説 日時:@2024年10月19日(土)午後1時30分〜3時 ※終了
   A2024年11月24日(日)午後1時30分〜3時
講師:坂東桂子(当館学芸員)
会場:敦賀市立博物館 展示室
申込:不要(直接会場にお集まり下さい)
参加費:無料(別途入場料が必要)
歴史ウォーキング 疋田舟川・深坂古道周辺を歩く
日時:2024年10月27日(日)10時〜12時 ※終了
講師:高早恵美(当館学芸員)・坂東桂子(当館学芸員)
費用:200円(資料代・保険料)
定員:10名程度(事前予約制・先着順)
申込:電話又はウェブサイトから応募(10月25日まで)

◎詳細はウェブサイトから確認して下さい。

そして、敦賀市立博物館は、旧大和田銀行本店建物を活用した博物館で、その重厚な建物は、昭和初期の銀行建築の建物として国の重要文化財に指定されています。

 

敦賀市博物館.jpg

「敦賀市立博物館」
画像提供:敦賀市立博物館

船の科学館では、2015年度から全国の博物館・美術館・水族館等が行う「海の学び」の活動を支援しています。

船の科学館「海の学びミュージアムサポート

    

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投稿者:メル カテゴリー:海の博物館活動 コメント:0
11月1日は灯台記念日。恵山岬灯台は明治23年11月1日に点灯。

本日11月1日は「灯台記念日」です。

我が国初の西洋式灯台「観音埼灯台」(神奈川県横須賀市)が起工された明治元(1868)年11月1日にちなんで制定されました。
次の錦絵「日本名勝図絵 観音崎」には、初代の灯台が描かれています。

錦絵「観音崎」.jpg

錦絵「日本名勝図絵 観音崎」
作:小林清親
寸法:366×238
制作年:明治30(1897)年
所蔵:船の科学館

さて、北海道函館市の南東部・亀田半島東端の恵山(えさん)岬の突端に建つ「恵山岬灯台」は、明治23(1890)年11月1日に点灯しました。
明治期の北海道開拓において、人の移動と物資の輸送は海上交通に頼らざるを得ず、船舶が安全に航行するための灯台が急がれての建設でした。

北海道の灯台建設は、明治5(1872)年に始まり、明治10(1877)年以降に本格的に始動しました。
明治10年から明治23年の間には9基が建設されており、明治23年に点灯した「恵山岬灯台」は、北海道の発展をもたらした灯台の一つなのです。

恵山岬灯台2.jpg

「恵山岬灯台」 出典:写真AC

恵山岬の沖合は、津軽海峡を東流してきた対馬海流(暖流)と太平洋岸を南下する親潮(寒流)が合流する場所で、風や潮流が強く、濃霧が発生することが多い航海の難所として知られています。

初代の灯台は、六角形やぐら型の鉄製灯台だったそうですが、第二次世界大戦時に空襲を受け、昭和24(1949)年に現在の灯台に建て替えられました。
以来、高さ19メートル、海面から44メートルの高さから17.5海里(約32キロメートル)を灯し、対岸(本州)の尻屋埼灯台と共に、津軽海峡の航行安全を守っています。

恵山道立自然公園.jpg

「恵山道立自然公園」 出典:写真AC

「恵山岬灯台」が建つ一帯は「恵山道立自然公園(面積約4,116ヘクタール)」に指定され、今も噴煙をあがる活火山「恵山」を中心に、波浪を受けて形成された海蝕崖などの景観を鑑賞することができます。
地名「恵山」の由来は、この付近はアイヌ語で「イエ・サン(溶岩の流れるところ)」と呼ばれていたことから、「恵山(えさん)」になったと言われています。

恵山裾野の海岸には、海と一体化した天然露天風呂「水無海浜温泉」があります。
この温泉、潮位によって入浴時間が変わるので、ご利用の際はご注意下さい。

水無海浜温泉.jpg

「水無海浜温泉」 出典:写真AC

恵山岬灯台は、第50回灯台記念日(平成10年11月1日)に行われた公募「灯台50選」において、人の心に残る日本の灯台50選に選ばれています。

そして、今日から11月8日までの1週間は「海と灯台ウィーク」です。
日本財団「海と灯台プロジェクト」を推進する(一社)海洋文化創造フォーラムが主体となり、共催の日本財団・海上保安庁、全国各地の参画自治体・団体等によって、灯台の魅力を発信するイベント等が開催されています。
詳細については、「海と灯台ウィーク2024」ホームページをご覧ください。

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