• もっと見る

« 2019年11月 | Main | 2020年01月»
<< 2019年12月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
検索
検索語句
月別アーカイブ
カテゴリアーカイブ
最新コメント
https://blog.canpan.info/fumihouse/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/fumihouse/index2_0.xml
最新トラックバック
思い出は時計の針を戻すもの [2019年12月31日(Tue)]

DSC_1588~3.JPG≪時計の針が前にすすむと「時間」になります。
 後にすすむと「思い出」になります≫
  (寺山修司『思い出の歴史』)

歳末が来て年始になって、旧年の友誼に謝し、本年もよろしくと威儀を正す。もちろん、時計の針が後に進むことはないが、寺山が言うとおり、思い浮かべて過去にひたる、楽しい感傷だ(歯噛みすることもある)。

マスコミやネットで節目がことさらに言われるから、気分一新、世の中すべてが改まったように思ってしまうのだが、実は錯覚だ。ふと周囲を見渡せば日常がそのまま続いている。汚れたクルマはそのままそこにあり、寒くて雨が降るからと掃除しなかった窓は埃がついたままである。

あらたまるは【改まる】、そして【革まる】。節目がかわるときには、気持ちが引き締まって背筋が伸びる。態度もいくぶんか堅苦しい。

年は改まるのではなく、年は改めるものだ。『時間』は時計の針に合わせるというか、先手を打って創りだすものであり、意識して苦闘した時間を振り返ったときに『思い出』となっていくのだろう。さあ大晦日の1日が始まった。

(ナチュラル方式で乾燥させたエチオピア産イルガチェフ。大地を感じさせる渋い甘味があった)
使わない干支にいろはに甲乙丙 [2019年12月30日(Mon)]

DSC_1595~2.JPG来年の干支は鼠の子年。今年は何だった? ねーうしとら、うーたつみー、うまひつじさる、とりいぬい、と数えたら亥年だと分かるが、一年間干支を意識することはなかったように思う。今年もらった年賀状を整理すると、亥年だったことを思い出した。

干支はすっかり縁遠くなったものだ。12の場合分けにかつては使ったはずだ。そういえば、甲乙丙丁は契約書くらいにしか使わないし、いろは歌も忘れられつつある。いまは算用数字とABC、アイウにカッコを付けたり、小文字を使ったり程度であろうか。まっそれも時代の流れかな。

(干支には何の関係もない、松江・天神川の縁にあるセンダンの実は美味しそうな黄色。食べられるかどうかは知らない)
歳末にギター新弦改めて [2019年12月29日(Sun)]

DSC_1616~2.JPG残すところ、あと3日。家の大掃除はしない。室内と玄関の目立つところだけ掃除をする。その前に年賀状の作成にかかっている。デザインを決めて写真を取り込んでプリントする(昨夜やった)。住所録を整理して喪中欠礼の葉書をもらった人を除いて住所を印刷し、ひと言書いて投函する(これからやる)。

昨夜は印刷のかたわらギターの弦を交換した。新しい弦に張り換える前に手油の汚れを落として、サウンドホール内の埃を掃除機で吸い取ろうと思っていたのだが、弦を換えることに気をとられて忘れていた。まっいいか。いつも練習後にクロスでキレイにしてあるから。

真新しい弦でいい響き、気持ちが改まる(数日間は調弦が面倒だが)。新鮮な気持ちで新年を迎えられる。

(清新な感じに咲いているシクラメン。出雲・花の郷にて)
高津川石見に日本映す鏡 [2019年12月28日(Sat)]

DSC_1620~2.JPG映画『高津川』。どう感想を述べましょうか。

マナブ役の甲本雅裕は地味な役者だからこそ、この映画で主役をつとめる意味があったと思います。人口減少や過疎の問題、なにもないと故郷を飛び出す若者、石見神楽を日常的に舞う古里の源流、地元に根ざす青年の成長譚、よくある家族の確執、生きがい失くし認知症を発した老人、増える介護施設と就労者・・・島根の西部・石見に限らず全ての田舎が持つ現実の課題は地味ですが、切実な今の姿です。

田園風景、山の風景、高津川の流れの風景を、これでもか!というくらい映し出しています。映像美という点で、今回の作品もとても良いですね。石見神楽の舞台もふんだんに盛り込んで、速い8ビートのリズムと神楽の音が静かな山川の姿をむしろ強調しています。

あれはどの駅だろう。小学校の運動会に全国から飛行機やバスに乗って駆けつけた卒業生たちが降り立った山口線の駅。駅から出るとすぐに線路を斜めに横切る踏切がありました。その風景は映像ではなくて、なぜか画像を使っているのです。数枚ですが残念でした。また、廃校になった左鐙小学校を高津川小学校と名付けたのはいいのですが、「元気な左鐙っ子」の看板が映りこんでいるのはいただけません。

脚本は今回も錦織監督が書いてます。台詞の言い回しで、伝統を残したい、若いもんにはやりたいことがあるから強制はできん、などいかにも教訓的な内容を陳腐な台詞で表現していたのは不満でした。

高津川という日本随一の清流流域の暮らしが危機に瀕しているのは間違いありませんが、それは日本全国にまたがる問題でもあります。自分の今の姿や地域への関わりを改めてとらえ直していきたいと思える映画でした。

(ガラス細工に散りばめられた様々な模様は、光と周囲を映して自在に輝く)
酔っぱらいベールの裏にストレスが [2019年12月27日(Fri)]

DSC_1447~4.JPGJR松江駅のポスター。クレヨンで太く手書きした風の文字が躍っている。

 よっぱらったら、
  何しても
   いいの?

2018年度の鉄道係員に対する暴力発生件数が630にも及ぶという。うち飲酒時が53%。酔っぱらいさん、ひどすぎやしませんか? 

改めてポスターは啓発する。「暴力は犯罪です。」と。酒を飲んだら口数が増え、議論が激しくなり、いつしか暴力的になる。以前は酒の席だからやむをないと許されていたこともある。犯罪は許されない。

そしてパワハラ、セクハラ、アルコールハラスメント・・・過剰反応的な酒の席を嫌がって、若い人は酒を飲まなくなった。宴席を遠慮するようになった。中高年も同じこと。酒のつきあいだから仕方がないと我慢していたものが、しなくても許される時代となったのだ。酒の消費量が落ちるのは自明の理。

今夜は仕事納めで一杯やる派もいることだろう。よもや松江駅で暴力沙汰はないことと信じたいのだがね。
いよいよだ仕事納めて新年に [2019年12月26日(Thu)]

DSC_1595~3.JPG12月26日(木)、早くも夜がやってきました。あいにくの雨の朝でしたが、小雨程度ですみました。徐々に晴れればよいと思いつつ、ふと気がつくと晴れていましたよ。気持ちのいい午後でした。暖房が効き過ぎて暑さまで感じたのは玉に瑕でした。退勤時のいま、本降りの雨になったのは残念です。

わたしにとって明日は令和元年の仕事納め。最後までわたしらしく仕事をしたいと思うのですが、速すぎる一日、早すぎる一月、去りすぎる一年ですよ、まったくもう・・・。

(ベニズワイガニも驚いて赤くなるほど、この冬は暖かい。雪が少なすぎて来年水不足になりませんように)
寝返りか寝返るときかそれぞれに [2019年12月25日(Wed)]

DSC_1598~2.JPG【寝返り】
赤ちゃんが寝返りをうって、体の向きを変える。うんと唸ってやっとこさ寝返りができた赤ちゃんと目が合った。ニッコニコ。これ以上の幸せはあるまい。ほのぼのと明るい未来が見えてくる。

【寝返る】
味方を裏切って敵方にまわる。背信行為である。裏切り者めが!と離反をとがめられる。もはや元の鞘には戻れない。根回しされたときには良しと受け入れたはずが、本番では助け船の一言すら発しないことも、寝返るのイメージだ。

もちろん、赤ちゃんが寝返ると言うこともできる。謀反のことをふつうに寝返りとも使う。なぜか、わたしには、寝返りと寝返る・・・感覚が違うのですよ。

(クリスマスらしからぬ空。店に入ると暖房が暑すぎる。外でもマフラーをしなくても十分)
櫟さん磔にあらずイチイなり [2019年12月24日(Tue)]

DSC_1575~2.JPG櫟原さんという姓に出会った。「櫟」って何て読む? 磔(はりつけ)の字をイメージしてしまったが、「いちいばら」と読むのだそうだ。イチイでピンときた。悪の魔法使いヴォルデモートの魔法の杖である。

画像を検索してみた。葉はシダ状に広がり、葉肉は少し厚めだ。庭木として見かけることがある。赤い半透明の果実は食用のようだが食べたことはない。いずれ食べてみたいと思う。ただし種子は有毒につき注意。

(櫟ではない。秋から地面に咲き始める、ひめつるそば(姫蔓蕎麦)。冬になっても細々咲いている)
反省し親の努めを忘るるな [2019年12月23日(Mon)]

DSC_1595~2.JPG・批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる
・笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる
・激励を受けた子どもは、自信をおぼえる
・寛容に出あった子どもは、忍耐をおぼえる
・賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる
・安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる
・可愛がられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じとることをおぼえる
  (米国の教育学者ルト)

胸に手を当てて(当てなくても)考えてみる。ズキッと心に堪える体験もある。子どもたちに与えた心の傷は少なからずあると思う。後悔先に立たずとも、覆水盆に返らずとも言う。済んだことにして水に流すのはあんまりだろう。が、反省は反省。これからだ。

(旧日銀松江支店の金庫室の扉の奥に押し込めておこうか)
用心しタイヤ交換年の瀬に [2019年12月22日(Sun)]

DSC_1594~2.JPGとんと雪が降らない。冬用タイヤに交換する機会がなかったが、とはいえ、夜中に突然運転しなければならないケースに泣きたくはない。だから取り替えた。

ナットを緩めてジャッキで持ち上げる。ナットを回したらタイヤを外して取り替える。再びナットを十字レンチで絞めて、ジャッキを下ろす。この作業を4回。けっこう腰に堪える。片膝は付くが中腰で作業をするうちに腰から背中が硬直したように痛い。腰、背を伸ばし何十本か歩くと回復する。小一時間が長く感じる。

さて、年の瀬にはもう一台やらなくてはならない。我が家には二人のインフルエンザ患者。わたしは決してならないぞ、と決めている。

(冬の花シクラメン、なかでも室内で育てるものはは、暑さにも寒さにも弱い。この冬は乗り越えられるかな?)
高校生吹奏楽団素晴らしき [2019年12月21日(Sat)]

DSC_1593~3.JPG出雲北陵高校吹奏楽部のウインターコンサート2019を見てきた。素晴らしい重厚なサウンド、若さ弾ける軽快なリズム、パート内で呼吸を合わせた楽器ごとのハーモニー。よく鍛えられた70名弱のメンバーであるが、やらされている感はなく、音楽が好き、仲間と楽しんでやっている様子がよくわかる。

第二部・なぎなた部とのコラボレーション・ステージは勇壮で、第三部のステージドリルもオズの魔法使いをモチーフにして楽しかったが、第一部のウインドアンサンブル、要は普通の吹奏楽団としてのステージが圧巻だった。

難曲ばかりだと思う。出すべきところでは大音響で自信をもって奏で、完璧な消音でさっと静寂になり、ソロ部分はどの奏者も情感豊かに見事に奏できった。特にわたしはクラリネットのソロに感動した。激しさも穏やかさも艶かしさもロマンも、いろんな感情が沸き起こって気持ちが強く揺さぶられた。素晴らしい演奏に立ち会えたことに感謝する。
冷たさも自由自在に雪女王 [2019年12月20日(Fri)]

DSC_1595~2.JPG『アナと雪の女王2』を感慨深く観た(日にちが過ぎたので印象が薄れはしたが)。

記憶というあてどもないものに、普段は私たちは悩まされる。不確かで、すぐ薄れて、頼りないもの。ドラマの回想シーンにわたしは憧れる。主人公が語りだすや映像化され、話の終わりとともに相手方はすべて了解して、事実も思いも過不足なく伝わっていく・・・・願望はそうでも実際は違う。欠落があり、勘違いがあり、脚色すらある。記憶を伝えることは困難だ。

水は記憶をもつ。そして水に連なる人間(人体の6割は水)は本人の体験からくる記憶のみならず、両親や祖先、地域の人びとが見聞きしたことであっても感じとることができる。そんなテーマでアナ雪2の物語を見た。

門を開けて叡智を集め、豊かな情感で対立の矛と盾を収め、人の和で良き国の行く末を決める。そうしたアナ雪1のテーマも継承しつつ、記憶を軸にして人びとを束ね、平和の礎にしようとするアナとエルザの国づくりが着々と進む。国民の穏やかで豊かな表情が印象に残る。4つの精霊たちも可愛くてよろしい。

毎度ながらエンドロールを終わりまで見ずに席を立つなかれ。5年前に続き今回も長めのオマケが楽しめますぞ。

(松江・出雲の平野部では雪を見ていない。青空を一度も見たことのない魔法の森の人びともいた)
マスクして捕らぬ狸のインフルエンザ [2019年12月19日(Thu)]

DSC_0309~2.JPG昨日、島根県はインフルエンザ流行注意報を発表した。38箇所の定点医療機関から、患者数の報告を受けた結果、先週の報告数が16.8人(平均患者数)となり、基準値の10人を超えたという。

わたしの職場でも患者が3名、家族罹患者2名のようで、危険水域を越えている。注意しなければなるまい。かといって感染予防としてできることは限られているし、効果も限定的だ。

■手洗いの励行(何度洗ってもウイルスや病原菌は取れない)
■咳とマスクエチケット(列車や人混みでも無頓着に咳をまき散らす者が多くて困る)
■人が集まる場所への外出を避ける(こりゃ無理だ)

睡眠をしっかりとって、風呂上がりの水浴びをして免疫抵抗力を保ち、顔や唇に手指を当てないことに努めよう。今日から職場ではマスクをしている。暖房で乾燥しているものだから・・・家に帰ったら家人もインフルエンザA型に感染していた。危うし危うし。
とどまってパパゲーノなりウェルテル [2019年12月18日(Wed)]

DSC_1447~3.JPGウェルテル効果とは、有名人の自殺(自死とも)をセンセーショナルに報道することによって、生きた人に影響を与えてしまうことです。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んだ多くの若者がそうだったことで名付けられました。

パパゲーノはモーツアルトのオペラ「魔笛」の登場人物で興業主です。パパゲーノは愛するパパゲーナを失って悲しみにくれます。3人の童子の助けによって辛さを乗り越えました。タミーノは王子。愛し合う王女パミーナとすれ違い絶望しますが、これも死なずにとどまります。パパゲーノも最後にはパパゲーナと結ばれて、悪者だった夜の女王が地獄に堕ちてハッピーエンドです。

『自殺対策を推進するためにメディア関係者に知ってもらいたい基礎知識(2017年版)』では、パパゲーノ効果(自殺防止)のことも取り上げながら、≪自殺に関するメディア報道は、模倣自殺を最小限に留めることもあれば、そのリスクを上げてしまうこともある≫と警鐘を鳴らします。そして、報道がやってはいけないことを述べています。

・自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
・自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと

情報の取捨選択は大事なことです。真実を知りたい、知らせたいと言うばかりが報道の役割ではないと思うのです。

(悲しみにくれている人には鮮やかな花や実も、白黒に見えることだろう。でも踏みとどまってほしい)
数えては手指の名前不思議なり [2019年12月17日(Tue)]

DSC_1376~4.JPG【薬指】
唐突だが違和感があった。なぜ薬なんだ。そもそも手指の名前に統一感のないことに疑問を感じる。

親指、小指は大きさに着目している。ならば、小さい子に教えるときに使う、親指・父さん指、人差し指・母さん指、中指・兄さん指、薬指・姉さん指、小指・赤ちゃん指とするのがよい。覚えやすくていい(時勢からすると異論もあるが)。

中指は位置関係に着目している。ならば、親指から順に外指、外中指、中指、内中指、内指とでもしたら名前が統合されるが、面白味に欠ける。統一を求めるならば、親指を一の指、ついで二の指、三の指、四の指、五の指としたらいいのだが、潤いに欠ける。

クラシックギターの譜面では、爪弾く右手の親指がp、人差し指がi、中指がm、薬指はaで、小指の呼び名はない。押さえる方の左手で、人差し指が1、中指が2、薬指は3で、小指は4と無粋だ。親指はない。

人差し指と薬指の呼び名は機能に着目している。人差し指は器用だし、構造上何かを指し示すのに最適だ。どうも薬指は昔の医者に由来するようだ。薬を混ぜたり塗るときにこの指を使ったからだという(今なら医療安全の面から危険)。

足の指は医学的には趾を使い、第一趾、第二趾、第三趾、第四趾、第五趾と書くのだが、一般には使われない。指の名前は面白い。

(指折り数えて待つクリスマスとお正月。プレゼントは何かな?)
来年も漢字一字の年の瀬で [2019年12月16日(Mon)]

DSC_1577~2.JPG12月12日は漢字の日だった。漢検の日本漢字能力検定協会が定めた日。「いい字、一字」の語呂合せである。今年を象徴する漢字は【令】であった。

万葉集から出典されて、海外に「美しい調和」と説明された【令】和。多くの人が新元号に新時代の希望を感じ、新天皇即位を祝した。命令の【令】、法令の【令】はないだろうと推測していたが、わたしの予想に反して令和は発表された。令嬢の【令】は知っていたが、良きことの意味があるなんて知らなかった。吉本興業による闇営業や反社会的勢力との交際問題は、お笑い芸人であろうとも法【令】遵守はないがしろにできないことを明白にした。災害時における警報発【令】、避難命【令】も記憶に新しい。

ともあれ、2019年が暮れていく。あと残すは15日。数えたら急に焦りが湧いてきた。

(花は焦らない。ただ淡々と咲く、そして枯れて散る)
管楽器宇宙旅して心地よし [2019年12月15日(Sun)]

DSC_1574~2.JPGブラスの響きを聞くと宇宙を連想するのはなぜだろう。ホルストの組曲『惑星』、なかでも「木星」をイメージするからだと思う。弦楽もあるが、管楽器の勇壮な響きが宇宙飛行に飛び出した様を連想させるのだろう。

スターウォーズのテーマ曲もそうだ。大編成のオーケストラがきらびやかで重厚なハーモニーを織り成し、軽快なリズムを刻む。星間を駆け抜ける宇宙船の視点で星が流れる。中心となる管楽器、トランペットやトロンボーンの大音響がツーンと胸を突き抜けるようなあのイメージも大きい。

先日、航空自衛隊の西部航空音楽隊の演奏を楽しんだ。西部地区は九州と中四国の範囲だそうで、軍隊でいえば師団に相当するのだろうか。開星高校吹奏楽部とのジョイントでハートフルコンサートinしまね2019は素晴らしかった。金管だけでなく、木管もあるが、ブラスの響きと言ってよいだろう。とても心地よく宇宙旅行を楽しんだような気分を味わった。
見つけよう暮らしアトリエ良きところ [2019年12月14日(Sat)]

DSC_1381~5.JPG荘原タウンミーティングは成功裏に終わった。平均年齢は高めだが、精神面では若者の会と言ってよい。雲南・大東にあるNPO法人くらしアトリエ代表と副代表のお二人にコーディネートしていただいた。

ベースになったのは、数ヶ月前にやったアンケート「好きスキ・荘原、好きになる」。荘原コミュニティセンターに関わる300名弱の老若男女から見た荘原のこと。私たちは出雲・荘原というひとつの環境に暮らす。同じように見えても、十人十色で荘原は違うのだ。いいとこ探しをグループワークした。

どこに住んでも満点はない。長短があり運不運もある。だからこそ今住む所のいい面に気がつき、磨いていく主体者の立場に立つ。色メガネを外すことで、ないない尽くしの呪いの言葉が前向きに変わっていく。ネガティブでも幸福感でも、それを口にすると3ステップ先まで伝播するという。好きになって、周囲に伝えていこうと講師は訴えられた。

誰がやるのか。シビックプライド(市民的誇り)を持つ人だ。郷土愛は新しく移り住んだ人を排除するので少し違う。現に住む人で当事者意識を持って何か出来ることをしようと意欲を持つ住民をシビックプライドだと。人的資源である。荘原好きをSNSに投稿する、祭りをブログに書く、地元商店で買う、タウンミーティングに参加する。シビックプライドを持つ人だからこそできることなのだ。

講義を20分ほど受けてからワークに入った。荘原の白地図(ステキなイラスト入り)に絵や字で書き入れる。そして発表。後半は、30代A美さん、50代B彦さん、70代C子さんが荘原に移り住むよう説得する材料を提示した。イラスト付きで言い分と不安が言葉に表してあり、話が盛り上がった。百戦錬磨の見事なワークショップであったす。

発表して絞め。参加者全員が使命を与えられた。帰ったらまず家族に、さらに3ステップ先まで荘原いいよのメッセージを伝えようと。

誰かがやってくれるのではない。受け身から能動の姿勢に転じて新しい何かを見つける。我が町のいいところを好きになる。口に出し、手と頭を働かせれば何かが変わる。
会終わり腑抜けになって眠りゆく [2019年12月13日(Fri)]

DSC_1571~3.JPG【腑抜け】とは、肝がすわっていない腰抜けのことだ。ヘトヘトで体の力がなくなり、臓腑が抜け落ちた感じになることもある。

中国古来の五臓六腑からきたのだと思う。五臓とは肝・心・脾・肺・腎。六腑は胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦なのだそうだ。

さあ飲むぞ!乾杯して飲み始めのビールは「五臓六腑にしみわたる」。アルコールが腹の中を駆け回るようで快い。「五臓六腑が煮えくりかえる」。実際煮えたら死んでしまうが、激しい怒りを抑えるために、こうした極端な形容をしたのかもしれない。

日本では「腹」で形容することが多い。腹とは(肚とも)、時にどうにも収まらないものであり、腹を肥やしたり、腹が黒い輩には腹が立つし、腹に据えかねる。腹に一物ある人物に対する際に、腹を探ったり読んだりするのは疲れる。腹を割って話し合いたいものだ。何事か事件が起こった時に、腹に落として収める場合もあるけれど、腹を据えてかかって腹を決めることこそ肝心だ(肝心も肝)。腹が太いと言われるよ。

実にお腹のなかには、いろんなものが詰まっているんだねえ。
ふつうとはごくありふれてしあわせだ [2019年12月12日(Thu)]

DSC_1581~3.JPG【ふつう】とは不思議な言葉。いつでもどこにでもある、珍しくないコトやモノ。他と比べても同じようなコトやモノ。一般的であり特別ではないコトやモノ。多くの事例に標準的に当てはまり、いつもではないけれど、たいていはそうであって変化はない。「ふつうはこうでしょ?」と当たり前に言ってしまうのだが、「ふつう」って何だろう。

「ふつうは人の数だけある」と言われる。百人百様のふつうがあるのだが、日常生活で困難を抱える発達障害の方やその親は、その「ふつう」に苦しめられる。比較的狭い枠に入って、「ふつう」と言っておけばとりあえず丸く収まるようなことでも、その人たちを苦しめる。

しかも「ふつう」は拡張し繁殖している。かつては、「ふつうにおもしろかった」という表現はなかったはずだ。絶賛するほどではないが、そこそこ良かったという意味はもたなかった。「ふつう」は当たり障りのないありふれた状態に多用される言葉となった。

ふつうの女の子に戻りたいと言って引退したのは、キャンディーズ。「本当に私たちは幸せでした」の言葉を残して去ったが、やがて二人はカムバックした。「ふつう」は刺激が少ないと見える。それは確かだが、何でもないように見える「ふつう」って、とても幸せなことなのだ。

(晩秋から冬にかけて山茶花が咲く。これもふつうのことだ)
たわいないクリスマスカラーの赤緑 [2019年12月11日(Wed)]

DSC_1586~2.JPG【他愛も無い(たあいもない)】

当て字だとは知らなかった。しょうもない取るに足りない存在で、誰も相手にしてくれない感じが字に出ていると思っていた。元をたどれば「たわいない」というらしい。

「たわい」とは、しっかりした態度や考え、手応え、思慮分別のことをいうようであるが、たわいという何ものかがあったのに違いない。

さらに、「たわいもない」と「も」まで付けてしまうのは誤用だそうだが、ふがいなさがよく出ている。つまらない失敗をして悔しさをにじませている感じがあってよいと思う。今や誤用としなくてもいいじゃあないかい? 言葉って面白いなあ。

(街中はクリスマスイルミネーションでいっぱいだ。クリスマスカラーのポインセチアの緑と赤の組み合わせが花屋に)
くぐもって声が聞こえぬマスクマン [2019年12月10日(Tue)]

DSC_1589~2.JPGマスクをして話す人が苦手だ。声が聞きとりにくい。ゴムと布に引っ張られて口を動かす筋肉が動かないから発音が不明瞭になる。不織布に隔てられて声がくぐもってもいる。布に反射して骨に響くから本人は十分な声を出している気になるのだろうが、錯覚だ。わたしにはもう一つ別の理由がある。

ひとには、視覚優位タイプと聴覚優位タイプがある。目で見て確認すると頭に残りやすいのが前者で、わたしはこれだ。反対に耳からの情報が入りやすいのが後者。耳学問ができるのはこんな人だ。視覚優位のわたしは読唇術ほどでもないが、唇の動きを見て言葉を理解する。だから声しか聞こえない状況だと苦しい。講演者が遠くにいると理解が進まないし、集中しようと目を閉じたりしたら、たちまち寝入ってしまうこともある。

感染症を防ぐ(効果のほどは疑問視されるが)、喉の乾燥を防ぐ、表情を読み取られないようにする。マスクの効果は認めるのだが、マスクを付ける人よ。どうか2割増しで声を高めてくれたまえ。

(カシミアのマスクは聞いたことないが、どんな掛け心地だろうかね?)
まわりみち時間の不思議考えて [2019年12月09日(Mon)]

DSC_1445~2.JPG時間は誰にも平等に与えられている。本当なのか?

歩いて目的地へ向かう人にとって到着に3時間かかるとするならば、クルマを運転する人にとってはわずか10分。早く着いて何かすることができる。時間を有効に使うことができる。時間は平等に与えられているのか。

ギターの上手い人は小曲ならば初見で曲想をつけてすぐに弾けるようになる。下手な人はそういうわけにはいかない。楽譜を読むのに、ああでもないこうでもないと運指に悩み、先へ進んだら進んだで前を忘れる。暗譜もして人前で弾けるまでに膨大な時間がかかる。平等か?

何かに到達することだけを目的にするならば、早いものと遅いもの。確かに時間は平等ではないように思える。

だが考えてみていただきたい。途中経過に楽しみはたくさんある。歩いてはじめて見える景色や風情はある。体を鍛えるという利点だってある。ギターの練習だって不完全ながら奏でる一音は美しく甘い。それらを楽しむことはムダでもなんでもない。ステキなことなのだ。やっぱり時間は平等に与えられている。

(美しい花は誰にも平等に存在している。そうか? 全く気がつかない人にとっては存在しないことと同じ)
大切な言葉は何だ名前だよ [2019年12月08日(Sun)]

DSC_1589~2.JPG島根県青少年育成アドバイザー養成研修において、『ほっとコミュニケーション』講座を担当された講師が歌を紹介してくださった。○○には何が入るか?という問題からまず始まった。

 世界で一番 素敵な言葉
 世界で一番 愛しい言葉
 世界で一番 大事な言葉
 それは○○です
 (「世界で一番素敵な言葉」作詞・作曲/安達充)

わたしは「素敵」という言葉が好きだ。それこそ素敵だと思っている。ステキと書いても、すてきと平仮名でもよい。相手をたたえる。鼓舞することもできる。ただこの場合「素敵な言葉」の歌詞が冒頭にあるので、問題外だ。

答えは「あなたの名前」。なるほどそうか、そうなんだ。確かにそうだ。その人に紐付いたただ一つの名前。同姓同名はあるけれど、その価値が減ずることは決してない名前。

名前を呼ぼう、名前で呼ぼう。愛しい人を名前で呼ぼう。照れずに呼ぼう。初対面の人を名前で呼び掛けよう(この場合は姓で呼ぶ)。名前をちゃんと覚えられるメリットもある。名前、それは大切なもの。

(研修の帰り、宍道湖岸から松江のビル群が夕日に照らされて神々しかった)
人のためおとなとこどもがせめぎあう [2019年12月07日(Sat)]

DSC_1586~2.JPG島根県青少年育成アドバイザー養成講座を主催している。出雲市小境町にある県の研修施設サン・レイクで宿泊中。

共催している青少年育成島根県民会議の高橋会長が皮切りとなる講義をしてくださった。題して『大人が変われば子どもが変わる」。多くのポイントがあったが、「おとな」は「こども」と違って社会システムの保全に対して自主的に責任を負うという論点に目を開かされた。

「おとな」は大人ではなく、「こども」も子供ではない。「おとな」とは何かのために進んで動く。例えば、道に空き缶が落ちていれば拾ってゴミ箱に捨てるか、持ち帰って分別袋に入れる。一方「こども」は、捨てていない自分に責任はなく行政か誰か別の者がやるべきだと思う人のことだと。

橋会長はおっしゃる。今は「こども」が異常に増殖している。感覚的に大人のうち15人に1人くらいに増やしたい。そうすれば社会システムがなんとか動いていくのではないかと。

また財政面や多極化によって行政の仕事に余裕がなくなっているだけに、「おとな」の一人としてアドバイザーの皆さんには社会でリード役になってほしいと。言うは易く行うは難し、わたしも頑張ろうと思う。

(殺風景なベッドルームだが、研修所では明日まで熱い討議と講義が続く)
ただいまと言える幸せかみしめて [2019年12月06日(Fri)]

DSC_1586~2.JPG≪ただいま。
 このひと言葉のために、旅に出る≫

映画『男はつらいよ 50 おかえり寅さん』のポスターに使ってあるキャプションです。山田洋次監督が寅さん映画を復活させました。過去の映像に加えて、成長した甥っ子(吉岡秀隆)を軸に物語が進むようですね。

誰もが帰るつもりで家を出ます。朝が多いでしょうが、夜勤であれば夕方や夜になります。「ただいまっ」と言って帰りつくことを当然のことと思っています。送り出すほうもまた、それに疑問をもちません。

しかし時に運命は残酷で、事故や事件に巻き込まれてしまったら、ふつうの帰宅はありません。一日二日の入院ならまだしも、「行ってきまーす」が今生の別れになるケースだってあるわけです。何気ない毎日の繰り返しだと思ってしまいがちですが、大切にしたいものですね。
上を向きお上りさんの歩く街 [2019年12月05日(Thu)]

IMG_20171115_160813.jpg【お上りさん】

今はすっかり使われなくなった言葉だが、わたしには温かい印象だ。高度成長時代、働き口を求めて地方からたくさんの若者が移住した。多くの中年族が出稼ぎにやってきた。田舎から物見遊山に、一度は東京っていう大都会を体験してみたかった。

みんなが東京にやってくる。田舎者が上り列車に乗ってやってくる。物珍しい高いビルに目が行く、やたらと目立つ看板にひかれる。おのずと上を向いて歩くことになる。ほーっ、はぁ、へぇーと思わず声が出る。お上りさんの出来上がり。

お上りさんをバカにする向きもあったかもしれないが、日本のふるさと各地からやってくる人の波。新生日本をつくった人びとの力。日本の未来は手放しで明るかった。

(お上りさんには荒く塗った白壁もまた珍しかったにちがいない)
勇壮なコミカル称え大笑い [2019年12月04日(Wed)]

IMG_20170503_132304.jpgムノツィル・ブラスで笑った。笑える金管七重奏団が松江にやってきた。トランペットとトロンボーン、チューバの3種の楽器だけと思いきや、歌あり、思わぬ楽器の鳴らしかたあり、リコーダーあり、おもちゃあり、足踏みあり、口笛あり、咀嚼音あり、口を膨らますブーイングあり、叫びあり、ため息あり、そして常にコントあり。

酔いしれよ、顔をしかめよ、笑われよ、楽しめや。思い思いの衣装で舞台に上がれや、靴はお洒落であれ、滑らかに歩けや、心安らかにステップを踏めや、戦え前進だ、怖さを吹き飛ばして行けや進めよ、大股で歩けや、韻を感じて踊れや。

ブラスの力強いハーモニーと弾むテンポに感心し、大いに笑った夕方のひととき。ジャズ的なスイングするパフォーマンスを存分に楽しんだ。
ずんずんと寒い冬ならさあ歩こ [2019年12月03日(Tue)]

DSC_1584~3.JPG邁進した一日だった。かといって、迫り来る敵をなぎ倒し獅子奮迅に戦った一日だというわけではない。淡々と粘り強く(ときに溜め息をつきながら)、事務を進めた一日だった。朝は雲が垂れ込める曇り空だったが、やがて太陽が顔を出し気持ちのいい昼間。こんな日の夕方は歩くのがよい。

ずんずんと大股で歩く。地面の突起や傾斜を感じながら歩く。吹く風を頬に受けて歩く。舞う木の葉を横目に見てさざめく川面を眺めて歩く。マフラーが暖かいことを感じながら歩く。今夜の予定を考えつつ歩く。帰宅を急ぐクルマの車列に照らされながら歩く。宵の明星が雲間に見えることを喜びながら歩く。膝を痛めていた頃はこんなにできなかったことを心に述懐しながら有り難がって歩く。バス停を3つ4つ早めに降りて歩く(わたしの乗る松江循環線は一律210円なので念のため)。思いつきをスマホに書き込んで一時止まる・・・。

特に雨や小雪舞う日が多い日本海側の冬には気分は沈みがちになるので、歩くことによってリズムを作ることができる。わたしにとって歩くとは精神安定剤である。

(近所になっていたレモンもまた、コロコロと転がりたがっているにちがいない)
光芒の草に亡の字幽玄に [2019年12月02日(Mon)]

DSC_1239~2.JPG舞台の照明で、サスと言われるものがある。スモークを焚いて光の道筋を見せる。幻想的な光景になる。微少な粒子が空気中を漂って光が当たると、白濁した真っすぐな道が見える。チンダル現象というそうである。

気象用語では光芒という。冬場の日本海側でよく見られる。雲の合間から漏れ出た太陽光が、雲になりきらない水蒸気群に当たって光の束となっていく。白い雲、灰色の雲、薄青い空、遠くに霞む緑や海面と合わさると、太陽を中心に三方、四方にビームが広がり、後光が差したようになる。特に夕方だと自然界の芸術そのものだ。

本格的な冬が来たようだ。日照時間も年間で最も少ない季節。低気圧と高気圧の攻防戦が日々ある。栄枯盛衰、国や地域にも興亡があるように、弘法にも筆の誤り、優れた人も時に間違うように・・・・心が塞ぎがちな冬場には、芸術家の工房を訪れてみるのもいいかもしれないなぁ。

(光芒ではないが、牡丹園の由志園の夜光を浴びたディスプレイ)
油断なく師走を駆けてゆく人よ [2019年12月01日(Sun)]

DSC_1580~3.JPG 喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただいます
 ◯◯が□月■日に△歳で永眠いたしました
 平素のご厚情に深く感謝いたしますとともに
 明年も変わらぬご交誼のほどをお願い申し上げます

と、年賀欠礼のハガキが来るようになってきた。12月は始まった。歳末に向けてあれやこれやとやるべきことは多い。面倒なことは後回しにして、やりたいことだけをやってしまう。なばかりか、別にやらなくてもいいことまで、思わずやってしまうということも人間の常。12月の第一週を油断なく過ごしたい。

(青空に映える銀杏の黄色は油断なし)