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哲学を思弁するなりのんびりと [2015年06月30日(Tue)]

fumihouse-2015-06-30T19_13_54-1-thumbnail2.jpgこの期に及んで何をしようとしているのか。周りがなんとかしてくれると思っているのだろう。ギリシャは不思議な国だ。

ギリシャのチプラス首相は15億ユーロ債務について、「銀行が窒息状態にあるのに、どうやって支払えと言うのか」と居直った。債務不履行は目の前にある。財政を緊縮させるか否かを問う7月5日の国民投票結果を待つと言っている。ここで反緊縮の世論を示してギリシャの発言力を強めるというが、本気とは思えない。IMFだけでなく、EU中央銀行からも35億ユーロの返済が迫っているというのにだ。

債務不履行となれば、資金は枯渇し国民生活は転落する。生活物資も正規の購買ルートでは買えず、闇市化するかもしれない。財政を緊縮させれば景気は一時的に失速し失業は増える。ギリシャの将来は暗い。かといってユーロ紙幣は自前では刷れないから、かつての通貨・ドラクマに復古させるのか。国の信用に裏付けられない通貨はハイパーインフレとなり、紙屑に等しい札束の山の前で人びとは右往左往するだろう。ギリシャ国民にとって、無粋で苦いばかりのトラウマ経験(ドラクマと似ている)になるのではなかろうか。

しかしギリシャ国民は破局が目前なのに、いたってのんびりしているらしい。公務員の雇用を守れ、賃金を減らすな!年金支給水準を落とすな!とデモが賑やかだ。銀行で預金をおろすのも制限されており、焦ってもしゃあないと哲学でも思弁しているのだろう。

ギリシャの経済規模はユーロ圏内では無視できる程度らしいから、ユーロは重い足かせを取られて楽になる。今はユーロ安が進行しても、いずれ回復するだろう。問題はギリシャが破綻してしまうことなのだ。元はといえば長年の放漫財政運営に原因がある。財政数値の虚偽報告もあった。それでも人道上必要となれば援助の手が差し伸べられるだろう。

しかし、公務員や年金生活者ばかりが取り得となる援助では困る。困った人にのみ支援の手が伸びる方法があれば(例えば現物支給)、人道的にも後腐れのない支援策となるまいか。そうしたクスリが効いて始めて、自分のエゴのみ主張してきた多数派に反省の機会が与えられるような気がする。
爽やかな空気が伸びて空と海 [2015年06月29日(Mon)]

fumihouse-2015-06-29T18_45_42-1-thumbnail2.jpgなんと爽やかな空気だったことだろう。
ほんとうに梅雨なのか。
夏を越えて秋になってしまったんじゃあないのか。
滑らかな青いキャンバスに微細な粉を散らして雲が出来ている。
透き通ったヘブンリーブルーの空は宇宙へとまっすぐにつながっている。
くっきりと大きな弧を描く水平線はヒアシンスに似て小気味よいブルーだ。
地球の裏側にするすると伸びていく。
直射日光にさらされればそれなりに暑い。
風は心地よく肌をなでて涼やかだ。
目に入る山際はくりっとして隅々までよく見える。
夏場を乗りきるためにもそこそこの雨は欲しい。
しかしこの爽やかさ。
いいねえ、好きだなあ。
エルニーニョ現象がなせる技かもしれないが。
あの死にそうな酷暑はごめん被りたい。
人型や動物の柵たのしげに [2015年06月28日(Sun)]

fumihouse-2015-06-28T15_28_34-1-thumbnail2.jpg福岡にグリーンクロスというスゴい会社があるそうです。工事現場や立入禁止区域を示す安全柵の販売やレンタルをやっている会社です。

ヒット商品の商標名は、人型バリケード「セフティファースト」。安全マーク付きヘルメットをかぶった少年がお辞儀をしているデザインを見かけます。笑顔がかわいらしいし、神妙な表情もユーモラスで謙虚さも感じられて好感が持てるのです。「工事中につき迷惑をかけますがどうぞよろしく」という感じを品良く示してくれると思います。

女の子バージョンもあります。さらに着物を着せたり、沖縄の伝統衣装、鹿児島・桜島をバックにおいたものなど多種多様です。カバー掛けて着せ替えるようになっているのです。その他、猿や像、鹿、キリン、イルカ、パンダ、蛙、ペンギン、兎、狸、アヒル、カッパ、虎、熊、亀など動物の意匠も豊富だそうです。

景気はそれなりに良く、建設工事、土木工事も多いですし、補修が必要な公共物もたくさんありますから、この安全柵がお目見えする機会は多いことでしょう。

(小ぶりなランタナの花。涼やかなピンクと黄の取り合わせで夏を彩る。どことなく、ヘルメットをかぶった少年のように見えてくる)
珈琲はホットがいいがアイスだよ [2015年06月27日(Sat)]

fumihouse-2015-06-27T11_14_41-1-thumbnail2.jpgファミリーマートに入った。
ホットコーヒーのMを買った。
カップをサーバーに置いてボタンを押した。
「アイスコーヒー」のボタンを押していた。
あとの祭り。
カップの六分目までしかコーヒーは注がれない。
本来は氷の粒に注がれるはずだった温かいコーヒー。
苦い、深煎りだから当然だ。
ミルクを注いで多少まろやかになる。
こうして散文詩を書きながらちびちび飲む。
外は工事現場。奥には国道9号線。
土曜日の昼前、交通量は多い。
国道の横には宍道湖がある。
昨日から本格化した梅雨。
霧雨が間断なく降り続ける。
鈍色の空は雲の速い流れ。
店内はラジオ番組でかまびすしい。
冷房が効いて肌寒い。
さあしばらく本でも読もうか。

(白いキョウチクトウ。花びらは八重咲きにならず5枚だけ。くっと捻った感じで、ねじれているのが面白い)
ほめるのに達人狙う鳥取県 [2015年06月26日(Fri)]

fumihouse-2015-06-26T18_24_34-1-thumbnail2.jpg時事通信の配信によると、鳥取県庁では「認め合いマスター」を養成しているそうです。略して「認めマス」は、一般社団法人日本ほめる達人協会(そんな法人があるとは驚き)の「ほめ達!検定3級」を取得するとか。最低でも各課に1人は配置するようです。

誉めるとは、業務の成果を認めるというだけに限りません。ふだんの何気ない仕事の中で、ありがとう、と感謝することも含めて、自然に声をかけ合う習慣を広めたいのだそうです。やりますねえ、鳥取県!

とっとり元気づくり推進本部(本部長は平井知事)では、「人を元気に」を旗印に、子育て王国やいきいき長寿社会、女性の活躍を目指し、「産業を元気に」で、正規雇用創出、食の戦略、国際交流拠点づくりを目論みます。さらに「まちを元気に」で、鳥取暮らし推進や、暮らしやすい中山間地や街中を目指します。

その前提となるのが、県庁を改革することです。ワーキングチームでは、学校現場を含めたカイゼンと庁風改革によって職員の率先行動を求めます。地方創生の屋台骨となる元気な県職員を育てようとしています。

認め合い行動5則を紹介します。
・みつける/一人ひとりをよく観察します
・手をとめて聴く/話を真剣に聴きます
・ほめて伝える/気付いたことは、すぐに、率直に、適切に伝えます
・あいさつする/率先してあいさつします
・いっしょに協力する/周りの職員を適切にフォローします

いいね!、をあげたくなりますよ。島根も負けていられませんね。

(しまねっこも負けていませんよ。真剣そのものこの姿。ただ可愛いだけじゃないしまねっこへの投票を、どうぞよろしく)
声交わしシャキッとしたよエネル源 [2015年06月25日(Thu)]

fumihouse-2015-06-25T19_14_16-1-thumbnail2.jpgばったり知人に出会う。
目が合って、やあやあと声を掛け合う。
座りこんで話が弾む。
互いの近況から報告だ。
長らくのごぶさただったが、親近の度が増す。
懐かしいひと達の消息や同窓会をやった時の話。
邇摩高校の生徒がテレビニュースでインタビューされて頼もしく思ったという嬉しい話題もあった。
列車内であった30分余りの邂逅。
弾む互いの声をエネルギー源とすることができたようだ。
ショボショボしていた目がシャキッとした。

(黄色いキョウチクトウもなかなかいいもんだ。松江の寺町にある)
ネジ花と猫にまみれて躍動す [2015年06月24日(Wed)]

fumihouse-2015-06-24T19_40_43-1-thumbnail2.jpgひとの膝に身をゆだねて甘えていたと思えば、数分後にはあんたになんか抱かれたくはないとばかりに身を翻す。猫ほど変わり身が早い動物がいるでしょうか。招き猫亭コレクションの『猫まみれ』を島根県立美術館に鑑賞しました。

歩く姿のしなやかで、獲物を捕らえるのは敏捷で、奔放にじゃれる姿は愛らしい。発情期の猛り狂う勇ましさ、見つめられると引き込まれそうな大きな目、明るさに合わせて変わる瞳孔、ゆるりと眠る穏やかさ、目覚めたあとの体くねった伸びやかさ。猫は面白い。そして妖艶です。江戸期の浮世絵に描かれる猫は化け猫風で、身の毛もよだって妖しい姿です。

「決まった順路はありません。どうぞ猫のように気ままにご覧ください」と表示があって、学芸員の工夫のあとがよく見えます。キャプションの台紙はコーナーごとに違う絵模様でステキです。なかなかの企画展でした。

(島根県立美術館前の宍道湖畔に群生していたネジ花。怪しい猫のようにとらえどころなく、ピントを合わさせてくれなかった)
鉄の雨降ったあのころ慰霊かな [2015年06月23日(Tue)]

fumihouse-2015-06-23T22_31_43-1-thumbnail2.jpg今日は沖縄慰霊の日。70年前の6月23日に組織的な戦闘が終結したと言われている。組織的ということだから、ゲリラ的に戦い続けた軍人がいるだろうし、洞窟に隠れて終戦を知らないまま以降に命を失ってしまった方もいることだろう。

県民のうちの四分の一もの人びとが亡くなってしまった(正確には殺された)沖縄戦。本土決戦の捨て石とされた沖縄の人びとの無念さは私には計り知れない。

『命(ぬち)どぅ宝』という沖縄の心。「人の命こそ宝物」という考え方は常識であるように思えるが、実はそうではない。自分の命は大事だが他人の命には無関心な者は多い。ひとの生命を傷つけたり奪うことが神への奉仕だと考える者もいる。『命どぅ宝』を全ての人の中心軸にできるかどうかが、世界の平和への試金石となる。

今日沖縄で行われた戦没者追悼式では、不戦の誓いがされたといっても、様々な思いがある。あるひとは、どんな状況であろうと武器を持たないことが恒久平和につながると考えるだろうし、別のひとは生命尊厳だからこそ武力で向かってくる敵に武力で対抗するのが至極真っ当なことと考えるわけだ。

沖縄の米軍基地を普天間から辺野古に移すのか。それとも国内のどこかに移設するのか。はたまた国内から消えてもらうのか。沖縄県民が長らく負ってきた安全保障上の大きな軛(くびき)。戦没者の悲しみとともに、戦後に生き、今に生きている沖縄の人びとに対して重要な節目となる6月23日であってほしい。

(艶やかなハイビスカス。今日沖縄ではどんなふうに咲いているのだろう)
肉片を食べて後悔梅雨の夏至 [2015年06月22日(Mon)]

fumihouse-2015-06-22T18_25_17-1-thumbnail2.jpgわたしには、カニバリズム(cannibalism)の嗜好がある。ただし他人の肉は食わない。自分の肉のみを食らう。腹の贅肉を削り取って食うわけにはいかないので、口腔内の肉襞を、メシとともにかじり付く。

血が滲み出て粘膜がダラリと垂れ下がるまでに食らう。痛い!首筋を釣り上げられるほどに痛い。後悔する。またやってしまったことを深く後悔する。よせばいいのに、たいていはその同じ食事どきに二度も三度もかじり付く。傷は深くえぐられ心も痛い。

2日ほど経つと炎症をおこす。赤く白くただれて円形の口内炎の完成だ。ソースや醤油がしみて頭の奥がかあっーとなる。熱い茶を飲むと吐き出したくなる。しゃべると舌が当たる時もある。辛い数日間だ。

さて今日は夏至。最も昼が長いはずだが、梅雨空なもんで、それほどに日の足の長さを感じない。それでも松江の今夕の日の入りは7時26分。8時までうっすらと明るいことになる。

梅雨なのに幸いに雨はしとしと降らず、まとまって適度に落ちてくる(今のところだが)。ドカ降りした地域でも、大きな被害は出ていない。夜は温度が下がって熱帯夜にはなってないので、毎日よく眠れる。爽やかに目覚めることができる。明日もまた元気良く目覚められたらいいなあ。

(まだ小さいキウイの実。この甘酸っぱさは口内炎にはテキメンに効く。しゃがみこんでしまうかもしれない)
トキ色の朱鷺を思いつ田をながめ [2015年06月21日(Sun)]

fumihouse-2015-06-21T14_06_59-1-thumbnail2.jpg緩みのない舞台だった。松江で行われた民音の舞劇『朱鷺』の出演者の誰もが、主役から脇役の端々にいたるまで、研ぎ澄まされた舞踏と表情を演じた。朱鷺が軽やかに歩き、リズミカルに優雅に舞い跳ねる様子に、観ているこちらまで羽が生えたような心地がした。

田植えから1ヵ月ほどたった今の田んぼには、シラサギがいる。苗が高く育ち緑が濃くなる田んぼで、白い鳥が蛙などをついばむ姿は一幅の絵画だ。

今から百年前のそこには、顔と足を朱色に塗り込め、羽の内側を淡い紅色に染める朱鷺がいたのだ。里山に巣をつくり、田んぼでエサをとる。人間とともに暮らす関係であった朱鷺が多くの地域で滅びたのはもう60,70年ほど前のことだそうだ。朝鮮半島や大陸でも同じようなものだったが、幸いに中国・陝西省で天然の朱鷺が発見されたのを契機に復活へのプロジェクトが始まった。朱鷺とは、滅んだものが復活する象徴と言える。

上海歌劇団のダンスドラマに魅了された。テクニックに裏付けられたセリフのない繊細で勇壮なファンタジーに夢見心地になった。きな臭い政治面での対立はあっても、日中友好は発展させなければならない。そうした平和への願いをベースに、日中共同で制作された舞台である。

朱鷺とは、ひとを幸せにするものの象徴でもある。舞台で演じられる朱鷺のダンスと表情、音楽。さらに衣装がものを言う。白、肌色、薄い鴇色(ときいろ)と濃いめの鴇色。朱鷺が空を舞うとき、鴇色という薄紅をまとった姿を下界からながめると、それはそれは美しいという。その姿のままの衣装であった。

日中の羽衣伝説をモチーフにして物語は進行する。村落での暮らしが桃源郷のようであった頃を過ぎ、都市化でもって朱鷺の生育環境が侵され、博物館だけに朱鷺が飾られていた。まるで佐渡で最後の日本朱鷺となったキンを彷彿とさせてくれる。愛の力で朱鷺は精霊となって蘇り、美の極みで乱舞する。

「朱鷺の舞う大空は、わたしたちをつないでいる」とキャッチフレーズでうたうように、朱鷺だけにとどまらない。この地球に生き続けなければならない宿命をもつ人類の可能性を信じ、他の生物と共に生きるべきことを教えた地球賛歌でもあった。

(朱鷺の顔や足の朱色をイメージされるネムノキの花)
痴情なりアイルランドへ行ってみて [2015年06月20日(Sat)]

fumihouse-2015-06-20T16_33_30-1-thumbnail2.jpgでっぷりと太って酒焼けした鼻を持つのがライアン。彼は太っ腹かというとそうではなく、小心者である。ライアンの娘は村の教師に恋をした。映画『ライアンの娘』は、多情が過ぎる若い女の情痴話である。舞台は第一次大戦が終わった頃のアイルランド。まだ英国の版図にあり、民衆には独立戦争に向かう気概が充溢している。

教師への憧れを愛情と勘違いし結婚したはいいが、性的な不一致もあって、女は不満を抱いていた。そこに新しい恋の相手が見つかった。英国将校で小さな守備隊の隊長だったことから、二人は野放図に逢い引きをした。

女は愛欲の虜になった。将校はかつて前線で重傷を負い、時折激しいフラッシュバックに悩むだけに、女の母性愛をもくすぐった。なにせ夫は現役教師で元担任。相当な年上でもある。常に守られているばかりで、彼女にはストレスだったのだろうが、所詮は痴話だ。

閉鎖的なアイルランドの寒村。しかも反英国の感情は極めて強い。英国将校と情を通じる女は目の敵にされる。知恵遅れの男がトリックスターとなって、女の立場はますます悪くなる。しかし、痴情の炎は治まらない。

守備隊への密告のかどで娘が疑われているのにもかかわらず父が最後まで自分の罪を白状しなかったり、村人たちの執拗なイジメやリンチが鬱陶しい。さらに将校がさっさと自殺したりと後味は悪いが、休憩をはさんで3時間半を長くは感じなかった。

アイルランドの風景は素晴らしい。カメラワークにも魅惑された。カモメが飛び透きとおる空、木漏れ日きらめき、柔らかそうな草木、苔むした倒木、広大な海の砂丘地帯、緩やかに寄せる波、倒壊寸前の古城、連なる断崖絶壁、横顔の将軍を思わせる海に浮かぶ巨大な岩礁、叩きつける嵐の波風、閉塞社会の寒村から見える広大な平山等々。こだわりの映像美は「アラビアのロレンス」を撮ったデビッド・リーン監督ならではと言える。アイルランドへの憧れが強まる。

(ライアンの娘の愛欲に近いかもしれないノウゼンカズラの花。早くも咲き始めた。夏がきた)
ひとは皆ダーナすること喜んで [2015年06月19日(Fri)]

fumihouse-2015-06-19T17_24_54-1-thumbnail2.jpg「お布施」とは本来自発的にお寺さんにたいして寄進することだ。うやうやしく献じるものである。喜捨ともいい、勧進という言い方もある。しかし今はお金のやりとりに特化されている。

坊さんの生計を支えるのみならず、「事業」に欠くべからざるものとして、周辺の「相場」をつくり「料金」のようにして「徴収」される「ビジネス」となってしまっているが故に、寺から請求されて支払うような印象を受けてしまうのは当然のことだ。

元は梵語のダーナに由来するのが、布施なのだそうだ。DANAとは、人に与えることであり、困っている人に手を差しのべること。その言葉が西洋に行き、英語では慈善事業に寄贈するドネイト(donate)となったり、臓器や血液の提供者を意味するドナー(donor)となった。中国へ向かうとダーナは、檀那や檀家へと転ずる。やはりこれも音がそのまま残っている。そして邦訳されて布施となり、日本語では檀那の意は変った。

もとは、何かを与えることはすべてダーナだった。時間を費やして役に立つ、作物が多く採れた人が寄付をする、知識人が何かを教える。それもみんなダーナという布施だったのに、日本では金に一元化させてしまった。

必要なだけの金は当然なくては困る。しかし、人が他人に何らかの貢献をして社会に役に立つことを喜ぶ。金が自己主張しては本末転倒だ。金は生きて使われてこその金なのだ(と、持たざる者のひがみかも)。

(花は対価を求めない。人が喜んでいるいないに関わらず、ひたすら咲き続ける。唯一求めることは子孫が続くこと)
くり返し飽いたようでも奇跡なり [2015年06月18日(Thu)]

fumihouse-2015-06-18T21_42_01-1-thumbnail2.jpg日常を飽くことなく繰り返す。ある一点を中心に円を描くかのように。いいことがあって上気した日は円が大きくなる。失敗したり乗ってこない日は円が小さくなる。まるで大きさが違う同心円を幾度も描いているように思える。

朝起きて家を出て職場にいて仕事をし家に帰り夕食をとって団欒をして風呂に入って寝る。ときどき交友を深めたり夜更かしすることもある。違いは多少あるにしても、軸となる一点を中心に大小の円を描き続けていくように思える。日々それを繰り返すことが当たりまえだと思えてくる。

ところが、交通事故の加害者になったり、犯罪に巻き込まれるような事態が生じたらどうだろう。同心円はいびつに崩れる。中心軸はなくなる。

転落して大けがをする、体の不調で病院へ行く、子どもの就職が決まらない、仕事で大きな失敗をする、災害に遭遇する……。さまざまな困難と悩みの波に洗われることによって、昨日までは当たりまえだと思っていたことがそうではなくなって、明日も同じ同心円を描くことができなくなって愕然とすることはどの人にも経験があるはずだ。

当たりまえと思っていたことが実は当たりまえでなく、日常は同じ中心点から繰り返されるルーティンではないのだ。昨日と今日は同じようでありながら、同じものは一つとしてないことがわかる。同じような日常を繰り返しているとすれば、それは奇跡なんだ。この日常に感謝しよう。

(近所の庭に夏椿が咲いていた。花の周囲のヒダが上質の縮緬のようで気品がある)
葛藤し四人の姉妹家族へと [2015年06月17日(Wed)]

fumihouse-2015-06-17T19_19_49-1-thumbnail2.jpg映画『海街diary』は、三人の美人姉妹に四人目の異母妹が加わり、新しい家族が出来上がっていく過程を描いています。直面する課題から逃げ出したそれぞれの実母、優柔不断にあれこれ抱えこんでしまっていた父。父母からもらった宿業のようなものを振り切ろうともがき、そこから逃れる手段として新生活を選び、あれこれと葛藤する女性たちを是枝裕和監督が表現しました。日常の風景が輝いて見える坂の街・鎌倉を舞台に、夏に始まり翌年の夏までの一年間で、四人の姉妹は一つの家族として紐帯を強めたのです。

長女・幸(綾瀬はるか)はしっかり者。父母が姿を消し、さらに母代わりとなった祖母が死んでからは一家の屋台骨です。次女・佳乃(長澤まさみ)は堅い勤め人ながらも尻軽で、しかもいい男には出会えない。それを横目に三女・千佳(夏帆)は自分の立ち位置をつかみきれないでいます。

山形で失踪していた父親が死にます。葬儀で三姉妹は、すず(広瀬すず)と出会うのです。今の生活に煮詰まり感があったのでしょう。すずの境遇もかわいそうだった。自分たちのような犠牲者をこれ以上出したくないという気持ちからだと思いますが、三人は中学生のすずとの共同生活を選ぶのです。幸いにすずは気丈で愛嬌がありますし、かつ彼女も一緒に生活することを望んだ。鎌倉での四姉妹の生活が始まりましたが、現実は思うにまかせません。すずも家にも学校にもなじんできてもなお、自分の居場所を探してもがく早熟な女の子だったのです。

いくつかの出来事ののち、すずの言語コードが変わっていきました。遠慮のかたまりだった敬語は消えて、すずは居場所を見つけました。家族として微笑ましく出発することができたのです。

むろん、この家族にもやがて、結婚の話が出てくれば、勤めの関係もあるでしょう。歳月とともに変化していきます。居心地の良いこの場所での生活も永遠ではなく、どこかで終わりはきます。死という残酷なものが姉妹の平和を切り裂くときがあるかもしれません。

ある面それは仕方のないことです。彼女らはそれぞれの「海街diary」を記録しました(実際に日記を書く書かないにかかわらず)。生きるひとは全てがdiaryを持つのです。ある人は「都孤diary」「山風diary」「激職diary」「福食diary」「腹踏diary」、いろんなdiaryがあるでしょう。

かけがえのない○○diaryを書き留めるために、笑う姿を基本としながら日々の暮らしをともに生きていくんだ。その日常の中にこそ幸福への道を見出せるんだ、と思えた映画でした。

(ヒメジョオンかハルジオンかは解りませんが、風に揺られて心地よく咲いています)
中庸にあれと願って梅雨の空 [2015年06月16日(Tue)]

fumihouse-2015-06-16T18_19_26-1-thumbnail2.jpg九州南部は長雨が続いているようです。累積雨量が1000mmを超えたところもあり、土砂災害の恐れが高まっています。

梅雨前線は南のほうにあっても、大気の状態は不安定なようで各地が大雨です。岩手県では記録的短時間大雨の警戒が発せられています。1時間に100mmもの猛烈な雨に降られたのでは、怖くてやっていられません。島根県の奥出雲でも大雨洪水警報が出ています。

どこもかしこも梅雨空ですが、今の出雲・石見沿岸部は晴れています。それでも今夜から明日にかけては注意が必要なようです。

土砂災害、河川の増水や氾濫、落雷や突風といった天候の激変はないことに越したことはありません。交通機関への影響も心配です。何事につけ極端はよろしくありません。適度に中庸な天気であることを祈ります。

(四つ葉のクローバーならぬ、三つ花のアジサイを見つけました。初めての経験です)
用を足しすっきりしたらさあ闘争 [2015年06月15日(Mon)]

fumihouse-2015-06-15T18_29_10-1-thumbnail2.jpg何のためにひとは小用を足すのか。もちろん催してきたからだ、出したくなるからだ。出そうと思って、おもむろにひっぱり「出す」。用を足そうとする。したいと思っていたのに、思いのほか出てこないことがある。今日もそうだった。

今日は湿度が高い。室内では24℃しかなかったが、蒸していた。よく汗をかく。だから溜まらない。したがって出ない。

それでもトイレに行ってしまうのは、何時間かに一回の習慣性があるからという理由だけではない。焦った気持ちをほぐしたり、緊張が解けてホッとひと息つきたいときに、なかなかの頻度でトイレに立つものだ。

チョロチョロとしか出ないから、出し切った!という満足感はないけれど、仕事の座を外して緊迫感からしばらく距離を置いたことになる。よーし、またやろうっという気持ちになる。小用を足すことは精神的にも大切だと思った。

(清涼感のある青紫のアジサイ。緊張気味の日々にあちらこちらで気持ちを和ませてくれる花)
サイバーの正義と不義が戦って [2015年06月14日(Sun)]

fumihouse-2015-06-14T16_00_33-1-thumbnail2.jpg今年度からサイバー攻撃対策として、正義のハッカー(ホワイトハットハッカー/white hat hacker)が採用されるそうだ。政府は民間から公募で採用し、徐々に増やす方針。

自治体や中央政府、関係団体を標的にしたサイバー攻撃は急増している。日本年金機構が標的型メールの餌食になったのは先日のことだが、解決への糸口さえ見えていない。巧妙化した手口に対応するために、コンピュータプログラムのプロというだけではなく、社会情勢を理解し戦略的思考のできる人材が求められている。

悪意をもってシステムに侵入し攻撃行為を行う悪玉ハッカーのことを、ブラックハットハッカー(ブラックハッカーとも)という。以前からクラッカーという呼び名もあった。

一方で、ホワイトハットハッカー(ホワイトハッカーとも)は、セキュリティ上の欠陥をかいくぐって不正侵入しようとする連中からシステムを守る善玉のハッカーである。両者の色分けは明快だ。善と悪、正義と不義の色分けがなされている。

しかし、小説や映画といった虚構の世界でも、現実の世界でもそうだが、正義だったはずの者が悪徳に染まってしまうことはあり得る。正義の名の下に秘密裏に工作を行う「善」たるハッカーたちが、自己の強力な能力を「悪」の方面に振り向けないという保証はない。確たる使命感の下に高い倫理観をもたない専門家は、やがて悪を為すかもしれない。欲得が絡んで悪の道に踏み外さないよう願っている。

ところで、「正義」とは何だろう。正義の名の下に数えきれないほどの戦争が行われ、史上何億人の人びとが殺されていっただろうか。自衛という名目で戦端が開かれたものも多い。いやむしろ主流かもしれない。神に仕える人間として正しい道理だと教えられて、自らの命を捨て、他人の命を奪う者もいる。人間としての道にかなった行為かどうかは、それそれの価値観によって違う。人それぞれが正義を主張すれば、必ず思想はぶつかり合い争いは始まる。ぶつかり合って一方が主張を引っこれめば、恨みが生じて将来に禍根を残す。

「正義」という言葉が絶対的に正当性をもって主張できるのは、ひとを殺さない。精神的な死を強要することも含めてひとを殺さないのが、絶対的な正義だ。わたしはそう思う。
戦えば夢を忘れず若き日の [2015年06月13日(Sat)]

fumihouse-2015-06-13T15_49_16-1-thumbnail2.jpg・どこかに別のいい世界があるんじゃないか、と考えるのは間違いだ。今ここでやりきれ。
・未来が何者かに侵され、現在と断絶させられて支配されようとしているのに安閑としていることは誤りだ。今こそ戦え。
・人間とは醜悪で罪深い部分を抱えているどうしようもない存在だ。一方で善性を持つ至高の存在でもある。だから今を諦めるな。

映画『トゥモローランド』にはそんなメッセージ性を感じたような、感じなかったような……。正直なところ筋立ても世界観もよくわからなかった。

未来の黒幕は一見すると優しげだが、未来からみた過去(即ち現代)と彼らの未来とを断絶させようと思っているようだ。過去を変えれば未来は変わるはずなのに、なぜそんなことをするのだろう? 現代の地球は戦争に紛争、疫病によって瀕死の状態にある。それを回復する手だてを諦めさせようとしている。

それに敢然と立ち向かい戦う使命を与えられたのが、メカニックに強い17才のケイシーと20年前には天才工学少年だったフランク。ロボットの美少女アテナに導かれてトゥモローランドに潜入する。黒幕の一味と力の限り戦い勝利をおさめる。そして滅びそうだった現代の地球は助かる。

夢を忘れないで見続けてほしい、諦めずガンバることをやめないでほしいというディズニーが夢の国を創ったときの気持ちが込められていたと考えるのは、うがち過ぎだろうか。

(カメラをググッと近づけると迷路のようになったスモーク・ツリーの花。未来の夢も迷路なのか)
高校生セレンデップな旅ありて [2015年06月12日(Fri)]

fumihouse-2015-06-12T12_14_40-1-thumbnail2.jpg高校二年生の秋月和也はセレンディップな旅をした。嘘から始まった旅に偶然が重なり、ステキな出会いを重ね、人生観を変えた。偶然が重なったのではないのだ。彼が元々持っていたセレンディップな力。すなわち、幸運を招き寄せ、思いがけぬ援助を他人からいただく能力。感謝して、相手に精魂こめた掃除というお返しをして喜ぶ顔を見る。その貢献がさらに幸運に輪をかけ、確かな幸福軌道を歩む力である。

喜多川泰著『「また、必ず会おう」と誰もが言った。』(サンマーク出版,2010年発行)は、和也が東京から家のある熊本までの道のりを、空港売店のおばさん、美容師、警察官、トラック運転手、その娘、医者に次々とリレーされるように出会いを重ねていく。もちろん自動コンベアーに乗るわけではなく、刻々と成長を遂げる彼が自分のセレンディピティで魅力的な人々を引き寄せていくのだ。

著者は運転手の柳下さんにこう言わせている。

≪おまえの人生はおまえのもの。すべておまえの責任で起こる。相手が大人だろうが、先生だろうが、言いなりになって何かを手に入れようなんて思ったところで、おまえはおまえらしさを失う。そして、それによって起こることを自分のせいじゃなく、他人のせいにして生きる。わかるか?≫

和也はひとを喜ばせ、ひとに貢献することが自分に幸福をもたらすことに気がつく。そして「使命」という言葉にたどり着いた。彼は他人のためになる自分をつくるという目的観に立った。単なる「自分探し」ではない。彼には人のために役立つことは嬉しいことだという価値観が身についたからだ。彼は成長していく。悪人によってひどい目に遭うこともあるだろう。しかし彼は困難に遭遇するたびに一回り大きくなっていくに違いない。
暑苦しハロー効果でキョウチクトウ [2015年06月11日(Thu)]

fumihouse-2015-06-11T18_44_36-1-thumbnail2.jpg太陽がまぶしい季節だ。日光を避けるために手や荷物でひさしを作る。沈む前の夕日が、木やビルや人と重なると後光が差して見える。目がくらんで黒くベタに染まる。眩惑されてちゃんとものが見えなくなる。車の運転中は特に危ない。

【ハロー効果】という言葉がある。別名【後光効果】。周囲の状況や特徴に引きずられて、真実の評価から離れてしまうことをいう。

たとえば、有名大学卒はただそれだけで能力が高いように見えてしまうが、仕事を実際にやらせたら箸にも棒にもかからないことはある。パソコンを上手に使う人は情報処理能力が抜群かと言えば必ずしもそうではない。ひとを見るには先入観や偏見は禁物だが、誰しも侵しやすい間違いだ。

逆のハロー効果もある。机の上が乱雑なひとは仕事ぶりもぞんざいか、というと人それぞれである。早口なひとは頭が切れるかというと、そうでない場合もある。物事や人間を判断する際には、確かな目を持ちたいものだ。

(夾竹桃の桃色は暑苦しいというのも偏見だ。こんなに爽やかで涼しげだった昨日の松江のキョウチクトウ)
始めよう褒美に梔香り高まって [2015年06月10日(Wed)]

fumihouse-2015-06-10T21_44_18-1-thumbnail2.jpgさあ始めよう。ぐずぐずせずに始めよう。何事にせよ、モチベーションを高めるには刺激が必要であり、まず始めることが大切だ。始めさえすれば慣性が働いてノッてくる。やらない理由をつべこべと考えず、打てる手立てを考える。まずは着手する。少しノッてきたらそこで手順を改めて考えたらよろしかろう。

片づけものを始める。作るべき書類の全体の構成を考える。読みかけの書類を区切りのいいところまで読み終わる。会うべき人に電話をかけて約束を取り付ける。行くべき場所に到達する手順を考えて席を立つ。目標を立てて行動すれば、脳の側坐核が働いて、ことはうまく進むだろう。

電話がかかってくる。相談ごとを持ちかけられる。雑談がしたくなってくる。お茶が飲みたくなる。むし暑くてイライラしてくる。パソコンの壁紙が気になってくる・・・いろんな雑音に振り回されずに勇気の一歩を進み出そう。

≪今日手をつけないものが明日仕上がったためしはなし。一日だに無駄にできない。できることから決心をつけ、勇気を出してむんずと掴まえる。一度掴めば手にしたものをむざむざ逃すはずはなく、こうと決めた心は断乎として仕事をつづけるのだ。≫
(ゲーテ『ファウスト第1部』柴田翔訳,講談社文芸文庫,2003年)

仕事師ゲーテの言うとおり。今日は短い。明日はたぶんもっと短い。明後日はなおさらだ。ならば今日が勝負だ、今日に勝て。やるだけやってバタンキュー。

(クチナシの花盛り。鼻を近づけると爽やかにして色気もある芳しい香りがした)
雲をみて明日の良きこと夢想する [2015年06月09日(Tue)]

fumihouse-2015-06-09T18_17_51-1-thumbnail2.jpg雲は千変万化する。千にも万にも変化する? いやいやとんでもない。地球ができてこのかた、雲は存在し続けた(水が必要だが)。一日にとして同じ雲はない。刻々一瞬として同じ状態はない。

雲は空に浮かんだ芸術だ。空にぽかっと浮かぶ綿雲を見よ。もくもくと入道雲が発達する様子のたくましさを見よ。高層に刷毛で掃いたような絹雲が満ちる清々しさに心清めよ。

天が織りなす造形の見事さに目を見張る。対流圏までの天空に広がる水分のキャンバスに、夢想が次々と広がっていく。天空の城ラピュタではないが、空のかなたに別の世界がありはしないか。好奇の心が湧いてくる。

明け方までは雨が落ちていた。今朝通勤する頃は雲が垂れ込めていた。そして今はうろこ雲が広がって差す太陽がまぶしい。

日が落ちて暗くなるまでの一時間余り。雲はどんな姿を見せるのか。何かに似てはいないかな。そして明日はどんな雲がやってくるのか。形のいい雲よ、来い。そして消えないでおくれ。

(雲がある空の下に咲くラベンダー。蜜蜂が寄ってきて乱舞する)
キンシバイ黄色い声で声援す [2015年06月08日(Mon)]

fumihouse-2015-06-08T18_19_24-1-thumbnail2.jpg母に叱られた。
ぐずぐずして何しているかと強く叱られた。
集団登校の時間に間に合わない。
上級生たちはさっさと行ってしまった。
ぼくはトボトボと学校への道を歩いた。
どんなふうに叱られたかは覚えていない。
ショックを引きずって、うつむいて歩いた。
自動車がとまっていた。
無意識に手が出て側面を擦って歩いた。
開いた窓の中から声が聞こえた。
「触るな!」
調子の強さにビクッと飛び上がって体がすくんだ。
おそらく小学一年生。
あの日のぼくは学校に間に合ったのだろうか。
どんな一日を過ごしたのだろう。
記憶はない。
脳の中をいじくってあの日を振り返ることができたらいいのになあ。
ガンバレや、あの日のぼくよ。

(金糸梅(キンシバイ)が花盛り。梅の花を巨大にして濃い黄に染めて雄しべを金色の糸にしたら出来上がり。街路でよく見かける)
欲しいモノどこまで行っても欲しがれや [2015年06月07日(Sun)]

fumihouse-2015-06-07T20_54_15-1-thumbnail2.jpg広々したショッピングセンターを目的もなく歩いていたら、すれ違いざまにこんな声が聞こえました。「欲しいモノがないんだよね」と。30歳代とおぼしき妻が夫に話しかけていたのです。

かつて家電に三種の神器がありました。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三点セットです。1950年代の後半高度経済成長期に入った頃、まだ高価だが頑張って仕事すれば手に届く代物でした。新しい生活で夢を開く。ささやかであっても人々は夢に酔いしれ希望を抱いていました。

1960年代になると新三種の神器が登場します。カラーテレビ、クーラー、自動車の3Cで、さらに豊かな消費生活を保証しました。これらの機器は「耐久消費財」と呼ばれていましたが、今や死語になったのではないでしょうか。

資本主義の世界では、資本力でもって原材料を製品に変え、流通を経て消費者が購入し代金を払って購買欲を満たすことで、資本と消費者がウィンウィンの関係になりました。ですから消費者がモノを買ってくれないことには資本主義は成り立ちません。

耐久性のある機械や設備であっても、新機能を加えてモデルチェンジをしデザインを変えて、財布の紐を緩ませようとします。丈夫な日本製ならば長年もつことはわかっていても、流行遅れ感を出して新しい製品に買い換えさせる。いわば資源を蕩尽するのです。そうでもしない限りはモノは売れません。用務の提供で成り立つサービスだって同じことが言えます。ともかくお金を使ってほしいのです。

今やデジタル全盛の時代。パソコンやデジタル家電がモデルチェンジを頻繁に繰り返して、買えや買えやと踊ります。しかし買い換え需要が期待できる程度です。どんなにスマホに夢中になっていても、ふつうは1台あれば十分ですから。

それでも資本主義はモノを買わせようとします。資源は湯水のごとく使い尽くされていきます。どんなにエコを叫び、地球温暖化に警鐘を鳴らそうとも両者は矛盾を抱えたらまま平行線をたどります。省資源省エネがどんなに進んでも、資本主義の仕組みは大概変わらないのです。地球は生き延びることができるでしょうか。

(邇摩高校で花を咲かせたメロンの花。商品としてのメロンも次々と品種改良されて消費者は購買欲をそそられる)
太陽の下に咲いたり向日葵悲恋 [2015年06月06日(Sat)]

fumihouse-2015-06-06T13_30_57-1-thumbnail2.jpg恋愛や結婚というものは、ふつう自己責任の範疇にあるが、戦争が絡むとそうは言えなくなる。映画『ひまわり』は言わずと知れた悲哀の恋物語。ウクライナの広大なひまわり畑には、故郷へ帰り愛するひとに逢うという思いを遂げられなかった兵士たちの骨が眠る。同様にジョバンナ(ソフィア・ローレン)も、その地で九死に一生を得て別の生活を築いたアントニオへの思いを、捨ててうずめた。

彼と新しい妻マーシャが暮らしていた街の目の前に巨大な発電所が見えた。チェルノブイリ原発かと思ってびっくりしたが、まだ時代は原発の頃を迎えていない。かつて「悪の帝国」と嫌われたソ連ではなく、市井の一断面を描いたのは、ソ連でロケをしたこともあるだろうが、体制は違ってもそこに暮らす人間は誰でも恋をし仕事にあくせくし、人間関係に悩む存在であることを表現したかったのだろう。

ジョバンナとアントニオとの悲恋の結末にそれほど感情移入できたわけではないが、戦争が引き裂いた夫婦の人生をもの悲しく思う。戦争の罪は深い。それを遂行した指導者層の罪はもっと深い。

雪原にあまた倒れて死んでいるイタリア兵士の中から、なぜマーシャはアントニオを選んで助けたのか。その必然性はあったのか。男物の軍服コートを着ていた彼女は、おそらく死んだ兵士から金目の物を抜き取って生き延びてきたのだろう。たまたまアントニオはまだ生きていたので、罪滅ぼしなのか、助ける気になったと想像する。

それにしても楚々とした美女である。控えめで抑えた感情表現しかしないマーシャにアントニオは不満だったのかもしれない。イタリア人の二人は喜怒哀楽が激しい。兵役を逃れるために、夫が狂って妻に暴行する偽装をしたような二人である(ばれてしまったが)。愛することも悲しむことも、怒るのも嘆くのも全魂を込めてぶっかってくるジョバンナのことをアントニオは再び強く求めた。しかし両者は気持ちに封印をし、それぞれの生活に帰っていった。

何度も繰り返される有名なテーマ曲。映画『砂の器』のテーマ曲にもフレーズが似て、その調べを聞けば悲哀の感情はいや増して高まる。

(ひまわりではないが同じ菊系統の花。すくっと花弁が広がり伸びやかだ)
座らない入口近く立ったまま [2015年06月05日(Fri)]

fumihouse-2015-06-05T18_36_07-1-thumbnail2.jpg列車に乗るとき人は(特に学生や若者)、どうして入口に近いところに立つのだろう。ごく真っ当に、あるいは荒唐無稽に考えた。

○一番近いから。奥に向かうのが面倒くさいし、降車するときに最短だ。
○座るより立つのが好きだから。揺れる車内でも立ってトレーニングしたい。
○奥に行くと知り合いに声をかけられるのを防ぐため。できるだけ関わりを避けていたい。
○4人掛けのボックス席や横長のシートに座ると、隣の人と身体接触があったりしてイヤだから。視線が合ってしまいそうで、これもイヤだ。
○家でも学校でも立たされ続けてきたもので、立つことに慣れている。
○車窓から外を眺めていたい。座ると目線が低いから景色をぐるりと見渡せない。
○事故があったり緊急事態に一刻も速く外へ脱出するにはそこがいい。
○片思いに好きなあの人を少し離れた場所から見守っていたい。
○理由などどうだっていいじゃん。とにかく立ちたいんだよ!

(栗の花はそろそろ満開を過ぎたが、青臭い濃厚な匂いを放っている。先月初めに咲いていたスダジイの花とよく似た匂いで鼻孔を圧する)
磯を出て街に棲む鳥イソのヒヨドリ [2015年06月04日(Thu)]

fumihouse-2015-06-04T18_43_53-1-thumbnail2.jpgイソヒヨドリは器用な鳥だ 飛びながら鳴く 屋根からビルアンテナから屋根へ 行きたいところにひとり行く 30mも40mもの高さで気流に乗って 円を描いて高みの見物 旋回自由思うがままに羽根休め 尾羽根立てては急なブレーキ

イソヒヨドリは孤高にひとり邪魔されない 澄んだ美声だ天使の声だ 複雑に節を回して高らかに 歌うその声 この世のものとは思われない 多種な鳴き声披露して 短音長音組み合わせ 音程自由 多様な声音自賛する リズムと音が組み合わさって こんな鳴き方あるのかと 聞くひと皆が耳そばだてて 違いを楽しみ豊かなり どんなに鳴き方違っても 澄み切る遠くへ響く音 それでも彼は彼の声 突出し鳥の鳴き声頂点に 立つ鳥きみは微笑むぞ

イソヒヨドリは恋をする 独りごちてはメスを呼ぶ 縄張り強く主張する ビルの屋上陣取って さえずり恋のお相手を 求めてメスを蠱惑(こわく)する 番(ツガイ)になって地面で遊ぶ 電柱もつれて会話する 次々場所を替えまして 楽しむふたりはお似合いだ 天気良ければさらによし さえずりずっと際立って のべつまくなし鳴く彼よ

イソヒヨドリは深い色彩雅な小鳥 赤褐色かセピア色 それとも臙脂か赤系統 首の周りを染めている 対して青の色ももつ 薄紺色かオリエンタルブルー 頭と首と胸青い その他は褐色かっこいい 遠き昔に魔法にかかり 声音の王なり君臨す

春によく鳴く鳥多し けれど彼ほど際立つ音色なし 耳をそばだてて聞き惚れて 心洗われ爽やかに 明日もまたまた聴かせておくれ

(マツバギク。孤高の花ではないけれど、初夏の日差しに負けまいと、びっしり道ばた凛と咲く)
まっすぐな平面と空かわらずに [2015年06月03日(Wed)]

fumihouse-2015-06-03T18_30_16-1-thumbnail2.jpg線路がある
10センチもない真っ直ぐな平面がずっとある
果てしなく無限の彼方に続いている
その真っ直ぐに手を加えてみたい
そんなカラスが悪さする
石をくわえてちょこんと置いて
平面の世界を少し変えてみた
単調だった平面が変化するのをカラスは楽しむ
長い平面は盛り上がった
広い平面に色違いになった
高みに飛んでながめれば直線が途切れて面白い
線路の真っ直ぐとカラスの真っ黒は不思議と対照的だ
人間がやってしまったら重い重い往来危険罪
カラスにゃ関係ないとして堂々彼らは自由なり
単に世界を変えてみたい
カラスももってる好奇心
カーアホーと鳴いて人間を小馬鹿にする
カラスは何やら知らないが見たことないが不幸の種はまかないでくれよ

(梅雨に入ったようだが、朝方の雨はやんで澄んだ青空がきた。紫陽花の季節がやってきた。まっすぐな海は平面。大社沖には最新護衛艦『いずも』が小さく見える)
どち好きかホタルとゴキブリ言うまでなし [2015年06月02日(Tue)]

fumihouse-2015-06-02T17_19_34-1-thumbnail2.jpgホタルはゴキブリに似ている。あくまでも一見するとだが。触覚がある、足が6本だ。昆虫だから当然だ。どちらとも平たい。人類に好かれているかどうかで分ければ、全てが対照となる昆虫同士。

ホタルは小さく、ゴキブリは大きい。黒いホタルも胸に赤いマフラーを巻いており、後者はひたすらまっ黒け。

飛ぶホタル。そっと手にとり捕まえて、モゾモゾ動くの楽しみたい。後者は単に殺したい、それも嫌だよ消えてくれ。

ホタルは光る。点滅しアピールするオス、草むらでじっとぼそぼそ光を保つメス。ふたりは細々出会いを待ってる。後者はあぶらぎっててテカテカで、精力剤でも飲んだよう。

ホタルは人影恐れない。手のひら丸く寄せていき、そっとあなたは手に止まる。しばらくそこに留まって点々滅々見せてくれ。後者のおまえ逃げ回り、人の姿なぞ見たくはない。それは人間も同じこと、世界の果てに行ってまえ。

ホタルはか弱き減少種、人が守ってやらねばね。ゴキブリ出てから3億年。生きる化石はたくましい。食欲旺盛何でも食べる。

蛍の光は蛍雪時代。ホタルの灯りで伝説で勉強するは偉人かな。団地のベランダ蛍族。我が子の健康配慮して煙草スパスパ外へ出る。白熱灯でやけどして蛍光灯なら熱くない。ところがどっこい蛍光も熱を蓄え熱いもの。今や発光ダイオード、蛍光灯の地位にあり。

(夕陽をあびた苔の群。もう一歩で蛍光色になりそうに滑らかだ)
5ヶ条を学んで進め親も子も [2015年06月01日(Mon)]

fumihouse-2015-06-01T17_25_31-1-thumbnail2.jpg島根県教育委員会が作成した『学びのすすめ』では、子供たちが健やかに育ち学力を向上させるために、家庭生活で必要な心構えを5か条にして説いています。

第1条「ねえ聞いて」家族の豊かな会話
第2条「さあ読もう」家庭で広げる豊かな読書
第3条「よし時間」けじめをつけよう生活習慣
第4条「もう一度」授業と家勉つなげよう
第5条「あと5分」伸ばそう自分の可能性

家族が子供とのコミュニケーションを大切に思い全身を耳にして聴くと、子供は育ちます。学校での出来事や勉強、将来の進路、友だち、社会で起きた出来事を話題にして話をしてほしいと説きます。さらに子供はもちろん親も、本や新聞を読んで感想を話し合ってほしいと。

生活習慣に関する働きかけを忘れてはいけません。毎日決まった時間に寝て起きる、毎日朝食を食べる、ゲームで遊ぶ時間を限定する、ケータイの使い方に関するルールを守る、といったごく当たり前のことです。こうした基本的な生活態度を高校生までに身につけることができるかどうかが、その子の将来を形作るのだと思います。

子供が成長する過程で親との対立は避けられません。「あなたにはこんなふうに育ってほしい」という親としての考えを具体的に発することが重要です。反発されることもあるでしょう。対立を恐れることなく発信すれば、一時的に子供は離れることがあっても、親の発したメッセージがその子のことを思った故であるならば、気持ちは届くことでしょう。

もしも一時的な感情にまかせた怒りであったと反省すれば、親は正直に謝ればいいのです。偉ぶらず真摯な態度を見せることによって、人の気持ちをおもんぱかりつつ自分の意見をはっきり言える態度を子供は養ってくれるに違いありません

(湿った草地に咲いているオオジシバリ。大地を縛るというその名だが、大地に根を生やしてうまく調和している)