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飛ぶ鳥と魚はどこか似ているぞ [2015年04月30日(Thu)]

fumihouse-2015-04-30T18_15_26-1-thumbnail2.jpgツバメはトビウオに似ている。翼を広げて滑空する。翼をバタバタさせて揚力をつけて昇る。ふたたび滑空し、素早く急旋回しては自由自在に飛び回る。ツバメは空を意のままに飛び抜け、トビウオは海中を意のままに動き回る。

トビウオはツバメに似ている。出雲地方ではアゴというが(アゴが外れる美味しさだから)、ツバメ魚と呼ぶ地方もあるらしい。勢いをつけて海面から飛び出すときに少し胸ビレをパタパタさせ、続いて長い滑空タイムに入る。大きな胸ビレを翼のように水平に広げて滑るさまは爽快だ。鮮やかな濃青色の背、銀色の腹。変わり果て、あご野焼きや刺身となって食卓に上ることなど想像しがたい。

ツバメは機嫌のよい赤ちゃんのように声を出す。チュチュピチュピッルルルルと。大きな黒い目、半円形の愛らしい頭。しかも顔の下半分は臙脂色で、腹は白く、羽根は褐色。「臙」の字は燕の喉の意。長い尾は深い切れ込みが入って燕尾形。トビウオの尾ビレもどこから燕尾服に似ているぞ。

(ちょうど咲き乱れるモッコウバラ。トビウオとツバメとは、全く関係ない)
捏造かありのままかと反芻し [2015年04月29日(Wed)]

fumihouse-2015-04-29T20_39_54-1-thumbnail2.jpg「やらせ」と「ありのまま」とは紙一重。「事前に打ち合わせて自然な振舞いらしく行わせること」だと、広辞苑ではやらせ【遣らせ】を定義する。マスコミの記者たちが特ダネを求めて血眼になる。なかでもテレビは映像が必要なだけに、やらせがおきやすい。

NHKのクローズアップ現代のやらせ問題について調査委員会は、過剰な演出や編集はあったものの「事実の捏造につながるやらせはなかった」と結論づけた。借金を逃れるため多重債務者が出家しようとするのを、ブローカーが食い物にする詐欺の手口を紹介したらしい。やらせばかりか、捏造までして番組を作っていたという疑いだ。調査委員会は苦し紛れに説明しているが、わたしには過剰な演出と捏造との間にほとんど距離はないように思える。

同じような状況を再現して関係者に演技させたところを撮影し、あたかも実際の場面であるかのように放映することも架空の演出となる。決定的シーンとして放送すれば視聴率がかせげる。テレビ人には魅惑的となろう。彼らこうち多くは常に被写体を演出しつつ、ギリギリのところで捏造することを自制していることと思う。

捏造←→過剰演出←→作為←→ありのままの現実

やらせ(捏造と過剰演出を包含する)の対極は、ありのままの現実だとすると、両極の間には無数の状態がある。他人に良く見せようとしてシナをつくる作為があり、着飾ったり偉そうに見せるのも作為だ。その作為を繰り返すうちにそれが身につけば、あるがままの姿となるだろう。

いわゆるキャラを作るのも作為のうちだ。集団の中で自分に期待される人格を演ずるうちに新しい自分を演出できなくて苦しむ若い人が多くなっていると聞く。芸人があられもない姿をカメラの前にさらして視聴者を喜ばせるのも作為だが、当人がカメラの前から離れればいつもの顔に戻るのが当然だ。ディレクターが過剰に演出して芸人本来のキャラを逸脱させた結果ウケれば新たな笑いの創出として誉められる。マンネリ化した日々にいつもと違うシチュエーションを持ちこめば、素敵な演出として家族や恋人を喜ばし張りが生まれる。

人は誰もが百面相だ。ルパン三世や怪人二十面相のように変装しなくても、時と場合と気分によって自在とは言わないが、顔や態度、服装やメイクによっても変幻する。素粒子を観測しようとして光を当てると、素粒子に光子がぶつかって動きが変わるという。人間も同じで他人との関係によっては百面相どころか何千何万もの姿を見せていく。あるがままの姿など実はないのかもしれない。実はわたしたちの毎日は、作為と演出と、時には捏造の繰り返しなのだ。

(ガザニアをどこに植えて他の花といかに組み合わせるかというのも演出。園芸家の腕の見せどころといえる。これは過剰が過ぎても何ら問題はない)
初恋に林檎の下の君居たり [2015年04月28日(Tue)]

fumihouse-2015-04-28T19_10_56-1-thumbnail2.jpg『初恋』を歌い上げた島崎藤村。高校生のとき、この高名な詩を憶える宿題が出た。憶えはしたものの今はもう残っていない。思い入れがなかったからだろう。

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

「花ある君と思」わなくても、花櫛を差しているんだから当然だよな、と思った。少女が少しずつ大人になるうちに華やいでいき、見違えるほど美しくなった君を楽しむ主体がいることなど想像できなかった。

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり

「やさしく白き手をのべて」を幽霊のように手の甲を友達に向けて恨めしい所作をして、ケラケラ笑いあった。ガキだった。文語が分からないこともあったが、恋の味わいは理解しがたかった。

 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情に酌みしかな

初恋というからには少年だろ、それが「盃」?「酌みし」だって? 未成年者のくせに酒なんか飲むなよな、と思った。相思相愛で長らくの連れ添った恋人同士が互いに愛情を注ぎ、ときに情に溺れる様子なんて想像すらできなかった。

 林檎畑の樹の下に
 おのづからなる細道は
 誰が踏みそめしかたみぞと
 問ひたまふこそこひしけれ

こっそり林檎を手に取って二人で交互にかじりついた。ある時は腕を組み、ある時は立ち止まって接吻をした。暗くなるまで話に興じ、沈黙のまま見つめ合っていた時もあった。やがて二人が歩いた草村に恋の細道出来たよな。二人で歩いたこの道を、ずっとこのまま歩きたい……。

(邇摩高校に咲く黄色い牡丹。色は透明度のあるレモン色。匂いは花の王と呼ばれるだけに濃厚なもの。さて味は? 食べたことないので恋と違って分からない)
大道芸ミュージシャンには投げ銭を [2015年04月27日(Mon)]

fumihouse-2015-04-27T21_18_35-1-thumbnail2.jpg大道芸人がパフォーマンスする姿に出くわすことがある。投げ銭を帽子や箱に入れるべきかどうか、入れるとしたらいくらか、悩む。見事な演奏を披露するストリートミュージシャンでも同じだ。

芸術を鑑賞したり、楽しいパフォーマンスを楽しむにあたって、私たちはあらかじめ決められた入場料を払う。売買価格に交渉の余地はなく、その値段を認めて払うか、コストパフォーマンスが低いと予想して入場しないかの二者択一だ。

その点、投げ銭は自分で価値を貨幣価値に換算してお金を出すという判断が必要だ。判断に自信がないから、ついつい「相場はいくらだろう?」と横並び意識が出てきて勘ぐる。

だが、投げ銭の判断基準はすべて自分に任される。満足したならたくさん入れればいいし、つまらないと思えばさっさとその場を離れるだけでいいのだが、中途半端な状態でもっと面白くなるかなぁと思ううちに最後まで見てしまったりしたら、投げ銭に呪縛される。判断は速いに限る。

その判断を決めるのは勘所をしぼりだす気合いかもしれない。そして幾度も失敗するうちに自分の中で基準ができていくのだと信じたい。でも、田舎に住んで都市部に通勤をしない今のわが身からすれば、投げ銭の判断を迫られることなど、残念ながらない。

(鳥取・砂の美術館のドイツ編で観たゲーテの砂像。ノイシュバンシュタイン城など名工が造った砂の芸術に投げ銭を入れるとしたら文句なしにお札が飛び交うだろう)
ああ終わるカフェの会話は楽しめず [2015年04月26日(Sun)]

fumihouse-2015-04-26T23_39_28-1-thumbnail2.jpg中年の男女二人が駅構内のカフェで向かい合って座っている。言葉はない、ただならぬ雰囲気だ。その横では女主人と駅員が、いつもながらの掛け合いを明るく賑やかに交わしている。そこに女の知人がやってきた。無神経にしゃべりまくる知人。それでいて二人の様子を抜かりなくアンテナ張って詮索している。男も女もやるせなく、きまりの悪い時間が過ぎる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番がバックに流れる。悲壮なロマンスにふさわしいメロディだ。

『逢びき』は1945年の英国映画である。大人が純愛に遭遇すると結末は悲しいことを示す。甘いも酸いも知る大人だからこそ愛は短時日で深まる。その分別れの悲しみも深い。原題は『Brief Encounter』。偶然の出会いから、週に一度の逢い引き、きわどい密会をも含ませた題名であり興味深い。

物語全体が女の独白で表現される。全てを憶えていたい、良いことも悪いことも過ぎ去ってしまっても、二人の愛の軌跡を忘れまいと、女も男も決意する。小さなきっかけで出会い、好ましい人だと気になり始め、偶然に再び出会って思いが通じ合う。踏みとどまらないと抜き差しならぬ状態になる、今なら後戻りできると二人は話し合う。愛し合うこの気持ちに打ち勝って、それぞれの生活が破滅するのを防ぎたい。その過程で女は、本当の幸せとは何かを考える。愛する気持ちに忠実に生きるのが幸福なのか、それとも一時のときめきに左右されずに堅実に生きるのか。しかし二人とも愛し合う気持ちを隠せない。良心と恋心がせめぎ合い、二人を惑わす。危ない目に遭っても逢い引きすることを止められない。

人目を気にし過ぎて楽しめない。家族を騙しては後悔の念にさいなまれる。吸いたくもない煙草の本数が増える。罪人のような気分になる。自責の念に惨めさがつのっていく。決然と別れればいいのに、それでもやっぱり男に委ねる。「あなた次第よ」と。腕を組んで歩く二人に言葉はない。お茶を飲みながら、「また会えるかしら?」と未練が残る。「心から愛している」と男。惨めに疲れていく女。その女を見て、「君を愛して締まったことを謝る」と男。男は医者の仕事をたよってヨハネスブルグへ移転することに決めた。

二人の最後の時間が冒頭のカフェのシーンだった。別離の苦しさに女はかろうじて耐えた。帰宅した女を癒したのは頼りないはずの夫であった。女ローラは男アレックの思い出を胸に収めつつ、静かな生活に戻れるだろうか。

映画を見る、お茶を飲む、ボートに乗る、車でドライブする、池に落ちて濡れる、友人のアパートで密会する、列車に乗ってみたが分かれがたくて再び逢いにホームを走る・・・・多くの恋のディテールが観る人すべてに感慨をもたらすだろう(別に不倫でなくても)。私にもあんな経験がある、懐かしいと。甘くてはかない恋愛の絶頂を描いた忘れがたい名作であろう。
恋をしてカエル歌えや春をいけ [2015年04月25日(Sat)]

fumihouse-2015-04-25T22_41_37-1-thumbnail2.jpgカエルが恋をしている。本能のままにオスがメスを求め、他のオスに向かって縄張りを主張し、盛んに鳴いている。桜が咲く頃から鳴き始め、田んぼに水が入れられて、掘り返されて均されて、さらにたっぷりと水が張られるようになると、巨大な合唱団の活動は最高潮を迎える。

トノサマガエルは「ゲゲココ、ゲゲコ」と間をとりながら鳴く。本人にしてみれば少し抑え気味かもしれないが、図体のデカいやつだから、とても目だってしまう。

ニホンアマガエルは、ニイニイゼミのようにたゆまず鳴く。とてもうるさい。「ジーコジーコ」と洗濯板をチェロの弓で乱暴に引いて鳴く。声を限りに主張するからともかくうるさい。個体数も多くて他のカエルを圧してうるさい。網戸にへばり付いているときには可愛らしいやつなんだがね。

シュレーゲルアオガエルは愛らしく鳴く。「コロコロコ」と、口中で高回転で舌を跳ねさせたように鳴く。リズミカルに木の鈴をたたいて澄んだ音を出している。宮崎アニメ『もののけ姫』に出る木霊のようでもあるし、コオロギのようにも鳴く。ニホンアマガエルに対抗しているが、数の力で負けている。

ウシガエルは、その名のとおり牛の鳴き声に似ているが、あえて形容するとすれば、「ブォーンブォーン」。田んぼの近くに沼があればまず間違いなくウシガエルはいる。100年ほど前にアメリカから輸入されて食用とされた時期もあったが、今は特定外来生物に指定されて嫌われものである。

(邇摩高校の牡丹の花も自分を主張している。紅白のコントラストが鮮やかだ)
道急ぐもはや行く道なき人か [2015年04月24日(Fri)]

fumihouse-2015-04-24T19_33_48-1-thumbnail2.jpg駅への道を急ぐわたしは、「助けて・・」と力のない声を聞いた。見まわして声の主を探すと、あのおばあさんだった。日中がまだ長く暖かい頃に道路をオタオタと歩く人だった。手押しの四輪車にへばりつくようにして危なげに歩いていた。挨拶するとたまに返答があって、穏やかに老いをやしなっているように見えた。

冬場になるとさすがに姿を見ることがなかった。仕事納めのその日、わたしはおばあさんを久方ぶりに見たのだった。玄関の手すりにつかまって足を外へ向けようとしていたのか、それとも家の中に入ろうとしていたのかはわからなかったが、声の主はおばあさんだった。

わたしは駆け寄って手をさしのべた。「どうしますか」と聞いたが答えはなかった。玄関から30才くらいの若い家人が頭を出した。面倒くさげにおばあさんの手を引いていった。孫だろうか。彼は無言だった。わたしはそのまま駅への道を急いだが、帰りの列車を一つ逃してしまった。もやもやした気分が残った。

春になって暖かくなっても、おばあさんは出てこなかった。草が伸び放題の家の庭に、おばあさんが使っていた四輪車が置き捨ててあった。しかも逆さまになって投げ捨てられたかのような風情である。しばらく前からデイサービスの送迎車を見かけるようになった。おばあさんは要介護の認定を受けて定期的に通っているのだろう。虐待されているわけではなく安心していいのだろうが、不安はある。家の前で四輪車を見るたびに、大事にされていない老人が哀れに感じてならない。

(ピンクの芝桜は明るい。おばあさんは花を愛で、星や月を楽しみ、他人と会話して弾むひとときがあるだろうか)
爛熟の季節は夏へ気配濃し [2015年04月23日(Thu)]

fumihouse-2015-04-23T19_00_38-1-thumbnail2.jpg春分から早くもひと月。日が長くなったものだ。6時を過ぎても太陽はまだ高い。車窓から日本海を眺めるには絶好の季節。

島根半島の山影が海の端へと長く延びている。海は潮目が横に伸びて白い線を引いたかのように分離して見える。霞か靄か、水平線は帯状の束となって厚い空気の層をかかえ、島根半島は海を離れて宙に浮いている。山の端は空に溶け込んで境界は不鮮明だ。

出雲神話では国引きの際に神々が使った巨大な縄が広がっている。それが変じたという外園の浜がゆったりとした弧を描く。曲面の上には簸川平野を砂の害から守っている浜山の松が一群となって覆いかぶさる。しばし霞で間を空けて島根半島の山々へと空間はうつろう。

昼間には雲一つない晴天を楽しんだのに、今は空全体をごく薄い白色が覆っており、おぼろげな春が頼りない。今夜の月は朧月夜を楽しもう。この幻影のような薄ぼんやり感は、萌え立つ若葉たちが吐きだす生命力にあふれた水気がもたらすものかもしれない。

春は爛熟している。平年より十日も早く札幌でソメイヨシノが開花したというではないか。爛熟した春からじゅんぐりに、初夏の気配が濃くなってきた。

(ナガミヒナゲシが満開だ。半透明の茜色をしたポピーの一種。芥子の花がもつ糜爛(びらん)した悪の雰囲気も感じられる)
織物に名前つけるは自負心を [2015年04月22日(Wed)]

fumihouse-2015-04-22T18_24_56-1-thumbnail2.jpg安来織という絵絣の織物がある。薄い藍鼠の単色で素朴さのなかにも、丁寧できめの細かい木綿織りである。昭和初期に始まったばかりで(既に80年を超えるが)、元々は名はなく、細々と創始者と縁者が続けてこられた。戦後民芸の大家河井寛次郎に『安来織』と名付けられ、棟方志功に絣の原画を授かった。このことによって一族に自負の心が灯されて、永代に技を伝えたいという気持ちが呼び覚まされたのに違いない。

今も代々伝えられて、労働大臣賞、勲六等宝冠章など受賞し、島根の伝統的工芸品に指定されている。あちらこちらで展覧会が開かれ人気も高いということだ。松江歴史館の展示でこのことをわたしは知った。

「名前」というものがもつ不思議な力を感じる。氏名は自己のよりどころである。間違えられるとイヤな気持ちがする。氏名をなかなか憶えられない人は軽蔑したくなる。植物にしても動物にしても鉱物だって、名前を知ることで愛着がわく。名前のない新種のものには名前がつけられて存在が明らかにされる。

名前とは単に呼称ではなく、単に記号ではない。そのものの全てを包含して、そのものの総体でもあり得る。いろいろな名前を知り憶えていきたい。人であっても物であっても。それが名前に敬意をはらうことにつながっていく。

(安来織の薄藍鼠色は、道端に咲くツルニチニチソウのように単調ではあるが、飽きのこない色を出している)
差し出して命をかけて戦えり [2015年04月21日(Tue)]

fumihouse-2015-04-21T18_24_17-1-thumbnail2.jpg選挙とは、命を差し出すものだ。候補者は当然のこと、死に物狂いで戦う。命をかけるつもりで戦う。あなたの一票をください、私を政治の場で戦わせてください、と声を限りに訴えかける。腰掛け程度の軽さで覚悟が見えてこない候補者であれば、有権者は見透かしてそっぽを向く。

投票する側はどうか。投票権は一つしかない。場合によっては複数の候補者や運動員から投票依頼を受ける。悩むこともあるだろう。人間関係のしがらみに、候補者が公約する政策や実績の信頼性に、名前を連呼するウグイス嬢の必死の訴えに。どの名前を書こうかとさんざん迷うこともあるだろう。もしも1人に5票あったならば振り分けられて楽なのに、と思うときもあるかもしれない。それはできない相談だ。棄権もしたくない。だから有権者にとっても、身を引きちぎるようにして差し出すのが一票なのだ。それがシンドイから近頃は投票率が下がっているのかもしれないな。

選挙公約は、いわば効能書きのようなもの。候補者よ! 議員活動をひと区切り行ったのちに、我はかくかくしかじか戦えりと証を立てよ。議会便りを忘れるな、フェイスブックなりブログなりで発信を怠るな。街頭に立て。市民の相談ごとに真摯に耳を傾けよ。そこに庶民の暮らしの本質が明らかになり、政治が目指すべき方向が見えてくる。

知事や県議会議員を決める統一地方選は先週行われたばかりだ。市町村の首長と議員を決める選挙戦がたけなわである。よく働く議員を選ぼう。いい議員になれよ! 当選した者はその時の感激と決意を忘れるな! わたしの友人も目下戦いの最中である。彼はきっと戦ってくれる。当選後にも身を惜しまずに戦ってくれると信じている。

(わが家に咲く月桂樹の花。選挙後も戦い続ける真の勝利者に月桂冠をかぶせてあげたい)
春半ば穀雨のしずく冷たかろ [2015年04月20日(Mon)]

fumihouse-2015-04-20T17_36_09-1-thumbnail2.jpgあちこちで田植えの準備が進んでいる。畑に苗や種を植える時期でもある。必要なのは水。適度な雨がほしいところだ。

穀物の成長を助けるべく雨が降るのが二十四節気の『穀雨』。今日20日がそれにあたる。春の天気は気まぐれで晴れたと思えばたちまち雨となる。適度にお湿り程度であればいいのだが、多すぎる雨は災害をもたらす。「濃く雨」、さらにたたって「酷雨」となっては困りもの。

摘み取ると雨が降ると伝えられるのが、ヒルガオやシロツメクサ、ホタルブクロ、ギボウシなどの花だ。迷信ではあっても、どこかロマンチックで面白い。

中国地方の雨は山場を越えた模様だが、近畿や東海、関東地方では暖かい湿った空気が入り込み、明日にかけて大雨が予想されている。今夕は花を摘むのはやめて、せいぜい写真にとどめておくことにしようか。

(光沢のある黄に輝くカタバミならばいくら摘んでもよろしかろう)
少年よ天賦の才よ踊り出せ [2015年04月19日(Sun)]

fumihouse-2015-04-19T21_17_11-1-thumbnail2.jpgビリーはダンスする。飛び、回り、ステップを踏み、手足を伸ばし、奔放に思うがままに乱舞する。魚のように泳ぎ、鳥のように飛ぶ。チーターのように走り、蜂のように舞う。進化を極めた宇宙人のように自在に彼の小宇宙を旅する。映画『リトル・ダンサー』で11才の少年ビリーはウィルキンソン夫人にバレエの才能を見いだされ、難局の末に開花させた。

天賦の才を与えられたビリーにとって、たとえ父や兄が闘争中の炭坑労働者であろうとも、鉄の女サッチャーが英国病が治癒する過程で痛みを伴う構造改革に大なたをふるっていようとも、母が何らかの理由で死んでいようとも、ボクシングを無理にやらされていようとも、ダンスなんて男のすることじゃないと父が激怒しようとも、婆ちゃんがまだらボケで介護に手がかかろうとも、ほかにどんな障害があったとしても、彼の行く道をふさぐことはできなかっただろう。

ビリーはダンサーとして踊る運命を定められた才能の人だったのだ。頑なに踊ることに反対していた父も、ビリーが踊る姿を見るうちに心が動いた。わたし自身も身体が自然に動いていた。

ビリーは踊る、気持ちを空っぽにして踊る。ビリーは躍動する、演出家の意図以上の表現法で躍動する。才能があふれ出し独創的に踊る。

ビリーのような天賦の才能を持たない凡人はどうしたらいいのか。どうしたらいいのだろうか。才がないのならば人間らしく考えよう。悩もう。思索しよう。頭をひねって思い巡らすことが人間らしいやり方なのだ、と幸せな結末を観ながら思った。

(自在に踊り狂うわけにはいかないが、ブルーベリーの花の微妙なグラデーションにも躍動感を感じる)
四月馬鹿ウソとマコトは皮いちまい [2015年04月18日(Sat)]

fumihouse-2015-04-18T22_26_20-1-thumbnail2.jpg嘘がある。真がある。デタラメな嘘と正真正銘の真実には連続性は全くないように思える。意外にも、両者は連続するような気がしてきた。コメディ映画『エイプリルフールズ』を観たからだ。

誰もが空気のように存在を意識しない真。当たり前のことだと教えられてそう信じてきた真。ふだんは真だと信じているがよく考えれば疑問がわいてくる真。真か嘘かわからなくなる事柄。真だと信じたいが実は反対に嘘であること。誰も信じてはいないが表面上は真とされる嘘。人を幸せにする嘘。人を不幸にする真。嘘から出た真……。嘘と真の間には無限の段階があり、両者には意外な関連がある。

この映画の見始めは、バラバラな物語が独立して展開するオムニバス形式のように思えていたが、違っていた。エイプリルフールの4月1日に巻き起こる各群像の喜悲劇に心が揺れ動く。最後に大団円を迎えて喜びの感情を噛みしめることになる。意外な関連性に気がついて思わずほくそ笑むことにもなる。二転三転四転五転するファンタジーに心ときめき、涙を流し、声を出して笑った。
据わった眼キレて赤いぞ花落ちて [2015年04月17日(Fri)]

fumihouse-2015-04-17T17_46_48-1-thumbnail2.jpgわたしはキレやすい。激情にかられて、モノを壊したり他人を傷つけるわけではない(時折怒りを露わにすることもあるが)。血管が切れやすいのだ。眼の血管だ。白目に赤色が広がり異常なのが一目でわかる。

病名は結膜下出血。白目を覆う結膜下には無数の血管があり、それが破れて出血したものだ。わずかに血がにじむ程度のときもあれば、目の半分くらいを覆うときもある。「どうしたの?」と心配してくれる人もいる。母は疲れがたまってるから体を休めよと助言してくれる。目の色変えてスマホにかじりついたり、目が回るほど忙しかったわけでもない。そもそも病気でもない。

わたしは、眼底出血ではなくて視力が落ちることもない、と言うのだが、充血した状態を超えて血で赤く染まっているのだから、病的に見えて気持ちが悪い。「前世はウサギさんだったのさ」と笑えもせぬジョークで答えている。

出血は自然に吸収されるが、完全に白くなるまで一週間以上はかかる。その間鏡を見るたびに赤い目が顔全体を腫れぼったく見せているような気がしてあまり晴れやかではない。

送られた眼差しに赤い濁りがあれば、目は口ほどにものを言わなくなってしまうだろう。目が曇ることにもなりかねない。目が据わったように錯覚させる効果はあるかもしれないが、せいぜい目を閉じて、睡眠を多めにとり、重要な感覚器官である目を休ませるのが良かろうと思う。

(まだガンバっている桜の花。花びらが落ちた後のガクはわたしの赤目みたいに赤い)
叱られてどぶ川に春思い出す [2015年04月16日(Thu)]

fumihouse-2015-04-16T18_27_25-1-thumbnail2.jpg母は凄い剣幕で怒った。「なにぃやっちょーか!」と。川につかってケラケラ楽しんでいた幼いわたしは飛び上がって川から出た。ほんのせせらぎで、幅は3mほど、深さもほんの30センチしかない小川だった。季節はたぶん春。

幼なじみが遊んでいたのを見つけて、わたしが先に水につかった。泳ごうと誘った。葉っぱを流してピチャピチャと水辺で遊んでいただけだったその子たちも、衝動的に泳ぎ始めたわたしを驚きの目で眺めるうちにその気になった。ついついどぶ川に入り込んで服をだいなしにしたのだ。岸に上がったわたしたちからは、泥水がしたたり落ち、髪も顔もぐちゃぐちゃだった。

母にその後どう叱られたかはよく覚えていない。服を惜しんだのではなかった。田んぼからは農薬が、畑からは肥料として当時は主流だった糞尿が流れ出すような川につかる愚かで危険な所業を母は叱った。子どもたちを心配する母の愛は深く、幼いながらもわたしの心を打った。

今朝出勤途上にその小川を見た。叱られた時のことを思い出した。三面がコンクリートで固められて、その頃の面影はない。清流ではなく、どぶ川には変わりない。下水道につながる家庭が増えたこともあり、汚濁度はあの頃ほどでもあるまい。

若くて精力的だった母も今や老いた。それでも穏やかにそれなりに意欲をもって元気に過ごしてくれていることに感謝する。
愛おしい過去と未来にメトロして [2015年04月15日(Wed)]

fumihouse-2015-04-15T18_42_43-1-thumbnail2.jpg真次とみち子は、共通の父がいる過去へさかのぼった。異母兄妹とは知らずに愛しあい、それを知ったにもかかわらず、みち子は真次に黙って関係を続けた。

映画『地下鉄(メトロ)に乗って』で、真次は過去に行って幾度となく父の生きざまに触れた。軽蔑していた父との間に、過去と現在を超えて抜きがたいつながりを見つけて、今の自分を見直した。自分の人生ってつまらないと思っていたものが、愛おしい存在に思えてくる。それはみち子も同じだった。

「地下鉄は好きなところへ連れて行ってくれるからね」というセリフのままに、真次とみち子は過去を旅する。真次は未来に生きることを決め、死にかけていた父との和解の道を歩む。みち子は未来を捨てて、過去も含めた自己の存在を消す道を歩んだ。そう生きる(生きない)ことを決意したとき、みち子は真次を愛おしさを込めて深く愛し消えた。

原作は何年も前に読んだ。もう一度読みたくなった。仁摩図書館に行った。検索すると文庫版の『地下鉄』は書棚にあることがわかった。ところがない、どこにもない。男性の図書館員に尋ねて一緒に探してもらった。やはりない。あるはずの本が忽然と消えてしまった。消えた過去のように不可思議に文庫本『地下鉄』は姿を消していた。

女性の図書館員が助太刀して探してくれた。本来あるはずの棚にあった。もとからそこにちゃんとあった。忽然と消えたわけではない。なぜ視界から消えて見えなかったのだろう。

過去はどこかに消えてしまって見えないように思えても、実はちゃんと心と命に刻まれているのだ。それを探せるかどうかは、心の眼しだいなんだよ、と教えられた気がした。不注意男の負け惜しみだが…。
乱されて1回使うそれはダメ [2015年04月14日(Tue)]

fumihouse-2015-04-14T18_15_54-1-thumbnail2.jpg≪違法薬物は/1回だけの使用でも/乱用!≫

1回でも「ダメ。ゼッタイ。」と言い切ることが大切な人を守ることになると、パンフレットが若者たちに訴えかけます。たったの1回でも「乱用」。新鮮でした。たった1回くらいどうってことない、試してみてダメなら1回でやめればいい、という考えがどれだけ甘く、深刻な薬物依存を生むかを如実に表しています。

「乱」がつく熟語をあげてみました。乱れ乱して秩序のない状態。むやみやたらで勝手気ままな浅はかさも指します。〔らん〕の音は「舌」でみだれるの意味があり、旁は「乙」で乱れた糸の象形だそうです。

乱雑/乱世/乱心/乱戦/乱丁/乱闘/乱筆/乱暴/乱麻/乱射/乱造/乱読/乱発/乱費/乱用/乱立/乱調子/乱気流

淫乱/混乱/錯乱/散乱/酒乱/戦乱/争乱/騒乱/動乱/内乱/反乱/紊乱/兵乱/波乱

乱の字ばかり眺めていたら、気持ちが乱れるというか、自分の舌が蛇のようにチラチラ揺れて、舌なめずりをしているような気持ち悪さを感じてしまいます。

(仁万田台の田んぼに咲くレンゲソウ。これは乱れてはおらず、可憐さを保っている)
目を閉じて夢は虚空を舞い沈む [2015年04月13日(Mon)]

fumihouse-2015-04-13T21_06_23-1-thumbnail2.jpgわたしは寝たふりをすることができない。真面目だから、ではない。退屈な講義にも必死に食らいついて講者の言わんとするところをくみ取り、資料を一目見ればわかる会議で発言者の発句を丹念に記録するほどの真面目さを、わたしは持たない。つまらん!と思ってこれ見よがしに抗議のつもりで目をつむっていると、本当に眠ってしまうのだ。

わたしにとって眠るのは得意技だ。目をしばらく閉じるだけで、目の疲れがとれ、頭がすっきりし、気分爽快になり、楽しい夢など見たりすれば娯楽の世界にまっしぐら。眠りをいざなうには目を閉じるだけでいい。

ある時わたしは列車の中で眠っていた。正確にいえば寝たつもりはなかった。本を読むのに疲れただけだった。仕事に全力で取り組み、残業はせずに早く帰宅の途についていた明るい時分、読んでいた本を膝に置いた。なにげなく目を閉じたのだろう。ふと気がつくと降りるべき駅を過ぎていた。寝てなどいないつもりだったわたしは、車掌に尋ねた。「さっき駅で停車しましたか?」と。笑止千万の問いだったと思うが、車掌は誠実に「止まりましたよ」と曇りなく答えた(そりゃ当たり前だ)。次の駅で降りたわたしは、幸い数分後に来た反対列車に乗り込むことができた。本数が少なくて接続の悪い山陰線も、こんな接続は便利だなと思ったものだ。

ある時わたしは地下鉄内で眠っていた。寝てはいけないと思っていた。もう20年も前にイギリス旅行をしたときのこと。ロンドンから乗り込んで目的地の当てもなくノホホンと車内の空気を楽しんでいた。旅の疲れが出たのだろう。外国にいてしかも電車内でスキを見せてはならないとは思っていたが、心地よい揺れに居眠りした。ふと目を覚ますと電車は地上を走っていた。しかも終点らしい。次々と客が降りて残されたのはわたし一人。外には「Wimbledon Station」の表示。そうかテニスの聖地、ここがウィンブルドンなのだなと、ぼやけた頭で感激したことがあった。ホントに無事で良かった。

ともあれ、少々眠りこけていても安全なのが日本のよいところ(例外はなるが)。すばらしい日本の安全に乾杯しよう。

(眠りこけて夢に見たかもしれない木蓮の花。清純な感じのハクモクレンと違って手練手管の大人のイメージだ)
春紅葉百花繚乱一見を [2015年04月12日(Sun)]

fumihouse-2015-04-12T12_17_32-1-thumbnail2.jpg色があふれ出ています。花が咲き乱れています。桜が満開となってハラハラと散る、それを惜しんでいるうちに、あれよという間に百花繚乱の季節となっています。木々も萌えいずる春を享受しています。溢れる色に暖色系はやはり多いですね。

桃色、桜色、薄桜、桜鼠、虹色、珊瑚色、薄紅、淡紅藤、鴇色、撫子色、小豆色、枯茶、駱駝色、黄唐茶、山吹茶、芥子色、胡桃色、桑茶、樺色、鶯茶、琥珀色、黄土色、狐色、緑黄色、蒲公英色、黄色、菜の花色、向日葵色、山吹色、卵色、鶯色、抹茶色、若草色、黄緑、若苗色、青丹、苔色、草色、深緑、鉄色、赤茶、煉瓦色、赤紫、薔薇色、韓紅、茶色、柿渋色、臙脂、茜色、紅海老茶、橙色、赤橙、黄茶、茄子紺、京紫、若紫、紅紫、菖蒲色、紫水晶、藤鼠

寒色系だって負けてはいません。

山鳩色、藍鼠、暁鼠、霞色、薄柿、菜種油色、青藤色、薄花色、空色、藤色、薄萌葱、萌葱色、翡翠色、青緑、薄緑、若緑、浅緑、水浅葱、菫色、江戸紫、青紫、本紫、葡萄色、水色、白菫色、藍白、薄雲鼠、象牙色、卯の花色

色名は『日本の伝統色 和色大辞典』より http://www.colordic.org/w/

花々や個々の木だけではありません。山を見てください。山の上の方には桜が頑張って残っており、象牙色の染みが点々としています。木ごとに新緑の状態が違い、茶系、青緑系、白系に染まり具合が様々です。微妙なグラデーションで、山はまさに「春紅葉」の季節を迎えています。

(私にとって百花繚乱はこの花の満開をもって完成する。躑躅(ツツジ)という髑髏(ドクロ)と見まがう漢字のその花々は、まさに華々しい。先週初めはまだ蕾)
やめますかスマホを取るか学力か [2015年04月11日(Sat)]

fumihouse-2015-04-11T22_12_34-1-thumbnail2.jpg信州大学の学長が入学式で行った式辞が話題になりました。「スマホやめるか、大学やめるか?」と二者択一を強要するのは無体だと非難された向きがあります。全文を読んで意図を考えてみました。

山沢学長は、正解のある問題を解くことに終始してきた受験勉強から転じて、これからは正解のない問題を解くために知識の質とスピードを問われることになる。自分で考えることを徹底的に習慣づけてほしいと説きます。

また、学力も独創性も高いと評される信州大生だが、卒業すれば自動的にそうなるのではない。ゆったりと時間の流れが遅い、都会の喧騒から離れた信大という最適な環境でもって知的に考える訓練をするからこそできるのだと。

そこからが問題のところです。

ところが、昨今はモノやサービスが溢れ始めた。代表例が携帯電話。無為に時間を潰せるスマホ依存というものは、知性や個性、独創性を育てるには毒だと切り捨てるのです。だから、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と警鐘を鳴らし、「スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます」と訓示するのです。強い強い願いなのです。

ネットは便利です。何でも検索できます。誰とでも繋がれます。すべてに正解が用意されているように錯覚もしてしまいます。しかし、その行く末には考えて行動する独創力は期待できないことを、スマホに象徴させながら、かの学長は熱く訴えかけたのでした。

(健やかに凛々しく泳ぐ鯉のぼりの群。斐川チューリップ祭りでの夕方のひととき)
マスクには自尊感情遠ざけて [2015年04月10日(Fri)]

fumihouse-2015-04-10T20_34_02-1-thumbnail2.jpgマスクを何のために着けるのでしょうか。もちろん、エチケットとして咳が出るときマスクをするのは常識です(常識であってほしいのが本音)。花粉や黄砂で霞む日に防御のためにマスクをすることも多くなってきました(サージカルマスクでは、実は気休め程度でしかないの)。

それ以外の目的でマスクをする者が増えてきたのはもはや周知の事実ですが、全国高校生生活・意識調査(全国高等学校PTA連合会が26年度に実施。客体7200人)によってますます明白にされました。

マスクに関する質問はこうです。
「花粉症やインフルエンザなどの病気や病気予防の目的以外で、マスクをすることがありますか?」

「ある」と答えたのが、男子で14.3%、女子では58.3%もあります。理由は次のとおりです(男子、女子の順)。回答させるほうもなかなかの心理学者といえるでしょう。

 @安心するから  5.1% 12.1%
 A表情を人に見せたくないから  1.7% 5.6%
 Bみんなが使っているから  0.6% 0.7%
 C肌荒れを隠したいから  1.7% 10.8%
 Dファッションだから  0.4% 0.3%
 E自分の存在を消したいから  0.4% 0.1%

C以外は精神的な理由であることに驚きます。少ないながらも、Eとまで考える高校生がいるとは可哀想になります。ここまで彼らを追い詰めるものは何なのでしょうか。

この調査は、自尊感(self esteem)についても尋ねています。「全体的に、自分自身に満足していますか?」(男子、女子の順)。

 とてもそう思う  9.6% 4.6%
 そう思う  38.0% 32.6%
 そう思わない  39.0% 46.8%
 まったくそう思わない  12.7% 15.5%

男の子は5割以上、女の子は6割以上が不満を強く抱いているのです。青少年に自信をもって自分は自分、ありのままでいいんだ。他人と比べなくても自身の努力を誇らしく思えるようになってもらうにはどうしたらいいのでしょうか。

(仁摩駅の近くにある民家の庭先に咲くミツバツツジ。個性のままに咲いている)
メロディは聖なる恋のダニエルと [2015年04月09日(Thu)]

fumihouse-2015-04-09T19_11_38-1-thumbnail2.jpgわたしの名前はメロディ。ダニエルに愛されている、今も昔も。彼ったら、あたしを一目見て心奪われた。まだ11才のときよ。人づてにわたしは彼の気持ちを知ったのだけど、恥ずかしいのやら、嫌悪感をもつのやら、その時はわからなかった。一途な彼の気持ちが伝わったのかしら。わたしも彼に首ったけ……。あっイヤだっ、でもそうなのよ! わたしと彼は相思相愛、燃えあがったわ。人目がなくなると手をつなぐ。彼のプロポーズは今思えば可笑しいわね。「もう一週間も愛してる」だもの。

ダニエルとわたしは『小さな恋のメロディ』。小さな、というには11才は年を取り過ぎていたかもしれないけれど、ビージーズが歌う『メロディ・フェア』とあいまって日本では大ヒットした。でもわたしの国イングランドではそれほどでもない。ただの『Melody』じゃあ、わたしの名前をなぞるだけですものね。その点日本の邦訳者は賢かったわ。歌のメロディ、そしてわたしがメロディ。二つを掛け言葉で結んでいるんですもの。さすがよね。

わたし、大学で日本文学を専攻したの。島崎藤村の『初恋』を勉強したわ。彼への気持ちがますます深まっていくのを感じたわ。

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

恋した11才の二人は林檎を分け合って食べた。他人の口に触れた物なんて食べられないなんて考えてもみなかったわ。ごく自然に彼の口からわたしの手へ。わたしの唇に、彼が口に含んだ温かい果実が触れる。画面には出なかったけれど、実はあの時わたしたちはキスのまねごともしてたのよ。藤村の女の人はもう少し自制心があったようだけれど……。

ダニエルは見る間に成長していったわ。オドオドして子供っぽかった彼が、権威で怒るばかりのあの石頭校長に、結婚すると言い放ったんですもの。わたしだって彼に強く同意してたの。嬉しかったわ。

ねえ? 名画『禁じられた遊び』に使われているモチーフの墓場。ダニエルとわたしのデートの場が墓場だったことと何か縁があると思いません? パブリックスクールの教師たちが許さなかった結婚という儀式だって、「遊び」ととらえてみると二つの映画がつながるようには思えないかしら? わたしたちは大人の階段をのぼる時に、偉ぶった大人をギャフンと言わせたかったのね、たぶん。

美少年だったダニエル。20年たった今もいい男よ。わたしだってまだ十分綺麗だと思う。わたしたち、二人の子供にも恵まれて幸せよ。「小さな恋」は「大きな愛」にかわったけれど、わたしたちずっと恋していきたいと思ってるの。

それとね、オーンショーは悪友だったでしょ? 映画では学校をサボって海で遊んだことで、彼にしつこく絡んだじゃない。ダニエルと殴り合いのケンカをしたよね。でもあれがあったからこそ、オーンショーは、わたしたちの思いを果たしてやりたいって考えたの。だから冷やかだった女の子のグループに掛け合って結婚式を実現しようと熱く語ってくれたらしいの。男の子たちにもよ。パブリックスクールの教師なんてクソ食らえってね。

友だちの輪からも二人は孤立して、寂しく思いかけていたわたしたち、本当に助けられたわ。オーンショーは今もステキな親友です。

(島崎藤村の初恋の女の子が着けてたかもしれない帯よ。これって日本の美よね)
学校に新たな春よやってくる [2015年04月08日(Wed)]

fumihouse-2015-04-08T18_15_41-1-thumbnail2.jpg生徒がもどってきた。学校は華やかだ。廊下に歓声が満ちる。満開の桜のようにニコニコした顔が見える。二週間ほどの春休みが終わった学校に光がさした。

進級した3年生と2年生はクラス替えがある。学級担任や学年主任が始業式の際に発表される。あちらこちらで拍手や歓声が上がる。メンバーがすっかり入れ替えられたクラスでどんな学生生活となるのか、不安な気持ちをもつ者もいよう。それでも十代後半の春は始まった。賽は投げられた。

桜は盛りを終えてしまったけれども、明日は入学式。新鮮に1年生が加わる。にぎやかになるぞ! 楽しくなれよ! 諸君にとってステキな一年となりますように。

(邇摩高校の庭に咲いている白い桃の花。あまりに純白で咲いていることに気がつかないほどだ。それでも厳然と凛々しく咲いている)
働けよ議員は選挙のあとに行く [2015年04月07日(Tue)]

fumihouse-2015-04-07T18_27_11-1-thumbnail2.jpg この一票 私のために、
   ミライのために。

JRの駅にポスターがある。シンガーソングライターの六子さんが赤ちゃんを抱いて(たぶん本人の子供さん)、次の日曜日に迫る知事選と県会議員選挙の投票を呼びかけている。

それほど関心を呼んでいるようには思えない。争点が見えない? 候補者に魅力がない? 誰がやっても同じ? どうせ順当に当選者は決まるのだろ? 自分が投票したところで物事は動かない・・・と思っている人が多いのではないだろうか。

県の予算を議決するのは議会だが、知事をトップとする執行部が予算案を提出したらシャンシャンと儀式的にすんなり予算が通っていくように思えるかもしれない。だから議員などお飾りだと考えるのもムリはない。

選挙にいって投票する意味がますますなくなるように思えるかもしれない。しかし議会に執行部が予算を承認してもらうためにどれだけ労力を使うか、考えてみてほしい。大胆にメリハリをつけて目玉を重点化する。過去との整合性をとり、未来への展望も開けるような希望を盛り込む。間違いがないように何十にもチェックをかけて齟齬をきたさないように勢力を傾ける。もちろん政策をすすめるにあたっては多くの人の意見に耳を傾けて修正も加える。

そうした努力の頂点に議員はいる。いい議員は目が肥えている。ホシを逃さずつかまえて問題点の所在をゆるがせにしない。議会が開会されるごとに的確に質問をして執行部に無制限なフリーハンドを与えない。

いい議員はほんとうによく働くのである。もちろん、いい議員もいればそうでないのもいる。自分の目と心で判定するのが選挙なのだ。判定が正しかったのか間違っていたのかを判断するためにも、投票して終わりにしてはいけない。毎議会の動向はネットでも十分判断材料がある。続けて弛まず検証していくことが、いい議員を育てていく。そのためにもまずは選挙という人気投票に参加しようではないか。

ところで、ポスターの「ミライのために。」という文字。わたしには「ミイラ」に見えて気持ち悪いのだが…。

(美味しそうな林檎でも食べてみないと本当の味はわからない)
水落ちて溺れる間もなく母の愛 [2015年04月06日(Mon)]

fumihouse-2015-04-06T17_48_40-1-thumbnail2.jpg空が見えた。水の底から見えた。日の光がきらめいていたが、ボクは溺れそうだった。たすけて、おかあちゃん……、と助けを求めた。やがてボクは体ごと抱きかかえられて水から上げられた。地上に立つと張りつめた気持ちがゆるんで、幼いボクはベソをかいた。ほんの一瞬だったことだろう。でも水に落ちた時間は長く感じられた。

何歳の時のことかは分からない。朝だったのか昼だったのかも覚えていない。明るい時分であったことは確かだ。わたしの原初の記憶(大袈裟過ぎだが)である。

ほんのせせらぎにできた小さな淵。三面をコンクリートで固められることなく、今も当時の面影を残す。深さは50センチもない。しかしボクにとっては深甚の恐ろしい深みであったのだ。そして温かい母の愛に守られたひとときだった。幼いボクは幸せだった。
アンパンマン正義貫く勇気あり [2015年04月05日(Sun)]

fumihouse-2015-04-05T22_27_15-1-thumbnail2.jpgハリーポッターが世界屈指のファンタジーであることは誰にも納得できる。ただし、悪の側の描かれ方に不満が残る。いくら悪者でも100%悪ということはありえない。善の側ハリーが自分には悪の要素があると知り葛藤することが描かれるので、物語に深みが出ている。それだけに惜しいと思う。

その点、ばいきんまんやドキンちゃんは興味深い。技術の限りを尽くして悪を実行し、誰もをいじめ、殺そうとし、無体なわがままを通そうとする。しかし、ばいきんまんは恋した女の子には弱く、ドキンちゃんはしょくぱんまんにはメロメロである。子どもたちに長らく好まれているのも、身も心もまっ黒けではないところが多分にあると思う。

(ばい菌がいろいろあることが)≪健康な社会なんですね。ばい菌が絶滅すると、人間も絶滅する。絶えず両方が拮抗して戦っているというのが健康なんです。何人かは負けて死んでいくけれど、それも仕方がないんだよね、たとえ人間が善人ばかりだとしても、増えすぎちゃダメなんです。気の毒だけどそうなんです。誰一人死なないとなると、バランスが崩れて大変なことになる。≫
 (やなせたかし『わたしが正義について語るなら』2013年,ポプラ社)

アンパンマンは圧倒的に強いヒーローではない。顔が濡れたら力が出ないし、お腹がすいた人に顔を食べさせてパワーを失う。やなせ氏が「傷つくことなしには正義は行えない」と本書で述べたとおり、愛をもって献身し自分を傷つける。それこそ「逆転しない正義」だと氏は説く。

正義を貫くことは難しい。それ以上に難しいのは、正義はいつの間にか独善となり人を傷つける罠となってしまうことなのだ。
人情け身重の妻に天と地に [2015年04月04日(Sat)]

fumihouse-2015-04-04T19_55_35-1-thumbnail2.jpg東京に暮らしているころだった。妻は身重でお腹が目立ってきていた。電車に乗って二人で出かけた時のことである。用を済ませて帰る頃、妻は疲れてしまってツラそうだった。

電車は混んでいて座る余地はなかった。妻の顔を見たのか、それともお腹を見てのことかは知らないが、私の前に座っていた中年男性が立ち上がって席を空けてくれた。私がどうも……と礼を言うやいなや、50才代とおぼしきオバサンがスルッと空いた席を占領した。あまりの早技に声も出なかった。

どうやら私の右隣に立っていたオバハンだった。オバハンの顔には勝ち誇ったかのような微笑みがあった。上目遣いにこちらを探る様子でもあれば、「妊婦に譲られたものを横取りするなんて…」と抗議したかもしれないが、さすがは都会人、洗練された歴戦のオバハンらしく涼しい顔で座っていた。

「大丈夫?」 妻は「大丈夫よ」と答えたものの、男性からの好意を悪意で蹴散らされたあとのことだ。わたしたちは苦笑して「仕方ないね」とあきらめた。あの頃は若かった。今なら皮肉のひとつでも言ってやったと思うのに。

「世の中にはいい人もいれば、悪意の人もいるもんだねえ」と、聞こえよがしに言ってやりたかった。あのオバハンはどんな人生を送ったのだろうか。人の弱みにつけこんで自分の利益を優先する人なのだから、他人と喜び分かち合い、悲しみに対しては励ましを送る善意の人生ではなかったことだろう。

(飛天という名をつけられた椿。白地に赤い絵の具を細かく飛ばしたかのような切れ味がある。出雲村田製作所の椿祭りにて)
雨風がサクラ満開せめぎ合い [2015年04月03日(Fri)]

fumihouse-2015-04-03T18_04_14-1-thumbnail2.jpg満開の桜は人の心を動かす。力みなぎるエネルギッシュな人は、しばしの休息を楽しんだあとは再び闘争心をもって難局に立ち向かうだろう。少し疲れた人ならば、淡い桜色がブルーの空に浮かぶさまを見て心を和ますことだろう。失意に沈む人がふと上目遣いで桜に気がつけば、春もまんざら悪くないと思い直してくれるかもしれない。そんな暖かい春にはサクラに加えて温かい人の心に触れられたら、きっと心が動いていくにちがいない。

≪心は心を動かす。しかし、言葉や行動にしなければ、心は届かない。照れくさがらず、臆病にならず、言葉にする勇気、ちょっと手を差し伸べる勇気。そこに温かい友情が通い、「励まし社会」の扉が開かれていく≫ (聖教新聞4月2日付け「名字の言」)

人の心は鈍いもの。傷つく者の心に気がつけない。いとも簡単に何気ない言葉で追い討ちをかける。反対に慎重な一言で弱った者を励ますこともできる。その一言は勇気の励ましだ。

昨日満開を迎えたサクラを愛でつつも私たちが日々を暮らすのは人が生きる社会だ。人が傷ついて倒れるのも、励まされて再び立ち上がるのもこの社会。サクラを鑑賞し感傷にひたることがあったとしても、励ましの言葉を交わしあうことが主流となる社会であってほしい。

(仁摩小学校に咲くソメイヨシノ。暖かい昨日はあれよという間に満開となり目を楽しませてくれた。桜花爛漫の幸せな夕刻だった)
サクラがね咲いた咲いたと喜んで [2015年04月02日(Thu)]

fumihouse-2015-04-02T18_25_40-1-thumbnail2.jpg咲いた咲いたよ桜が咲いた
風に吹かれて桜花が揺れる
花芽ふくらみパラボラの花
わずか一週あれよの速さで
薄い小山があちらこちらに
桃色に染みて点々山彩りて
春の陽気に人々が誘われて
花の妖気に狂うがごとくに
咲いた咲いたとことん喜び
散り始めるとああ寂しいな
桜に心奪われ虜になってる
そのうち春は百花繚乱へと
盛りて息吹がことんことん
赤紫に黄色に青や橙色にて
夏に向かって草木が吠える
人皆季節を楽しみ乱舞する
春よ逃げるなここ留まれと
望んでみても無理なことよ
自然のままに今を楽しめや

(邇摩高校の農場に咲く白桃の花。花桃と違ってピンク色が淡い。やがておいしい桃が実っていく)
箱根路がなんと変わるよエイプリル [2015年04月01日(Wed)]

fumihouse-2015-04-01T07_53_57-1-thumbnail2.jpg箱根駅伝が変わる。関東学生陸上競技連盟は2016年の箱根駅伝の開催方法を大幅に変更すると発表した。選手は基本的に走路を車道ではなく、歩道で競うというのだ。歩道がない場所では車道の半分を競争路専用として区切る。

連盟の決断を促した要因は、沿道の応援者のマナーにある。あまりにも悪すぎる。応援の域を超えて悪乗り状態にあり、連盟はこうした目立ちたがり屋の秩序破壊群を根絶したいと語った。歩道を疾走して歩行者に害をなす無法自転車を閉め出すねらいもある。

箱根駅伝の人気が過熱すればするほど、選手を少しでも間近で見たい、いいアングルで写真を撮影したい。さらには体に触りたいと考える輩が増えている。「道路に出ないでください」「歩道に上がってください」といくらアナウンスしても聞く耳もたずという連中、車道に堂々と入り込み脚立を据える連中、前日から場所取りのため歩道の一部を占拠する連中。それらに業を煮やしたのだ。

関係先とも協議した結果、苦渋の決断となった。テレビ中継に影響を及ぼすのはもちろんのこと、商店街の売り上げダウンは必至。警察の警備体制に大幅な変更あるのは当然として、沿道の良心的なファンが観戦しにくくなるのは申しわけないことだ。

何よりもランナーがあの狭い歩道を走るのか!ということに関しては議論が百出した。インコーナーを走りたいのに車道にはみ出す観戦者が邪魔になって走れないことがあるのに、さらに狭い歩道を走らすのは危険過ぎる、条件が悪すぎるという正論がある。しかし、今後も無法者たちによるヒドい状況が続くと、警察の道路使用許可が下りない可能性があることも考えると、歩道を走路にすることを決断せざるをえなかった。

交通安全の一般論として、歩行者の安全を守るため歩道の有効性を再認識し箱根から交通事故撲滅の願いを発信すれば、警察本部の理解を得やすいと判断したこともあったようだ。なお、歩道の段差や傾斜が走行に差し支えることに関しては、緩衝材などで対処することになる。今後さらに不安や不満の声が上がるのは織り込み済みだが、連盟ではこの方針を貫くという。

(ウソのような暖かい快晴が数日続いたが、4月1日の今日は暖かい雨となった。サクラは一気に開いたが、レンギョウの鮮やかな黄色もなかなかのもの)