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乱されて花の群にて人狂う [2015年03月31日(Tue)]

fumihouse-2015-03-31T18_33_10-1-thumbnail2.jpg桜は心を乱す花、ひとを狂わす春の精。淡くてはかない薄桃色が、群をなしてや躍りだす。見るひと皆をたぎらせて、狂うそばから散っていく。花の吹雪は潔い、物の怪の影そこはかにあり・・・。

坂口安吾の『桜の森の満開の下』で、主人公の山賊は夢かとばかり輝く美女を略奪し妻とした。女に望まれるままに他人の財と命を奪いつづける。多くの生首コレクションを並べて、女は首遊びを楽しむという怖ろしい物語。桜の妖気がなせるわざであった。桜の精そのものが山賊を狂わせた。

≪だんだん歩くうちに気が変になり、前も後も右も左も、どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖しさに盲滅法たまらなくなるのでした。
(中略)ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。≫

春は浮き立つ季節。木々や草が芽吹き、百花繚乱の舞台に誰しもが歌いだす。一方で憂き季節。新たな出会いはストレッサーとなってひとを悩まし、花粉症に目や鼻をやられ、思いがけず強い紫外線は美容の敵だ。心身の不調によって「一つのなまあたたかな何物かを感じ」、それが「自身の胸の悲しみであることに気がつ」いて、ひとはたじろぐ。春は憂きもの悪きもの、同時に楽しく弾むもの。桜は二律背反、ひと狂わせて、ひと喜ばす。

(竜のようにのた打つユキヤナギの花。目立たないけれど百花繚乱の季節の代表格だ)
さまざまの事おもひ出す桜かな(芭蕉) [2015年03月30日(Mon)]

fumihouse-2015-03-30T18_36_02-1-thumbnail2.jpg桜の季節に一年たったことを思う。卒業があり、入学式を決意新たに迎え、新しい友と出会い、教科書を開く。仕事に就き、名刺交換の仕方を覚えて、先輩に連れられては赤提灯をくぐる。歳月を経るごとに春の思い出は積み重なっていく。改まった一年は正月に迎えるとしても、うららかな春とともにやってくる新年度の新鮮なこと。春といえども酸いこともある。それも含めて絶品の味わいが春にはある。芭蕉の句「さまざまの事おもひ出す桜かな」は言い得て妙である。

桜の咲き誇る春になると誰しも感傷的になり(もの想う秋以上に)、さまざまに想い出す。春風駘蕩、のんびりと日だまりにたたずんで穏やかに過ごすばかりでなく、春の息吹きに人間は燃えだすものだ。

 春霞たなびく山の桜花
    見れどもあかぬ君にもあるかな  紀友則

「あなたをいくら見ても飽きない」と。恋の季節だなあ。だから心は千々に乱れて狂おしい。眺めるだけではなく恋仲の二人になりたいと、業平も念じていたのではないだろうか。

 世中に絶えて桜のなかりせば
    春の心はのどけからまし  在原業平

桜は単に桜ではない。万朶と春の空を染める桜のように美しいあなたの心をものにしたい。桜がなければ春に心乱されないのと同じように、あなたがいらっしゃらなかったなら、私はさぞや穏やかな春を迎えられるのに。と、まったくもって勝手な解釈……。

(花桃は満開。ピンクが夕陽に映えて艶やかで楽しげで煌びやか)
爛漫の春は完成桜咲け [2015年03月29日(Sun)]

fumihouse-2015-03-29T19_02_54-1-thumbnail2.jpg「桜花爛漫」は春の完成形です。色とりどりの新緑が春紅葉といわれる時分も春ですし、まぶしい初夏の太陽で日焼けが気になる頃も春そのものなのですが、花冷えで寒さを感じはしても私には桜花の頃がもっとも完成された春に思えるのです。

桜、特にソメイヨシノが万朶と咲き誇る時季に人は夢中になります。狂うといってもいいでしょう。つぼみが膨らんだといっては話題にのぼらせ、三輪四輪と開けば気象台が開花宣言を出します。三分咲きだ五分だといっては花に目がいきます。満開になれば花の下にくり出し興じ、人によっては狂喜乱舞する。散り始めた桜を惜しみ、葉が芽を出して花のない木を見ては残映に寂しさを思う。桜の頃に私たちは心穏やかではいられないのです。

梅もまた初春を告げはしますが、艶やかさには欠けます。白梅は3月の曇り空にあって灯をともしたように清楚に輝き、紅梅は華やかに濃艶な色香を散らします。鼻を近づければほのかな香りは漂っても、ピリリと冷たい空気に揺れる梅はつつましい春なのです。杏にしても桃にしても、もちろん梅も直線に咲きます。枝がまっすぐ伸びて周囲に花が咲く。花が線上に咲いて、その線を集めると花は面になります。

一方でソメイヨシノは違うのです。枝分かれが多くて曲線的に花が咲く。しかも花の量がとても多く、幹にまで花が咲く。したがって、面から立体になって圧倒的な質量となり見る者をクラクラさせるのです。まるで地面を持ち上げるかのように躍る花の姿に強い衝撃を受けます。一見静かであっても桜のエネルギーは私たちを高揚させます。私たちは狂います。だから私にとって、桜花爛漫は春の完成形なのです。

ちょうど桜の咲く頃は入学式や入社式の頃です。新年度も始まって一年がまた始まった、と決意に満ちる頃でもあります。そのドキドキ感に加えて桜が私たちを高揚させてくれます。松江、出雲でもソメイヨシノが咲きました。さあ、花に狂うとしますかね。

(写真は「サクラ」と名付けられたアメリカ産の椿。出雲村田製作所に植えられた千種類もの椿の花の一つです)
飛行機と雲雀下弦に春の風 [2015年03月28日(Sat)]

fumihouse-2015-03-28T17_56_03-1-thumbnail2.jpg飛行機は雲雀よりも大きい。何千万倍も大きくて重い。飛び立つジェット機の轟音はさらに巨大だ。羽田便が行ったあとに雲雀の声が蘇った。なくなったものが再び現れたわけではない。彼らはずっとそこにいて鳴いていた。ただ飛行機の音が大きすぎたのだ。

雲雀の姿は見えない。高いところで鳴いている。位置はかえずに鳴いている。青空に目を凝らす。あっ、見つけた! 何十メートルもの高さに上って澄んだ声を響かせる。

ふと目をそらしたら、空に溶け込んで見えなくなった。雲雀をのみ込む巨大な空だ。けれども雲雀は春を歌い、つがいをつくり、次世代を育む歌をうたう。春って、いいなあぁぁ。

(写真は今日昼の空、出雲縁結び空港のそば。半月を一日過ぎた下弦の月と飛行機雲)
吹きおりた砂で季節を感じいる [2015年03月27日(Fri)]

fumihouse-2015-03-27T18_49_09-1-thumbnail2.jpg  今はもう砂吹きおりて薄日さし
     かなたも見えぬ春のおとずれ

私が高校2年生のとき、現代国語の時間につくった短歌だ。生まれて初めて形にした五七五七七である。H先生の授業だった。桜花爛漫の時季を過ぎたころの課題として出たのが短歌づくり。霞でぼやっと太陽が見えていたと思う。「黄砂現象起こりしに詠める」などと添え書きまで入れた。

皆がつくった歌を書き出して人気投票をしたら、思いがけずこの歌が一番人気を博した。私は喜んで、何十年たっても未だに忘れないでいる。

H先生にはお世話になった。経緯は忘れたが、文章の添削を長い間やっていただいた。岩波新書の名著『論文の書き方』(清水幾太郎著)を題材にした。見出しが入った区切りごとに500字以内で要約する。それに先生が赤ペンを入れてコメント付きで返すという往来をくりかえしたのだ。いつも出した日に返していただくスピード返答だったと思う。最後までは到達しなかったが、半分以上は要約し終えて思い出深い。

赤が入らずに「Good!」のこともあったが、滅多になかった。原文に忠実なまま不自然に圧縮したところを的確な語彙でサラリと表現してくださったり、説明の構成順を替えてみるなど、先生の添削ぶりは言葉の魔術師に見えて毎回が驚きの連続だった。思うにまかせぬときもあったが、とても素晴らしい体験をさせていただいたことに感謝している。

もう十年前にひょんなきっかけから再会してから年賀状のやりとりが続いているのはとても嬉しい。ゆっくりと語り合う機会をもてたらもっと嬉しい。とてもステキな先生だ。

(昨日と同じく邇摩高校の葉牡丹の花芽。白い葉牡丹は優雅さには欠けるが早く花よ咲け)
窮したら遅れてるわと断定し [2015年03月26日(Thu)]

fumihouse-2015-03-26T18_19_17-1-thumbnail2.jpgわたしは母とともに面接の場にいた。小学校入学前に学校へ行った時の出来事だった。入学準備にあわせて、知能兼性格テストをするための面談だったのかもしれない。

女の教師がわたしに質問した。何を質問されたかは忘れた。緊張していたのか、聞き取れなかった。教師は同じことをくりかえした。わたしには理解できなかった。どう反応してよいかわからない。緊張が高まる。言葉は出ない。

教師は言った。この子は遅れがあるかもしれないね…。隣に母はいたのだろうか。いたとすれば多分くってかかったと思うから、離れた場所にいたのだろう。面談は終わった。どうなったのか、前後のことは全く記憶にないが、イヤな気分だけは残っている。

その教師は3年生でわたしの担任となった。やはり波長が合わなかった。ずけずけと厳しい指摘を連発する人だった。質問してもツッケンドンで鼻であしらうようなところがあった。親たちにはなぜか人気があった。

幼いわたしのあやふやな記憶と不快な体験。今のわたしにどんな影響を及ぼしているのだろうか。多分なにもない。ただあっただけのことだ。

(邇摩高校の中庭に植わっている葉牡丹。この二週間ぐんぐん伸びて花芽をつけた。桜が咲く頃に地味に咲く菜の花の一種となるだろう)
混同しルールとマナーに学ぶべし [2015年03月25日(Wed)]

fumihouse-2015-03-25T18_55_28-1-thumbnail2.jpg私たちは、ルールとマナーを混同してしまいがちだ。

ルールとは、社会の規則であり、会の構成員が守るべき会則だ。また裁判所の命令、法律そのものもルールである。強制力をもって従わせる仕組みだから、守らない者を罰する厳格さをもつ。

一方でマナーは、行儀作法であり洗練された流儀や物腰をさす。強制的に押しつける筋合いのものではない。できればやったほうがいいよ、好感をもたれるよ、気持ちがいいよ、と言える程度のことであろう。「マナー違反」という言葉が使われるが、筋が違うというものだ。守るべき社会の規範を守れない輩に対し、強い調子で非難の矢を浴びせれば、それはルール違反をとがめることだ。

ルールに関して、時と場合によって、叱られたり叱られなかったり、罰したり罰しなかったりでは規律は保てない。規範を守ろうとする意志がだんだん弱くなっていく。

例えば交通法規を考えてみよう。こんな広い道で制限速度が40キロはないだろー、と感じる場合に人は自ずとスピードを出す。50キロならいいだろう、やがて60キロでも問題ない、と判断するようになり40キロ少々で走るドライバーをけなしだす。ところがある時ネズミとりに引っかかって、20キロオーバーの違反切符を切られて身の不運を嘆くのだ。

当局は事故の実態や道路状況を考えて厳しめに制限速度を設定するのだが、上のようなことになってしまう。いつもいつも違反摘発をするわけではないから、運転者はどんどん判断を甘くしてしまって、かえって危険な速度まで自分の基準を緩めてしまうのだ。本来は危険防止が目的だったはずが、運不運の問題にすり替えられてしまう。交通ルールはマナーにまでレベルが落ちてしまうのだ。

速度制限は甘いところギリギリまでのところにして、その速度を超えた場合は即摘発としていけば、交通法規というルールをきっちり守る態度が生まれてきやしないかと思うのである。

ルールはルールとして厳格に。マナーは気持ちよく生活できるように意識の啓蒙を図る。そんな社会政策が必要だ。
片付いた思う端から崩れてく [2015年03月24日(Tue)]

fumihouse-2015-03-24T21_16_48-1-thumbnail2.jpg生活研究家の阿部絢子氏によれば、身の回りを片付けることは、人生の棚卸しをした上で今後の人生を仕込むことに等しいという(聖教新聞3月24日付け『賢く老いるための「片付け力」』)。

氏は片付けを判断する際の基準を5つ示し、このうち2つが当てはまれば、捨てたり人にあげたりすべきであると。

 @5年以上使用していない
 A何年も使用してデザインや機能が古くなった
 B修理すれば使えるけれど費用がかかる
 C存在すら忘れていた
 D未練や物語のない思い出の品

生活スペースが広いほど、物は増え続け片付けは進まない。場所が広いと気がゆるんでしまうからだ。物の定位置が定まらず、スペースに余裕が消えカオス状態に陥る。僕の身の回りはすぐにそうなる。わかっちゃいるけど、とりあえず置いておこう、暇なときに処分しようと思っても、片付いたためしがない。ゴミ同然の物が何十年もそこにあったような自然さで存在を主張する。

氏は、≪@使いたいモノがどこにあるのかすく分かるA取り出す時間がかからないB少ないモノで間に合うC戻しやすい場所にしまう≫という「すっきりサイクル」で暮らしている。うらやましい。氏の言われる「片付け力」を僕もつけていきたいと思うが、思うだけでは願望のまま終わるだろう。
春夕べ太陽ポテンと海にいき [2015年03月23日(Mon)]

fumihouse-2015-03-23T18_44_56-1-thumbnail2.jpg夕日がポテンと海に沈んだ。
夕刻が迫るにつれてプカプカ浮いた雲が消えていく。
石見・大田市から出雲に向かう。
切り立った崖っぷちを鈍行列車が走るころには雲一つなし。
樹間を抜けて隔てるもののない水平線が見えたとき
太陽は海にまっしぐらに落ちていく。
水平線上に靄や霞はない。
海はそのまま太陽を受け止めた。
同時に太陽はしもぶくれのお多福面のように変化する。
あれあれ言う間に縮んでいって
木とトンネルに阻まれているうちに
海にお隠れ瞬間は見られなかった。
太陽が消えたあとには何事もなかったかのように
澄んだ茜色のグラデーションが鮮やかだった。
針のような月が見える。
鋭いナイフを鋭角にかざして勇者が戦うのか。
まあよしておこう。
勇者は必ずしも正義にあらず。
正義と悪徳は相半ばする。
低気圧があって北日本は冬型になっている模様。
幸い島根は乾燥した晴れ間が広がった。
澄んだ空気あってこその、ポテンの夕暮れ。

(ポテンと日が沈んだあとの空の色あい。田儀駅の界隈にて)
会う人よ狭い世界にさあ歌おう [2015年03月22日(Sun)]

fumihouse-2015-03-22T20_54_50-1-thumbnail2.jpgショッピングセンターで知り合いに会った。お連れさんを私は知らなかった。ところが妻はその方と会ったことがあるのだった。でも私の知り合いとは面識がない。奇妙な四角関係でもってしばらく立ち話をして分かれた。

いわゆる世間は狭い。自己と利害関係がある集団を世間と称するが、世間は狭い。一方で地球に広がる全世界は広いようだけれども、これも意外と狭い。昨今人間の経済活動が地球気象の異常をきたし環境問題を招いていることは一つの証拠である。

米国の社会心理学者ミルグラムがもう半世紀も前に実験を行った。地球上に住む人間は、どんなに隔たっているように見えても、知り合いを介して芋蔓式でたどっていけば平均して6人以内でつながっているという仮説を立てた。SNSを介してみれば、フランス大統領とも交信できるに違いない(言葉の問題は置く)。

ただし、ミルグラムのスモール・ワールド実験は、仮説にとどまっているようだ。検証実験は行われていない。しかし、友だちの友だちは皆友だちであってほしい。世界の紛争を収めるためには大切なことだからだ。

ディズニーの『小さな世界(It's a small world)』はこう歌う。
  世界はせまい/世界はおなじ/世界はまるい/ただひとつ

宇宙にぽつんと置かれた地球という小さな星でヒトが生まれ人類が栄えてきたことは奇跡だ。その奇跡を大切にしたい。
春が来てゴビィと嬉し新オープン [2015年03月21日(Sat)]

fumihouse-2015-03-21T22_51_04-1-thumbnail2.jpg宍道湖自然館『ゴビウス』が新装オープンした。20年近く前にオープンして以来初めて改装されたのだ。目玉は「あそびっ湖まなびっ湖ひろば」。古くなった映像コーナーや学習コーナー、淡水の水辺に棲む鳥類剥製の展示コーナー、宍道湖漁業の漁具展示などを撤去して作られたのがこの「ひろば」である。今日3月21日に記念イベントが行われた。

「ひろば」の中心を占めるのがタッチプール。今までもタッチプールはあり子供連れの人気を集めていたものの狭かった。今回の改装では360°すべての方向から水に触れられて、立体的に眺める工夫がされており、大人にも楽しめる。しかも海水にも淡水にも対応できる優れものだ。周りに満面の笑顔を向ける子供たちの姿が見られたから、テレビの取材陣にはいい画が撮れたことだろう。外は快晴。新装オープンにふさわしい嬉しい天気に誘われてたくさんの人が来てくださったのが嬉しい。

宍道湖・中海をはじめ自然豊かな河川を疑似体験できる体験学習型水族館が、ゴビウスである。今後もふるさとの自然保護や環境に対して子供たちの目を向けるきっかけとなってくれることだろう。運営管理者たるホシザキグリーン財団と島根県庁水産課がタッグを組んで、年間10万人以上の入場者をずっと確保してくれることを望んでいる。

(マスコットの「ゴビィ」もお化粧してかわいらしくなった。マハゼをモデルにしたこの着ぐるみは子供たちに人気)
やり方を変えてみたいな中選挙 [2015年03月20日(Fri)]

fumihouse-2015-03-20T18_28_20-1-thumbnail2.jpg戦闘で死ぬのはイヤだ。なされるがまま殺されるのもイヤだ。大昔から部族同士が争い戦い殺し合い、負けた者は死ぬか捕虜、奴隷となって人生が終わる。日本では戦国時代で終わりとなったけれども、世界の各地では同じ民族、同じ国民が殺し合うことが茶飯事だ。日本は平和でよろしい。

さて、郵政選挙、政権交代選挙でいったん総選挙の投票率の低落がおさまったように見えたが、その後は史上最低を更新している。平和ぼけが根本にあるにしても、僕には小選挙区制に変わったのが原因に思える。

小選挙区選挙では政権交代が容易だ。票差は少なくても勝ったほうは地滑り的に議席を得て多数を取る。その代わり死票が増える。せっかく投票したのにムダになる。自分が応援した候補が政界に出られないとなれば、選挙への興味は薄れる。

中選挙区制に戻したい。死に票は減る、個性的な小政党も活躍できる、有権者の関心が高まる、区割りを変えなくても一票の格差を正しやすい……。いいことが多いはずだ。選挙権が18歳まで引き下げられるこの機会に、元の中選挙区制に戻したらどうだろう。

死ぬのはイヤだ、の話題に戻す。選挙は勝つか負けるか。政治的に生きるか死ぬかの勝負だけれども、命まで落とすことはない。選挙は厳正に行われている。仙台では組織ぐるみの票数不正がありはしたが、怠慢を糊塗するのが目的であり、彼らに命を懸けて工作するまでの信条はなかった。日本は平和だ。選挙さえちゃんとやれば、命の遣り取りはない。平和を喜ぼう。
大切な大輪の花なくすとき [2015年03月19日(Thu)]

fumihouse-2015-03-19T18_18_08-1-thumbnail2.jpg大切なものをなくしたとき人は老ける。気持ちに張り合いをなくしたとき人は老いる。体から力が抜けて骨格までもスカスカになる感じを覚える。手放したものの大きさに改めて気がついて溜め息をこぼす。

何のために仕事にいそしみ、誰のために道を急ぐのか。何のために体を鍛え、誰のために美容に気をつけるのか。何のために言葉を発し、誰のために文をつむぐのか。何のために楽しみ、誰のために快さを求めるのか。。。。。

張り合いがなくなることは、何かのためにガンバる自分が信じられなくなるとき。まさしく老いへの道をまっしぐらに進むとき。保険をかけて普段から大切なもののスペアをつくっておけというのか? 取り替えがきかないから、かけがえのないものが大切なんだ。

こんなおセンチなことを書いているといっても今の僕が喪失感にさいなまれているわけではない。あしからず。

(金粉をまぶしたかのような椿が大輪の花を誇る)
じゃあまたね数えてみたらあと何回 [2015年03月18日(Wed)]

fumihouse-2015-03-18T19_47_24-1-thumbnail2.jpg誰かに会う。あるいはばったり出会う。ひとしきりおしゃべりを楽しんで、「じゃあまたね」と別れる。また、っていつだ? それぞれが忙しく、仕事場や趣味のサークルが同じでもない限り次に会う日などわからない。特別な思い入れでもないと会いに行くこともない。気軽にまたね、と言ったのはいいが、一生の間あと何回会えるのだろうか。意外にチャンスは少ないぞ。

「じゃあ行ってきます」と仕事に行くのも同じこと。不慮の交通事故に遭い帰らぬ人となる。前触れなく起こった巨大災害に巻き込まれる。要人と間違われて暗殺される。人違いから逮捕され無実の罪で収監される。某国のスパイによって連れ去られる…………と冗談ばりに書いてはみたものの、予期せぬ悪運に人生をかすめ取られ、家族の絆を断ち切られてしまうことはあり得る話だ。

毎日が滞りなく同じように過ぎていくことは退屈なようで実は奇跡的なこと。ずっと続くように思えてくるが実は永遠はあり得ない。だからこそ一期一会の気持ちで日々を過ごしたい、と思ってはみるものの、なかなかこれが難しいんだなっ。

でも私は、「じゃあまたね」が好きだ。この言葉を発すれば、次の可能性が生まれる。また次はある、その次に繋がっていくからだ。じゃあまたね、なくしては始まらない。
じゃあまた、明日ね。
冬過ぎて一度に初夏を思うとき [2015年03月17日(Tue)]

fumihouse-2015-03-17T18_58_20-1-thumbnail2.jpg天高く響いてくるのはイソヒヨドリの声。天使の歌声でわたしは微笑む。
仁万駅まで届いた藪中のウグイス。寒い時季も練習していたのか、思いのほか上手。
ジンチョウゲの季節はピークを越えた。天使の芳香とも来年までお別れ。
桃や紅梅よりも小ぶりな杏は、淡い桃色で春を主張している。
仁万の町中ではコブシが開いた。象牙色の花を空に向けて春の雄叫びだ。
山笑ふは春の季語。木々が芽吹いて山が徐々に膨らんで華やかになっていく。
今日は初夏を思わせる陽気。一進一退しながら冬枯れが春の息吹に満ちていく。

(クロッカスよ咲けよ、開けよ。赤紫の派手な大砲が一斉に開いたのは先週のこと)
旅しよう森の中にぞ力あり [2015年03月16日(Mon)]

fumihouse-2015-03-16T19_15_27-1-thumbnail2.jpg何を願うのか。どう望みを具体化するのか。そしてまだ見ぬところを旅しよう! そんなことを考えさせるディズニーのミュージカル映画『イントゥ・ザ・ウッズ』だった。

パン屋の夫婦には子供がいない。魔女の呪いのせいだと知った二人は、青い月の三晩のうちに森の中で必死に4つのアイテムを探し回る。シンデレラや赤ずきん、ジャックと豆の木、ラプンツェルの物語が重なり合っていく。奇想天外な筋立てが楽しめる。それぞれの物語のその後は、決して甘さ一辺倒ではない。怖いことが起こる。死ぬ者も出てくる。

しかし、森への旅はまだ見ぬ自己の扉を開いていく。それでもリスクをとっては旅に立つ。ステキなことだと思った。そして森は実際の森だけに限らない。自分自身の心理や可能性もまた、深遠なる森なのだ。

(写真は抹茶と一緒に食べた和菓子『竜の巣』。「記憶に残る背景の世界/山本二三展」が開かれた出雲伝承館のお茶席の庵で食べた。妻と娘が食べたのは『木霊』。いずれも宮崎アニメの愛好者にとっては堪らない魅力だろう)
不明者に思い巡らす弔いの [2015年03月15日(Sun)]

fumihouse-2015-03-15T15_34_42-1-thumbnail2.jpgこの11日には震災を受けた東北地方の海岸各地で行方不明者の一斉捜索が行われた。東日本大震災における行方不明の方々は今もなお2500人余り。辛い災害の痕跡がいまだに遺族を苦しめている。

『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(佐々涼子著,2014年,集英社文庫)を読むと、亡くなられた方の遺体の状態が遺族の心を整理するにあたり重要であることがわかる。「区切りをつける」ためには遺体の存在は不可欠であり、生前に近いかたちに修復された姿で弔うことが必要なのだ。

≪生命の失われた体をただの物体だと済ませてしまうこともできるだろう。しかし我々はいくら科学が進歩しようとも、遺体に執着し続け、亡き人に対する想いを手放すことはない。その説明のつかない想いが、人間を人間たらしめる感情なのだ。(中略)
 我々は亡くなった人の体に「魂」とも呼ぶべき、命の残響を聴いてしまうものなのである。ほとんどの人は、いざ親しい人の死に直面すると、「魂」がまだどこかにあると感じてしまうのではないだろうか。だからこそ懇ろに弔うことによって、「魂」を慰めるのだ。≫

震災の2500人余りの方々の御遺体は見つかっていない。御遺族の苦しみに思いをめぐらそう。
金沢の人喜びて夢に舞う [2015年03月14日(Sat)]

fumihouse-2015-03-14T12_36_20-1-thumbnail2.jpg新幹線が春を連れて、やってくる。」

金沢駅に掲げられたコピーだ。北陸新幹線が今日開業した。長野から伸びた新幹線は新潟・糸魚川を経由して、富山、金沢に春とともに「やってくる。」。

東京から金沢までのアクセス時間は4時間から2時間半に短縮され、人の流れが大きく変わる。歴史文化は豊かで観光資源も多い。日本海の幸をはじめとした食文化への期待も高まる。本州日本海側で新潟に次ぐ人口を擁する金沢だからビジネス面でのメリットも大きい。

さてはて、島根・出雲にとってはどうか。首都圏からのお客をとられていく。中国横断自動車道尾道松江線は今月中に開通し、尾道や福山といった広島県東部とつながるし、四国・愛媛へも大動脈が連結される。

しかし、出雲大社遷宮から続いていた出雲への人の流れ。首都圏から毎夜出発するJRサンライズ出雲は人気を博していた。だが人々の関心が金沢に向かう。ああ、出雲ブームは終わってしまうのか。
アカギレてハナをホジッテ名を覚え [2015年03月13日(Fri)]

fumihouse-2015-03-13T07_21_04-1-thumbnail2.jpgアカギレは痛い。乾燥した冬の肌が荒れて裂ける。この冬は何十年ぶりかで指先にアカギレができた。痛かった。

アカギーレ右向き三角2アギーレ

サッカー日本代表監督だったアギーレは、乾燥した日本の冬に疑惑を受けてあえなく潰(つい)えた。

新しい監督はボスニア・ヘルツェゴビナ出身のハリルホジッチ。今日来日する。次の2018年W杯ロシア大会の出場をまずは目指す。厳しい監督だそうだ。鼻をほじってぼやぼやしていると、選手代表の座を脅かされるだろう。

ハリー・ポッターがハナホジッテる右向き三角2ハリーホジッテ右向き三角2ハリルホジッチ

あぁ、なかなか人の名前やものの名前が覚えられないなぁ。覚えたはずのものを忘れてしまうなぁ!
怨念を恕してゆるせや怒らずに [2015年03月12日(Thu)]

fumihouse-2015-03-12T18_28_26-1-thumbnail2.jpg今どきほとんど使われないが、【恕】(ジョ)とは許すこと。同情して相手を慈しんで許す場合もあるだろうし、過去の恩に免じて大目に見のがす場合もあるだろう。漢和辞典の解字によれば、音をあらわす「如」はしなやかな女性の意味で、しなやかな「心」、すなわち思いやりを表す。

ところが私は間違える。【怨】(エン/オン)と同じように見えてしまうのだ。強い不満や不快の念をいだいて負の感情を長らく引きずる。怨念や怨霊として使われる。解字すれぱ、音符の「夘」(エン)は身を曲げる意味。「心」が曲がるほどうらむことだ。

【怒】も似ている。音符の「奴」と「心」で、力を張りつめて猛り、気ばる意である。

恕と怨と怒。並べてみると面白い。いずれも人の「心」が主役だ。
謙虚にと語り伝えて地震あり [2015年03月11日(Wed)]

fumihouse-2015-03-11T18_54_12-1-thumbnail2.jpg今日は3月11日です。つらい記憶を語り伝え、次世代や未経験者に継承する動きがあります。復興が少しずつ進むなかで、東日本大震災を後世に伝えるため、モニュメントと遺構による拠点をつくったり、教訓を活用する仕組みをつくろうとしています。

三陸大津波については明治のときも昭和でも、石碑や言い伝えでもって子孫を悲惨な目に遭わせまいとする努力がされてきました。何十年と時間が経てばどうしても風化していきます。今回も「自分は大丈夫」という根拠のない自信を持っていたが故に命を落とした人は多いのです。根拠がある場合でも、「高い防潮堤があるから」と地球の猛威を想像できなかったところに悲劇は生まれました。そうした心のスキをいかに埋めていくかという活動が必要です。津波に巻き込まれたが辛くも生還できた人たちに細かな取材をして、その場で行った選択を検証していくことが大切なのです。

これは自然災害に限りません。戦争にも同じことが言えます。今年は太平洋戦争終結から70年。80年ほど前に軍部だけが突出して戦争に突き進んだわけではありません。マスコミに踊らされていたとしても、中国や欧米に対し怒りを燃やす民衆が多くおり、大本営が発表する戦果に小躍りして喜ぶ老若男女がバックボーンとなったからこそ、軍部は堂々と予算を獲得し、クーデターで全権を掌握し、戦局をじりじりと広げていって、世界最強の米軍と戦端を開いてしまったのです。

戦局ごとの勝利に浮かれるのではなく、全体観に立った作戦を練る大きな目が必要でした。しかし、戦争に反対する者は非国民なりと、差別し弾圧しました。全面戦争の道しか選択の余地はなかったのでしょうか。戦争遂行に集団的心理が及ぼした影響は大きいのです。だからこそ、踊らされた民衆の群像を検証し直さなければなりません。

暴走・転落・破滅しないよう歯止めを効かせるために、ひとり一人がしっかりした見方で意見をぶつけ合うのが民主制です。絶対に正しい見方というのはないにしても、短見ではない正視眼をもった人間を多く教育しなければ、日本の将来は危ういのです。
蕾から一気に燃える花もあり [2015年03月10日(Tue)]

fumihouse-2015-03-10T18_24_42-1-thumbnail2.jpg何の花が燃えるのであろうか。どのように燃えるのか。幕末の長州の若者たちが花であり、それを支えた女性たちが華やかに燃え上がった。長州藩の群像劇に興味が尽きない。NHK大河ドラマの『花燃ゆ』のキャッチコピーは「幕末男子の育て方。」。萩の人たちが今もなお「松陰先生」と呼び尊敬してやまない吉田松陰が今は主役だ。

彼に触発されて命を燃やし、尊皇攘夷に狂い動き、攘夷が達成されないと見るや、反対に夷敵たる欧米諸国の力を借りながら富国強兵に突き進んだ長州の面々。薩摩や土佐や旧幕臣の力も糾合して大日本帝国を作ったわけだが、長州の狂信的なエネルギーがあったからこそ、倒幕は達成されて明治政府ができた。その源流となったのが吉田松陰だ。

長州は狂信的な国粋主義ゆえに、尊皇の当体である孝明天皇にさえも嫌われ抜き、徳川幕府や薩摩にも敵対して風前の灯となった。しかし坂本龍馬などの斡旋で力を盛り返した。その劇的な浮き沈みは、幾度もドラマ化されるにふさわしい。その狂信性が数十年後に陸軍を暴走させ(帝国陸軍は長州が牛耳った)、リアリズムを伴わない精神主義で日本を破滅させたことは悔やまれるが、日本が植民地化せず独立国家として歩めたのは長州あったればこそだ。

大河ドラマでは、松下村塾に塾生が集まりだし、熱い学園ドラマの様相を呈してきた。また、杉家の人々が松陰を誇りに思い、財が傾くまで松陰を援助する。鎖国という古臭い国禁を犯し家内に禁錮の身でありながら、杉家のみんなが明るく彼を盛り立てる。塾生を温かく見守る。毎週日曜日が楽しみだ。
会わずとも父なり子なり交響詩 [2015年03月09日(Mon)]

fumihouse-2015-03-09T22_20_39-1-thumbnail2.jpg邦画の中でも随一の名画だと思う。午前10時の映画祭で『砂の器』を観た。捜査が難航を極めた蒲田駅操車場殺人事件。丹念に事件を追った今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)が捜査会議で犯人の足取りを解き明かす。謎解きは状況証拠と物的証拠にとどまらない。犯人が6歳の子供だった頃から紐解いて、その心理の解明も交えて説得力ある証明を連ねる。不遇だった犯人とその父親への同情的視点も含めて胸が熱くなる。

一方で和賀英良(加藤剛)による新曲の演奏会が同時並行で描かれる。新鋭のピアニスト兼作曲家の和賀。将来を嘱望されて初演する大作は交響詩「宿命」。和賀の指揮とピアノによる壮大な交響詩が胸に迫る。テーマたる旋律は伸びやかではあるが、悲しい叙情に満ちている。

殺された亀嵩駐在所の三木元巡査(緒形拳)。緒形の出雲弁が実にいい。おちぃらとした(ゆったりした)節回しの中に、誰人をも助けたいと願う人情の厚みが感じられる。だが犯人はその人情が疎ましくなったのだ。正確に言えば、その人情は十分理解したと思うのだが、三木の求めるとおりに長きに渡る親子の断絶を埋めることはできなかった。犯人にできたことは、演奏を通して父に子としての情を届けることだったのだ。

目の前で演奏するわけではない。しかし、父と子は時間と空間を隔てても対面を果たすことができる、と犯人は思った。父と実際に対面すれば、その望みが断たれると思ったのだ。和賀は親子の情を通じることと、超一流の音楽家としての演奏会の成功とを、両立させることを望んだ。

だが、「なしてだや? 死にかけちょー親にあーのが子供の務めだがやー」と迫る熱血元巡査には和賀の心情を理解することはできなかった。和賀と三木との間には大きな大きな溝があったのだ。

演奏は着々と進み「宿命」のテーマフレーズが幾度も変奏して観る者の心を揺さぶる。丹波哲郎が朗々と論ずる。ときに涙を拭いながら訴える。父子の苦しい乞食行のシーンを和賀が回想しつつ演奏は続く。オーケストラが織りなす交響詩と渾然一体となって話は進む。その豊穣な響きに感動しない者はないだろう。

当時は不治の病だった癩病(差別感の塗り込められたこの表記はなくなったが、ハンセン氏病と表記してはのっぺらぼーになってしまう)で故郷を追われたこの父子をはじめとした、多くの方々の苦しみを代弁した映画でもあると思う。父が慟哭した。子を思い、やるせない自身の苦しみをぶつけた。

鉄道の旅情を感じさせる映画でもある。東北新幹線などないあの頃、今西刑事は夜行急行列車で羽前亀田へ行った。伊勢へも奥出雲へも列車の長い旅だった。旧国鉄ファンには堪らない映画であろう。国鉄・山陰線の宍道駅から中国山地を縦断して広島県方面へ向かう木次線。映像では、そのディーゼル機動車が3両編成だったことに驚いた。昭和40年代までは旅客も貨物も鉄道全盛であったことがわかる。

まさに映画そのものが交響詩である。音楽と風景と鉄道と様々な人間群像とが一体となって感動を呼び覚ます。わたしも含めて洟をすする音が絶えなかった。
断捨離に文庫惜しくて捨てられず [2015年03月08日(Sun)]

fumihouse-2015-03-08T17_50_11-1-thumbnail2.jpg断捨離の一環としてブックオフに行きました。約300冊の文庫本を袋にまとめて出したのです。新しめのもありますが、ほとんどは古いもので、茶色に日焼けしたものもあります。

昔の文庫本は字が小さいのです。よくもまあ、米粒に書いたような字を読んでいたものだと感心します。もちろん感動覚めやらず読み返した本、私の歴史認識に大きな影響を与えた本、いろいろです。しかし、また読むことはないだろうと思い切って捨てました。そうなると終活の意味合いも含んできます。

値がついたものは四分の一以下。千円にも届きません。査定の時間に選んだCD2枚と本1冊でしめて二千円余り。収支はマイナスとなりました。

これからも本は増えるでしょうが、本棚に収めきれない本がまだありますから、しばらくは格闘しようと思います。再読したい本もありますし、買っただけで読んでないのもありますから。

(沈丁花が咲きました。酸っぱいような、ツンとくるような甘さをもった匂いをさせています。春先の気の引き締まるいい匂いです)
低酸素エコにシェアして列車にて [2015年03月07日(Sat)]

fumihouse-2015-03-07T22_09_13-1-thumbnail2.jpg環境省のポスターが駅構内で訴えかけています。
≪鉄道はエコ/みんなでシェアして、低酸素社会へ≫と。

通勤や通学に、旅行やちょっとした外出にも電車やバスを利用するように勧めています。そして地球温暖化への道から外れるように、人類の暮らしが継続していけるように低酸素社会をつくろうと提案しています。

そして詩的にまとめます。
≪窓から見る/線路は/どこまでも/続いている気がした。
 今度鉄道で/ちょっと遠くまで/行ってみようかな。≫

通勤で60キロの道のりを往復する私にとっては感じ入る言葉です。まあ、しばらくは鈍行列車の旅朝夕に楽しむことにしますかね。
啓蟄を春の陽浴びている嬉し [2015年03月06日(Fri)]

fumihouse-2015-03-06T18_34_10-1-thumbnail2.jpg今日はよく知られた「啓蟄」。冬ごもりしていた虫が這い出てくると言われる季節です。

【啓】はひらく意。【蟄す】(ちっす)とは、虫が地中に潜む意。啓蟄は虫たちが地面から顔を出す。字こそ難しいですが、まだ寒さに震える日も多いですから、啓には物事を先導する意もあり、春を導いてくれる季節の折り目をあらわすいい言葉です。

しかも今日は雲がほとんどなく、いい色の青空が常に見えていました。黄砂もそれほど飛んでいないのかもしれませんね。

来週には雪が降る予報が出てはいますが、路面が凍結するような寒さはもうないでしょう(そう信じたい)。下を向いて背をかがめ小股で歩く、足の裏全面を同時に地面に着地して足指のグリップを十分にいかす、手を振らず貧相に歩く。。。そうした雪道シフトの歩き方はもう不要です。とても嬉しいですね。さあ、春ですよ、春がきましたよ ヽ(^o^)丿(^_-)

(邇摩高校近くの家の庭先に咲いているサクラ。河津桜だろうか)
戦車見てゲームに勝ったぞ父さんと [2015年03月05日(Thu)]

fumihouse-2015-03-05T18_36_01-1-thumbnail2.jpgユダヤ人の父グイドはあっけなく死んだ。母ドーラは、父の形見となった少年ジョズエを抱きしめた。父の愛情を一身に受け、最後まで陰惨な暴虐を知らずに強制収容所で生き延びた。収容所解放直前のドサクサで父が死ぬ場面はあまりに突然で涙すら出てこない。脱出した母と子が再会を喜び合う姿がいっそう引き立って感動を呼ぶ。

イタリア映画の『ライフ・イズ・ビューティフル』は1997年製作で比較的新しい。なぜか私の印象ではモノクロなのだ。イタリアのファシズム政権下にあってナチスはここでもユダヤ人に毒手を伸ばす。ホロコーストの強烈な場面があるために(遺骸がゴミのようにして積み上げられていた)、色のない映画であったような印象が残っているのだと思う。

陽気な父グイドは道化になってジョズエを信じさせる。「これはゲーム。泣いたり、ママに会いたがったら減点。1000点ためたら勝ち。お前が好きな戦車に乗っておうちに帰れるよ」と。父の機転と演技のおかげで、ジョズエは希望を失わず生き延びた。

とうとうナチスは撤退した。ゲームの場には予定どおり米軍の戦車が現われ、ジョズエは拾い上げられて戦車の行進を楽しむ。解放されていた母とも再会して、北イタリアの山並みが鮮やかに画面を染める。私のなかでモノクロがカラーになるのだ。ジョズエはもちろん、妻ドーラのことも愛し抜いて生を全うしたグイドに涙する。
退職の宴囲んでありがとう [2015年03月04日(Wed)]

fumihouse-2015-03-04T07_56_29-1-thumbnail2.jpg水産行政に35年間携わってこられた大先輩が定年退職されることになった。昨夜はその方を有志が囲んで送別の宴をもった。

秩序と安全を維持しつつ水産資源の枯渇を防ぎ、漁業栽培などの方法で資源を保持し、島根の水産業を振興させる。漁業者から流通や加工、販売事業者を経て消費者に届く海産物や加工品を安心して食べてもらえる環境をつくるミッションを果たすため日夜努力をされた方である。

資源の減少、後継者の減少や高齢化、魚価安、経営難といった要因によって、日本の漁村や水産業界は厳しい状況にある。もちろんこれは人口の大幅減少という問題に直面する日本の縮図と言ってもよいだろう。

人は人から刺激を受けて、人との触発作業を通じてしか育たない。ノウハウは文章やネットから学ぶことはできるが、仕事や物事に対するパッションを浴び、自身の足らずを知り偏った思い込みを正される。人は人に触れて変わりゆく。

昨夜はそれぞれが思いの丈を披露しあう夜であった。過去を振り返り懐かしがるだけではなく、未来を語る姿やもっと学ばねばと決意をする姿も見られて頼もしい。ほのぼのとした笑顔の輪が広がり、その方の過去の行状を楽しい酒の肴にして、弾むひとときを過ごすことができて嬉しく思う。

これからはゆったりと過ごされるとの由。艱難を乗り越えて使命を果たすことの満足にあふれた張りのあるお顔を拝見すると、いいな!と思う。長い間お疲れさまでした。ありがとうございました。お元気で!
節句の日西から天気は崩れゆく [2015年03月03日(Tue)]

fumihouse-2015-03-03T17_22_55-1-thumbnail2.jpg今日は3月3日の桃の節句。低気圧が近づいてきて、昼過ぎから小雨が降ってきた。西から東へ。夜には東日本や北日本にも雨雲が広がり、北海道では激しい雪が降るという。今週は天気が激しく変化し、気温も上下動をくり返す。

冷たい風が吹いている。寒いけれども東風(こち)だ。北西からやってくる冬の寒風とは違う。東からの風が春を連れてやってきたのだ。三寒四温のこの頃は、ぬるま湯につかったような天気ばかりではない。私たちを戸惑わせ、ときには体を不調に突き落とす。それでも春はやってくる。春の行進、目に見える!

(わが家のクロッカスも一番の見頃を迎えた)
雨よ降れ地を固めては卒業の [2015年03月02日(Mon)]

fumihouse-2015-03-02T17_13_06-1-thumbnail2.jpg昨日は邇摩高校の卒業式。正式にいえば、平成26年度卒業証書授与式に参列した。朝から小雨がパラついて、式が始まる頃には体育館の屋根を雨が踊り叩いていた。

雨が降るのは晴れを待つ。閉じこめられて自由を奪う雨なれど、いずれ晴れるよ輝くよ。雨が上がれば虹彩に地上が輝くときはくる。

校長は「乗りこえられない壁はない」とはなむけの言葉を贈り、PTA会長は親しく語りかけ「あったかいんだからぁ」と流行語でもって会場を和ませた。

卒業生退場のところでサプライズがあった。「お世話になった皆さんに歌を贈ります」と代表が大声を出し、レミオロメンの3月9日を歌った。歌いすすむにつれ歌声が小さくなっていく。女の子たちが泣いてしまって声が出ないのだ。在校生にも泣く者が続出し、保護者席でも目頭を押さえる人が多かった。

午後には雨は上がった。かくて邇摩高校総合学科74名は、就職に進学に、それぞれが旅立った。幸あれ! 幸を求めよ! 他に幸を与える仁の人であれ!

(卒業式祝賀会の会場にあったストックの花。卒業式祝賀会とは、無事に卒業生を送り出した教員をねぎらう夜の部だ)
健康にストイックなり日々のこと [2015年03月01日(Sun)]

fumihouse-2015-03-01T07_33_24-1-thumbnail2.jpg健康になるために、一無・二少・三多の勧めがあるそうな。

「一無」は禁煙。
「二少」は腹を八分目にして小食、そして少酒。
「三多」は運動多く、休養と睡眠多く、そして多接(人、事物に接し、趣味を持つ)だそうな。

根気をもって続けなければ健康にはなれない。ストイックに守ろうとし過ぎると苦しくなる。反動がきて心身ともに投げ出してしまうかもしれない。健康そのものが目的になって、主体たる私が置き去りにされてしまうかのように思えるからだ。何かをしたい、何かを成し遂げたいという目的観が、人間を強くしていく。

あまり無理せずに、食べ過ぎたな〜と思った翌日にはおやつを抜いたり、多めに歩いたり。少ししか噛まずに早呑み込みするきらいがあるならば、毎回30回咀嚼して飲み込むことにしてもいいだろう。多少太めが長生きするそうだから、まあ無理せず気楽にいきましょか。

(たまには林檎をパクリと丸かじりして健康を実感するのもよろしい。美味しさは健康の証拠、幸せの証)