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チグハグな彼岸に咲くか恋の花 [2015年02月28日(Sat)]

fumihouse-2015-02-28T21_03_47-1.jpg映画『地上より永遠に』(原題はFrom here to eternity)は太平洋戦争が終わって間をおかずに作られた映画だ。私には邦画題の意味が理解できなかった。なぜ「ここよりとわに」と読ませるのかわからない。

オードリーヘップバーンの「Love in the Afternoon」を「昼下りの情事」と意訳したように、客を惹こうとした日本のプロモーターの意図がみえる気もするが、軍隊という現世では添い遂げられなかった二組の男女が、天国では幸せになれますように…という願いを示しているのか? 此岸から彼岸へ、という仏教的な生命観からきたゴロをここに当てはめたようにも思える。かといって映画では二組の恋愛劇は神に祝福されるほど純粋でもないし、一人は死にはしたものの涙こぼれるほどの悲劇性はなかった。うーんわからない。よーくわかるのは、二人の女優が往年の美形女優の典型であったこと。ほれぼれする。

映画は端的に言えば、アメリカ陸軍の下士官と兵卒がそれぞれに紡ぐ恋愛劇である。アメリカ本土から遠く離れたハワイを舞台にした、いわば「彼岸」に花咲く恋物語である。ところが当事者たちにとっては苦しく身悶えする世界。「此岸」すなわち娑婆で苦しんでいる。恋愛をめぐって苦しんでいる。

兵卒プルーは信念の人だが、頑固過ぎる人。恋してひたすら恋人にまとわりつく。ストーカー的な彼を迷惑に思いつつ、彼女は母性愛も混じる愛で包容していく。かたや下士官ウォーデンはそつなく仕事をこなし上司たる大尉の受けもよい。恋の駆け引きも上手で一目惚れした大尉の妻とは、いとも簡単に相思相愛の仲となった。秘密の恋が進行すると大尉の妻が盲目的に下士官を求めたのに対し、彼は煮え切らない。

1941年12月日本軍は真珠湾に奇襲攻撃をかけたが、それは一つのエピソードとしてのみ描かれる。二組の恋愛劇は破局し、たまたまアメリカ本土へ引き上げる船上で当の女二人が偶然にも出会う。そして、もうハワイに帰ることはないわ…と思い出を反芻しながら終幕。

軍隊において色恋沙汰の余裕があるというのは、アメリカという国の余裕。軍の福利厚生は充実して物資も豊富な世界一の軍隊。となれば、向かうところ敵などない。その軍を敵に回して挑みかかるとは日本は身の程知らずだった。しかし弛緩した米軍のスキを突く日本軍の攻撃によって、アメリカ軍は一気に目を覚まされたのは確か。その後日本は完膚なきまでに打ちのめされたことは周知の事実だ。

(まだ秋も浅いころの銀杏の葉に丸まった水滴。蒸発し雲になり再び雨雪になって地上に降り注ぐ。これも半分、永遠の営み)
メラミンのミクロの泡で茶渋取れ [2015年02月27日(Fri)]

fumihouse-2015-02-27T19_44_46-1-thumbnail2.jpg私はしばらく前まで、メラミンスポンジというものを知らなかった。いくつかの流し台の隅に小さく縮こまって汚れたスポンジ状の物があることには気がついていたが、それが魔法の汚れ落とし、水だけで茶渋が落ちるスポンジだとは知らなかった。1999年に登場したクリーナーだそうだ。

メラミン樹脂をミクロの細かさで発泡させた硬度の高い骨格構造。無数の細かな網の目でしつこい汚れを取る。中性洗剤とアクリル布でゴシゴシ拭いても取れなかった茶渋が落ちる。しかも洗剤いらずで力も入れずにピカピカになる。すばらしい!

ネットでみると電化製品の汚れや、壁紙の汚れにも使えるそうだ。ただし子どもが顔にマジックペンで落書きしたからといって、メラミンスポンジで落とそうとすると皮膚を傷つけ火傷のような症状になるようだ。肌を研磨することになるからだ。

風呂場の浴槽やトイレなど、樹脂素材に使うのもいけない。表面の加工を落として細かい傷がつく。もちろん歯を白くするためにメラミンスポンジを使うのは論外。エナメル質が薄くなる。

その他、樹脂で塗装したもの、プラスチック面、漆器、絵や文字がプリントしてあるもの、車の外装、木製製品等には使用しねはならないそうだ。ものには一長一短がある。

(おろしたてのメラミンスポンジの色を思い出させる椿の花)
山笑ひ服を一枚脱ぎていく [2015年02月26日(Thu)]

fumihouse-2015-02-26T18_26_47-1-thumbnail2.jpg【山笑ふ】というのは春の季語だ。木々が芽吹きはじめて華やかになっていく山を形容している。今夕山を眺めていると、広葉樹が芽吹く直前のホワッとした柔らかな雰囲気があった。今日のところは、山が謎の微笑みを浮かべたと言っておこう。

暖かく太陽が照る一日ごとに、本当に山が笑う季節になっていく。寒気が南下して週末には寒くなるということだが、桜花爛漫の時はもうじきやってくる。

出雲弁には【ひがおがする】という表現がある。曇りや雨の日に時折日がさすことをいう。漢字で書けば【日顔がする】。webサイト『出雲弁の泉』ではこんな用例をあげている。

 「大雨だったね、きーね ひがおがしてきた」
 (標準訳:大雨だったのに、急に日が差してきた)

太陽が恋しい季節!太陽にあたればウキウキする季節となった。うとましい灼熱の季節がくるまでは、太陽を楽しみたい。
太陽がいっぱいあっても許されず [2015年02月25日(Wed)]

fumihouse-2015-02-25T18_31_11-1-thumbnail2.jpgトムは満足していた。「太陽がいっぱいだ……こんな最高の気分はない」と。直後に完璧だったはずの完全犯罪が破れて逮捕されるとも知らずに…。捕まったとしても彼は慌てなかっただろう。太陽のもとで殺人犯として取り調べられるのも悪くないと、うそぶいたかもしれない。

ルネ・クレマン監督(『禁じられた遊び』もこの人)が激情にかられた若者の殺人を描いた映画『太陽がいっぱい』。トム(アラン・ドロン)は衝動的というに近い殺意を実行した。かといって取り乱したりはしない。冷静に、持ち前の器用さと度胸で難局を乗り切っていく。結局二人の男を殺すことになるが(はては3人か?)、殺人の直後にもかかわらず、ひと仕事終えたという感じで食べ物を口にするのは、豪胆というべきか、それとも悪辣さのあらわれか。

アラン・ドロンの邪悪な微笑みが印象深い。たぐいまれなる美貌である。それでいて若者の狂気を見事に演ずる。殺した金持ち息子フィリップになりすまして財産を蕩尽するばかりか、美貌の恋人マルジュ(何か他の映画でも見たことがある)の心もつかみ取った。

有名なテーマ曲が繰り返し画面を彩った。殺された者の無念さをあらわす時には物悲しく、この若者の理不尽さをあらわす時には読み語るように、最後の破綻をあらわす時にはドラマのエンディングにふさわしく……。わたしの耳朶に残って離れない曲だ。
時が過ぎ花も次々変化して [2015年02月24日(Tue)]

fumihouse-2015-02-24T19_13_46-1-thumbnail2.jpg時が過ぎるのは早足です。

 1月は往ぬ。
 2月は逃げる。今日は早くも24日。
 3月は去る。
 4月は知らぬ間に過ぎる。
 5月はゴーゴーと過ぎる。
 6月はろくでもないほど早く過ぎる。
 7月は七面倒くさいほど早く過ぎる。
 8月は八面六臂の活躍をしてる気分で早く過ぎる。
 9月は臭い芝居がかった毎日のうちに過ぎる。
 10月はジュウジュウ焼肉食べたいと思ううち過ぎる。
 11月はいい獣医さんはいないかと探すうち過ぎる。
 12月はとうに一年と惜別すると過ぎる。

4月以降はもちろん即興のデタラメでした。

春一番が吹いて梅が野や庭を紅や白の斑点に染め、桃や杏が咲き、ソメイヨシノの便りを南から聞くうちに、入学や人事異動の春は過ぎていきます。慌ただしさと弾む気持ちとを繰り返しているうちに、好きな春は行ってしまいます。春が逃げないうちに去らないうちに、知らぬ間に過ぎないうちに、今年は楽しみますよ、ゼッタイにね。

(わが家のクロッカスです。春の訪れを告げる花。花言葉は「青春の喜び」「元気」です。さあ上機嫌にいきましょう)
チョコ欲しい真心欲しい両も得ず [2015年02月23日(Mon)]

fumihouse-2015-02-23T18_28_20-1-thumbnail2.jpg古いニュースですが、バレンタインデーの14日にスーパーで板チョコを万引きした67歳の男が逮捕されました。目立つチョコの特設コーナーから盗んだということですから、いとも簡単に捕まったことでしょう。

男は調べに対し、「バレンタインで今までチョコをもらったことがなかったので、欲しかった」と供述しているそうです。2ちゃんねる上では、「今年一番悲しい事件」「切なすぎる」とか、「全米が泣いた」といった皮肉混じりに哀れさを強調する書き込みが多い一方で、「買えよ。盗む必要ないだろ」とか、「万引きしてまでチョコ欲しいって… そっちがよっぽど惨めな気分じゃないか」と、正面切って非難の目を向ける意見もあります。

自分で買ってしまったら自慰をするように虚しさだけが残る、心の寂しさは満たせないと、男は考えたのかもしれませんね。

以前『日本全国酒飲み音頭』のことを書きました。1月は正月で酒が飲め、2月豆まき、3月ひな祭り、4月花見、5月子供の日、6月田植え、7月七夕、8月は暑いから、9月は台風?、10月運動会、11月は何でもないけど、12月はどさくさで飲めると喜ぶナンセンスさ。こうしたハレ(霽れ)の日がたまにあるものの、ふだんはケ(褻)で地味に過ごす。だからハレの日が待ち遠しくてたまらないという歌なのです。

今ややろうと思えば毎日がハレになります。クリスマスやハロウィン、節分の豆まきに加えて恵方巻。その他商売人に踊らされて、年がら年中賑やかに人々が楽しんでいる様子を見ながら、かの男は空しさに落ち込み、寂しさに胸をかきむしられていたのでしょうか。

とりあえず食べるだけならなんとかやれる豊かな時代にあって、格差が広がり金銭のみならず、人との出会いにもこと欠く貧しさがある。そうした日本の暗部をあらわすエピソードなのかもしれません。
南風気温押し上げ春となれ [2015年02月22日(Sun)]

fumihouse-2015-02-22T13_18_10-1-thumbnail2.jpg昨夜から南風が吹いています。九州から山口県、さらに島根県西部では強風です。山陰線は昼前までは、益田市以西で列車の運転を控えていました。

春一番です。こちら出雲では基準の強さには達していませんから(10分間平均で風速8m/s以上)、春一番の宣言を気象庁は出さないでしょう。しかし、わたしは勝手にこの強めの風を「春一番」と言い切ってしまいます。外の気温が15℃で、昨日に比べてとても過ごしやすくなっていますから。

でも明日は冬型の気圧配置となって寒の戻りがあります。喜ばせておきながら、自然はたいそう冷たいものですね。同時に自然は豊かで恵み深いものでもあります。恐怖の魔王ともなり、限りなき慈愛を注いでくれる母性愛に満ちたものでもある自然。その懐でしか私たちは生きていけません。
伸びやかに春をむかえて気もそぞろ [2015年02月21日(Sat)]

fumihouse-2015-02-21T18_10_43-1-thumbnail2.jpgキジバトが鳴いていました。クック ポッポー、クック ポッポーと。昇り調子の陽性の歌です。かれらは夏に繁殖しますが、もう相方を探しはじめるのかもしれません。

イソヒヨドリもこの世のものとは思えない天使の美声を響かせていました(天使の歌声は聞いたことないですが)。赤褐色と濃青色のコントラストが鮮やかです。

今日は暖かな一日でした。さらに昨日など、三月下旬の気温だったのではないでしょうか。久しぶりに見上げた澄んだ青空に目を奪われました。ギラギラする夕陽が海に沈むのを眺めていると、春がきて喜びいっぱいになりました。そこで一首。

  伸びやかな夕陽沈めて日本海
      のたりゆらりと春は今ここ

寒さに縮こまっていた気持ちが伸びやかに開いていきます。冬にあてられて丸まっていた背中がしゃんと伸びていきます。春はいいもんです。春はワクワクします。
文通が甘美な響き昔かな [2015年02月20日(Fri)]

fumihouse-2015-02-20T18_44_43-1-thumbnail2.jpg「文通」。なんと甘美な響きであろうか。ときめく少女の心が思われる(少年ではないな)。

少女雑誌のペンフレンド募集に応じて、見も知らぬ相手に手紙を出す。双方の相性が合えば継続して文通が続いていく。手紙だけの長いやりとりがあって後に、実際に会う時がくる。電話代も高い時代だから互いに声も聞いたことがない。手紙でもって時間と場所を指定しあって、目印の品を持って待ち合わす。どんな人かな?いい子だといいな。無上の高揚感と不安が同居して、その時を待つ。イメージどおりの当人であれば、無二の親友としてのつきあいが深まる。何か違うなと感じてしまえば、だんだんと疎遠になってしまうのかもしれない。

文通をするための切手や便箋といった経費を『文通費』という。いやいやそんなことはない。今話題の『文書通信交通滞在費』、略して文通費が話題となっている。国会議員が職務として使う通信費や交通費のために、毎月100万円が支給される。

文通費は報告や公開の義務がないが、先月維新の会がその不透明さを問題にして、所属国会議員の使途報告を公開したのである。第二の給与として好き放題に使っているという非難はあるものの(現実にそうしている議員もいることだろう)、そこまで国会議員の権益を搾りとる必要はないと私は思う。金を出すからにはしっかり仕事をさせればよいし、卑屈な思いをさせてしまえば政治家を志す者の質が落ちる。国家が行う巨大な投資物件に比べれば、国会議員の歳費類はものの数には入らないと思うのである。
辛いこと柳に風と五七五 [2015年02月19日(Thu)]

fumihouse-2015-02-19T18_28_48-1-thumbnail2.jpg今週月曜日16日のNHK『クローズアップ現代』で、川柳が高年者に人気だと放映していました。名付けて「自虐?反骨?川柳で今を笑う」と。

高年の人だけでなく、大学生や高校生を対象にした川柳コンテストもしばしば行われています。五七五の詩形に想いを託し、世相を切り取り、自虐的に眺める作業は楽しいもの。多くの日本人が注目するのも当然のことです。

わたしも毎日のブログの表題は五七五にしており、俳句か川柳かどちらかにまとめたいとは思うのですが、いかんせん吟味が足りません。

番組のほうは、残念ながら途中で出かける時間になってしまって堪能できませんでしたが、老いていく孤独感や病をえる現実をユーモアで笑い飛ばしています。不安を楽しみに言い換え、辛い毎日を高みから相対化する。その名も「還暦川柳」。コンテストには五千通近い応募作品が寄せられ、関連本はベストセラーが相次いでいるとか。番組で印象に残ったのが次の句です。

  長生きは したくないねと ジム通い

俳句にしても川柳にしても、作ってみてなんぼです。実際に言葉をつむいで組み合わせて、あれでもないこれでもないと試行錯誤をくり返す。そうして呻吟すること自体が楽しいのです。入選などして評価されると、ますますやる気がわいてくる。実践第一ですから、わたしも二つ、三つ。

  本読むと 覚悟決めたら 目がトロン
  今日こそを 繰り返しては 丸坊主
  うとうとと 舟をこいだら 次の駅
生い茂る草のもとには何がある [2015年02月18日(Wed)]

fumihouse-2015-02-18T18_17_36-1-thumbnail2.jpg≪草が生い茂る、何もなくなった地域の景色を見ても全く違和感を感じなくなっていたのです。それどころか、今の景色にすっかり慣れてしまった自分がそこにいたのです。私を今まで育ててくれた暖かな場所を心の片隅から消し去ってしまうのかと、自分自身がとても怖くなりました≫ (教育情報誌「きょうこう」15年2月発行号)

東日本大震災で被災した宮城・気仙沼に住む高校1年の男子がこの文章を書いています。確かにそうでしょう。跡かたもなくなった故郷の街並み。残骸となって廃棄物として処理されて整地される。ところによっては道が変わり、新しい建物が建って景色が一新される。時間が経つうちに「今の景色にすっかり慣れてしま」うことでしょう。

災害という過酷な状態でなくても、同じことは起こります。近所の景色はわたしが幼い頃に比べると一変しています。田んぼが埋め立てられて家や工場が建つ。青々としていた稲はなく、休耕田に雑草が生い茂る。山の上には送電線や電波塔ができていたりする。幹線道路沿いの景観など、昔日の面影はどこにもありません。ふと思い立って、昔ここに何があったのかを考えても思い出せないばかりか、数年前のことだって記憶の縁から落ちてしまっています。

人間は忘れやすいものです。寂しいですが、次々と出現する現実の前にわたしたちの脳は対応せざるを得ず、古いことは奥底に沈めてしまうのです。
面白い野球は走れ人種超え [2015年02月17日(Tue)]

fumihouse-2015-02-17T17_27_14-1-thumbnail2.jpg「おまえたちの野球はおもしろい」と地元カナダ人たちが、彼らの魅力を認めはじめた。カナダのチームはどれも、速い球を投げる、思い切り打つ、当たればホームラン、外れれば凡退……。そんな大味なゲームを繰り返していた。そんな野球に飽き足らないバンクーバーのカナダ人たちは、細やかで思いがけない展開を見せる朝日チームの野球に魅入られたのだった。

守備が緩慢だと見ればバントでかき回し、盗塁を重ね、バントエンドランやヒットエンドランで進塁する。ドキドキする試合展開に、味方ならずとも引き込まれて野球の深い魅力を知らされる。映画『バンクーバーの朝日』は、太平洋戦争前夜の日系人野球チームが、負けてばかりの弱小チームからリーグの覇者へと脱皮する過程を描いた。

体格は小さい、長打力もない負け犬であった。生活上も差別と貧乏に苦しめられていた日本人社会を象徴するかのような青年たちだった。しかしキャプテンのレジー(妻夫木聡)が勇気ある行動でもって、チームカラーをかえた。走りに走った。意気あがるチームは快進撃を続けるのみならず、日系社会に希望の星となって輝いた。その壮挙に観ている者の気持ちも高まる。

「バンクーバーの朝日」とは、日系人チームasahiの掛詞だ。asahiがリーグ優勝して日系人もバンクーバーに同胞として溶け込めた。暗い夜の閉塞感を打ち破って「朝日」が射し始めたことを掛けてある。

しかし残念ながら、1941年日本が連合国に宣戦すると同時に敵性国民というレッテルが彼らには貼られた。財産は没収され強制収容所へ強制されたことによって、日本人街は壊滅した。栄光と転落が同時にやってきた悲しみによって実話にもとづく物語が深まる。2003年にasahiの名誉は回復された。そしてカナダ野球殿堂入りしたのだが、多くの選手たちはすでに物故者となっていたと最終キャプションは告げた。

どんなにスポーツによって、人種を超えた交流が広がり、差別を乗り越えることができても、戦争という“高度な政治戦略”というものが、いとも簡単に成果を破壊することを教えてくれる映画であった。
信頼し担保なしでも信じると [2015年02月16日(Mon)]

fumihouse-2015-02-16T18_15_13-1-thumbnail2.jpg信用と信頼という言葉は心理学においては、はっきりと区別されるのだそうだ。

≪「信用」とは、しっかりとした裏付けをもとに信じることであり、「信頼」は根拠を求めずに信じることと定義される。つまり、相手を信じる際に”条件を付けるかどうか”という違いだ。≫ (2015年1月9日付け聖教新聞「名字の言」)

信頼されると自信になる、がんばれる。反対に信頼することは難しい。相手が期待に応えてくれないのではないかと疑心暗鬼になり、手をかけたくなる。途中で修正を入れたくなる。自分がやるのが速いとか、なんだかんだと言って仕事を取り上げてしまいかねないのが現実だ。そうなれば持ちかけていた自信は一気に萎んでしまうだろう。

名字のコラムニストは、心理学者のアドラーの言葉を引いて、信頼することの大切さを訴える。信頼とは裏付けや担保がなくても、裏切られても、相手を信じることだと。相手を信じ抜いていける信頼関係を築いていきたいと思う。
いそいそとお出かけしたら楽しかろ [2015年02月15日(Sun)]

fumihouse-2015-02-15T16_16_51-1-thumbnail2.jpg『いそいそ』というオノマトペには、明るさがある。軽快に弾みながら楽しみに向けて準備を急いでいる様子が見える。口は軽くなる、笑顔も出る。

語源は「勤しむ」のようだが(「忙しい」かもしれないな)。勤や忙の文字がもっている精一杯に力を入れて粘り強く励む、さらに苦しんで疲れるなぁというふうな粘着感が抜けて、嬉しさが表れている。

英訳すると、鳥のように朗らかに歌う(like a bird)とか、chéerfullyやwillingly(機嫌よく、気持よく進んで)という言葉が並んでいる(リーダーズ英和辞典)。

映画館に行こうと一人で出かける準備をしていたら、妻から「いそいそとお出かけね〜」と言われた。わたしは、小鳥がさえずるように機嫌よく弾んでいたのだろう。映画の内容がどうだったかは置いとくとして、好きなことをするために、いそいそと出かけていくのは幸せだ。
戦争と相撲は似てる立ち合おう [2015年02月14日(Sat)]

fumihouse-2015-02-14T13_31_03-1-thumbnail2.jpg停戦合意は、相撲の立ち合いに似ている。相手を信じられずに一触して戦闘が即発する恐れを内在し、相撲は呼吸を計りながら同時にかつ先制して相手を押し込めようとする。

相撲は場の空気を読む。特に立ち合いではそうだ。スポーツには審判がいて競技開始を合図し、反則があればその場で制止し、勝負判定に対する抗議が選手から出ることは当然だ。ところが相撲における行司は儀式的にのみ存在し、反則をその場ではとがめない。軍配が差し違えとされれば、行司は差し置いて審判部だけで協議して勝負を決する。もちろん力士は埒外だ(だから先場所優勝後の白鳳が疑義を申し述べた結果、親方共々厳重注意を受けた)。

立ち合いはおもしろい。「見合って」と行司は言うものの、実際に仕切り線を越えるのは力士同士の呼吸で決まる。勝負は立ち合いでおおかた決まるだけに、どちらも一瞬速く出足を進めたいのである。しかし相互の頃合いでぶつかる場合、その場の空気を支配した方が強い。かといって、早く出過ぎると待ったがかかるから難しい。

宣戦布告なしに始まる仮想敵国同士の戦争は、相撲の仕切りのようだ。そして骨肉を食らって戦っている時に停戦しようとするのも同じだ。相手のことなど信じられない。奴らにいつ襲われるかわからない。疑心暗鬼になって風の音さえ銃声に聞こえてくる。戦端はいつ始まってもおかしくない。

4カ国首脳会談の結果、ウクライナ内戦の停戦が決まった。15日に発効するはずだが、昨年秋にもウクライナと親ロシア派は停戦を合意したはずであった。しかし不発。その後の交渉でも埒があかず、5千人を超えるという犠牲者が生じている。今回はドイツのメルケル首相、フランスのオランド大統領が調停役となって、ウクライナのポロシェンコ大統領とロシアのプーチン大統領が手をつなげるよう取り計らった。独仏にすれば欧州内の紛争の火を消して、かの中東にある過激組織対策に勢力を傾注したいと思っていることであろう。

ロシアが支援する親ロシア武装勢力がプーチンのいうことを聞くかどうかが問題だが、悲劇は一日も早く終わってほしい。
立ち上がり倒れて再び立ち上がる [2015年02月13日(Fri)]

fumihouse-2015-02-13T18_25_46-1-thumbnail2.jpg自己肯定感のベースになる「自己原因性」という言葉を最近はじめて聞きました。何らかのことに関して自分が原因になる感覚を持つこと。要は自分が行動を起こせば周囲に変化が起こり、自分には周りに作用する力があると知っていること。自分のことは自分で決められると自信をもつことにもつながります。

度が過ぎればワガママになってしまいますが、反対に過ぎれば「どうせ自分にはムリだ」と諦めが先に立つでしょう。かわいそうに、自己肯定感は満たされません。

かといって、私たちはいつもエネルギッシュな状態を保っていることはできません。自分を肯定しようにも、どうしようもない失敗にくじけることもあり、落ち込む感情をコントロールできないことも多々あります。そして、他人にどう見られているかが過剰に気になるのは、誰しも同じことかもしれません。それも含めて自分のあるがままを受け入れて、さぁ再出発だ!と弱る心にムチを当てるときもあるでしょう。

日本青少年研究所が行った各国比較調査によれば、「自分はダメな人間だと思うことがあるか」という質問に対して、8割以上の高校一年生が「ハイ」と答えているといいます。謙遜と受け取る好意的な解釈もできるかもしれませんが、この行き過ぎた「自己否定の国」日本。なんとかしたいものですね。
人はみな音を奏でて永遠に [2015年02月12日(Thu)]

fumihouse-2015-02-12T18_25_56-1-thumbnail2.jpg音は一瞬だ。音はすぐに消え去る。音を重ね合わせて音楽はできている。演奏者の想いをのせて音は深まり、音楽は完成する。しかし音は消える。音を奏でる演奏者は人間であり、人間は死ぬ。100%の確率で必ず死ぬ。宇宙にあっては人生など一瞬だ。音楽も同様に消えてなくなる。人は死ねば無に帰すのか、生きてきた価値はなくなるのか。人間の生きる一瞬一瞬の積み重ねに意味はないのか? 

映画『マエストロ!』は、その問いにひとつの答えを与えようとしてくれた。人がほかの誰かと響き合えば、意味をもち価値を生む。そして永遠となる。たとえ消えていく音楽であっても、調和して響き合えば、人の心に残る。一瞬であった音は永遠に生きると。

音楽は美しい。人が生き抜くことも美しい。それを余すことなく伝えてくれる映画『マエストロ!』であった。コンマスとして若き実力者を演じた松坂桃李、珠玉のフルーティストながらタメ口のねえちゃんを演じた歌手のMIWA、破天荒な天才指揮者の天道は西田敏行。ほれぼれとした。

落ちこぼれ楽団員たちが音楽の意味、自己の人生の意味を見いだし、ベートーベン第五番とシューベルト未完成を音にする。渾身の演奏で歴史を残す。鳥肌がたった。観てよかった。

(雨も音を奏でる。天と地を結び、命の源たる水を生きるもの全てに与え尽くす雨は美しい。適度に、を条件としてだが)
今はもう砂吹きおりて春めいて [2015年02月11日(Wed)]

fumihouse-2015-02-11T18_46_41-1-thumbnail2.jpg 今はもう砂吹きおりて薄日さし
      彼方も見えぬ春のおとずれ

「黄砂現象起こりし日に詠める」と添え書きをして出来たのが生涯初の短歌。高校生のころ、まだ子供じみたころでしたが、現代国語の授業でのことです。いまだに覚えているのが不思議ですね。春が来て、黄砂が降る。よほど嬉しかったのでしょうね。

寒波がゆるんで昨日から霞んでいます。今日は雨が汚れています。小雨が車のフロントガラスに落ちて乾いていくと、雨跡を残します。水を流してワイパーでこすると脇に濁りが流れます。

春のおとずれは、春の「音連れ」。いろいろな景色とともに、風や鳥の声が春の訪れとともに「音連れ」ます。週末に寒波がやた来ると予報されていますが、ひと雨ごとに春めいていくのが楽しめます。
スリッパを重ね置いたは不衛生 [2015年02月10日(Tue)]

fumihouse-2015-02-10T18_09_06-1-thumbnail2.jpgあるところにスリッパの重ね置きがしてあった。不潔だ、不衛生な地面を這い回った底と接する部分に足を入れるなんて言語道断だという人だっているかもしれない。私だってあんまり好きではない。

そのスリッパは靴箱に置いてはあるものの、二つ重ねになって横に一列に並んでいる。きちんと並べてあるから管理者は丁寧な人だと推測できる。しかし、「イヤだ」という人の気持ちに想像が及んでいない。

スリッパの重ね置きは、履く人の側に立ったものではなく、履いてもらう側の管理の都合である。場所を取らない(重ねるだけ重ねて段ボールに入れてあるのをよく見かける)という理由によって、汚い面と綺麗であるべき面が重なっているということは、管理者が来客を大切にしていないことを明示するものであろう。

ところで、スリッパ(slipper)というのは、紐のない容易に脱いだり履いたりできる室内靴のことをいうらしい。日本式のサンダル状のつっかけは、ミュール(mule)、または足を引きずって歩くのを語源としたスカッフ(scuff)というそうな。屋外と屋内の靴を分ける日本式の履き物の文化は悪くないと思う。外の汚れや雑菌類はなるべく室内に入らないほうがいい。もちろん万能ではないけれども……。
ご縁ありいつも出雲へさあおいで [2015年02月09日(Mon)]

fumihouse-2015-02-09T18_06_12-1-thumbnail2.jpg  いずも、
  ここから。

 あなたを取り巻く/ヒトやコト、
 そのすべてがご縁です。/素敵なご縁を求めて。
 出雲の魅力は/ここから。/いつも、ここから。

なかなかオシャレなコピーです。JR出雲市駅の構内に貼ってあるポスターです。出雲大社の遷宮・新装なった神殿にむかう巨大な松並木。砂利の参道に立つ若いカップル。八百万の神々がいるかもしれない深い山を背景にしたポスター。

島根・出雲市のダシャレを織り交ぜたコマーシャルでした。出雲へどうぞ、おいでくださいな。出雲まで来たならば、島根県内に足を延ばして山や海や島を目指して、あちらこちらに行ってみるのがいいでしょう。

(今日はこの冬一番の寒さ。とはいえ最低気温でマイナス2℃。風で体感温度が下がるとはいっても、たかだかマイナス5、6℃。北国に比べれば柔らな冬です。でも春が待ち遠しい)
泣いている赤子が泣くよひたすらに [2015年02月08日(Sun)]

fumihouse-2015-02-08T15_43_23-1-thumbnail2.jpg赤ちゃんが泣いている
この世の不幸を一身に背負っているかのように泣いている
母が抱いて、よしよしされ続けても効果なし
父はその横で荷物を持ち、為すすべもなく立っている
待合室には幸いに、文句を言ったり舌打ちしたりする輩はいない
赤ちゃんが泣いている
一身に不幸を背負って泣いている
困った母さん、待合室を出ていった
いいじゃないか、元気な泣き声だ
いいじゃないか、母や父のそうした姿勢があれば周りは理解してくれるさ
いいじゃないか、だいじょうぶだよ
いいじゃないか、幸せならば
おろおろと父さんも後を追った
空気がかわったおかげか、赤ちゃんは泣き止んだ
めでたし愛でたし
赤ちゃんが笑っている
この世のすべての幸せをわたしは持っている、と言わんばかりに笑っていた
トウが立ち時が進んで春が行く [2015年02月07日(Sat)]

fumihouse-2015-02-07T11_01_39-1-thumbnail2.jpg1月は「往ぬ」(行くともいう)。年末年始をにぎやかに過ごすうちに日は進み、寒波を幾度かやり過ごすうちに往ぬものだ。

2月は「逃げる」。節分荒れと言われる厳しい寒さの底を越えると、合間には春の気配を感じて嬉しいうちに逃げる。ついでにバレンタインデーのチョコを頬ばるうちに逃げる(恋人は逃がすな!)。

3月は「去る」。春一番が吹いて梅が咲き始め、桃や杏が咲き、近頃早くなっている染井吉野の便りを南から聞くうちに過ぎる。新年度に向けて慌ただしさと心待ちとを相半ば感じるうちに去る。

この三ヶ月は早いというより、速いと言ったほうがふさわしい。だから古の人々は、1月の「い」、2月の「に」、3月の「さ」。それぞれの頭文字をとってダジャレを楽しんだのだのだろうか。

早足で時は過ぎて、早くも今日は2月7日。2月は苦しいことに28日までしかない。焦ってはならぬと心に決めていても、おいおい余りに速すぎやしないか。少し手綱を緩めておくれ!と言いたくなってくる。

今年は平成27年、西暦でも略して15年。わが家の蕗の薹(フキノトウ)もお目見えした。年号にも薹が立ってきた。いやいや、単に年を取ったというだけのことか。
連呼せず恐怖を呼ぶな人の道 [2015年02月06日(Fri)]

fumihouse-2015-02-06T18_46_50-1-thumbnail2.jpgハリー・ポッターの物語で、魔法界を悪と恐怖と屈従に染め上げようとしたヴォルデモートのことを、「名前を言ってはならない、あの人」と魔法使いたちは呼んでいた。ハリーだけは恐れなかったが(というよりは、恐れまいと決然と断言しつつも震えていた)、他は名を呼ぶこと自体を怖れた。

名を呼ぶとは単に名前にとどまらず、体も精神も「あの人」のすべてを呼び覚まし恐怖を目の前に体現するものと、彼らは考えた。日本でもかつて天皇は名前で呼ばれなかった。死んでのちに謚(贈り名)が与えられた。畏れ多い人に対しては、洋の東西を問わず名を伏せるのが常道である。

さて、日本のマスコミ各社に対し、「去年の夏から国家を呼称する、かのテロリスト集団」のことを「○○国」という名前で報道しないよう求める運動がすすんでいる。

独善的で排他的、エキセントリックで狂信的な、かの集団のことを、米大統領も「暴力を正当化するために宗教を利用したカルト集団」と断じている。正式に国家として承認した国はなく、ムスリムからさえも、「イスラム教を詐称したただの犯罪集団だ」と鼻をつままれている。

この組織のテロ行為と人質殺害事件のせいで、すべてのムスリムが迷惑をこうむっている。あれらと同一視しないでほしい、差別し排斥しないでほしいと悲痛な声があがる。日本に住むムスリムに対して、無知と短絡的な姿勢から生まれる嫌がらせが発せられているという。

日本の外務省はかの組織のことを「ISIL」と呼ぶことに統一したことは正当だ。NHKをはじめとした報道機関も名称を変更すべきである。ニュースのたびに連呼することは、残虐な恐れと無用な差別を生むばかりである。ヴォルデモートは物語の中だけでたくさんだ。

(追記)2015.2.14
今夕、NHKのラジオニュースを聞いて気がついた。かの組織のことを「アイ・エス」と読んでいた。よろしいよろしい、それでいいのだよ。
言の葉に思いをのせてこっころこ [2015年02月05日(Thu)]

fumihouse-2015-02-05T18_59_30-1-thumbnail2.jpg子供というものは、親にとっても社会にとってもかけがえのない存在です。日本が将来に渡って栄えるか否かという視点から進めるのが少子化対策ですが、日本の存立そのものにかかわる問題と位置付けられるせいで、少々深刻な面持ちがあります。

少子化社会対策基本法では、「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現」することを目指しているものの、現実にはやたら深刻な気分になりがちな言説がまかり通っていると思うのは私だけではないでしょう。

・労働時間を短縮して雇用環境を変えないと大変でしょ?
・保育所を増やしてサービス内容を充実させなきゃ、親はとにかく大変なんだからね?
・地域全体でも子育ての支援体制を作らなきゃ、親たちは大変なんだからダメでしょ?
・母子保健な医療体制も充実させないと、これもいけないわねぇ、親は大変なんだからね、そうでしょ?
・教育にしても親に代わってたくさんの機会を子供に提供しないとね、親は忙しいんだから!
・子供が犯罪や事故から守られないと、安心して子育てできないよね、親は大変なんだから。
・なんといっても経済的負担を軽くしてあげなきゃね、親は大変な思いをしてるんだからね!

そんなふうに、何か子育てというものは、負担がかかって大変で金もかかるし、つまらない。何か社会全体のために親が犠牲になることを前提にしている気分にさせておいて、まぁ皆でカバーするから大変だけど頑張ってよ! そんなマイナスのメッセージを連発しているような気がしませんか?

子供は親にとって二つとないかけがえのない存在で、その子がいたからこそ、親も成長し幸せを感じられているというプラスのメッセージが少ないような気がしませんか?

それを強調するのが、島根県の「ことのは大賞」といえます。子供を大切に育てる社会、子供に気づきを与えられて親が成長する姿を言葉に託して、もう10年以上続いているのが、ことのは大賞です。今回わたしが気に入ったのは次の言の葉です。

 姉上京 急に関東 近くなる(小6)
 母さんに考えてもらった俳句が入選だ(高3)
 反抗期ねている顔は幼少期(中1)
 ねるまえに もうひとつだけ 話してもいい? (小1)
 「一生のおねがい」 もう何十回目だろうか(中1)

これは子供の側からの言の葉ですが、こんな子供と共に暮らしている親たちは幸せ者です。そして親自身が子とともによく育っているのだと思います。

(写真は去年のフキノトウ。今年もすでにお目見えしている)
踏切のさえぎるむこうにあの人が [2015年02月04日(Wed)]

fumihouse-2015-02-04T18_26_19-1-thumbnail2.jpgJR西日本の吊り広告から。ステキな詩だ。思いやりの志だ。かけがえのない人のために、安全でいこう、他人に注意をはらおうという気持ちにさせられる。

≪踏切は目的地ではなく、通過点。
 そう、あなたの大切な人は、
 踏切のむこうで待っている。
 だから、踏切では一旦停止。ルールを守る。
 踏切は、その先にある時間を守るもの。
 その先に待つ、大切な人の笑顔を守るもの。
 安全は、あなたのために、
 あなたの大切な人のために。≫

踏切とは、「踏面(とうめん)」の「切断」を短縮したものだ。踏面とはレールの上の面のこと。レールに道路が交差して、切断されて見えるから踏面切断。舗装された道路があるから枕木や砂利がなくなり、イメージとして踏面が切断される。明治人のイメージ力を感じられる言葉だ。

その踏切の先にあるのは、大切な人。あなたを待つかけがえのない人を悲しませてはならぬ、と広告は訴えかける。みんなの笑顔の時間が増えますように。
節分に春が見えたと喜んだ [2015年02月03日(Tue)]

fumihouse-2015-02-03T18_15_03-1-thumbnail2.jpg満月が見える。と思って今日の月齢を調べたら明日が満月だった。
茜色の夕焼けが見える。明日も続いて晴れてくる予感がしてきた。
金星が見える。澄んだ冬の西空に一番星で宵の明星が見えた。
青空が見える。冬型の気圧配置に震えた今朝までの曇りや雨雪が過ぎた。
東にも一番星が見える。金星が沈んだ後には全天一の明るさで君臨する木星が輝くだろう。
暗闇が見える。列車に乗ってると闇が辺りを包んでいくのがわかる。
人家の灯りが見える。急ぎ足で帰ってきたお母さんか父さんか。夕食の支度が進むのだろう。
月が見える。明るさをグンと増して雲をぐいぐい染めている。
春が見える。今夜は豆をたんまり食べて恵方巻をほおばって腹一杯になろう。今日は節分。明日は立春だ。

(写真は今夕の仁万の海)
見晴らして時と心を洗濯し [2015年02月02日(Mon)]

fumihouse-2015-02-02T17_39_00-1-thumbnail2.jpg高いところに上ると気宇壮大になる
高いところは見晴らせる
高い目線で今日の選択を省みる
高い視線で静かな日本海を眺めやる
心静かに喧騒を忘れる
夕暮れ時のこのひととき
今日を振りかえり明日を思い
悩みを思索し望みを確かめる
高いところに上ると気は大きく心は晴れてくる
高いところはわたしの心理をつまびらかにしてくれる

仁摩健康公園の最も高いところ=ローラー滑り台にて
おやすみとぐっすり寝たなら元気よし [2015年02月01日(Sun)]

fumihouse-2015-02-01T22_41_37-1-thumbnail2.jpg今日は朝も昼も夜もすべてに全力投球。
さすがに疲れた。
たっぷりと寝ることにした。
おやすみなさい(-_-)zzz