ひとは縁に触れるたびに、喜んでは笑顔になり、怒りに体を震わせ、哀しみに肩を落とし、楽しんでは絆を確かめる。喜怒哀楽は縁によって起こる。島根県那賀郡湯里村(今の大田市温泉津町湯里)に育ち、生涯を過ごした源次にとって、縁となるものは喇叭(ラッパ)だった。音楽とは無縁の木挽(こびき)の家に生まれた源次だったが、浜田の歩兵第二十一連隊の入隊を機に喇叭手となった。
小説『天を突く喇叭』(難波利三著,山陰中央新報社版「石見小説集」2010年)では、折々に石見地方の風物や自然の様子が描かれる。著者はあとがきで、≪私は勝手に「出雲は万事豊かなり、石見は万事質素なり」と信じ込んでいる。肥沃な出雲平野の恩恵に預かる出雲方面に比べると、地形的に不利な石見方面は様々な形でそれが暮らし向きにも影響を及ぼ≫すと。だから≪石見は出雲よりも小説になり易いのだ≫と述べている。
≪針葉樹の繁る箇所だけを黒々と残して、山はそろそろ冬支度にかかっている。谷底から吹き上げる風が小枝を鳴らし、峠の茶屋の前の僅かな広場をかき乱して枯葉や砂ぼこりを舞い立てる。風は冷たいが坂を登ってきた人々の顔は上気して、微かに湯気を昇らせた。≫
がっしりとした文体で、親しみやすい石見弁を交えて物語に引き込まれていく。郷愁が湧き立ち、旅をしたくなる文章ではないか。著者は邇摩高校商業科の出身であることが誇らしい。
そして縁した人は誰かといえば、東条英機。栄枯盛衰を地でいく陸軍のエリートであった。若い一時期を源次は 東条の部下として過ごした。無類の出世をし盛んだった東条と過去に接した源次を、同類として村人たちはもてはやし尊敬した。やがて、東条が首相を罷免され凋落する運命に置かれると、一転して東条と同様に源次は嘲笑される位置に落とされる。さらに衰えて東条が絞首刑になると、村人にとって源次もまた唾棄すべき存在となった。
村人たちは源次を理不尽にも毀誉褒貶の渦の中にたたき込んで、置き捨てる無情さを見せた。苦しい暮らし向きの村人にとって、源次と東条のありようは安逸で適当なる沈め石であったのかもしれない。
生まれた地域という縁、育てられた親という縁、影響を受けて尊敬する人という縁、結婚した女との縁、さらに山陰線が開通してのちの生活変貌という縁……風物や人物というさまざまな縁によって、人は幸せにもなり不幸も感じる。源次は兵役を終えてからは、静かな山で木挽きとして父の後を継ぎ、静かに生きていきたかったのに、周りはそうさせてくれなかった。源次を思うと、幸せとは自分自身の努力と信念ではいかんともしがたい場合があるものだと感じる。幸せになるためには、運も必要なのだと思う。