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砂浜に新生生物現れた [2023年08月11日(Fri)]

fumihouse-2023-08-11T21_26_38-1-thumbnail2.jpg『テオ・ヤンセン展』を楽しんだ(島根県立美術館)。砂浜に蠢く(うごめく)巨大な生き物のようなもの。プラスチックパイプとチューブ、結束バンド、ペットボトル、シートで出来ている。大きいものは高さ3メートル以上、長さも10メートルはある。ヤンセンはオランダの物理工学者にしてアーティスト。ストランド・ビースト(砂浜の生命体)の制作し、現代のレオナルド・ダ・ヴィンチと称される。

実演もあった。尺取り虫のように、ムカデのように、すり足で、足を上げて、意外となめらかに動く(前方向だけだが)。ヤンセンさんがオランダの広い砂浜で補修しながら試行錯誤する映像が面白い。楽しそうに一緒に歩き回っている。可愛らしいペットのような新種の「生命体」。わたしを含め、多くの老若男女が目を見張っていた。
塗り込めた時間を頼り一歩一歩 [2023年07月12日(Wed)]

fumihouse-2023-07-12T22_08_10-1-thumbnail2.jpgニセ物ではある。が、塗り込められた時間に感慨深いものがあった。徳島・鳴門の大塚国際美術館には千点余もの展示があるという。製陶技術の粋を凝らした陶板名画西洋美術の作成。窯元による陶器の製品は釉薬と窯の温度によって出来不出来があるというが、ここの技術は色合いから筆のタッチまで復元している(絵によっては平板つるつるのものもあるが)。陶板は色褪せずに、原本の色や肌合いを伝えてくれる。広い館内を五千歩は歩き回った。偽物とはいえ、じっくり眺めたくて、なかなか進めなかった。1点ごとの解説が専門の学芸員顔負けで、記述がしっかりしているというのもある。

冒頭の「塗り込められた時間」には、こんな意味がある。元本の絵やモニュメントといった傑作に製作者が費やした時間は莫大なものがある。それぞれにモデルとなった人物がいる。数限りない人が関わった歴史がある。原作者や関係者の周辺には家族がいて、友人がおり、上司がおり、侍女がいて、モデル当人のために費やす時間は幾何級数的なものとなる。作品が完成して陶製の複製が出来上がるまでの数十年、遠くは数千年の年月が過ぎる。実作者の工夫と努力はもちろんのこと、大塚製薬のグループ会社である大塚オーミ陶業株式会社の技術者たちが名画の一点一点を製陶で再現させた膨大な時間。この美術館が完成してから25周年を迎えたまでの時間と多くの観客の感嘆ぶり。過去と今が合わさって、塗り込められていることに感無量となる。楽しい時間を過ごすことができた。

(エジプトで出土したという「婦人の肖像」。二千年もの時間が塗り込められている)
今は冬ブエノスアイレス熱き潮 [2023年07月02日(Sun)]

fumihouse-2023-07-02T20_41_48-1-thumbnail2.jpgNHKFM放送の「ベストオブクラシック」とBS放送「クラシック倶楽部」の公開収録を楽しんだ。場所は安来・アルテピア大ホール。バンドネオンと弦楽四重奏団によるアルゼンチンタンゴである。アストル・ピアソラの曲が目白押しだ。「リベルタンゴ」で名高いピアソラ。伝統的なタンゴにクラシックやジャズを加えて新境地を開拓した。

「ブエノスアイレスの冬」 ギターでもよく弾かれる人気曲。ブエノスアイレスの冬景色は寒々しいものではなく、家族や友人同士が集まって暖かい人間模様を描く光景が想像される。
「オブリビオン」 好きな曲である。忘却の彼方にと題して、甘美で儚い夢を描く。柔らかいタンゴのメロディが気持ちをくすぐる。

両番組とも平日は毎日放送があるが、ディレクター氏によると、年4回だけ地方収録が行われるとのこと。あとはすべて東京近辺で収録される。地方で4回のうちの1つに入ったということで喜ばしい。

バンドネオンの名手・小松亮太氏、あれほどのひょうきんな構えから軽口のトークを織りなす人とは、写真を見るだけではわからなかった。まっ、ラテンのリズムが人柄にも影響するのだろう。演奏は実に見事なものだった。弦楽四重奏団のクァルテット・エクセルシオの演奏もまた名手ぞろい。

放送はラジオが8月10日(木)19時30分、テレビが9月8日(金)朝の5時。忘れないようにしなくては。

(ゼニアオイ(銭葵)はアルゼンチンタンゴの気分)
油絵に自画像バイク弥山裾 [2023年05月20日(Sat)]

fumihouse-2023-05-20T13_59_49-1-thumbnail2.jpg出雲文化伝承館できょう開幕した『春日裕次展』を鑑賞。氏はわたしの高校同級生。奥様も美術教師で娘の担任だったという縁もあり、オープニングセレモニーに参加し、初発のギャラリートークも楽しんだ。画風はバイクと自画像、とばかり思っていたが、女性や子ども、静物、マジシャン、風景などあり、意外と多彩である。

初期の「ネイキッド」が気になった。その名のとおり、むき出しの自画像の背景にバイク。表情は無機的で内面を抑えているようには見えるが、若いエネルギーに満ちている。点描や細い線の塗り込みでブルーを基調にした全体感が爽やかだ。1991年に東光展奨励賞を受けている。

2016年日展で特選を受けた「胎動」も印象深い。バイクの心臓部を背景に、上半身裸の若者が屹立している。自画像かと思っていたが、若い同僚教師であると氏のトーク。終了後、似てるね?と尋ねたら、人物画は結局何度も自分の姿を鏡で見直すから似てくるんだよと彼は言った。なるほど、やっぱり自画像だ。

人物像を描くのは苦しい。一方でバイクのエンジンを描くのは楽しいと氏は言った。静物というのは無生物もしくは死んだ体でありながらも、エネルギーがある。年月を超えて分解されて原子、素粒子にまで遡り、再び何かを形づくる根源となる。この世の存在すべてが、生成し安定し空に帰し、再びそれを繰り返す。そうした宇宙の成住壊空を感じさせる物のエネルギーを氏は表現したいのだと思った。特に好きな対象物については、掘り下げて眺めキャンバスに塗り込んでいくことがいくらでもできるのだろう。

人物画というのは、それがたとえ自己の肖像であっても、眺める自分と見つめられるモデル、そして超空間から凝視する別者の目も加えた人物の姿。そこに、時間経過で光が変わったり、当人たちに変化が生じて千変万化する。それらが絡み合って筆に迷いが生じる、そんなことが茶飯事なのではないかと想像した。

鑑賞後、アンケートにわたしはこう書いた。「初々しい頃から今に至るまで、志を変えず貫いてこられた氏の意志を感じます。厚く暑すぎずしなやかな意志です」と。書きなぐったので、「熱すぎず」を誤ったのはご愛嬌。

自己の表現を求め、試行錯誤を繰り返し、高校教師としての職責も勤め上げた。今も新しい扉を開こうと、ときに戸惑いつつも希望を抱き続ける……すなわち、青春の煌めきを存分に残している。氏にとってこの個展が新しい扉となって次なる光彩が見えてくる。『春日裕次展』の盛会を祈っている。

(出雲文化伝承館の瓦葺き屋根と欅の向こうには、出雲大社をいただく弥山(みせん)が見える。零れ落ちそうだった雨だが持ちこたえて、氏を祝した)
哀愁の城壁の音アランブラ [2023年05月16日(Tue)]

fumihouse-2023-05-16T21_57_24-1-thumbnail2.jpg『アルハンブラの想い出』は永遠の名曲(アランブラとも表記)。しかも最上級(わたしが思うに)。フランシスコ・タレガが130年ほど前に作曲し、多くのギタリストに弾かれた。ユーチューブやコンサートでも耳にする機会が圧倒的に多い。わたしだって弾く。何度聴いても弾いても飽きないところが魅力だ。

♪ミーレドーレミー♪ 冒頭はイ短調、後段はイ長調。繰り返してコーダから終局へ。バス音と中声部和音は親指が担当し、薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返し弾くトレモロ奏法でメロディとする。

アラビア語で「赤い城塞」という意味のアルハンブラ。イベリア半島を支配していたイスラム文明に対し、ヨーロッパがルネサンスを経て反転攻勢にかかる。イスラムが追い落とされた最後の牙城がアルハンブラ要塞。イスラム教徒にとっては望郷の象徴であったであろう。

トレモロは調子の波が大きい。練習を怠るとトレモロは弾けなくなる。ならば今夜もこのメロディを弾こう。

(シラーの花がトレモロと関係ある? ないけど、聞こえない音律が響いてきそう)
連休の素敵集まり時間過ぎ [2023年04月29日(Sat)]

fumihouse-2023-04-29T22_44_59-1-thumbnail2.jpg時折強風が舞う。雀がさえずっている。ギターの二重奏が始まった。門脇康一・卓人親子によるカフェにしかどコンサート。古民家を改装した素敵なこの空間は、鳥取県大山町の所子(ところご)地区にある。歴史的伝統建築保存地区として地域全体が、近世から昭和初期のムードに素敵に包まれている。

珈琲を淹れる音。よい香りが漂う。小畑オーナー夫妻による素敵なおもてなし。手を伸ばせば触れることのできるほどの距離で楽しむギターデュエットとソロの数々。なんと素敵な経験であろうか。

百メートルほど歩けば、牧草畑には雲雀が舞い飛び、伯耆大山からの裾野が緩やかに日本海に続いている。その向こうには島根半島の先端部がよく見える。牧歌的な眺望の中に、巨大で近代的な風力発電の風車が多く回っている。見飽きることのない素敵な風景。

コンサート終了後は門脇先生宅にてギターを手にしながらギター談義を続ける。なんと贅沢で素敵な時間か。たくさんの素敵が集まると、自ずと時間を忘れる。楽しく語り合い、大型連休の時間は素敵に幸せに過ぎていった。

(カフェにしかどの庭に咲くクレマチスもまた素敵)
春の海ひねもすのたりのたりかな [2023年01月10日(Tue)]

fumihouse-2023-01-10T18_30_15-1-thumbnail2.jfif正月にショッピングモールに行くとBGMとして必ず聞こえてくるのが箏曲。琴の清澄な音色、尺八の力強さ。この二重奏を聞くと厳かな気分になる。たいていは宮城道雄の「春の海」や「瀬音」。なぜ正月の定番になったのだろうか?

春の海が作曲されたのは百年近く前のこと。小学校において観賞用音楽として指定されているようだ(道理でわたしも知っている)。和風を強調する場面ではイメージがピッタリなのだろう。正月には、テレビ、ラジオも含め箏曲だらけと言っていい。商業施設では宮城道雄に尽きる。琴と尺八(たまにバイオリン)で奏でるゆったりした調べは、気分一新する正月にふさわしい。

じゃあ、どうして「春の海なの?」と尋ねられても、さあ、知りません。ひょっとして、与謝蕪村の句「春の海 ひねもすのたり のたりかな」から連想されて誰もが知るところになったのではないか、と想像する。でも答えにはなってません。

(和風の灯ではあるが、光源は蝋燭ではなく、純な和紙で覆われているのでもなかろう。和洋折衷なのだ)
レクイエム生きる命は明日求め [2022年12月31日(Sat)]

fumihouse-2022-12-31T17_45_59-1-thumbnail2.jfif『ドイツ・レクイエム』はブラームスの作曲。聖書から選んだ章句で構成され、人生の苦悩や儚さを歌い、神(主)への感謝を捧げる。生者のためのレクイエムとも言われる。

 主よ、教えてください
 私の命に末あること
 私がこの世から必ず去ることを
 主よ、あなたの御前では
 私の命は無に等しいのです
 どんなに確固たる生き方をしていようとも
 影のようなものです
 影がごとく移ろい、虚しく思い悩む

主を信じようが信じまいが、ひとには誰でも終わりがある。個の命は尽きても種としては存続し(SDGsで説かれるとおり人類だって危ういが)、宇宙に溶け込んだ個の生命は縁を得て再びこの世に現出すると私は思う。まるで年の終わりに続いて新しい年が始まるように。忙しかった大晦日が残り6時間となった。来年に希望をつなぐ、正月休みでありたい。

(大晦日夕暮れ時の蝋梅。思えば日が長くなったものよ)
スペインの弦に爪弾く神なれば [2022年12月05日(Mon)]

fumihouse-2022-12-05T10_23_03-1-thumbnail2.jfifアンドレス・セゴビアが、アメリカのホワイトハウスで1979年に演奏した映像を、ユーチューブで見ることができる。クラシックギターの奏法からレパートリー、楽器の構造、演奏会のあり方に至るまで根本的に変革し、栄華と名誉を極め、長寿を全うした(1987年に94歳で死去)。現代ギター奏法の父とも言われるが、一般に「ギターの神様」と呼ぶ。天才中の天才である。

キレッキレのスケールやアルペジオが硬質な音で響いたかと思えば、甘く深深たる音に転じる。慈愛と陶酔、決意と飛翔、さまざまな思いが心に去来する。一台のギターから紡ぎ出される多彩なセゴビア・トーンに酔いしれる。今でもあらゆるギタリストの頭にはセゴビアがいる。

ホワイトハウスの演奏会では86歳。もはや昔日の面影はない。音はかすれ、ミスタッチは多く、キレはない。だが、聴衆はかつてのセゴビア・トーンをレコードで聴いて知っている。老いさびて丸まった背中であっても、伝説の「神」を眼前にしたときに、かつての鮮やかさが蘇ってきたのではないだろうか。

そして「神」は老いて衰えてなお、ギターを手に取り日々に研鑽を積んでいる。その姿に生涯学び技術を深めることの大切さを感じたに違いない。セゴビアは練習中に心臓発作で亡くなったという。ギターの「神」はギターとともに逝った。

(絢爛たるカーネーションのとカスミ草の取り合わせ。セゴビアの演奏は、さらに百倍豪華と言えるかも)
奏でたしアンサンブルと紅葉と [2022年11月16日(Wed)]

fumihouse-2022-11-16T18_11_46-1-thumbnail2.jpgギタリストの浜野茂樹氏がこう述べている。

≪「独奏は一人で行うアンサンブル」とよく言われますが、正にその通りだと思います。音楽の源流には諸説がありますが、 おそらくは豊作のお祝いだったり、あるいは宗教儀式のお祈りだったり、いずれにせよ人が集まったときに歌ったり踊ったりしたことから発達していったことでしょう。やがて、その中に特別上手い人が現れ名人芸のようなものを披露したことから独奏が発達したと思われます。それが「独奏は一人で行うアンサンブル」と言われる所以なわけですね≫

最初は木の枝で空洞のある幹を叩いて響かせた(のかも)。切断して動物の皮を張ったら太鼓になった。草笛にリード楽器の源流があり、筒に息を吹きかけて管楽器ができた。糸の張りの強弱で音程がわかったら弦楽器が登場する。リズムだけの音楽から和音を見つけて、アンサンブルの出来上がり。人類の楽しもうとする能力はすばらしい。

さらに浜野氏はこうも述べる。

≪特に、ギターのように独奏が得意な楽器は一人で完結できてしまうことが裏目に出てアンサンブル経験を積みにくい傾向もあるわけです。≫

なるほど、たしかにそうだ。わたしのギターソロが上達するようアンサンブルに目を向けよう。先月マリア・エステルのギター演奏会の前座で、シバの女王やイン・ザ・ムードの合奏でステージに立ったとき、実に楽しかった。

小さなデュエットでもいい、アンサンブルを楽しみたい。独奏するのがもっと楽しくなる。そして独創的な演奏になるのではなかろうか。私なりの解釈で正統に、かつロマンチックに。ただし、くれぐれも独走してはいけないよ。独りよがりになっては誰も寄りつきやしない。

(季節と木々と空が見事なアンサンブルを奏でた雲南・八重滝)
クラシックサロンでギター胸響く [2022年11月04日(Fri)]

fumihouse-2022-11-04T15_30_48-1-thumbnail2.jpg二人のミニコンサートを開きます。主催は山陰ギタ弾こ会。11月27日㈰ 14時、カフェ・ローチ(JR安来駅から1キロ米子寄り)。「二人」とはわたしと藤田さん。その日に向けて、渾身の練習の日々を続けています(思うにまかせませんが)。

・アルハンブラの思い出(タレガ)
・カヴァティーナ(マイヤーズ)
・モーツァルトの魔笛の主題による変奏(ソル)
・大聖堂(バリオス)
・鐘の音(ペルナンブコ)
・太陽がいっぱい(合奏)(ニノ・ロタ)

クラシックギターの音色はなぜ胸に響くのでしょうか。その音色が心の回転木馬を巡らせると、言う人がいました。胸や腹に心が宿るとするならば、クラシックギターは「心の歌」を表すにふさわしい、と私はかつて書きました。

巨大な音は出なくとも豊穣な歌がロマンチックに響く……深い音色で心弾ませ、何かを呼び覚ます……ギターは撥弦楽器ですから音はすぐに減衰しますが、自分を見つめ、過去の愛おしい記憶をよみがえらる縁(よすが)に、その甘い音がなっていくと思うのです。ほんのわずかでもいい。無心に演奏に集中し、聴く人に共鳴してもらえる時間になるよう願っています(約1時間の演奏とおしゃべりです)。

コロナ対応のため、事前の人数掌握が必要です(総数は25名以下)。ご参加くださる方は、わたしまで一言お伝えください。
月が過ぎあの日あのときグルーブで [2022年11月01日(Tue)]

fumihouse-2022-11-01T08_02_39-1-thumbnail2.jpg現代ギター作曲家で演奏家のレオ・ブローウェル(今は作曲のみ)が作った『11月のある日』は、ギター弾きにとって定番とも言える、ロマンスある曲です。

ラシドードーミードー……と短調で始まると、哀調のあるうねりがグルーヴ感を醸し出します。哀愁なのにグルーブ? と思われるかもしれません。しかし演奏していると身体を揺らしたく感じがあるんです。哀しみと楽しさが同居していくんです。

それもそのはず、落ち着いたあとは一転して、ラテンのリズムが激しく鳴ってきます(ブローウェルはキューバ出身)。悲恋か惜別か。哀しみの前のまばゆい体験が、作曲者を揺るがしたのでしょう。

この曲は4年ほど前のギター教室発表会で弾きました。ギターを再開して半年経った頃ですから、難しい曲は弾けません。つまりこの曲は技術的にそれほど難しくないのです(もちろん上質な演奏をするのは困難ですが)。かつ美しい。多くの人が好むのは当然です。

この曲は映画音楽です。半世紀ほど前の同名タイトルのキューバ映画の主題曲だそうです。『11月のある日』とは、どんな一日だったのでしょうか。明日から11月。わたしなりの、11月のある一日をイメージしながら弾くことにします。

(11月といえば、見事な菊だな)
楽しくも自由になりたし爪弾いて [2022年10月22日(Sat)]

fumihouse-2022-10-22T23_04_21-1-thumbnail2.jpg浜田市立石正美術館は日本画家・石本正の功績を観覧できる素敵な場所である。イスラム建築の宮殿のような回廊と塔、入口の枝垂れ桜の巨木、フレンドリーな学芸員たち。少し夏がぶり返した日差しの中で魅力的な環境を楽しんだ。

石本正というと、薄い瞳・切れ長の目、通った鼻筋、形の良い胸を惜しげもなくさらした裸婦のイメージが強烈である。にぎにぎしい舞妓の群像を描く作品も印象が深い。しかし、それは一部でしかないことがわかる。魚や花、木々、静物など丁寧なタッチで静謐さをたたえている。なおかつ水面下には情念が渦巻いているようにも見える。

画伯のモットーは「自由に、楽しく」だそうだ。こんなメッセージを残している。

≪絵を描く時はがんばったらいかん。がんばろうという気持ちがあると、余計な力が入って自由な発想の絵は出来なくなる。自分は、絵を描くのが楽しくてならない。楽しいから、人に言われたり、教わらなくてもいろんな工夫をして描いてきた。自分なりの発見や工夫が絵を描くことを楽しくする。肩の力を抜いて、モデルと向き合って、その個性や美しさを感じることが大切だ。≫

石正美術館ではギタ弾こ会の浜田交流会が開かれた。わたしの演奏は自由だったか? 楽しくできたか? というと自信はない。画伯の言葉のとおり「肩の力を抜いて」、その曲の「個性や美しさを感じることが大切」なのだ。得るところの多いひと時であった。

(浜田に向かう自動車道の沿線には、シロガネヨシの穂が風に揺れていた)
永遠の名曲なれど難曲よ [2022年10月13日(Thu)]

fumihouse-2022-10-13T19_18_56-1-thumbnail2.jpgクラシックギターの初心者向けだと思う人が多いけれど、難度の高い曲がある。名画『禁じられた遊び』の主題曲『愛のロマンス』である。1弦から2弦、3弦と順にアルペジオを鳴らす。ホ短調の調べがもの悲しい。

少女ポレットと少年ミシェルが十字架作りという「遊び」に熱中していく。死の意味を解さないポレットにとって、その遊びはドイツ軍の機銃掃射で殺された両親への鎮魂となったのだろうか。いやそうはならない。ママがいない寂しさを紛らわすものでしかなかった。彼女にとってママとパパはどこかに姿をくらましているだけなのだから。それがまた観るものの哀愁を誘う。

ナルシソ・イエペスが弾く愛のロマンス。もう150年くらい前に作曲された曲である。映画が封切られた1952年以降、この曲はイエペスの代表曲となり、「禁じられた遊び」と通称されて、それはクラシックギターの代名詞となった。

テクニック上、始まりは易しい。取っつきやすい。ところがセーハが随所に出てくる。指を大きくストレッチする箇所では音が出ないことも多い。だから一曲弾くたびにヘトヘトになるし、完璧に弾けたためしがない。しかも、皆さんがよく知っているとなると、要求水準も高い。だから難曲である。それでもわたしは禁じられた遊びに挑む。

何十年も前、イエペスが存命の頃、東京での演奏会でサイン会が開かれた。プログラムにサインしてもらう。握手をした。にこやかな笑顔で彼は応じてくれたイエペスおじさん。柔らかくて温かくて、大きくない、むしろ小さな手だった。あのサインどうしてしまったんだろう。
ピアニシモ弱くあっても強い音 [2022年10月10日(Mon)]

fumihouse-2022-10-10T23_28_26-1-thumbnail2.jpgマリア・エステル・グスマンのギター演奏会。繊細と緊張感、解き放たれた開放感。ビアノシモの弱いタッチが客席の遠くまでよく聴こえる。観客が耳をすまして聴き入っているのがわかる。倍音が響いて遠達性が強いのであろう。

初曲が、G線上のアリア。続いて、アルハンブラの思い出。いずれも強い音はない。ピアニシモで始まるアルハンブラなど初めて聞いた。胸に響く澄んた音、硬い音と甘い音のメリハリ、効果的なテンポの揺れ・・・。ホントに凄い演奏に聴衆は魅了された。

指が的確に動く。まるで蜘蛛とかカマキリのように指板上を動く。一度食らいついたら離れない! そんなしつこさに併せて軽やかで優美なタッチがある。羽衣に舞う天女のようだった。

決して大きくない手、細い指、それでも弦を捉える。まるで、勝手に弦が指にまとわりつく感じだろうか。綺麗な運指をじっと見つめるうちに、指がグ〜ンと伸びていくような錯覚が起こる。わたしもあんな指がほしい。柔らかなピアニシモのタッチがほしい。

マリアさんの演奏を聴くと、楽器を鳴らすのにやたらと力は不要だと思う。素直に諦めず、柔らかくゆったりと、ゆっくりユックリ練習していこうと思った。聴き惚れる演奏会、実に良い体験だった。

前座で行ったアンサンブルの演奏。不本意なところもあったが、合奏の楽しさを何十年ぶりかで体験できた1日でもあった。

(演奏会場の米子市文化ホールに咲いていた、ヤリゲイトウ)
北斎を見たくば松江に来るがよし [2022年06月05日(Sun)]

fumihouse-2022-06-05T16_12_55-1-thumbnail2.jpg島根県立美術館がリニューアル。新コレクション展には豪華なる葛飾北斎コレクションの一部が展示された。故永田氏から寄贈された膨大な作品群を加えて1600もの北斎作品があるということだ。毎月模様替えするというが、全部見るためには3年かかる勘定になる。

初回展示でわたしの目を引いたのは『赤壁の曹操図』。赤壁の戦にあって曹操は大敗するわけであるが、直前の曹操は機嫌が良い。長い槍を持って戦船でポーズをとっている。この戦いでは一敗地にまみれるが、やがて戦国の世を駆け上って覇者となり、多くの国を従える。この絵では曹操は王者としての風格も見せる。

新しい試みとして「かぞくの時間」が設けられていた。子どもが大きな声を出してもよし、とする家族優待時間である。何人かの子どもが父母とともに楽しげに展示物を眺めていた。ねぇねぇと母を呼ぶ子の姿が微笑ましい。

新しいのは他にもあった。入場料を払ってもらうのは半券のチケットではなく、QRコード付きの紙。入口で読み取り機にかざす新システムが導入されている。でもキャシュシュレスではなく、キャッシュのみの決済。ここはなぜか旧態依然。

(美術館横の湖畔に出た。この日の宍道湖は凪いで透き通っていた)
コンクールガチガチドボンフラフラよ [2022年05月03日(Tue)]

fumihouse-2022-05-03T22_14_20-1-thumbnail2.jpg第30回の佳節を迎えた山陰ギターコンクール。初日のきょうはジュニアとシニア、シルバー部門が行われた。わたしは初参加。シニア部門でヴァイスのファンタジーホ短調を演奏した。

ほんの15分前の練習では難なく弾いていた箇所を間違える。空振りしたり、違う弦を弾いたりして、こんなはずじゃない!と思うことの連続であったが、ともかく止めない、流れをブチ切らないように努めて最後まで弾ききった。

わたしなりの情念を込めて訴えるものを感じていただけたとは思うが、いかんせんミスタッチが多過ぎて賞とは無縁。3年前のプロフェッショナル部門で優勝しプロ転向した宮川春菜さんのコンサートを聴いてから(異次元の音色、強弱のメリハリに驚愕)、用事もあったので審査結果を待たずに帰路についた。

帰宅後参加者から知らせがあった。なんと奨励賞をいただいたとか。3位までの入賞ではなく、さらに精進を望むという意味合いで選外ではあるが、それなりに評価されたということだ。もっとガンバロっと。

明日は中級、上級部門とプロフェッショナルの予選と本選がある。わたしは役員の一人として皆さんのお世話をする。明日も楽しいギター漬けの一日になる。

(コンクール会場の米子市公会堂近くに咲いていた、太陽の花ガザニア。明日も良い天気)
トレモロが甘く引き立ちああ無常 [2022年02月25日(Fri)]

fumihouse-2022-02-25T19_11_19-1-thumbnail2.jpg風呂上がりにギターを爪弾いている。家人が近くでドライヤーをかけ始めると、わたしが弾く「アルハンブラの思い出」が変身する。トレモロの音は甘く粒ぞろいで極上のものとなり、親指が奏でる音は力強くかつ切ない響きに満ちる。まるで、亜麻色の髪の乙女が目の前で優しく舞い歌うかのような風情である。

ところがドライヤーの音が消えるとどうだ。トレモロにはカシャッと爪が当たる音が混じり、粒が立たなくなる。親指は粗が目立ち、強弱をつけたはずの音にメリハリがない。あのトレモロはどこへ行った? 幻と消える。悲しいかな! 先は長いが、今ここにも楽しみはある。ギターの響きは美しい。
繊細な星から届くギターの音 [2021年12月21日(Tue)]

fumihouse-2021-12-21T18_18_08-1-thumbnail2.jpgアンドレス・セゴビアはこう述べています。ギターは小さなオーケストラ、と言ったベートーベンの言葉を本歌取りしたものでしょう、多分。

≪ギターはオーケストラに似ていますが、その音は、地球よりも小さくて繊細な惑星から届いてくるかのようです≫

本歌取りとはいっても、追従しているわけではない。バラエティに富んだ音質と深みに彩られるギターの音楽は次元が違うと言いたいのでしょうか。もちろんオーケストラの音楽がつまらないというのではない。それとは異質の魅力がギターにはあります、多分。

惑星からの音を届けるためには、鍛練が必要です。剛力がいり、芯のある微細な音も出せなくてはなりません。テクニックを学び、伝えたい何事かを聴き手にわかってもらいたい。さあ、今夜も練習に邁進です。もちろんやるべきことは、しっかりとやらなくてはなりませんね。

(ほかの星からやってきたブロッコリー、てなことはない)
懸命に仕事はステージしめすとき [2021年12月09日(Thu)]

fumihouse-2021-12-09T18_14_59-1-thumbnail2.jpg≪「仕事はステージ」。練習する毎に理想は高くなり、そのステージに向かって猛練習します。毎日の生活に張りが生まれ充実してくるものです。
 ですから演奏できる人はプロ、アマを問わずギター演奏の「仕事はステージ」と言った訳です。私は長い間この言葉をつぶやいてきました。さぁ!発表会に向けて「仕事はステージ」です≫

これは私のギターの師匠である門脇康一氏の言葉である。「仕事」とは生計を立てるための職業的仕事ではない。何かを作り、成し遂げるために目論見をし努力を傾注すること。行動の結果として、期待した業績をあげることもあれば、失意に沈むこともある。その仕事をステージで行う。スポットライトを浴びるステージもあれば、1人の聴衆を前に練習の成果を示す演奏もある。人前で弾くことはすべて、ステージ。「仕事はステージ」を楽しみたい。

思えば、人生はステージである。さまざまな場面がある。満場の目にさらされて緊張に震える場があるかもしれない。客席に人がいないときもあるだろう。時事刻々のステージを楽しむのは私、捨て鉢になってふて腐れた態度で過ごすのも私。広い意味でどんな「仕事はステージ」を経験するのか。すべては私の意思と力と運にかかっている。

(錦に染まる秋の葉は使命を終えて最期のステージに色づく)
大聖堂ああ宇宙に収まる我が意識 [2021年11月13日(Sat)]

fumihouse-2021-11-13T23_16_50-1-thumbnail2.jpg風邪による体調不良は収まり、門脇教室の発表会に参加した。曲目はアウグスティン・バリオスの『大聖堂』。時折激しくなる咳の発作とともに、ここ数日酷くなった肘痛が気になった。何よりも数日ギターを満足に弾いていないのが心配だが、昨夜書いたこと、「しゃかりきにならず、のんびりゆったり」でもって、朝のうち数回通し練習をし、不安なところを繰り返す程度にして会場へ車を走らせた。

大宇宙の静けさを集めたかのような1楽章の音律。聖なるものと日常が交錯し掛け合う2楽章の和音。端正なたたずまい3楽章の詩心。わたしが夢想するセゴビアが弾く大聖堂には程遠いが、今の技量でわたしらしくの演奏が精一杯できた。

完璧に出来たことが一つある。ミスタッチしても弾き直しはしないこと。弾き直すと楽曲が止まる、いや引き千切られる。自分は一部満足しても客観的には破砕して、聴く者にはぱっくりと口を開けた千切れが無残に印象として残る。音が違うとか空振りがあっても、さらりと続ければ音楽は一連のものになる。ミスタッチは軽いひび割れ程度ですむ(プロはそうも言ってられないので辛い)。

ぶっつけ本番だったが、不思議と落ち着いていた。ホールのスポットライトを浴びながら、第二の自分がいて、客観的に演奏を眺め客席の様子にも注意が向いていた。第一の自分は曲の流れや世界観に浸っていた。もちろん練習で間違えるところは本番でも上手くいかないが、それは置いて次の音に没入する。特に3楽章は最近身近で亡くなられた方々が思い出されて追善回向の気持ちが湧いてきた。最後の和音Bm-5では満足感に溢れて終着することができた。

練習できなかったこと、腕が痛いこと(曲の合間に左手をブラブラ)、咳の発作が起きるという不安(出ず)の中で、開き直って演奏できたのだと思う。手が緊張で震えることもなく、現在の技量としては存分の演奏ができた。ゾーンに入った状態にあったのだと思う。集中力が高まり、感覚が研ぎ澄まされながら演奏に没頭する状態が表れた。いつもこうはいかないが、何人もの方からお誉めの言葉をいただいて収穫を得た。さらに集中し工夫する練習を続けよう。

(我が家のダイヤモンド・リリーが、開き直ったかのように咲いている)
いざ本番この一本に定むべし [2021年11月11日(Thu)]

fumihouse-2021-11-11T08_20_49-1-thumbnail2.jpg兼好法師は徒然草に習い事の妙を説いている。

≪ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的に向かふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。のちの矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と言ふ。(中略)道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕べあらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだかたき≫

「二本の矢を手に持つな」とは厳しい指摘である。二本目を当てにして最初の矢を疎かにする。中るか中らないか、回数で確率を測ると二分の一。すると気持ちが緩む。実際にはなかなか中らないものだ。一本ごとに中る確率を高めないことには何十回射ったとしても同じこと。当たっても単なるまぐれ当たりで技量の向上には結びつかない。この一本の矢で!という決意が大切なのだ。

芸事に限らない。日常でもよくある話。きょうはできなかったが、あしたがあるさ。あしたはあしたで再びまたあした・・・ありがちな話。やがてやろうと思っていたことすら忘れてしまう。あるいは矢の督促が来て慌てておざなり仕事で済ます。こうした怠けの所業の多いことよ。

ギターの練習でも同じことが言える。一人でする練習は何度でも繰り返しが可能だ。間違えたら、そこだけ弾き直して次に進めばなんとなく弾けていると錯覚する。少し不安のある運指でもそこそこ弾けると思い込む。ところが本番を迎えると、弾き直して済ませた箇所は同様に間違える。つまり繰り返し、間違える練習をやってきたことになる。不安な箇所は緊張してやっぱり間違える。かくして、こんなはずじゃない!という思いで集中力は削がれて音楽はズタズタ。終わったときには、満足感どころかやっと済んだという解放感だけという無惨な結果になりがちだ。そうならないためにも、「この一矢に定む」と真剣な緊張をもって練習に励もう。明後日は門脇教室の発表会。

(白いシュウメイギクも、集中して秋を明るく照らしていた)
お手軽につまむは音に深みなし [2021年10月12日(Tue)]

fumihouse-2021-10-12T17_54_38-1-thumbnail2.jpg日本の女流ギタリストの先駆け、小原聖子氏がこのように述べている(ブログ『小原聖子のひとり言』)。

≪味わい深い、充実した音を聴かせてくれる人々が減ったように思います。なんででしょう?
奏法も何か変化したなと思える人も多く、一番気になったのは和音の弾き方、指を揃えて弦をつまむ弾き方になった人が多かった事!
私も帰ってきて、関節を使わない、おつまみ奏法を試してみました。
まあ楽器が鳴らない事、ろくに鳴りません。
何故もっと和音感のある厚みのある、豊かな響きを求め無いのでしょうか≫

つまみ奏法ではない和音の弾き方ってどんなだろう。先日のレッスンで門脇先生に尋ねてみた。

まずはセット奏法。すなわち弦に指をプランティングして、弾力をもって第一から第三関節まで全て使って滑らかに弦を弾く。そしてリリースと同時に手指の力を抜くと遠達性のある音になると。さっそくやってみる。音に深みがあり調和がある。ギターが鳴っている。反対に指でつまんで引っかくと、瞬間の音は大きくても荒く耳障りだ。

しかし違いはほんのわずか。しかも安定して出来るわけではない。ひとつのタッチごとに音を聞き分けながら、基礎練習を重ね、実際の演奏でも再現することが課題だ。そうすることで丁寧な良い音楽になる。ギターが美しく豊かに鳴り響くよう望んでいる。

(小粒でも山椒の実のようにピリリとパンチの効いた音色を聴かせたい)
豊穣な淡い神秘の音なれば [2021年09月30日(Thu)]

fumihouse-2021-09-30T19_58_17-1-thumbnail2.jpg今夜もタレガのことを書く。120年も前の夜に奏でられたタレガの演奏を新聞は次のように評した(フランシスコ・タレガ伝,手塚健旨著,現代ギター社,2021年)。

≪この楽器はデリケートで、きめ細かく、淡い神秘さを漂わせ、夕べの調べを醸し出す。また、優美な色彩の変化、ビロードのような音色、柔らかな表情、耳に心地よい温かさ、精神の安らぎがある。ギター、それがタレガによって弾弦される時、それは何か楽器を超えた存在になり、音楽家の感情のリズムを揺さぶるひとつの生き物になる。タレガはこの楽器の秘密を知り尽くしており、その素晴らしい天分によって、和音、 ハーモニー、響き、秘められた色彩、隠された音を一つも逃さない≫

豊穣なる音色、和音の響きを求めて、今夜もわたしは爪弾く。残業して遅い列車でこうして書きながら、今夜も良い音を目指して頑張ろうと思う。甘くもあり、固く響き、柔らかに耳に入ってくるギターの音を求めて今夜も弾こう。道は遠いけれども、今だって十分に美しい。楽しくてたまらない。

(キバナコスモスも美しい。目に優しく秋の短日の光を放っている)
ゆっくりと練習すれば上達よ [2021年09月29日(Wed)]

fumihouse-2021-09-29T20_11_28-1-thumbnail2.jpg弟子のホセフィナ・ロブレドの父親に対し、タレガは手紙を送った。

≪ホセフィナはあせらず、根気よく練習すると、どこまでも上達します。ゆっくり練習することが上達の近道で、もしそれを怠ると、たとえ3世紀生きたとしても良い演奏を身につけることは不可能です≫ (フランシスコ・タレガ伝,手塚健旨著,現代ギター社,2021年)。

タレガがギターを、単にかき鳴らす伴奏楽器としての存在から芸術的な独奏楽器として地位を上げた功績は大きい。タレガがいなかったら、名曲の数々は生まれず、超絶したテクニックでもって人々の関心を呼び起こせなかった。そのタレガが「ゆっくり練習することが上達の近道」と言っている。その言葉に嘘はない。

(まろやかな小紫の果実。クラスターとなって密になって成長する)
表現し誰かに見てもらおうよ [2021年09月25日(Sat)]

fumihouse-2021-09-25T13_39_52-1-thumbnail2.jpg書を絵画化し現代アートにまで昇華させた芸術家・紫舟さんがこう言っている(9月19日付け聖教新聞「スタートライン」)。≪表現者の先輩から教えられた、「表現者は人に見てもらうことでしか成長しない」との言葉を支えに、自身を鍛えました≫と。

なるほど、「人に見てもらう」か。文章を書く、詩歌を作る、デザイン画を描く、企画書を構成する、楽器を演奏する、パフォーマンスをする・・・あらゆるものは表現である。

一人称の立場から眺めるだけでは自己満足に終わる。自己満足でも悪いことはないのだが、表現の幅を広げ弱点を知るためには、二人称の立場の他人から批評をされ褒め称えられることが必要だ。そこから表現者はエネルギーを得る。ある時は天にも昇り、ある時は奈落に落ちる。確かに、何事かを表現しようとする者は他人に見られて成長する。秋は文化祭や運動会など見てもらう機会も多い。ガンバロウ。

(キクイモの花は、それなりに芸術的。黄が秋空に映える)
通したら上手になりたし出来ません [2021年09月11日(Sat)]

fumihouse-2021-09-11T21_42_38-1-thumbnail2.jpg曲を始めから終わりまで通して弾く。これが楽しい。楽譜を四苦八苦して読む、運指を工夫して書き込む、試行錯誤を繰り返して頭と指に覚え込ます、難しいところもとりあえず形にする・・・その苦労の末に(もちろん楽しみだが)通して弾けるようになる。

ところがこれがマズい。上手く弾けないところがあっても、続いて好きなフレーズにうつる。快感に酔いしれながら弾き続ける。終わりまでいく・・・気持ちいい、けど上手くいかないところはそのまま変わっていない。でも通しているから弾けてるような錯覚に陥る。

地味で辛いが、弱点を繰り返し繰り返し練習する。指の置き方、肘の出し方、体の傾け具合、呼吸など駆使して弾ける配置を探しだす。安定して再現できるように繰り返す。それが大事。

(ギタ弾こ会in浜田の帰り。大田・五十猛の海岸は太陽の妖気を吸収する雲のようであった。わたしの演奏は残念(/。\)
ギター弾きセロの音色を目指しつつ [2021年09月08日(Wed)]

fumihouse-2021-09-08T18_12_08-1-thumbnail2.jpg低音弦はチェロのように響かせる・・・ギタリストが目指すところであるが、そもそも楽器が違う。ギターは撥弦楽器で、チェロは擦弦であって音の出し方からして違う。それでも良い楽器、良い弾き手はサウンドホールから甘くて伸びのある芯の強い音を出す。

チェロを「セロ」と言ったら、違和感があって良い音などしないように思ってしまうのだが、昔はそう表現したのだから仕方がない。『セロひきのゴーシュ』(宮沢賢治作)はチェリストである。

リズムが悪く、音が合わず、演奏に感情がこもらない。金星音楽団の公演は近いにもかかわらず、第六交響曲は仕上がらない。指揮者には叱られてばかりだ。そのゴーシュが成長していく。演奏技術はもちろんのこと、人間的にも慈しみの心をもった青年として向上する姿が描かれる。

ゴーシュは悔しかった。
≪粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾きはじめました。≫

帰宅しても必死だったゴーシュ。不思議なことにカッコウやタヌキ、ネズミなどと夜中に交流するうちに、演奏上の弱点を知らぬ間に克服していく。何よりも自分の演奏が動物たちを癒していることに気がつく。最後に大観衆を前にして喝采を浴びることとなった。

合理的な練習を根気強く続けて、情景や人を思い浮かべながら本気になって弾く。すると、聞く人に音楽が届く。そして、本気になって聴いてくれる。そんな音楽を奏でたい。
演奏を真剣勝負で夕日向 [2021年08月28日(Sat)]

fumihouse-2021-08-28T21_17_15-1-thumbnail2.jpg老練な演奏あり、エネルギッシュな演奏あり、かわいらしい演奏あり、緊張して縮こまった演奏あり、ギターの強さと甘さを存分に引き出した演奏あり・・・きょうは安来にあるアルテピア中ホールにおいて山陽、京阪神、四国からも参加者を加えて数十名が演奏された。山陰ギターコンクールのジュニア、シニア、シルバーの各部門が行われたのである。わたしの役割は演奏者の誘導役。合間にモニターから流れる演奏に耳を傾け、舞台の袖で出演者に目を凝らした。

緊急事態宣言が頻発するコロナ禍にあって各地から出場者が集まって大丈夫か? と心配するなかれ。確かに急遽出場を取り止めた方もいる。しかし、舞台は広い。控室、練習室での間隔は十分だ。密ではなく疎である。客席も演奏を終えた人と同行者のみ。一般の客はほとんどいない。クラシックギターの裾野が広くないことの証拠である。ギターの音、音楽には魅力があることに間違いはない。だが、演奏しようとする者が少ないのは実に残念だ。

明日は中級、上級、プロフェッショナル部門の演奏がある。コンクールだから優劣がつく。残念な演奏に歯噛みをする人もいれば、自信満々で最後の消音を終えた人もいるだろう。どんな演奏が聞けるのか楽しみだ。きょうは新しい縁を結ぶこともできた。あしたはどんな1日になるだろう。

(ゲンノショウコも皆の演奏に耳を傾けているかもしれないぞ)
風をはみ凧は自在に空飛んで [2021年08月06日(Fri)]

fumihouse-2021-08-06T18_16_27-1-thumbnail2.jpg嵐が歌う。解散してそれぞれの空間を勇躍し始めたメンバーが『カイト』で歌う。

  風が吹けば 歌が流れる
  口ずさもう 彼方へ向けて
  君の夢よ 叶えと願う
  溢れ出す ラル ラリ ラ

オリンピックのための士気を鼓舞する元気ソングではない。しんみりと流れてくる歌。君が夢を叶えてほしいと願う。私もまた夢を叶えたい。目標が明快になると意欲が湧いてきて「ラル ラリ ラ」。でも「彼方」は遠い。遠くても風にのせて歌を運ぶ空気のように、君も私もここにいる。凧のように風に乗っていく。彼方とはメダルか、それとも人生の夢か・・・。

  友は言った 「忘れない」と
  あなたは言った 「愛してる」と
  些細な傷に宿るもの
  聞こえてくる どこからか

残された傷跡。時が過ぎ、些細な存在となった傷。些細なようでも時に人を苦しめ、チクッと心に痛みを感じる。周りには些細に見えても、当人に深く刺さって抜けないトゲが日々苦しみを与える傷もある。

菅首相の決断でもって上告が中止となった黒い雨訴訟。被爆者として認定されはしても、深い傷は癒えない。きょうは広島原爆の日。誰もが ラル ラリ ラ と進める日を目指していこう。

(桔梗の深い青紫色は、炎暑の太陽には負けない)
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