出雲文化伝承館できょう開幕した『春日裕次展』を鑑賞。氏はわたしの高校同級生。奥様も美術教師で娘の担任だったという縁もあり、オープニングセレモニーに参加し、初発のギャラリートークも楽しんだ。画風はバイクと自画像、とばかり思っていたが、女性や子ども、静物、マジシャン、風景などあり、意外と多彩である。
初期の「ネイキッド」が気になった。その名のとおり、むき出しの自画像の背景にバイク。表情は無機的で内面を抑えているようには見えるが、若いエネルギーに満ちている。点描や細い線の塗り込みでブルーを基調にした全体感が爽やかだ。1991年に東光展奨励賞を受けている。
2016年日展で特選を受けた「胎動」も印象深い。バイクの心臓部を背景に、上半身裸の若者が屹立している。自画像かと思っていたが、若い同僚教師であると氏のトーク。終了後、似てるね?と尋ねたら、人物画は結局何度も自分の姿を鏡で見直すから似てくるんだよと彼は言った。なるほど、やっぱり自画像だ。
人物像を描くのは苦しい。一方でバイクのエンジンを描くのは楽しいと氏は言った。静物というのは無生物もしくは死んだ体でありながらも、エネルギーがある。年月を超えて分解されて原子、素粒子にまで遡り、再び何かを形づくる根源となる。この世の存在すべてが、生成し安定し空に帰し、再びそれを繰り返す。そうした宇宙の成住壊空を感じさせる物のエネルギーを氏は表現したいのだと思った。特に好きな対象物については、掘り下げて眺めキャンバスに塗り込んでいくことがいくらでもできるのだろう。
人物画というのは、それがたとえ自己の肖像であっても、眺める自分と見つめられるモデル、そして超空間から凝視する別者の目も加えた人物の姿。そこに、時間経過で光が変わったり、当人たちに変化が生じて千変万化する。それらが絡み合って筆に迷いが生じる、そんなことが茶飯事なのではないかと想像した。
鑑賞後、アンケートにわたしはこう書いた。「初々しい頃から今に至るまで、志を変えず貫いてこられた氏の意志を感じます。厚く暑すぎずしなやかな意志です」と。書きなぐったので、「熱すぎず」を誤ったのはご愛嬌。
自己の表現を求め、試行錯誤を繰り返し、高校教師としての職責も勤め上げた。今も新しい扉を開こうと、ときに戸惑いつつも希望を抱き続ける……すなわち、青春の煌めきを存分に残している。氏にとってこの個展が新しい扉となって次なる光彩が見えてくる。『春日裕次展』の盛会を祈っている。
(出雲文化伝承館の瓦葺き屋根と欅の向こうには、出雲大社をいただく弥山(みせん)が見える。零れ落ちそうだった雨だが持ちこたえて、氏を祝した)