ドストエフスキーの『白痴』を読み進めています。長々とした独白、機関砲をぶっ放すような喋りの応酬に頭がついていきません。登場人物の置かれた状況や経歴の説明を会話の中で進める手法にも飽き飽きしてきます。会話以外にも直接話法が混ざり合ったり、主格が誰なのか分からない文もたまにあったりします。唐突な感情の起伏が頻出するのも性に合いません。まっ150年前の小説です。現代小説の黎明期と言えるのかもしれません。
何と言っても世界の歴史的名作です。感動的な場面が出てくる、人間の本質を言い当てる見事な表現に出会えるのではないかという期待もあって、読み進めています。が、寝る前に読むと2ページも進まないうち眠くなります。列車で読むとページを開いたまま目が閉じていくのです。
ドストエフスキーは、本当に美しい人を描こうとしたと言います。主人公の公爵は、誠実で弁も立ち情も深くて思いやりがあります。彼の美しさはどう表現されるのでしょうね。物語は輻輳的な三角関係を軸として進むようです。愛憎が渦巻き、裏切りもある。公爵は心に決めた人に裏切られ、元の白痴に戻るということですが、癲癇(てんかん)持ちの公爵を白痴と言い放つとは解せません。SFの『アルジャーノンに花束を』を思い出しますが、あれは知的障害でした。
今の小説は格段に面白く読み進めるのに苦労がありません。描写も飽きさせず人物造形も見事です。過去の小説に比べると、現代小説は話の鉱脈を外さないと言えるでしょう。
古典文学は脇道に入り込んでいきます。些事が満載で脱線が多い。気が向くままに逸れていくので飽きるし、話が見えなくなってしまうのです。物語の鉱脈をたどれないと読み手は辛いのです。何かの前触れがあっても長々と前座が続いて、本題に届かないのです。当然1日置いて読まないと忘れる、筋が見えなくなります。
ただ日常を考えてみると、鉱脈を外すことばかりで主題や、やりたいことが分からなくなってしまうことが多いと言えます。毎日の生活は些事に満ちているのです。古典は日常生活を追っているのかもしれません。鉱脈を探して繋いで、物語は自分で紡いでいくことを求められるのかもしれません。
まっそんなこんなですが、『白痴』第1巻を読み終えたところで、わたしは世界の名作と訣別したのでありました。
(白い沈丁花は香りは淡いが、品ある華やかさで楽しませてくれる)