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『ふみハウス〜徒然の心に残る日々』 [2026年04月01日(Wed)]

DSC_3472.JPG徒然なるまゝに硯に向ひて心に移りゆくよしなしごとを書きつく…徒然草のように。私は旅するようにゆったりと、かつ鵜の目鷹の目で日常をとらえます。2021年4月から勤務する社会福祉法人つわぶきでは、二つのこども園、小児クリニック、病児保育、発達支援センター、放課後デイサービスでもって、子育てを支援しています。
[ふみハウス リンク集]
表せば春本番の音が鳴る [2024年03月18日(Mon)]

DSC_0430~2.JPG「いくら自分の中で素晴らしい音が鳴っていても、自分の中だけで完結させるのではなく、あえて自分の外に置いて誰かが共有できるようにする。そうすれば、その人 に通じます。そういう話は事あるごとにしています」(指揮者・作曲家 杉山洋一氏)

音楽だけのことではない。情景を指し示すにしても、心理のアヤを表現するにしても、名句や名文を誰かに教えてあげるにしても、自分の感覚として感じられた何事かを表すには表現力が必要だ。通じさせるのは難しいが、何らかの表現に努めることができれば、必ず通じていくものだ。

(我が家のクロッカス、最終盤。早春に咲き始めた第一号オレンジが、この紫で完結する。春本番の音が鳴っている)
ドキドキし試験で成果測る日々 [2024年03月17日(Sun)]

DSC_0424~2.JPGいろんな試験がある。今最中の高校や大学の入試は、入学するための学力を審査するためにある。定期試験は授業内容を理解できたかどうか。さらに学期ごとに総合して通知表でそれを示す。弱点はどこか、確かめて克服する起点となる。

試験とは要は力を試すためにあるのだが、成績には一喜一憂したものだった。結果が悪かったことに落ち込み、やる気をなくす。弱点がわかったのだから、克服するためにファイトが湧いてこなくてはならないのだが、そうはいかない。あの頃を繰り返すことが出来たらいいのに、と思う。

で? 試験でも受けるのかって? そんなことはない。ただ思い出しただけ。試験なんて近ごろとんとご無沙汰だ。しかし、成果を測る場は日々様々ある。明日も成果を出せるよう、頑張ろう。

(ハクモクレンは白い炎。これから数日は春の炎を吹き上げる)
撮り鉄とダイヤ改正とき変わる [2024年03月16日(Sat)]

DSC_0419~3.JPG今日はJRのダイヤ改正の日。朝のうちに山陰本線の列車運行情報が流れた。淀江駅〜伯耆大山駅間の線路内に人が立ち入ったため、一部の列車に5分から20分の遅れが出ている、と。撮り鉄に違いない。やくもブロンズと言われる新型やくも号を、伯耆大山をバックに山笑う景観と一緒に撮りたいという連中が線路に立ち入ったのだろう。ほとんどはルールとマナー守っている、ちゃんとした撮り鉄だと思うが、ほんの一部の無法者が秩序を乱す。

私有地に無断侵入する、住民の邪魔になる路上駐車、線路のすぐ脇に三脚を立てて撮影する、線路に入り込む、撮影に邪魔になる樹木を切る奴もいるとか。危険で迷惑な行為は願い下げだ。

ダイヤ改正で普通列車は不便になりそうだ(私にとって)。家人も今夕は松江からの列車に乗り遅れてしまった。10分も早くなってしまったのだ。慣れるまでしばらくは混乱が続きそうな気配。

(山茱萸(サンシュユ)が咲くのは、ダイヤ改正時分の定番の光景だ)
4人掛けガタイとリュックスマホ避け [2024年03月15日(Fri)]

DSC_0419~2.JPG列車に乗る時、4人掛けボックス席に座る際には、女性の隣に座ると楽だ。男は細いように見えても、身体に厚みがあり肩幅も大きい。ガタイがデカいのである。だから狭っ苦しい。グイグイ押されると気分が悪く、本を読むにしてもブログを書くにしても、気が散る。

女性だったら誰でもいいかというとそうでもない。スマホを打つ人、特にゲームなど烈しく手や腕を動かす場合はよろしくない。利き手の側に身体を置いてしまうと、逃げ出したくなる。リュックを抱え込んでいるのもバツが悪い。肘が邪魔になってしょうがない。それ以外の荷物を窓際に置いている輩には困る。太った男並みに座席は狭くなる。今時分はコートの厚みもあって不快だ。

車中に乗り込むと目を見開いていい席を探す。女の人+利き手でスマホをいじっていない+リュックを抱えていない・・・なかなか条件を満たす席は稀である。もちろん、混んでいるときにはそんな贅沢はいっていられない。

(ペーパーカスケードがキレイに花開く。この花のようにスッキリと座れたら、気分良く読書などできると言うもんだ)
ワンマンは針の筵か寂しかろ [2024年03月14日(Thu)]

DSC_0421~2.JPGわたしが朝に乗るのは、米子行の普通列車でワンマン車両。運転士がたった一人で4両を任されている。合理化の果てとはいえ恐ろしい(極めつけの果ては無人化だが)。運転士にみだりに話しかけるなと注意書きはあるが、話をしないわけにはいかないだろう。トラブル停車で説明したり、抗議を受けることもあるだろう。たちの悪い客からカスハラも受けるに違いない。

車内では何が起こるかわからない。車掌がいてくれれば、相談することも可能だし、カバーし合うことも出来る。しかし、一人では如何ともしがたい状況がきっとある。指令所から無電で指示を仰いだとしても、所詮は遠くにいるのだ。手を差し伸べてはくれない。応援や救出には時間がかかる。田舎の車両運転士は大変な仕事をしているもんだ。とても偉い、尊敬に値する。

(ハクモクレンの蕾が花開くまで待つのですぞ。そんなゆうちょうなことは言っていられない)
白痴かな鉱脈外し分からぬよ [2024年03月13日(Wed)]

DSC_0418~4.JPGドストエフスキーの『白痴』を読み進めています。長々とした独白、機関砲をぶっ放すような喋りの応酬に頭がついていきません。登場人物の置かれた状況や経歴の説明を会話の中で進める手法にも飽き飽きしてきます。会話以外にも直接話法が混ざり合ったり、主格が誰なのか分からない文もたまにあったりします。唐突な感情の起伏が頻出するのも性に合いません。まっ150年前の小説です。現代小説の黎明期と言えるのかもしれません。

何と言っても世界の歴史的名作です。感動的な場面が出てくる、人間の本質を言い当てる見事な表現に出会えるのではないかという期待もあって、読み進めています。が、寝る前に読むと2ページも進まないうち眠くなります。列車で読むとページを開いたまま目が閉じていくのです。

ドストエフスキーは、本当に美しい人を描こうとしたと言います。主人公の公爵は、誠実で弁も立ち情も深くて思いやりがあります。彼の美しさはどう表現されるのでしょうね。物語は輻輳的な三角関係を軸として進むようです。愛憎が渦巻き、裏切りもある。公爵は心に決めた人に裏切られ、元の白痴に戻るということですが、癲癇(てんかん)持ちの公爵を白痴と言い放つとは解せません。SFの『アルジャーノンに花束を』を思い出しますが、あれは知的障害でした。

今の小説は格段に面白く読み進めるのに苦労がありません。描写も飽きさせず人物造形も見事です。過去の小説に比べると、現代小説は話の鉱脈を外さないと言えるでしょう。

古典文学は脇道に入り込んでいきます。些事が満載で脱線が多い。気が向くままに逸れていくので飽きるし、話が見えなくなってしまうのです。物語の鉱脈をたどれないと読み手は辛いのです。何かの前触れがあっても長々と前座が続いて、本題に届かないのです。当然1日置いて読まないと忘れる、筋が見えなくなります。

ただ日常を考えてみると、鉱脈を外すことばかりで主題や、やりたいことが分からなくなってしまうことが多いと言えます。毎日の生活は些事に満ちているのです。古典は日常生活を追っているのかもしれません。鉱脈を探して繋いで、物語は自分で紡いでいくことを求められるのかもしれません。

まっそんなこんなですが、『白痴』第1巻を読み終えたところで、わたしは世界の名作と訣別したのでありました。

(白い沈丁花は香りは淡いが、品ある華やかさで楽しませてくれる)
白痴かな鉱脈外し分からぬよ [2024年03月13日(Wed)]

DSC_0418~4.JPGドストエフスキーの『白痴』を読み進めています。長々とした独白、機関砲をぶっ放すような喋りの応酬に頭がついていきません。登場人物の置かれた状況や経歴の説明を会話の中で進める手法にも飽き飽きしてきます。会話以外にも直接話法が混ざり合ったり、主格が誰なのか分からない文もたまにあったりします。唐突な感情の起伏が頻出するのも性に合いません。まっ150年前の小説です。現代小説の黎明期と言えるのかもしれません。

何と言っても世界の歴史的名作です。感動的な場面が出てくる、人間の本質を言い当てる見事な表現に出会えるのではないかという期待もあって、読み進めています。が、寝る前に読むと2ページも進まないうち眠くなります。列車で読むとページを開いたまま目が閉じていくのです。

ドストエフスキーは、本当に美しい人を描こうとしたと言います。主人公の公爵は、誠実で弁も立ち情も深くて思いやりがあります。彼の美しさはどう表現されるのでしょうね。物語は輻輳的な三角関係を軸として進むようです。愛憎が渦巻き、裏切りもある。公爵は心に決めた人に裏切られ、元の白痴に戻るということですが、癲癇(てんかん)持ちの公爵を白痴と言い放つとは解せません。SFの『アルジャーに花束を』を思い出しますが、あれは知的障害でした。

今の小説は格段に面白く読み進めるのに苦労がありません。描写も飽きさせず人物造形も見事です。過去の小説に比べると、現代小説は話の鉱脈を外さないと言えるでしょう。

古典文学は脇道に入り込んでいきます。些事が満載で脱線が多い。気が向くままに逸れていくので飽きるし、話が見えなくなってしまうのです。物語の鉱脈をたどれないと読み手は辛いのです。何かの前触れがあっても長々と前座が続いて、本題に届かないのです。当然1日置いて読まないと忘れる、筋が見えなくなります。

ただ日常を考えてみると、鉱脈を外すことばかりで主題や、やりたいことが分からなくなってしまうことが多いと言えます。毎日の生活は些事に満ちているのです。古典は日常生活を追っているのかもしれません。鉱脈を探して繋いで、物語は自分で紡いでいくことを求められるのかもしれません。

まっそんなこんなですが、『白痴』第1巻を読み終えたところで、わたしは世界の名作と訣別したのでありました。

(白い沈丁花は香りは淡いが、品ある華やかさで楽しませてくれる)
挿し入れかタッチの違いこの二年 [2024年03月12日(Tue)]

DSC_0419~3.JPGバスに乗った。座席に着いて、しまった!と思う。またイコカ・カードでタッチしてしまった。使い残しのバスカードが1枚あったので、数日前から使っているのだが、期限となる3月末までに使い切れるだろうか。残りは3200円余り。出勤は3月中に10日以上あるので十分使い切れるはずだが、この調子で忘れることを繰り返すと余らしてしまいかねない。この1年余りイコカでタッチし続けてきたので、バスカードを挿し入れる動きを忘れてしまっている。明日は締めていこう。

(1時間前にアラレが降っていました。外は冷えます。春は間近ですが、一進一退を感じる沈丁花です)
石銀の草木を愛でて色出でて [2024年03月11日(Mon)]

DSC_0422~3.JPG≪「百花に先駆けて咲く」と喜兵衛は言った。冬の寒さが和らぐほんの一息前、裸の枝にぽっちりと紅い花が咲いた。石銀(いしがね)集落の周りには梅林があった。青い実がなる前の花を美しいと感じたのは飢えていなかったからだ。母親とは比べ物にならないほど喜兵衛は草木の知識を与えてくれ、季節の花を愛でる余裕もくれた。
 あの時、色がついたのだとウメは思った。己が食い繋ぐだけで見えなかった彩りは、一度目に焼きついてしまうと、奇妙な愛着と思慕の念を生んだ。散花に自らの想いを重ねることなどなかったのに。色を知らねば、巡る季節を花で区切り、愛しく思う人と同じ花を眺めたいと思うこともなかっただろう。≫(『しろがねの葉』千早茜著)

小説の舞台は関ヶ原の戦いから江戸時代初期まで。孤児のウメ、大森銀山でウメを育てた喜兵衛の物語。塵灰を吸って短命だった男たち。女たちはたくましく生きた。それでも圧政と理不尽な社会に耐えた、そんな人々の物語に引き込まれた。

きょうは3・11の日。被災した人々には花の色や匂いを感じる余裕もなかったであろう。それから13星霜が流れたが、まだ故郷に帰りたくても帰れない方々が3万人近くもいるという。その人たちに、色は戻ってきただろうか。

(張った水に空色を映し、緑と黄の菜の花が春を全面に感じさせる昨日の昼)
眠くなりここは宇宙だ地球人 [2024年03月10日(Sun)]

DSC_0406~2.JPGプラネタリウムってやつは、眠るための条件がそろっています。まず暗いこと。始まるやいなや、場内に夕闇が迫り薄暗くなっていきます。冷暖房が適度に効いて心地よい。宇宙空間的な柔らかなBGM、138億年の宇宙のロマンを誘う詩的に洗練されたアナウンス。極上の気分にさせてくれます。空に向けて椅子が倒れて姿勢が横になっていることも、眠りに拍車をかけます。夜の時間帯に迷い込めば、誰もに眠りのリズムが訪れます。そして本当に眠りに落ちる・・・いいもんですね。久しぶりに行きたいと思います。

(松江・くにびきメッセにて「わたしと宇宙展」では多くの展示と映像で楽しめる(プラネタリウムはない)。そして地球人としての運命共同体を思う。3月17日まで)
懐かしみ終わったあとの虚脱感 [2024年03月09日(Sat)]

DSC_0411~2.JPGイベントごとが終わると、懐かしんで振り返る。1日経てば昨日の今頃の時間は〇〇していたなぁと思い返す。2日過ぎても3日目も同じく。一週間経って同じ曜日が巡って来ると再び繰り返す。

イベントというと嬉しいことだ。指折り数えてその日を待ち焦がれ、その時を迎えて、存分に楽しむ。好きなアーティストのコンサートで興奮した。行きたかった旅行に出かけ、念願の聖地を訪れた。かけがえのない人と水入らずで過ごした。孫に会えて夢中で遊んだ・・・いろいろあるだろう。緊張の走る場面であったとしても、見事成功させて祝杯を上げるようなケースであれば、同様に振り返って思い出を反芻するものだ。

やがて終わってしまった寂しさに虚脱感が現れる。もっとああしておけばよかったと、後悔することもある。出来ることならば、再び企画すればよいだろう。楽しみを将来に取っておくことは、気持ちを前向きに引き立たせるものだ。

(思い出はきらめく星雲のように輝く)
ムダするなムリは禁物ときにムシ [2024年03月08日(Fri)]

DSC_0391~3.JPGきょうもできないようなら、あすもだめです。一日だって、むだに過ごしてはいけません。(ゲーテ『ファウスト』)

ゲーテの言うとおり。着実にひとつ一つ片付けていく。しかも迅速に効率よくやっていく。難しいことではある。やるほどに仕事は増えていき、処理する端からやるべきことは目白押し。これが人生というもの。飽くなき前進、弛みなき進歩。明日も顔晴ろう。

(菜の花もまた1日だって無駄には過ごさない)
ご縁して誤嚥せずとも後宴よし [2024年03月07日(Thu)]

DSC_0316~3.JPG≪ご縁、
 それは感謝。≫

とは、玉造温泉の旅館に貼ってあったポスターの文句。ご縁云々は、出雲・松江の観光にあっては、あまりに常套句すぎて珍しくもなんともない。続く台詞もありふれた表現が使ってはあるが、なんとなく温かい気持ちになれる。

≪あの場所に行ったことや
 あの人たちに出会ったこと
 あの景色を見られたこと
 振り返ったとき、今までのつながりに
 ありがとうって、思えること
 &ご縁の聖地 出雲路≫

ひと、食べもの、景色は旅の3大要素である(わたしはそう思う)。旅に誰と出かけ、旅先でどんな人と出会うのか。美味いものに巡り合い、満足のいく夜を過ごせたか。名所旧跡にとどまらない、地元の人は見過ごすような景色を深く堪能するか否か。そうした経験をすることによって、今までの自分を振り返り、今の境遇に感謝できるようになる。当たりまえであることにありがとう。ありがとうは有り難し。同じ1日はない、この積み重ねに感謝できるのだ。
生きてゆけこの瞬間に価値生まれ [2024年03月06日(Wed)]

DSC_0382~2.JPG≪▼文豪ゲーテは「どの瞬間にも、無限の価値がある」(山下肇訳)と。人生には晴天の日もあれば、嵐の時もある。時間の使い方にはさまざまあるが、飽くなき向上心で主体的に行動する時、「瞬間」に「無限の価値」が生まれる≫(聖教新聞「名字の言」2024年3月5日付け)

のんべんだらりと過ごす時間にも価値がある。ジリジリと待つだけの時間にも意味はある。苦役に辛い時間を過ごそうとも後には役に立つ・・・少なくとも前に向かう意欲を忘れないならば「価値」ある時となる。ゲーテはさらに「無限の価値」とまで言っている。もちろん同じ時間を費やすならば心に残り、自分にも他人をも益する時間であれば尚良い。その瞬間に大きな価値が宿る。

(ムスカリの鮮やかな青紫。スズランのような花びら、美味しそうな落花生のような花。別名グレープヒアシンスは春の価値なり)
それぞれが秘めたる力限りなし [2024年03月05日(Tue)]

DSC_0378~2.JPG限りない可能性を秘めている、と言う。嘘である。可能性が無限と言うならば、大谷のように投打に活躍し人気者となって大いに稼げるようになるのか。否である。その確率はゼロに近い。努力すれば、100メートルを9秒台半ばで走り、五輪の決勝で栄光を勝ち取ることができるのか。これも否である。

それでは、可能性なんてそこそこのものでしかないのか。可能性を信じることに意味はないのか。そうではないと思う。それぞれが桜梅桃李の花を咲かせて輝く個性を持っている。見つけて磨いて絶え間なく貫いていけば、必ず開いていく。開く加減は無限大。限りない可能性を秘める、というその言葉には嘘はない。

(トマトだって可能性を秘めて、桃のように甘くとろけるかな?)
圧迫と解放の末楽しめる [2024年03月04日(Mon)]

DSC_0390~2.JPG≪仕事の圧迫は心にとってきわめてありがたいものだ。その重荷から解放されると、心は一段と自由に遊び、生活を楽しむ。仕事をせずにのんびりしている人間ほどみじめなものはない。そんな人はどんなに美しい天分もいとわしく感じる≫(ゲーテの日記より)

今夜行われた県悠会総会で感じたことだった。島根県のOBで常勤職として働く人を対象とした会に集まった50人余りのメンバーの多くと話をすることができた。それぞれが仕事に生活に苦闘しつつも、前に進もうとしている。好ましいかな、麗しき人人。わたしも含めて日常の日々の重荷への解放と自由を交互に繰り返している。もちろん、悠々自適にやっている人に、惨めだなんて言うつもりはないが、緊張と弛緩の適度なバランスに人生の宝は生まれる。

(ミモザの花が咲いた。自由に遊び楽しんでいる)
圧迫と解放の末楽しめる [2024年03月04日(Mon)]

DSC_0390.JPG≪仕事の圧迫は心にとってきわめてありがたいものだ。その重荷から解放されると、心は一段と自由に遊び、生活を楽しむ。仕事をせずにのんびりしている人間ほどみじめなものはない。そんな人はどんなに美しい天分もいとわしく感じる≫(ゲーテの日記より)

今夜行われた県悠会総会で感じたことだった。島根県のOBで常勤職として働く人を対象とした会に集まった50人余りのメンバーの多くと話をすることができた。それぞれが仕事に生活に苦闘しつつも、前に進もうとしている。好ましいかな、麗しき人人。わたしも含めて日常の日々の重荷への解放と自由を交互に繰り返している。もちろん、悠々自適にやっている人に、惨めだなんて言うつもりはないが、緊張と弛緩の適度なバランスに人生の宝は生まれる。

(ミモザの花が咲いた。自由に遊び楽しんでいる)
蝋燭にマッチ擦るとき遠い日に [2024年03月03日(Sun)]

DSC_0385~3.JPGマッチを探した。半年ぶりに会った孫に蝋燭をつけてやろうとした。マッチを探したが見つからなかった。ライターもどこへ行ったやら。火を使う際には自動着火することがいかに多いかを思い知った。幸いに古い湿気ったようなマッチが見つかったので(昔のスナックのものだった)、蝋燭に点火できた。背の高い燭台に乗った蝋燭はゆらゆらと幻想的だった。

娘が小学生の頃、マッチをつけさせてみた。炎を下にしてしまったものだから、熱くて痛い目に遭わせてしまったのを思い出した。便利さと安全の境い目を思う。

(河津桜の火が灯った。満開まではあと一週間は間があるが、時折晴れ間の見える春の日に桜が照った)
あれやこれ焦る自分に抑えられ [2024年03月02日(Sat)]

DSC_0379~2.JPG年度末が近い。あれもこれもやるべきことが多い。ゆえに気持ちに余裕がなくなる。焦燥感に駆られる。尻に火がついて、追い込まれる。気持ちが先走ると、かえって能率が落ちる。

≪焦ることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者はあやまちを増し、後者は新しい後悔を作る≫(ゲーテ『格言と反省』)

別の自分が慰める。もどかしい気持ち、分かるよ。気が急くのはもっともだ。切羽詰まったらケツをまくってしまいなさい。一度にはひとつしか片付けることはできない。確実に着実に、あせり過ぎは禁物なり。後悔しないように。

(沈丁花も一気呵成には咲かない。着実に確実に)
曇り立つ夜の虹立つ眼の前に [2024年03月01日(Fri)]

DSC_0360~3.JPG夜の虹が見える。隠微で艶めかしい感じを醸すかもしれないが、大したことではない。外灯を囲む小さな虹が見える、車のライトにスペクトルがかかるだけのこと。蛍光灯の細長い明かりだと、虹も楕円に囲んでおり面白い。

戸外ではマスクを外す。列車やバスから出れば感染症のおそれがないので、暑苦しいマスクは取ってポケットにしまってきた。ところが花粉が飛ぶようになってきた。微粒子のPM2.5も多かろう。花粉症にはなりたくないので、外を歩き回る時にはマスクを装着する。冷たい戸外ではマスクから漏れ出る息でメガネが曇り、暗くなると灯に虹がかかる。

それだけのことだが、ささやかな夜の虹は面白い。ただし、曇りがひどくなると安全上問題がある。そんな時は鼻マスクにしてメガネの曇りが取れるまで乾かしてやる。薫風が吹く頃までこんな始末をしなくてはならないのか。面倒この上ない。

(由志園の見事な日本庭園(足立美術館には及ばないが世界10傑)の意見にも定期的に霧が立ち、日が照らせば虹が出来ると思う)
行ってみよ古代ローマのかの国へ [2024年02月29日(Thu)]

DSC_0378~2.JPG昔からイタリアの形は、長靴に似ていると言われる。シチリア島はさしずめ、蹴り上げたサッカーボールか。ゴム長靴ではなく、ヒールの高いブーツ。お洒落の国、サッカーの国、イタリアだけのことはある。日本地図を眺めていると、東京都の輪郭がイタリアに似ていると思う。ただし、ヒールが二重になった変形ブーツではあるが。じっくり眺めると、意地の悪い老魔女の横顔に見えてきた。町田市の出っぱりがカギ鼻に見え、大田区の飛び出した部分が尖った顎である。奥多摩は魔法使いの山高帽子か。行ったことのないイタリア、行ってみたいなかの国へ。

(竜骨のような雲を渡ればイタリアに達するか。なわけはない)
見守られ椿の里に春が来る [2024年02月28日(Wed)]

DSC_0384~2.JPGきょうは通常であれば二月最終日。幸い明日もある。二月は短い上に、祝日が2日あり仕事をするにはさらに短くなる(週末や祝日に働く人は別だが)。二月は厳冬期で春一番などもあって交通機関も乱れる(この冬はなかったが)。そこに今年はオリンピックイヤー、閏年である。明日は2月29日。きょう28日も含めて、二月の掉尾を飾ろう。

(終盤に入った椿たちも見守ってくれる)
植えたまえ心に種を花が咲く [2024年02月27日(Tue)]

DSC_0378~3.JPG≪心に植えた
 花は、
 いつか歩き出す。≫
と、アース ミュージック&エコロジーのポスターが語る。

心に植えよう、優しく温かい眼差し。
心に植えよう、またとない夕暮れの景色。
心に植えよう、豊かな文章の切れ端。
心に植えよう、負けじ魂でつかみ取った勝利の味わい。
心に植えよう、熱くたぎるメロディとリズム。
心に植えよう、漆黒の空と満天の星。
心に植えよう、ともに歩いた日々。

花の種となって、咲く。そして歩いていく。他の人をも喜ばせ、幸せにしていくだろう。

(大根もまた植えられたタネ。太く美味しく実った)
見るほどに時間貧乏コマーシャル [2024年02月26日(Mon)]

DSC_0380~3.JPG久しぶりにフェイスブックのタイムラインを流して見て驚いた。6割以上がコマーシャルである。若者が離れていることもあろうが、多くの人が発信しないのが理由だと思う。見ることさえも、多くはしなくなった。私だって毎日発信するけれども、他の人の書き込みを丹念に見ることはない。ついショート映像でも見始めたらドツボにはまって時間を無駄にする。そんな生活から離れたいと思う人が増えたのだ。

トラッキングの設定によって好まれそうな広告や広告的タイムラインがたくさん表示されることもあるだろう。無料で使うからにはコマーシャル協力という対価を支払わなければならない。人生、思っているほど時間はない。

(スマホにがんじがらめにされる時間は減らして、初春の福寿草を楽しもう)
トロくても咲き誇れやと幼きボク [2024年02月25日(Sun)]

DSC_0236~5.JPG保育園に通っている子。ポッチャリした角顔で、愛嬌がある子。わたしが側を通るとハイタッチを求めるのが可愛らしい。笑顔を浮かべていることが多い男の子。髪型は幼い子らしい短めのカット。その子が孫に似ている。年は同じ4歳で、年に1、2回しか会わない孫の面影を感じる。

体操や遊戯の様子や子ども同士のやり取りをチラチラ見ていると、目から鼻へ抜ける感じはなく、トロい感じの様子が見て取れる子だ。その子が泣いていた。悲しく静かに泣いていた。他の子にいじわるされたのか、工作で思うに任せぬ状況があったのか、理由は知らないが泣いていた。窓越しに目が合って手を振ってやったが、収まるわけがない。

孫に似ていると思っていたのだが、あの子のその姿はわたしだった。かつての幼いわたしだった。周囲の空気が動いている、何か変化が起きている、友だちもザワザワしている、だがどんな状況か飲み込めない、ボクはどうしたらいいんだ・・・そんな戸惑いを感じていた昔のことが蘇った。いつものことだったのか、時折か、憶えてはいないけれど、わたしもトロい奴だった。分からないなりに悲哀感を抱える時間があったように思う。彼を見て、過去の自分を振り返る。彼のこと、そして孫のことが愛おしく思えた。

(陽光を浴びる西洋水仙のように咲き誇れ。己のままに、意のままに)
先祖への感謝系統娘へと [2024年02月24日(Sat)]

DSC_0377~2.JPG前列に座る父が後列にいる娘(高校生くらい)に向かって、葬式はご先祖への感謝だからね、と。そんなテレビコマーシャルをある葬祭会館がやっている。

「先祖」という言葉に違和感がある。先祖または祖先というのは、直系の血縁者で既に物故した人のことを言うが、ここ数日で亡くなった祖母や祖父、父母のことを祖先とは言えない。一緒に暮らした、もしくは一緒でなくても長期休みで会うたびに時間を共有した人たちのことを、亡くなって何年経ったとしても「祖先」とは呼べないと思う。

「感謝」するのは亡くなられたその当事者へ。在りし日の面影をたどり、その人を知る者同士が思い出を反芻する。そして冥福を祈る。それが葬式である。また続く法要が持つ重要な意味でもある。だから「葬式はおばあちゃん(おじいちゃん)への感謝だからね」なのである。

(感謝したいあの人に、早春のクロッカスを手向けよう)
分かるのか分かる分からぬ聞いてるか [2024年02月23日(Fri)]

DSC_0389~2.JPGゲーテ曰く。

 人はみな、わかることだけ聞いている。
 (格言と反省)

確かにそのとおり。理解の及ばないことには頭が及ばない。難しいところは端折っていく。分かりたいところだけ抽出して分かったつもりのこともある。そして自分の世界をつくるのだ。

(クロッカスの季節。彼らは分かるのか、それとも感じるだけなのか)
三無主義四無と五無でシラケてる [2024年02月22日(Thu)]

DSC_0374~3.JPG若い頃、三無主義というのがあった。今の50代半ばから60代後半までが当事者で、わたしも世代的に当てはまる。無気力、無責任、無関心の三つ。しらけ世代とも言われた。勢いづいて、無感動が加わり、やがて挨拶もろくにできない奴らだと無作法が加わって、五無主義になったらしい。わたしが知るのは四無主義までだ。

近頃の若いもんはどうだかこうだか、言うつもりはない。われわれの世代だって、三無、四無を脱したかというと、そうでもなかろう。好きなものには気力が充溢し、切羽詰まれば責任を果たす懸命さは生まれ、利害があれば関心だって高まる。ひとによって感動のツボは異なるものだ。

日本人的な一般論で十把一絡げにすることはなるまいし、人それぞれ考えも行動様式も異なる。それでも人々が全体として行動し、思考する総和が組織を形作り、国力を示していくことには違いない。

(オオイヌノフグリだって総和すればナニガシかの力を発揮する)
女高生震え生脚いたましや [2024年02月21日(Wed)]

DSC_0059~4.JPG女子高校生は痛ましい。真冬にあっても短めのソックスにスカートを履く。ひとによっては下に体育で使うトレパンを履いているが、多くは風にさらされて生脚。ストッキングやタイツも履いていない。学校による虐待と言ってもいいくらいだ。本人たちは好きでやってると言うかもしれないし、痩せ我慢かもしれないが。

もちろん、コートやタイツが校則で許されていないわけはなかろうが、彼女らはファッションとして、外套は羽織らず、せいぜいマフラーまで。スカートをミニにして履きこなすのも流行や周囲に合わせたものだし、生脚もその一環かもしれない。それにしても寒そうに見えることこの上ない(風邪をひく者も多かろう)。

パンツスタイルの女子もいるので、ズボンが禁止されていることはなかろうが、ジェンダーの問題や性被害の恐れを考えると、当局は男女同一スタイルへ舵を切ってもいいと思う。

(草苺の白い花は可愛らしい。これが咲くほど暖かくなればミニスカートは快適かもね)
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