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気を留めノマドの民よ永遠に [2021年05月11日(Tue)]

fumihouse-2021-05-11T18_38_34-1-thumbnail2.jpg放浪の民がノマド。ノマドランドの主たちは、高齢者で不景気によって住み慣れた地を離れざるをえず、車上にすべてを詰めこんで、日雇い仕事で糊口をしのぐ。金獅子賞受賞の映画『ノマドランド』はそうした生活を描き取る。

解雇故に自宅を手放さざるをえなくなった結果の放浪は哀しくはあるが、助け合いの緩いネットワークがある。主人公ファーンはすでに定住を求めなくなっていた。ファーンが気持ちを許した男がノマドを止めて家族の元に帰った。彼から家族に迎え入れたいと申し入れがあった。彼女も心地よく家族の一員として何日か過ごしたにもかかわらず、突然に出奔する。もう定住はしないと決めていたのだろう。

彼女の故郷は結婚して夫と住んだネバダの鉱山の町。産業が失くなり誰も住まなくなった町。亡夫と過ごした思い出の廃屋で気持ちを確かめる。困難は多くとも、死ぬまで車上で放浪生活を続けることに決めたのだ。

静謐で美しく広いアメリカ大陸の景色、その環境に見合った美しい音楽。心地よさにうとうとしたのは、昨夜の夜更かしのせいかもしれない。たぶん私はノマドに同調できなかった。だから眠ってしまったのかもしれない。故郷や定住を大事に思って住み続けるか、その地に魂魄は留めてもともかく捨てて放浪の旅に出るのか。故郷に対する気持ちは人それぞれだ。

(ノマドランドには、こんなに絢爛な芍薬は咲かないだろう)
立って見る座って見るか映画館 [2021年02月09日(Tue)]

fumihouse-2021-02-09T20_13_47-1-thumbnail2.jpg映画は立って観たい。なぜなら寝てしまうから。立っていればさすがに寝入ることはない。眠ってしまって後悔しない。でも疲れるから無理だよなぁ。それに後ろの人に叱られる。

上映時間ギリギリに駆け込む。クルマを運転しながら間に合うだろうかと気をもみ、信号停止が多いとイライラし、駐車場でもたついたりすれば、なぜもっと早く準備しなかったのかと自分を恨む。チケットを買ってトイレに行き、席に座る。放心して疲れがどっと出る。眠くなるじゃないですか。

昨夜は床につく時間が遅かった。睡眠不足で入場すれば、やっぱり眠くなるのも道理では? ましてや場内は暗い。眠らないほうが可笑しいくらいなもんですよ。

ゆったりした音楽が流れ、心が弾むシーンがある。気持ちいいなぁ、思わず目を閉じて感慨にひたる。すると寝てしまうんだなぁ。自分では一瞬と思っていても、シーンが飛んでしまう。わたしはどこか遠くへ行っていた。いやぁ残念。

どんなに感動的な映画を観賞していても、映画館には眠る魔物が棲んでいる。ご注意あれ。

ホームシアターは贅沢としても、家で録画かDVDを見ればいいと言われるかもしれないが、ダメなんだなぁこれが。日常が周囲にある環境では、画面に集中できない。電話がかかり、来客があり、いつもと同じ家具調度類がそこにある。映画は非日常の体験。やはり見る環境もそうであってほしいのだ。

非日常で、かつリラックスする映画館という場。これ以上眠りに誘われる環境はないと思いませんか?

(座席で眠っていると、映画に出てくる街角のシルエットが夢に登場するかもしれないな)
三国志おちゃらけさいさい大昔 [2021年01月06日(Wed)]

fumihouse-2021-01-06T22_32_08-1-thumbnail2.jpg映画「おちゃらけ・三國志」を12月半ばに楽しんだ。いや違った。『新解釈・三國志』だった。

べらんめえ調でギャグ満載、史実には沿っていたものの、おちゃらけた映画に怒った歴史ファンも多かっただろう。わたしはというと、前半はケラケラ笑ってはいたが、後半は飽きて眠る時間もあった。主演大泉洋(劉備玄徳役)のおちゃらけのアクが強すぎたせいだろうか。それとも義兄弟の関羽、張飛に魅力がなかったせいだろうか。桃園の誓いから赤壁の戦いまでをなぞる必要があってか、エピソードが中途半端だったからだろうか。

新解釈ではない。遊びまくるお楽しみ映画。これもこれでよい。映画はエンターテイメントなのだから。橋本環奈演ずる諸葛孔明(ムロツヨシ)の妻が面白い。孔明は叡智に優れてはいない。ハッタリは効かせても知恵はない。全ては妻の智謀を元に演じただけだと。そんなウソっぱちに、大いに笑えた映画であった。

江南随一の美女小喬が山本美月かぁ。彼女も美人だがイメージが違うなぁ。群雄から抜け出た董卓(佐藤次朗)を腑抜けにする美女貂蟬を渡辺直美が演じた。ダンスが楽しい。あの腰の動きすごいなぁ。などと、映画の楽しみ方はいろいろあるもんだ。

(この斑入り(ふいり)のツワブキがいい。黄色い太陽を透けて見せてくれるように輝いている。三國志とは何の関係もない)
感染の世界にするまい生き延びよ [2021年01月03日(Sun)]

fumihouse-2021-01-03T10_33_40-1-thumbnail2.jpg元旦恒例の映画は、韓国の『新感染半島 ファイナル・ステージ』。あたりまえとは何だろうと考えた。「地獄から抜け出してやりたい」と、孫を救った祖父が死に際言った。一方で孫は、家族と一緒なのが一番、自分にとってこの世界は悪くない、と言った。穏やかで進歩を続けるあたりまえの世界に暮らした祖父と母。孫はゾンビによって無政府状態となった世界しか知らない。これがあたりまえ。闘争と怯えとが常態化した戦乱の世に、子どもたちを置いてはいけないという強い反戦思想も感じたところだ。

うーうー唸りながら人間の血肉を狂暴に貪り喰らい、超人的に(もう人間ではないが)走り飛び回るゾンビ。ウイルスが感染するとすぐに化け、銃で頭を撃たれてやっと死ぬ。いまのゾンビ像ができたのは半世紀前だそうだが、ヒトでないから残虐に殺しても問題はない。悪を成敗する爽快感を感じられる。

カーチェイスの迫力に体が硬くなった。終演後に指がガチガチになっていた。銃の乱射に加えて、女の子と母までカーアクションの主人公となり、ゾンビをなぎ倒し、撃ち殺すシーンはバイオレンス映画そのものだ。一方で母の情愛、肉親への愛、後悔の念にフラッシュバックするジョンソク・・・。人間ドラマもよく描いている。

主演のカン・ドンウォン(ジョンソク役)は伊藤健太郎に似たイケメンだ。伊藤はひき逃げ事故でもって謹慎中だが、このくらいのアクションはやってのけそうな気がする。復帰の芽はないものだろうか。

半島ごとロックダウンされた韓国(北朝鮮はセーフの模様)。物語のはじめの香港で半島から来たことが飲み屋で知られたときの差別。今も各地で卑劣な書き込みや遠巻きに避け嫌う差別の構造と同じである。

新コロナのCOVID-19ウイルスは感染拡大を続け、首都圏の知事が緊急事態宣言の再発動を求めるほど医療が危惧される。今までも大丈夫だったからこれからも、と考えがちな正常化バイアスを振り払っておかないと、将来もっと恐ろしいウイルスが発生したときが危ぶまれる。ゾンビは空想でかつ目に見えるが、真正のウイルスは見えない。見えない敵ほど恐ろしいものはない。

(ゾンビみたいに劣悪な環境では過ごしたくない。ぬくぬくと温かい衣服に包まれたい)
刃向け鬼滅目指して次代かな [2020年12月09日(Wed)]

fumihouse-2020-12-09T13_49_45-1-thumbnail2.jpg実写と見まがうばかりの背景。森や草原の輝き、スカイブルーと雲、蒸気機関車が疾走する力感・・・手間をかけた造りに感心した。一面に広がる白詰め草の花も綺麗だったが時代考証は? 白詰め草(クローバー)が船荷の緩衝材として日本に伝えられたのは幕末で、物語の設定である大正時代にそこまで広がったのだろうか? まっそんなことはどうでもいい。日本映画界史上最大のメガヒット(洋画も含め)『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を楽しんだ。

少年・竈門炭治郎が鬼と戦う前半の山場はあるが、クライマックスは柱(鬼滅を目指す人間界のグループリーダー)の煉獄杏寿郎の戦いぶりにある。驚嘆のスピードと強さ、お茶目さも加えて、魅力的なエピソードを散りばめる。強い者は弱い者のために強さを用いてこそ価値があること、次世代を育てその犠牲となるのも現リーダーの責務であること、に頷いた。さらに「ここにいる人を誰も死なせない」という鬼殺隊員たちの一貫した思想は、SDGsの思想「誰も置き去りにしない」のフレーズを思わせて胸が熱くなる。

家族を鬼に惨殺され、生き残ったものの鬼化した妹を人に戻すため、炭治郎は鬼と戦う。少年の立ち位置はわかりやすい。新コロナという“鬼”にやり込められた人々がその代償として、鬼殺隊員たちに共感するのがヒットの原因かもしれないが、煉獄を倒した鬼は命を長らえた。戦いはどこまで続くのか、この物語も新コロナも果ては見えない。

鬼と人では価値観が違うという台詞が多くあった。人間同士であっても価値観は違う。この映画が最上と評価する人もいれば、つまらないと酷評するのも価値観だ。

(首を切られて倒れた鬼は、虹のように跡形もなく消える)
王冠の宿に入り込み日常捨てる [2020年11月25日(Wed)]

fumihouse-2020-11-25T20_18_59-1-thumbnail2.jpg映画『ホテル・ローヤル』。原作は桜木紫乃の小説だそうだ。

利用客にとってラブホテルは非日常でも、経営者や従業員にとっては日常の光景。男女のむつみごとを間近にする。女将さん(母親)が家出したことで、ラブホの娘であることを拒んできた雅代(波瑠)だが、その日常に引きずられていった。そこで垣間見る他人の日常と非日常の入り交じった空間。事件にも巻き込まれながら両者が交錯していく。

廃墟となったホテルに忍び込んでヌード写真を撮りまくる男女カップル。何年か前の出来事、従業員たちが繰りなしていた日常の残像が亡霊のように差しはさまれる。ある人にとっての日常の風景は他人には非日常。日常と非日常が交錯してこの世はできている。過去も現在も未来も、同じように交錯するのだろうか。

『白いページの中に(柴田まゆみ/作詞作曲)』はエンディングでこう歌う。
♪振り向けば安らぎがあって/見守る瞳があったことを/サヨナラの時の中で/やっと気づくなんて♪

日々を綴りながら、私たちの日常の風景も移り変わっていく。心もまた変わる・・・安らぎがある。温かい愛すべき人がいる。悲劇も喜劇もある・・・たいていはサヨナラして初めて気がつく。終わってからやっと素敵なことに気づく。まっそんなものだ。

(日常のなかの非日常。見事な紅葉は今だけの日常)
家族とは浅田一家の肖像よ [2020年11月12日(Thu)]

fumihouse-2020-11-12T22_08_22-1-thumbnail2.jpg家族の肖像を撮る。つくろわず、かつ飾り盛って撮る。あえて家族愛とうたわずに、満面の家族愛を撮る。『浅田家!』は実在の写真家・浅田政志を題材にした映画で二宮和也が演じた。

自分がやりたいこと、アイデンティティなんてものは自分ではなかなか見つけられないものだ。だが他人の要望に応えて動くうちに、意外に自分の何たるかが見えてくる。浅田は、父と母がなりたかった職業をやってみたいという希望を叶えようと、家族のコスプレ写真を撮った。やがて奮闘するうちに賞をとり、一人前の写真家となった。おもしろ可笑しくて、ちょっと変な家族のおかげである。

家族とは何か?と大上段に迫るのではなく、写真を通して家族の肖像を描いて、幸せとは何かを問う。写真を通して家族の一員それぞれが成長していく。浅田が撮る写真は、その家族が一番輝く姿を表現した。

やがて東日本大震災、大津波という外因によって浅田は境地を開く。もちろん、もがき苦しんで恋人(黒木華)に助けられつつも、利他の行動で人生を開き、新しい家族をつくっていく。第二部は重いが、忘れがたい印象を残した。

(わかたけ学園で忘れがたい印象を残す楓の紅葉)
憑依してジオンは二重三重になる [2020年10月29日(Thu)]

fumihouse-2020-10-29T13_21_04-1-thumbnail2.jpg細面、細身の美人ママである。幼児の世話や家事をこなしている。苛立っており空虚感もある。映画『82年生まれ、キム・ジヨン』はそんなふうに始まった。BGMはあまりなく、ケータイの呼び出し音が不安定で不穏な感じをかもし出す。

ジヨンが結婚して専業主婦となって生まれたのは、癇が強い2才前後の女の子だ。夫はいい会社に勤めて優しいイケメン(V6の井ノ原に似ている)。育児に積極的に参加し、妻への思いやりにも溢れてはいるものの、儒教の色に染められて母の意見に引きづられがちだ。義母や義父との軋轢もあり、ジオンは閉塞状態にある。

公園でこれ見よがしに聞こえた若者グループの声は「専従主婦は気楽でいいよな」。ベビーカーを押して歩くジオンにとって戸外は安心できる場ではない。しかし家中も安息の場ではなく、子育ての毎日が煮詰まっていく。多くの女性たちに共感されるシーンであろう。男のわたしにとっては、夫の振る舞いにやきもきすることも含めて、座席を離れてどこかに行ってしまいたい気分。

ガットギターのアルペジオが流れるBGMが2回あった。喜ばしい場面展開を示すところだ。一度目は女性の元上司が起業してそこで働かないかと誘われたとき。これは周囲の反対と病気が原因で頓挫して、再び鬱屈へ。二度目は病気であることを認識し、治療に立ち向かう覚悟を決めたとき。そのままエンドロールに展開が開けて、観る者は胸を撫でおろし爽快感にひたる。

中盤でファストフード店でコーヒーカップを落としてしまったジオンに、他の若者グループが冷酷にひそひそと聞こえよがしに非難する。ジオンは反撃した。啖呵を切った。すでにジオンは一皮むけていた。

女性の生きづらさと息詰まり感を的確に表現するこの映画。わたしは中盤までそわそわと落ち着かなかった。観ることの辛さやジオンを傷つける人々の強い視線がイヤだった。席を立とうかとも思った。最期まで観て正解だった。

悪人はおらず、いい人ばかりなのに根付いた儒教的価値観をもってして、「当たり前でしょ」の一言で片付けて主人公を追い詰める。やがてジオンの胸の奥の苦しさを憑依した声が代弁した。一種の防衛反応から来る症状であろうが、そこまでにしておく。どうぞ映画をご覧くださいな。

(打ち沈む時期のジオンにとっては、ピラカンサスの実がこんなに鮮やかでも、目には入らなかったであろう)
声優にプロと素人違いあり [2020年09月13日(Sun)]

fumihouse-2020-09-13T09_49_05-1-thumbnail2.jpg映画『2分の1の魔法』のウェブの感想に、日本語吹替えの声優として素人を使うって感心しないというのがあった。コントやバラエティに出演する芸人を使ってほしくない、本物の俳優や声優がよいという意味だろう。わたしはその考えには与(くみ)しない。

日常私たちが生活する上で名優が演じるように会話をし、絵のような立ち居振舞いをするだろうか。そんなことはない。棒読みあり、気のない返事あり、相手に伝わらないコミュニケーションあり・・・不完全である。映画やドラマなどフィクションでは、そうあったらいいなあという最大公約数、たいていは監督や演出者のイメージで作られていく。完璧さを求めるのも一考だが、それはそれでよい。

コントや漫才は面白くしゃべくり続ける印象が強いが、実際は絶妙なリズムと間合いで出来ている。演技力も相当必要だ。そこに爆笑が生まれる。バラエティでもコメント内容と間合いの悪い芸人は淘汰されていく。出演の多い者は優れているということなのだ。つまり彼らは持って生まれた才能と近年の鍛練とによって、俳優や声優としての十分な技能も身についている。と、わたしは思う。

(花もまた、種としての才能と咲き誇ろうとする鍛練とによって人間を喜ばす)
その昔魔法に満ちた世界あり [2020年09月10日(Thu)]

fumihouse-2020-09-10T07_16_06-1-thumbnail2.jpg「はるか昔、世界は魔法に溢れていた」というテープメッセージを父は幼子に残して死んだ。16歳になったとき、少年イアンへ渡された父のプレゼントは魔法の杖。邦題『2分の1の魔法』のとおり、魔法は半分失敗して父は下半身しか蘇らなかった。効力は24時間。宝石アイテムを手に入れ父を復活させて、父と語り合いたい。イアンは望みをたくさんリスト化した。

□車の運転練習をする
□散歩する
□いっしょに笑う
□人生をともに生きる ・・・・・

おずおずとコミュニケーション障害と言えるほどのイアン。一方で兄はハチャメチャ冒険とゲーム好き。はた目には注意欠如多動症の極めつけに見える。周りに迷惑をかけてばかりの兄をイアンはろくでなしと表現した。兄のせいで父の復活は失敗に終わろうとしていた。リストを全て横線で消したイアン。

しかし彼は気がついた。父と母の愛を一身に受けて自分が大きくなってきたこと。そして兄は自分の成長を温かい目で見守ってくれていたこと。兄の恩は深い、ろくでなしなんかではない。兄にはいつも励まされていたじゃないかと感謝の思いが湧いてきた。リストは全てチェックすることができた。

父との出会いはほんのわずか。父との離別の儀式は終わったが、イアンは大きく変わった。友と語り友をリードし自信をもって生活を切り開いた。そこには感謝の念がベースにあった。

エンディングに流れたスキマスイッチの『全力少年』の歌詞が染みとおった。
  ♪あの頃の僕らはきっと
  全力で少年だった
  セカイを開くのは僕だ♪
もののけの姫に殿なり人となり [2020年08月26日(Wed)]

fumihouse-2020-08-26T12_54_51-1-thumbnail2.jpg『もののけ姫』を映画館で見る。オーケストラのサウンドが響き渡った。冒頭、コントラバスの低音に心を揺さぶられた。太古の森の守り手の強い意思を感じた。それはヒトではなく、地球そのものの雄叫びだ。

ヒトという破壊者を静めるために数々の予兆で示す。収奪者と化したヒトを諌めることができないと知った地球は牙をむいてヒトに襲いかかる。物の怪とは地球の変身した姿。怪奇なる物は地球の分身。モノに付いた怪奇なるコトが人間界に混乱をもたらす。

怪奇なるはヒト。ホモ・サピエンスが怪奇そのものなのだ。地球の資源を収奪し、他の生物がそれぞれ適した環境で生きている価値を優先しない。映画『もののけ姫』を見たらそんな気持ちになってきた。ジブリ渾身の名画である。
今はもう弱虫じゃないペダル踏む [2020年08月24日(Mon)]

fumihouse-2020-08-24T06_59_20-1-thumbnail2.jpg映画『弱虫ペダル』を観て、思わず足に力が入った。小野田が坂道を上る。ぐいぐい漕いで疲れを知らない。疲れはするだろう、が彼には山の神が降臨したのだ。

アニメ・マンガ好きの小野田は一人であれば、単なるオタクでしかない。しかし、人間というものは、自分を知ってあてにしてくれる誰かのためにがんばれる。思いがけず自転車競技部に入った小野田は、意外な才能に気づく。まずは周りが気がついて鼓舞する。小野田は自信喪失状態から立ち位置を替えてがんばった。いい循環が続いたのは、彼にとって幸運だった。周りがいい人ばかりだったのも幸せだ(皮肉屋はいるが)。

King & Princeの永瀬廉が小野田を純朴に、かつ伸び代タップリに演じた。伊藤健太郎は高校一年生には見えなかったけれど、クールに熱い今泉役にはまっていた。先輩たちがオッサンばかりで驚いたが、高一にとって先輩とは1年2年の違いが大きな溝があることを示していて、なるほどと思う。

千葉県大会のレースシーン。自転車の団体競技とはああしてレース運びをするんだなあ、と勉強になった。ハラハラの連続で、勝ったときの痛快さといったらない。走行場面にはCGを使っていないという。練習を重ねてたくましくなった若い俳優たちが実際に走る。これも痛快な出来事だ。
死んでみて初めてわかる父の愛 [2020年06月24日(Wed)]

fumihouse-2020-06-24T20_48_50-1.jpg映画『一度死んでみた』は、痛快コメディである。薬を飲んで二日だけ死んだはずだった父親(堤真一)を救出しようと、ヘビーメタルバンドの娘・七瀬(広瀬すず)が、父の秘書(吉沢亮)とともに大奮闘する。

七瀬は父が大嫌いだった。ライブでは父に「死んでくれ!」と叫びまくる。だが、父がいなくって初めてわかる父の愛。テーマはここにある。生きている時には口に出来なかった愛だが、死んで初めてわかる愛。幸いに七瀬には再び父とまみえるチャンスがあったのは幸いだった。

ライバルの製薬会社の陰謀、遺体の扱い、葬儀のあり方など荒唐無稽な設定はたくさんあったが、ケラケラ楽しんだ。ちょい役で有名どころがたくさん出演したのも面白い。佐藤健、城田優、古田新太、大友康平、妻夫木聡、加藤諒、志尊淳など。いい味を出している。

実写版の映画『キングダム』の第2段には羌瘣(きょうかい)が登場するはずだ。超のつく高い戦闘能力をもつ将官でありながら可愛い素顔。しかも信の子供を宿したいと言い放った女性。誰がその役をやるのか。秦王・政役は吉沢亮。となると、羌瘣は広瀬すずしかないなあ。

(下野の花も可愛いが、羌瘣はもっと可愛い)
ジュディさん虹の彼方に何を見る [2020年03月28日(Sat)]

fumihouse-2020-03-28T22_52_57-1.jpg『ジュディ 虹の彼方に』は悲しい映画だ。ミュージカル女優ジュディ・ガーランドの晩年を描いた。少女時代から薬漬けにされ、ステージで稼ぐことを強いられる。華やかな世界の一方で、スキャンダルとプレッシャーにさらされ続ける結果、酒に逃げる。恋にも逃げた。四度の結婚を重ね、どれもうまくいかない。大スターになった引き替えに、ごく普通の幸せには縁がなかったと言える。

ロンドンなら稼げると踏んで乗り込んで来たものの、遅刻や無断キャンセル、酩酊状態でステージに上がり客と口論して泣き崩れる。収拾のつかない自暴自棄。ファンにとっては見ていられない光景だったことだろう。歌姫はスポットライトを浴びて観客の前に立つことが唯一の楽しみだった。自分が輝くことのできる場所はそこしかない、という孤独感を漂わせる背中が寂しかった。

自分をスターダムに押し上げた『オズの魔法使』主題歌の「虹の彼方に」。涙こぼれてやがて歌えなくなる。客が助ける。みんなが続きを歌い始め、ジュディは観客と一体になる。私を忘れないでと言ったジュディであったが、わずか6ヶ月後、ジュディが47歳で亡くなったことを字幕が告げる。悲しい映画である。

(ジュディはまるで木についたまま、茶色に朽ち始めたヒメツバキのようだ)
ワンカット人は生きるさひと息に [2020年03月01日(Sun)]

fumihouse-2020-03-01T17_01_41-1.jpg映画を見て、人生はワンカットであることを思い知りました。常に「私」の視点から見た映像で世の中は動き、「私たち」も含めて一人称の感情や体験でもって途切れることなく連綿と続いていきます。

邪魔が入り、怪我をしたり生死の境に置かれることもある。期待に胸踊らせるときもあり、喜びすぎて墓穴を掘ることもある。友の悲しみに泣き、痛む心を他人に癒されることもある。走り、飛び、腹を減らし、喉の渇きに飢える。重い荷物に辟易し、ポケットに忍ばせた愛する人の写真に頬を寄せる。思いがけない攻撃から必死の思いで逃げ、時には全力で相手を打ち倒す。それが絶えることなく死ぬまで続く(睡眠中は除く)のが人生です。

映画『1917 命をかけた伝令』(原題は「1917」)は英国の上等兵ブレイクとウィルが決死の思いで敵陣を駆け抜けて重大な伝令を味方に伝える第一次大戦での半日の物語です。戦争の凄惨さの中に、家族愛を伝え、命を削る戦闘にもヒューマニズムが顔を出します。それが2時間のワンカットに詰め込まれているのです。

主人公の後ろからカメラが追いかけ、横に回り、開けた前方の視界を先取りし、俯瞰して上から眺める。ワンカットが途切れたように見えたのは、気を失ったときと、滝壺に落ちたとき。すごい映画でした。

(春のワンカット。ふきのとうはいい香り)
人生は喜劇なりせば笑ってよし [2020年02月16日(Sun)]

fumihouse-2020-02-16T19_36_41-1.jpg大泉洋と小池栄子主演の『グッドバイ/嘘からはじまる人生喜劇』を見ました。菊池寛の未完小説を脚本化したものだそうです。

楽しく笑えるドタバタコメディです。衣子(小池栄子)は戦後の闇市でパワフルで品のない担ぎ屋ですが、化粧をほどこし上質な衣服に身を包めばあれよと言う間に貴婦人となるのです。しゃべるとダミ声と無教養さが露見するので言葉は少なめに。

女に目がなくて多くの愛人を抱えている編集長・田島を大泉洋が演じました。淫乱でケチですが、弱さもかいま見せて母性本能をくすぐる男として最適かもしれません。

衣子は田島に頼まれて、もちろん高い報酬付きで偽夫婦を演じ、女たちのもとを訪れて愛人と手を切ろうとする田島を助けます。田島は優柔不断で煮え切らない・・・ドタバタを楽しめます。どんでん返しもあります。紆余曲折の末、収まるところに収まって安堵してエンドロールを見終わりました。喜劇もいいもんですね。
パラサイトドキドキワクワクビッグバン [2020年02月09日(Sun)]

fumihouse-2020-02-09T08_50_31-1.jpg韓国で昨年メガヒットした映画『パラサイト 半地下の家族』に圧倒された。失業中の一家が高台の金持ちに次々寄生していく展開にドキドキする。危うく露見しそうになるが、逃げおおせるのは人のいい金持ちの油断があったから。計画的で演技力たっぷりの失業一家であったが、彼らも油断した。

大脱出劇の結果、高台の豪邸からほうほうのていで逃げて半地下の家に向かって急ぐ家族。しかも雨。その惨めさが階層社会を象徴して深い感銘を残す映像であった。

高台からひたすら下っていくのである。坂道を下り、階段を下りる。シーンは全て下り。豪雨が降っている。その詫びしさにいたたまれない。しかも半地下の家は水害で水没したのである。一家は体育館の避難所に逃げた。

脱出の時から、軽快なBGMの底には低い不協和音が流れて一家の惨状を裏打ちする。なかでも父の苛立ち、怒りが徐々に凝縮されていく。大水害ののち、低層に住む低所得層の嘆きをよそに、金持ちは我関せずであった。その無頓着さ、そして金持ちが持つ傲慢さに父の怒りはビッグバンを起こした。

映画はいろんなどんでん返しでもって観客を飽きさせない。ため息をつきながらも、楽しくバクバクしながら観た2時間あまりだった。

(半地下の窓からも傘をかぶった朧月にかかる飛行機雲が見えることだろう)
猫の街灯り煌々踊る夜 [2020年02月01日(Sat)]

fumihouse-2020-02-01T21_41_10-1.jpg映画『キャッツ』で、貧しくて弱った女猫グリザベラが名曲『メモリー』を歌う。切なく哀愁を醸し出すが、輝やいていたいという気持ちを諦めてはいない。

人生には影があり光がある。猫の一生も同じ。陰鬱があり明朗がある。沈殿があり沸騰がある。燦々たる太陽の輝きと鎮静なる青い月明かり。感情は頼りなく揺れ動く。縁に触れてあるときは悲しみ、あるときは幸せの絶頂にいる。

不幸のただ中は不幸せ一色に塗り込められる。幸せなときは、当たり前に思うけれど、その意味が分かるのは幸せが遠退いていくときだ。

明日が始まる。私はを一人きりで思い浮かべ、ムーンライトとせせらぎに悲しみを癒す。若かりしころは光彩、いま思えば我ながら眩しい。

忘れまい、今もこの心が光を求めるならば、どこの遠くに行ったとしても、今日のこの日を燃焼させよう。凍える裏通りにあって街の明かりが消えて、空にはかすかにしか日が差さなくても、私は希望を捨てない。目映い陽光を待ちわびて、新たな日々を過ごす。そっと咲く花を見つめて、思い出よ空から下りてこい・・・。

そんなふうにグリザベラは歌い、猫たちを静かに感動の渦に引き込む。

誰も置き去りにしないことを理念とするSDGs(エスディージーズ)を思い、一番苦労した人が一番幸せにならなければならないと感じた。天上へ昇り、新たな生命を授かる一人はグリザベラ。ハッピーエンド・・・。

人間が置き棄てた廃墟、人通りの絶えた深夜の街路、人の宅留守でもってひっそりと猫の舞踏会が進む。まるで「くるみ割り人形」がクララにだけ夢の世界を見せたように、「トイ・ストーリー」のウッディが人に察せられないで密かに動くように、猫たちは彼らの世界を生きる。

人間も同じ。個性があり、住む世界が違うけれども、誰もが変わらぬ温もりを求める。キャッツを観て、幸せのときを想い、あしたを観じよう。
ウサギとは勇敢なりし人守る [2020年01月25日(Sat)]

fumihouse-2020-01-25T22_28_20-1.jpg映画『ジョジョ・ラビット』では、臆病な少年ジョジョが内なる声を聞き励まされて士気を鼓舞した。妄想と共に生活していたと言ってもよい。妄想上の友人はなんとヒトラー。彼はヒトラーユーゲントに加入し、兵役の真似事で戦争遂行を担っていた(本人も多くの大人も大真面目だが)。

冒頭にザ・ビートルズの『抱きしめたい』が流れる。

Oh yeah, I’ll tell you something / I think you’ll understand / When I’ll say that something / I want to hold your hand
ねぇ、君に言っておきたいことがある/君はわかってくれるだろうよ/でもね、君の手を握りながら話をしてもいいかな

初恋の男の子が相手に告白するときの(おそらく年上)甘い関係を初期のビートルズが歌った。ジョジョにとって、年上の女の子はエルサ。

エルサはジョジョの母ロージー(スカーレット・ヨハンソン)に匿われたユダヤ人で、それを見つけたジョジョはヒトラーユーゲントの義務として告発しようとしたが、巷間言われるようにユダヤ人は悪逆でも角の生えた悪魔でもない。やがて恋心が芽生える。幼い初恋が『抱きしめたい』に表現されていたのだろう。

一方でナチスは不正や悪徳そのもの。集団の空気で束縛して反体制派は公開処刑すらしていった。もちろんユダヤ人や障碍者は収容所送りである。残虐で不実、人間性の欠片もないナチスの実態を、ジョジョや酒飲み大尉の姿から映画は暴いていく。

母は処刑された。父は海外に出て反体制活動をしていた(たぶん戻って来ない)。ジョジョはエルサとともにどんな戦後を送っていくのだろう。アメリカから与えられた自由な空気を「抱きしめ」て満喫しただろうか。

(ジョジョよ、冬咲きチューリップのように真っ直ぐ育てや)
強欲も愛の力もフォース持つ [2020年01月01日(Wed)]

DSC_1618~2.JPG恒例の元旦映画で観たのは『スターウォーズ』シリーズの完結編『スカイウオーカーの夜明け』。宇宙を制服するという強欲を愛の力が上回ったことで決着をみた。いずれも「フォース」がベースにある。力とは闇と光の両面を持っているのだ。

そのフォースを悪ではなく善的に利用するためには、血筋ではなく、意志が重要だと示したことは感慨深い。闇の帝王の絶対的強さより、強く結ばれた絆の力が勝るのは、「ハリー・ポッター」にも「ロード・オブ・ザ・リング」にも通じるテーマである。

エンドロールに流れる数多くのキャストやスタッフの名前。勇壮で大音量のテーマ曲を聞きながら名前を眺めていた。なんと多くの人の手によって超巨編が完結したことに感動する。縁もゆかりもない人びとではあるが、わたしが映画を観ることで感銘を呼び起こし、縁が結ばれることに不思議な感動を覚えた。これこそがフォースのエネルギーというものなのだろう。

完結編とは言うが、前回エピソード8の最後に出てきた少年。砂漠地帯に住み箒を念力で手に引き寄せたあの子は姿を見せなかった。ということは、エピソード10の構想があるということなのだろうか。楽しい想像が広がっていく。

(舞台はどこかのある小宇宙。スターウォーズには木以外の植物は登場したのだろうか)
高津川石見に日本映す鏡 [2019年12月28日(Sat)]

DSC_1620~2.JPG映画『高津川』。どう感想を述べましょうか。

マナブ役の甲本雅裕は地味な役者だからこそ、この映画で主役をつとめる意味があったと思います。人口減少や過疎の問題、なにもないと故郷を飛び出す若者、石見神楽を日常的に舞う古里の源流、地元に根ざす青年の成長譚、よくある家族の確執、生きがい失くし認知症を発した老人、増える介護施設と就労者・・・島根の西部・石見に限らず全ての田舎が持つ現実の課題は地味ですが、切実な今の姿です。

田園風景、山の風景、高津川の流れの風景を、これでもか!というくらい映し出しています。映像美という点で、今回の作品もとても良いですね。石見神楽の舞台もふんだんに盛り込んで、速い8ビートのリズムと神楽の音が静かな山川の姿をむしろ強調しています。

あれはどの駅だろう。小学校の運動会に全国から飛行機やバスに乗って駆けつけた卒業生たちが降り立った山口線の駅。駅から出るとすぐに線路を斜めに横切る踏切がありました。その風景は映像ではなくて、なぜか画像を使っているのです。数枚ですが残念でした。また、廃校になった左鐙小学校を高津川小学校と名付けたのはいいのですが、「元気な左鐙っ子」の看板が映りこんでいるのはいただけません。

脚本は今回も錦織監督が書いてます。台詞の言い回しで、伝統を残したい、若いもんにはやりたいことがあるから強制はできん、などいかにも教訓的な内容を陳腐な台詞で表現していたのは不満でした。

高津川という日本随一の清流流域の暮らしが危機に瀕しているのは間違いありませんが、それは日本全国にまたがる問題でもあります。自分の今の姿や地域への関わりを改めてとらえ直していきたいと思える映画でした。

(ガラス細工に散りばめられた様々な模様は、光と周囲を映して自在に輝く)
冷たさも自由自在に雪女王 [2019年12月20日(Fri)]

DSC_1595~2.JPG『アナと雪の女王2』を感慨深く観た(日にちが過ぎたので印象が薄れはしたが)。

記憶というあてどもないものに、普段は私たちは悩まされる。不確かで、すぐ薄れて、頼りないもの。ドラマの回想シーンにわたしは憧れる。主人公が語りだすや映像化され、話の終わりとともに相手方はすべて了解して、事実も思いも過不足なく伝わっていく・・・・願望はそうでも実際は違う。欠落があり、勘違いがあり、脚色すらある。記憶を伝えることは困難だ。

水は記憶をもつ。そして水に連なる人間(人体の6割は水)は本人の体験からくる記憶のみならず、両親や祖先、地域の人びとが見聞きしたことであっても感じとることができる。そんなテーマでアナ雪2の物語を見た。

門を開けて叡智を集め、豊かな情感で対立の矛と盾を収め、人の和で良き国の行く末を決める。そうしたアナ雪1のテーマも継承しつつ、記憶を軸にして人びとを束ね、平和の礎にしようとするアナとエルザの国づくりが着々と進む。国民の穏やかで豊かな表情が印象に残る。4つの精霊たちも可愛くてよろしい。

毎度ながらエンドロールを終わりまで見ずに席を立つなかれ。5年前に続き今回も長めのオマケが楽しめますぞ。

(松江・出雲の平野部では雪を見ていない。青空を一度も見たことのない魔法の森の人びともいた)
変えていく悲劇の過去とギターの音色 [2019年11月24日(Sun)]

DSC_1582~2.JPG映画『マチネの終りに』。福山雅治が弾くギターに目を見張る。同じギターとはいえフィールドは違うが、クラシックギターを弾きこなしている。エンドロールによれば主題曲「幸福の硬貨」の部分は福山が実際に弾いたものが音源となったようだ。この才能を羨む。メロディの美しさとあわせて弾いてみたいと思う。

「大聖堂」(バリオス作曲)のクライマックス部では、不安と違和感がうごめく。何かが違う、主人公蒔野(福山)にとって自分が自分でなくなっていく不安を感じさせる速いフレーズ。「アストゥリアス」(アルベニス作曲)は再出発にふさわしい選曲だと思った。低音の旋律と高音のリズムが速く静かに、強弱を繰り返しながら進行していく。フラメンコ的な激しさとロマン派的な静謐さを兼ね備えている。「リュート組曲一番」(バッハ作曲)も深い精神性を感じさせる選曲だった。

蒔野聡史と小峰洋子(石田ゆり子)の人生に思いを馳せる。蒔野が男泣きに運命を嘆き、後先考えずに手に持ったグラスを握りつぶす。ギターの演奏に支障があることも考えずに。洋子は人目もはばからず泣き崩れる。それでも両者は今の生活を破壊し、二人だけの過去に戻ろうとはしない。クラシックギターの音色が、ハッピーエンドがない物語の結末の各シーンを語っていくのが強く印象に残る。

小説(平野啓一郎原作)と設定を一部変えてあったが、小説にあったこの文が主題である。二人は過去の悲劇をこれからの生き方を充実させることで意味あるものとしようとしたのだ。

≪人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える≫

(皇帝ダリアは堂々と咲く。過去は過去、そして今を生きる)
蜜蜂は森の中にて音奏で [2019年11月06日(Wed)]

fumihouse-2019-11-06T20_24_26-1-thumbnail2.jpg映画『蜜蜂と遠雷』。笑みを浮かべて見ていました。いろんな笑顔です。

主人公・栄伝亜夜が回顧して亡き母と連弾したのを見ながら笑顔。天才児・風間塵の型にはまらない天真爛漫な演奏に笑顔。伸びやかに振る舞う様子を見るのも微笑ましい。マサル・カルロスや栄伝の悲しみに同化して泣きそうなのを堪える笑顔。晴れた海岸で遠雷を見て聴いて地球の音楽に感嘆して笑顔。亜夜やマサルがコンクールを通して成長を遂げる姿にほころぶ笑顔。最初から最後までピアノの旋律が絶えないことにも笑顔。音楽っていいなと思って笑顔。ピアノではないけれど私はギターに出会えてよかったと思う笑顔・・・・・。

本は前に読んだのに、また読みたい、と強烈に思いました。国際ピアノコンクールをめぐる若者たちの群像劇。素敵な物語を見事に映像化して、音楽の素晴らしさを称えた映画です。

(花にもリズムがある。メロディもハーモニーもある。そして静寂もたたえている)
新しいパラダイスなりシチリア島 [2019年08月25日(Sun)]

fumihouse-2019-08-25T21_18_42-1-thumbnail2.jpgこの世はキスでできている。何年かぶりで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を見てそう思った。

いろいろなキスがある。親しき仲の抱擁と頬ずり、寝入った子供の足裏をすりすりする。これらも含めて身体接触の先にキスがある。

キスの集合体があった。アルフレードがトトに残した形見。かつて自主検閲によって切られたフィルムをつなぎ合わせたものだった。愛のクライマックスシーンが集められている。躊躇しながらの口づけ、磁石のN極とS極が一瞬で吸い付くようなキス。軽いタッチのキス、待ち焦がれた末のキス。愛する二人が交わす唇と唇、口と口・・。

トトは子供の頃、アルフレッドと一緒に観た映画を思い出しただけでなく、美少女エレナと重ねた愛の軌跡を思い出し、今の自分があることを改めて思う。生活に疲れたトトに気力が蘇る。

この世はキスでできている、とまでは言えないが、ひとに生きるエネルギーを与えてくれるものなのだ。

(優しく語りかけキスをするようにロマンチックな演奏をする・・・そう簡単にできることではない)
天才が一夜に見積り数式で [2019年08月15日(Thu)]

fumihouse-2019-08-15T12_53_14-1-thumbnail2.jpg『アルキメデスの大戦』では、菅田将暉の怪演が見られた。怪しいというか、迫真の議論場面、そして一心不乱に複雑な数式を黒板に書き記して居並ぶ海軍幹部たちの鼻をあかす。人を説得するとはこれだけの力量が必要なのかと思う。それは数学に限らない。並外れた何らかの技量に加えて、相手や国家を思う真心が合わさった時に人は感動し、納得してくれるものだからだ。

東京帝大の中退学生から、いきなり尉官を超えて海軍の佐官(小佐)になった櫂(かい/菅田将暉)。配下となった少尉(柄本佑)にとっては、軍隊経験もない若造が上官となる屈辱であったが、やがて櫂の姿に魅せられていく。二人の掛け合いに笑った。

美しいと思うものを何でも測らずにはおられない天才数学者・櫂。変人である。そのことを公言してはばからない。戦艦だろうが、芸者や美女だろうがサイズを測り、美しさの由縁たる比率を導き出そうとする。雅な遊び・投扇興をするにあたっても数学的に解明しようと試みる。その櫂が海軍に入って櫂で船を漕ぐことはないにしても、櫂君と呼ばれると海軍が連想されてシャレになる。

自己の利益を最大限得ていこうとする我欲、組織の深謀遠慮が渦巻いていた。議論に勝ったはずの技術の造船中将に櫂が最終的には屈してしまうのも、議論の力であった。アメリカとの戦争を避けようと論陣を張っていたはずの山下少将一派にも腹に一物があった。「数字はウソをつかない」と数学の力を信じた櫂だったが、人間の力というものに最後は丸め込まれてしまったようだ。

(オミナエシの季節。74年前のあの日にも、小さな五角形の花弁を咲かせていたことだろう。今日は敗戦の日。日本の再出航であった)
ひとは皆空と宇宙とつながって [2019年08月12日(Mon)]

fumihouse-2019-08-12T14_54_34-1-thumbnail2.jpg「ひとは誰もが空とつながっている」、帆高が発したそんなセリフが印象に残る。天気が気分に与える影響は計り知れない。太陽が燦々と照りつける春の朝と激しい雨音に目覚めた朝とでは、比べるべくもない。

映画『天気の子』は陽菜を「天気の御子」とした。すなわち天気という神につながる「巫女」。人柱と表現したが、むしろ生贄である。晴れる願いを天が聞きいれる代償として、陽菜は自分を差し出さなくてはならなかったが、帆高は諦めなかった。

新海誠監督の前作『君の名は。』では、三葉と瀧は逢魔時を媒介にして運命を開きあったが、最後には相手の名前ばかりか、相手の存在すらも認識できなくなる。今回は穂高と陽菜はハッピーエンドになりそうだ。最初の映画、『言の葉の庭』を見たくなってきた。

高校生や中学生がたくさんいた。なかでも男の子が多いのが印象的だ。あんなふうに告白したいのだろうなあ、と思う。彼らにとっては地球環境が危機的に変化している現状を憂う社会派ドラマではなくて、甘酸っぱい青春映画として見えたのかもしれない(巨大プール何十杯もの雨水が一度に落ちてくる豪雨の形容。あれは彼らにも響いただろう)。

ひとは誰もが空とつながり、天気は地球と一体、そして宇宙ともつながる。恋愛模様も含めて人間の営みは地球だけでなく、宇宙をも動かす。なんせ、天気は天の気分なのだから。

(熱帯夜が昨晩はましになったとはいえ、今日も酷暑が続く。台風10号が秋の空気を運ぶという観測に期待したい、被害は無しにして)
夜明け前今も昔も夜は続く [2019年08月06日(Tue)]

fumihouse-2019-08-06T18_40_07-1-thumbnail2.jpg映画『夜明け前/呉秀三と無名の精神障害者の100年』を見ると百年という歳月の速さに感じ入る。精神科医・呉秀三の物語である。

1世紀ほど前の1918年に『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』を呉医師は著した。そこには精神障がい者が置かれた悲しい「監護」実態があった。看護ではなく、監禁保護である。

当時の法律(精神病者監護法)では私宅監置、通称「座敷牢」に閉じ込められて外界との接触を断たれた患者に人権はなかった。社会にとって危険な精神病者を監禁するという発想から生まれた法律である。その差別の実態は長く残り、今でも偏見はつづいている。

狐や狢(むじな)の憑きものが発したり、祟りからくるという前近代的な認識は変わりつつあったものの、解明されない脳の病気であることは同じだ。医者にとっても治療は暗中模索。薬もない時代である。その中で、呉秀三は患者を人として遇し、座敷牢と身体拘束廃止を目指した。

呉医師は述べる。精神病者が不幸なのは病を受けたことだけではない、日本という国に生れたことなのだ、と。「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」

呉医師は医療者が患者と向き合うことを望んだ。今や患者さんを一人の人間として尊重する考え方に変わった。それでも映画の解説者は、座敷牢から病院監護へ替わっただけであり、心の中にある見えない檻や壁を取り去らなければならないと警告していた。長期の社会的入院が実態としてある。課題は大きい。
燃え尽きて天の国にて会えるのか [2019年07月16日(Tue)]

fumihouse-2019-07-16T21_04_23-1-thumbnail2.jpg『天国でまた会おう』は美しくも残酷、そして少し笑えもするフランス映画だ。舞台は第一次大戦で独仏が対峙した塹壕の中。そして戦いに勝って繁栄するパリ市内。

年配の元仏兵士アルデールは、同じ部隊だった若いエドゥアールと大博打を打った。エドゥアールに宿った類いまれな絵の才能。戦没者記念碑の建設巨費をだまし取る計画を二人は成功させた。騙した相手はエドゥアールの父だった。

戦死を偽装していたエドゥアールは、確執して別れた父を二重に騙した。エドゥアールが絵の道に進むことを許さなかった父と彼は相容れない。袂を分かった父子だったが、父は息子が生きていると知る。二人は抱き合い和解した。しかし、息子は「天国で会おう」と言い残して命を絶った。

傷痍軍人となったエドゥアールには鼻から下の顔がない。言葉も失った。身体と精神がそろっていない彼にとって、自分は自分でなくなった。どんなに絵の才能が際立っていても彼は彼として完結しなかったのではないか。顔がないことがどれだけの悲惨をもたらすか、私には想像できないのだが、エドゥアールには生きる希望が残されていなかったのだと思う。

彼はアルデールと少女と三人で暮らした。二人がいたからエドゥアールは生きた。大きな存在だったと思う。でも、それは自分の喪失感を埋め合わせるのには足らなかったのだろう。そこに、父との相克でぽっかり空いていた穴が埋まった。父と和解して最上の幸福感を得てしまったエドゥアールには、もう喪失は考えられなかった。だからそこで、ジ・エンドとしてしまったのだろうか。幸せでお腹いっぱいになったようにも思う。生きよ!生きて喜びを絵で表現せよ!という声が聞こえたのかもしれないが、彼は燃え尽きた。

(エドゥアールは燃えて真っ白になってしまった。カスミソウは燃えて灰になったわけではないが)
タラレバで爆弾並みの低気圧 [2019年07月02日(Tue)]

fumihouse-2019-07-02T18_57_16-1-thumbnail2.jpgシナノ企画が1977年に製作した映画『八甲田山』は、同作の『砂の器』に次ぐ名画と言ってもいい。軍隊というもの、日本における組織のあり方について考えさせてくれる。心構えを万全にして事前の準備がいかに大切かを思い知らされる。八甲田山雪中行軍で二百人近くの軍人を失った実話に基づく事件を、新田次郎が小説に描いた。

東北とはいっても雪の怖さを知らない太平洋側に生れた青森連隊の将兵たち。兵卒によっては遠足気分だった。それを率いる将校も一部は軽い気持ちで厳冬期の山岳に入ろうと考えていた。一方で弘前連隊の徳島中隊長(高倉健)は二十数名の少数精鋭主義をとった。遭難することもあり得ると悲壮な覚悟をもって双肩に責任を担った。将兵は日本海側に生れた者ばかりで雪には多少慣れているが、冬の八甲田山は決して人を寄せつけない(犠牲者はゼロ)。

青森連隊の指揮命令は神田中隊長(北大路欣也)に執らせるといいつつも、日露戦争の開戦を控え(実際2年後)監察と称して山田大隊長(三國連太郎)が伴っていた。彼は気まぐれな命令を連発し、結局はほとんどを死地に追いやった。指揮官としての神田中隊長は有能であったが、不運が重なり過ぎた。小回りのきかない大人数、上司への遠慮、引き返す勇気を持てなかった悲劇、複数回の判断ミス、超弩級の低気圧帯が通過したこと。タラレバを考えたらきりがないが、残念でたまらない。

(今朝松江駅でもらった、自衛官募集キャンペーンのティッシュ。現代の軍隊・自衛隊は隊員の命を大切にしてくれよ)
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