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ジュディさん虹の彼方に何を見る [2020年03月28日(Sat)]

fumihouse-2020-03-28T22_52_57-1.jpg『ジュディ 虹の彼方に』は悲しい映画だ。ミュージカル女優ジュディ・ガーランドの晩年を描いた。少女時代から薬漬けにされ、ステージで稼ぐことを強いられる。華やかな世界の一方で、スキャンダルとプレッシャーにさらされ続ける結果、酒に逃げる。恋にも逃げた。四度の結婚を重ね、どれもうまくいかない。大スターになった引き替えに、ごく普通の幸せには縁がなかったと言える。

ロンドンなら稼げると踏んで乗り込んで来たものの、遅刻や無断キャンセル、酩酊状態でステージに上がり客と口論して泣き崩れる。収拾のつかない自暴自棄。ファンにとっては見ていられない光景だったことだろう。歌姫はスポットライトを浴びて観客の前に立つことが唯一の楽しみだった。自分が輝くことのできる場所はそこしかない、という孤独感を漂わせる背中が寂しかった。

自分をスターダムに押し上げた『オズの魔法使』主題歌の「虹の彼方に」。涙こぼれてやがて歌えなくなる。客が助ける。みんなが続きを歌い始め、ジュディは観客と一体になる。私を忘れないでと言ったジュディであったが、わずか6ヶ月後、ジュディが47歳で亡くなったことを字幕が告げる。悲しい映画である。

(ジュディはまるで木についたまま、茶色に朽ち始めたヒメツバキのようだ)
ワンカット人は生きるさひと息に [2020年03月01日(Sun)]

fumihouse-2020-03-01T17_01_41-1.jpg映画を見て、人生はワンカットであることを思い知りました。常に「私」の視点から見た映像で世の中は動き、「私たち」も含めて一人称の感情や体験でもって途切れることなく連綿と続いていきます。

邪魔が入り、怪我をしたり生死の境に置かれることもある。期待に胸踊らせるときもあり、喜びすぎて墓穴を掘ることもある。友の悲しみに泣き、痛む心を他人に癒されることもある。走り、飛び、腹を減らし、喉の渇きに飢える。重い荷物に辟易し、ポケットに忍ばせた愛する人の写真に頬を寄せる。思いがけない攻撃から必死の思いで逃げ、時には全力で相手を打ち倒す。それが絶えることなく死ぬまで続く(睡眠中は除く)のが人生です。

映画『1917 命をかけた伝令』(原題は「1917」)は英国の上等兵ブレイクとウィルが決死の思いで敵陣を駆け抜けて重大な伝令を味方に伝える第一次大戦での半日の物語です。戦争の凄惨さの中に、家族愛を伝え、命を削る戦闘にもヒューマニズムが顔を出します。それが2時間のワンカットに詰め込まれているのです。

主人公の後ろからカメラが追いかけ、横に回り、開けた前方の視界を先取りし、俯瞰して上から眺める。ワンカットが途切れたように見えたのは、気を失ったときと、滝壺に落ちたとき。すごい映画でした。

(春のワンカット。ふきのとうはいい香り)
人生は喜劇なりせば笑ってよし [2020年02月16日(Sun)]

fumihouse-2020-02-16T19_36_41-1.jpg大泉洋と小池栄子主演の『グッドバイ/嘘からはじまる人生喜劇』を見ました。菊池寛の未完小説を脚本化したものだそうです。

楽しく笑えるドタバタコメディです。衣子(小池栄子)は戦後の闇市でパワフルで品のない担ぎ屋ですが、化粧をほどこし上質な衣服に身を包めばあれよと言う間に貴婦人となるのです。しゃべるとダミ声と無教養さが露見するので言葉は少なめに。

女に目がなくて多くの愛人を抱えている編集長・田島を大泉洋が演じました。淫乱でケチですが、弱さもかいま見せて母性本能をくすぐる男として最適かもしれません。

衣子は田島に頼まれて、もちろん高い報酬付きで偽夫婦を演じ、女たちのもとを訪れて愛人と手を切ろうとする田島を助けます。田島は優柔不断で煮え切らない・・・ドタバタを楽しめます。どんでん返しもあります。紆余曲折の末、収まるところに収まって安堵してエンドロールを見終わりました。喜劇もいいもんですね。
パラサイトドキドキワクワクビッグバン [2020年02月09日(Sun)]

fumihouse-2020-02-09T08_50_31-1.jpg韓国で昨年メガヒットした映画『パラサイト 半地下の家族』に圧倒された。失業中の一家が高台の金持ちに次々寄生していく展開にドキドキする。危うく露見しそうになるが、逃げおおせるのは人のいい金持ちの油断があったから。計画的で演技力たっぷりの失業一家であったが、彼らも油断した。

大脱出劇の結果、高台の豪邸からほうほうのていで逃げて半地下の家に向かって急ぐ家族。しかも雨。その惨めさが階層社会を象徴して深い感銘を残す映像であった。

高台からひたすら下っていくのである。坂道を下り、階段を下りる。シーンは全て下り。豪雨が降っている。その詫びしさにいたたまれない。しかも半地下の家は水害で水没したのである。一家は体育館の避難所に逃げた。

脱出の時から、軽快なBGMの底には低い不協和音が流れて一家の惨状を裏打ちする。なかでも父の苛立ち、怒りが徐々に凝縮されていく。大水害ののち、低層に住む低所得層の嘆きをよそに、金持ちは我関せずであった。その無頓着さ、そして金持ちが持つ傲慢さに父の怒りはビッグバンを起こした。

映画はいろんなどんでん返しでもって観客を飽きさせない。ため息をつきながらも、楽しくバクバクしながら観た2時間あまりだった。

(半地下の窓からも傘をかぶった朧月にかかる飛行機雲が見えることだろう)
猫の街灯り煌々踊る夜 [2020年02月01日(Sat)]

fumihouse-2020-02-01T21_41_10-1.jpg映画『キャッツ』で、貧しくて弱った女猫グリザベラが名曲『メモリー』を歌う。切なく哀愁を醸し出すが、輝やいていたいという気持ちを諦めてはいない。

人生には影があり光がある。猫の一生も同じ。陰鬱があり明朗がある。沈殿があり沸騰がある。燦々たる太陽の輝きと鎮静なる青い月明かり。感情は頼りなく揺れ動く。縁に触れてあるときは悲しみ、あるときは幸せの絶頂にいる。

不幸のただ中は不幸せ一色に塗り込められる。幸せなときは、当たり前に思うけれど、その意味が分かるのは幸せが遠退いていくときだ。

明日が始まる。私はを一人きりで思い浮かべ、ムーンライトとせせらぎに悲しみを癒す。若かりしころは光彩、いま思えば我ながら眩しい。

忘れまい、今もこの心が光を求めるならば、どこの遠くに行ったとしても、今日のこの日を燃焼させよう。凍える裏通りにあって街の明かりが消えて、空にはかすかにしか日が差さなくても、私は希望を捨てない。目映い陽光を待ちわびて、新たな日々を過ごす。そっと咲く花を見つめて、思い出よ空から下りてこい・・・。

そんなふうにグリザベラは歌い、猫たちを静かに感動の渦に引き込む。

誰も置き去りにしないことを理念とするSDGs(エスディージーズ)を思い、一番苦労した人が一番幸せにならなければならないと感じた。天上へ昇り、新たな生命を授かる一人はグリザベラ。ハッピーエンド・・・。

人間が置き棄てた廃墟、人通りの絶えた深夜の街路、人の宅留守でもってひっそりと猫の舞踏会が進む。まるで「くるみ割り人形」がクララにだけ夢の世界を見せたように、「トイ・ストーリー」のウッディが人に察せられないで密かに動くように、猫たちは彼らの世界を生きる。

人間も同じ。個性があり、住む世界が違うけれども、誰もが変わらぬ温もりを求める。キャッツを観て、幸せのときを想い、あしたを観じよう。
ウサギとは勇敢なりし人守る [2020年01月25日(Sat)]

fumihouse-2020-01-25T22_28_20-1.jpg映画『ジョジョ・ラビット』では、臆病な少年ジョジョが内なる声を聞き励まされて士気を鼓舞した。妄想と共に生活していたと言ってもよい。妄想上の友人はなんとヒトラー。彼はヒトラーユーゲントに加入し、兵役の真似事で戦争遂行を担っていた(本人も多くの大人も大真面目だが)。

冒頭にザ・ビートルズの『抱きしめたい』が流れる。

Oh yeah, I’ll tell you something / I think you’ll understand / When I’ll say that something / I want to hold your hand
ねぇ、君に言っておきたいことがある/君はわかってくれるだろうよ/でもね、君の手を握りながら話をしてもいいかな

初恋の男の子が相手に告白するときの(おそらく年上)甘い関係を初期のビートルズが歌った。ジョジョにとって、年上の女の子はエルサ。

エルサはジョジョの母ロージー(スカーレット・ヨハンソン)に匿われたユダヤ人で、それを見つけたジョジョはヒトラーユーゲントの義務として告発しようとしたが、巷間言われるようにユダヤ人は悪逆でも角の生えた悪魔でもない。やがて恋心が芽生える。幼い初恋が『抱きしめたい』に表現されていたのだろう。

一方でナチスは不正や悪徳そのもの。集団の空気で束縛して反体制派は公開処刑すらしていった。もちろんユダヤ人や障碍者は収容所送りである。残虐で不実、人間性の欠片もないナチスの実態を、ジョジョや酒飲み大尉の姿から映画は暴いていく。

母は処刑された。父は海外に出て反体制活動をしていた(たぶん戻って来ない)。ジョジョはエルサとともにどんな戦後を送っていくのだろう。アメリカから与えられた自由な空気を「抱きしめ」て満喫しただろうか。

(ジョジョよ、冬咲きチューリップのように真っ直ぐ育てや)
強欲も愛の力もフォース持つ [2020年01月01日(Wed)]

DSC_1618~2.JPG恒例の元旦映画で観たのは『スターウォーズ』シリーズの完結編『スカイウオーカーの夜明け』。宇宙を制服するという強欲を愛の力が上回ったことで決着をみた。いずれも「フォース」がベースにある。力とは闇と光の両面を持っているのだ。

そのフォースを悪ではなく善的に利用するためには、血筋ではなく、意志が重要だと示したことは感慨深い。闇の帝王の絶対的強さより、強く結ばれた絆の力が勝るのは、「ハリー・ポッター」にも「ロード・オブ・ザ・リング」にも通じるテーマである。

エンドロールに流れる数多くのキャストやスタッフの名前。勇壮で大音量のテーマ曲を聞きながら名前を眺めていた。なんと多くの人の手によって超巨編が完結したことに感動する。縁もゆかりもない人びとではあるが、わたしが映画を観ることで感銘を呼び起こし、縁が結ばれることに不思議な感動を覚えた。これこそがフォースのエネルギーというものなのだろう。

完結編とは言うが、前回エピソード8の最後に出てきた少年。砂漠地帯に住み箒を念力で手に引き寄せたあの子は姿を見せなかった。ということは、エピソード10の構想があるということなのだろうか。楽しい想像が広がっていく。

(舞台はどこかのある小宇宙。スターウォーズには木以外の植物は登場したのだろうか)
高津川石見に日本映す鏡 [2019年12月28日(Sat)]

DSC_1620~2.JPG映画『高津川』。どう感想を述べましょうか。

マナブ役の甲本雅裕は地味な役者だからこそ、この映画で主役をつとめる意味があったと思います。人口減少や過疎の問題、なにもないと故郷を飛び出す若者、石見神楽を日常的に舞う古里の源流、地元に根ざす青年の成長譚、よくある家族の確執、生きがい失くし認知症を発した老人、増える介護施設と就労者・・・島根の西部・石見に限らず全ての田舎が持つ現実の課題は地味ですが、切実な今の姿です。

田園風景、山の風景、高津川の流れの風景を、これでもか!というくらい映し出しています。映像美という点で、今回の作品もとても良いですね。石見神楽の舞台もふんだんに盛り込んで、速い8ビートのリズムと神楽の音が静かな山川の姿をむしろ強調しています。

あれはどの駅だろう。小学校の運動会に全国から飛行機やバスに乗って駆けつけた卒業生たちが降り立った山口線の駅。駅から出るとすぐに線路を斜めに横切る踏切がありました。その風景は映像ではなくて、なぜか画像を使っているのです。数枚ですが残念でした。また、廃校になった左鐙小学校を高津川小学校と名付けたのはいいのですが、「元気な左鐙っ子」の看板が映りこんでいるのはいただけません。

脚本は今回も錦織監督が書いてます。台詞の言い回しで、伝統を残したい、若いもんにはやりたいことがあるから強制はできん、などいかにも教訓的な内容を陳腐な台詞で表現していたのは不満でした。

高津川という日本随一の清流流域の暮らしが危機に瀕しているのは間違いありませんが、それは日本全国にまたがる問題でもあります。自分の今の姿や地域への関わりを改めてとらえ直していきたいと思える映画でした。

(ガラス細工に散りばめられた様々な模様は、光と周囲を映して自在に輝く)
冷たさも自由自在に雪女王 [2019年12月20日(Fri)]

DSC_1595~2.JPG『アナと雪の女王2』を感慨深く観た(日にちが過ぎたので印象が薄れはしたが)。

記憶というあてどもないものに、普段は私たちは悩まされる。不確かで、すぐ薄れて、頼りないもの。ドラマの回想シーンにわたしは憧れる。主人公が語りだすや映像化され、話の終わりとともに相手方はすべて了解して、事実も思いも過不足なく伝わっていく・・・・願望はそうでも実際は違う。欠落があり、勘違いがあり、脚色すらある。記憶を伝えることは困難だ。

水は記憶をもつ。そして水に連なる人間(人体の6割は水)は本人の体験からくる記憶のみならず、両親や祖先、地域の人びとが見聞きしたことであっても感じとることができる。そんなテーマでアナ雪2の物語を見た。

門を開けて叡智を集め、豊かな情感で対立の矛と盾を収め、人の和で良き国の行く末を決める。そうしたアナ雪1のテーマも継承しつつ、記憶を軸にして人びとを束ね、平和の礎にしようとするアナとエルザの国づくりが着々と進む。国民の穏やかで豊かな表情が印象に残る。4つの精霊たちも可愛くてよろしい。

毎度ながらエンドロールを終わりまで見ずに席を立つなかれ。5年前に続き今回も長めのオマケが楽しめますぞ。

(松江・出雲の平野部では雪を見ていない。青空を一度も見たことのない魔法の森の人びともいた)
変えていく悲劇の過去とギターの音色 [2019年11月24日(Sun)]

DSC_1582~2.JPG映画『マチネの終りに』。福山雅治が弾くギターに目を見張る。同じギターとはいえフィールドは違うが、クラシックギターを弾きこなしている。エンドロールによれば主題曲「幸福の硬貨」の部分は福山が実際に弾いたものが音源となったようだ。この才能を羨む。メロディの美しさとあわせて弾いてみたいと思う。

「大聖堂」(バリオス作曲)のクライマックス部では、不安と違和感がうごめく。何かが違う、主人公蒔野(福山)にとって自分が自分でなくなっていく不安を感じさせる速いフレーズ。「アストゥリアス」(アルベニス作曲)は再出発にふさわしい選曲だと思った。低音の旋律と高音のリズムが速く静かに、強弱を繰り返しながら進行していく。フラメンコ的な激しさとロマン派的な静謐さを兼ね備えている。「リュート組曲一番」(バッハ作曲)も深い精神性を感じさせる選曲だった。

蒔野聡史と小峰洋子(石田ゆり子)の人生に思いを馳せる。蒔野が男泣きに運命を嘆き、後先考えずに手に持ったグラスを握りつぶす。ギターの演奏に支障があることも考えずに。洋子は人目もはばからず泣き崩れる。それでも両者は今の生活を破壊し、二人だけの過去に戻ろうとはしない。クラシックギターの音色が、ハッピーエンドがない物語の結末の各シーンを語っていくのが強く印象に残る。

小説(平野啓一郎原作)と設定を一部変えてあったが、小説にあったこの文が主題である。二人は過去の悲劇をこれからの生き方を充実させることで意味あるものとしようとしたのだ。

≪人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える≫

(皇帝ダリアは堂々と咲く。過去は過去、そして今を生きる)
蜜蜂は森の中にて音奏で [2019年11月06日(Wed)]

fumihouse-2019-11-06T20_24_26-1-thumbnail2.jpg映画『蜜蜂と遠雷』。笑みを浮かべて見ていました。いろんな笑顔です。

主人公・栄伝亜夜が回顧して亡き母と連弾したのを見ながら笑顔。天才児・風間塵の型にはまらない天真爛漫な演奏に笑顔。伸びやかに振る舞う様子を見るのも微笑ましい。マサル・カルロスや栄伝の悲しみに同化して泣きそうなのを堪える笑顔。晴れた海岸で遠雷を見て聴いて地球の音楽に感嘆して笑顔。亜夜やマサルがコンクールを通して成長を遂げる姿にほころぶ笑顔。最初から最後までピアノの旋律が絶えないことにも笑顔。音楽っていいなと思って笑顔。ピアノではないけれど私はギターに出会えてよかったと思う笑顔・・・・・。

本は前に読んだのに、また読みたい、と強烈に思いました。国際ピアノコンクールをめぐる若者たちの群像劇。素敵な物語を見事に映像化して、音楽の素晴らしさを称えた映画です。

(花にもリズムがある。メロディもハーモニーもある。そして静寂もたたえている)
新しいパラダイスなりシチリア島 [2019年08月25日(Sun)]

fumihouse-2019-08-25T21_18_42-1-thumbnail2.jpgこの世はキスでできている。何年かぶりで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を見てそう思った。

いろいろなキスがある。親しき仲の抱擁と頬ずり、寝入った子供の足裏をすりすりする。これらも含めて身体接触の先にキスがある。

キスの集合体があった。アルフレードがトトに残した形見。かつて自主検閲によって切られたフィルムをつなぎ合わせたものだった。愛のクライマックスシーンが集められている。躊躇しながらの口づけ、磁石のN極とS極が一瞬で吸い付くようなキス。軽いタッチのキス、待ち焦がれた末のキス。愛する二人が交わす唇と唇、口と口・・。

トトは子供の頃、アルフレッドと一緒に観た映画を思い出しただけでなく、美少女エレナと重ねた愛の軌跡を思い出し、今の自分があることを改めて思う。生活に疲れたトトに気力が蘇る。

この世はキスでできている、とまでは言えないが、ひとに生きるエネルギーを与えてくれるものなのだ。

(優しく語りかけキスをするようにロマンチックな演奏をする・・・そう簡単にできることではない)
天才が一夜に見積り数式で [2019年08月15日(Thu)]

fumihouse-2019-08-15T12_53_14-1-thumbnail2.jpg『アルキメデスの大戦』では、菅田将暉の怪演が見られた。怪しいというか、迫真の議論場面、そして一心不乱に複雑な数式を黒板に書き記して居並ぶ海軍幹部たちの鼻をあかす。人を説得するとはこれだけの力量が必要なのかと思う。それは数学に限らない。並外れた何らかの技量に加えて、相手や国家を思う真心が合わさった時に人は感動し、納得してくれるものだからだ。

東京帝大の中退学生から、いきなり尉官を超えて海軍の佐官(小佐)になった櫂(かい/菅田将暉)。配下となった少尉(柄本佑)にとっては、軍隊経験もない若造が上官となる屈辱であったが、やがて櫂の姿に魅せられていく。二人の掛け合いに笑った。

美しいと思うものを何でも測らずにはおられない天才数学者・櫂。変人である。そのことを公言してはばからない。戦艦だろうが、芸者や美女だろうがサイズを測り、美しさの由縁たる比率を導き出そうとする。雅な遊び・投扇興をするにあたっても数学的に解明しようと試みる。その櫂が海軍に入って櫂で船を漕ぐことはないにしても、櫂君と呼ばれると海軍が連想されてシャレになる。

自己の利益を最大限得ていこうとする我欲、組織の深謀遠慮が渦巻いていた。議論に勝ったはずの技術の造船中将に櫂が最終的には屈してしまうのも、議論の力であった。アメリカとの戦争を避けようと論陣を張っていたはずの山下少将一派にも腹に一物があった。「数字はウソをつかない」と数学の力を信じた櫂だったが、人間の力というものに最後は丸め込まれてしまったようだ。

(オミナエシの季節。74年前のあの日にも、小さな五角形の花弁を咲かせていたことだろう。今日は敗戦の日。日本の再出航であった)
ひとは皆空と宇宙とつながって [2019年08月12日(Mon)]

fumihouse-2019-08-12T14_54_34-1-thumbnail2.jpg「ひとは誰もが空とつながっている」、帆高が発したそんなセリフが印象に残る。天気が気分に与える影響は計り知れない。太陽が燦々と照りつける春の朝と激しい雨音に目覚めた朝とでは、比べるべくもない。

映画『天気の子』は陽菜を「天気の御子」とした。すなわち天気という神につながる「巫女」。人柱と表現したが、むしろ生贄である。晴れる願いを天が聞きいれる代償として、陽菜は自分を差し出さなくてはならなかったが、帆高は諦めなかった。

新海誠監督の前作『君の名は。』では、三葉と瀧は逢魔時を媒介にして運命を開きあったが、最後には相手の名前ばかりか、相手の存在すらも認識できなくなる。今回は穂高と陽菜はハッピーエンドになりそうだ。最初の映画、『言の葉の庭』を見たくなってきた。

高校生や中学生がたくさんいた。なかでも男の子が多いのが印象的だ。あんなふうに告白したいのだろうなあ、と思う。彼らにとっては地球環境が危機的に変化している現状を憂う社会派ドラマではなくて、甘酸っぱい青春映画として見えたのかもしれない(巨大プール何十杯もの雨水が一度に落ちてくる豪雨の形容。あれは彼らにも響いただろう)。

ひとは誰もが空とつながり、天気は地球と一体、そして宇宙ともつながる。恋愛模様も含めて人間の営みは地球だけでなく、宇宙をも動かす。なんせ、天気は天の気分なのだから。

(熱帯夜が昨晩はましになったとはいえ、今日も酷暑が続く。台風10号が秋の空気を運ぶという観測に期待したい、被害は無しにして)
夜明け前今も昔も夜は続く [2019年08月06日(Tue)]

fumihouse-2019-08-06T18_40_07-1-thumbnail2.jpg映画『夜明け前/呉秀三と無名の精神障害者の100年』を見ると百年という歳月の速さに感じ入る。精神科医・呉秀三の物語である。

1世紀ほど前の1918年に『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』を呉医師は著した。そこには精神障がい者が置かれた悲しい「監護」実態があった。看護ではなく、監禁保護である。

当時の法律(精神病者監護法)では私宅監置、通称「座敷牢」に閉じ込められて外界との接触を断たれた患者に人権はなかった。社会にとって危険な精神病者を監禁するという発想から生まれた法律である。その差別の実態は長く残り、今でも偏見はつづいている。

狐や狢(むじな)の憑きものが発したり、祟りからくるという前近代的な認識は変わりつつあったものの、解明されない脳の病気であることは同じだ。医者にとっても治療は暗中模索。薬もない時代である。その中で、呉秀三は患者を人として遇し、座敷牢と身体拘束廃止を目指した。

呉医師は述べる。精神病者が不幸なのは病を受けたことだけではない、日本という国に生れたことなのだ、と。「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」

呉医師は医療者が患者と向き合うことを望んだ。今や患者さんを一人の人間として尊重する考え方に変わった。それでも映画の解説者は、座敷牢から病院監護へ替わっただけであり、心の中にある見えない檻や壁を取り去らなければならないと警告していた。長期の社会的入院が実態としてある。課題は大きい。
燃え尽きて天の国にて会えるのか [2019年07月16日(Tue)]

fumihouse-2019-07-16T21_04_23-1-thumbnail2.jpg『天国でまた会おう』は美しくも残酷、そして少し笑えもするフランス映画だ。舞台は第一次大戦で独仏が対峙した塹壕の中。そして戦いに勝って繁栄するパリ市内。

年配の元仏兵士アルデールは、同じ部隊だった若いエドゥアールと大博打を打った。エドゥアールに宿った類いまれな絵の才能。戦没者記念碑の建設巨費をだまし取る計画を二人は成功させた。騙した相手はエドゥアールの父だった。

戦死を偽装していたエドゥアールは、確執して別れた父を二重に騙した。エドゥアールが絵の道に進むことを許さなかった父と彼は相容れない。袂を分かった父子だったが、父は息子が生きていると知る。二人は抱き合い和解した。しかし、息子は「天国で会おう」と言い残して命を絶った。

傷痍軍人となったエドゥアールには鼻から下の顔がない。言葉も失った。身体と精神がそろっていない彼にとって、自分は自分でなくなった。どんなに絵の才能が際立っていても彼は彼として完結しなかったのではないか。顔がないことがどれだけの悲惨をもたらすか、私には想像できないのだが、エドゥアールには生きる希望が残されていなかったのだと思う。

彼はアルデールと少女と三人で暮らした。二人がいたからエドゥアールは生きた。大きな存在だったと思う。でも、それは自分の喪失感を埋め合わせるのには足らなかったのだろう。そこに、父との相克でぽっかり空いていた穴が埋まった。父と和解して最上の幸福感を得てしまったエドゥアールには、もう喪失は考えられなかった。だからそこで、ジ・エンドとしてしまったのだろうか。幸せでお腹いっぱいになったようにも思う。生きよ!生きて喜びを絵で表現せよ!という声が聞こえたのかもしれないが、彼は燃え尽きた。

(エドゥアールは燃えて真っ白になってしまった。カスミソウは燃えて灰になったわけではないが)
タラレバで爆弾並みの低気圧 [2019年07月02日(Tue)]

fumihouse-2019-07-02T18_57_16-1-thumbnail2.jpgシナノ企画が1977年に製作した映画『八甲田山』は、同作の『砂の器』に次ぐ名画と言ってもいい。軍隊というもの、日本における組織のあり方について考えさせてくれる。心構えを万全にして事前の準備がいかに大切かを思い知らされる。八甲田山雪中行軍で二百人近くの軍人を失った実話に基づく事件を、新田次郎が小説に描いた。

東北とはいっても雪の怖さを知らない太平洋側に生れた青森連隊の将兵たち。兵卒によっては遠足気分だった。それを率いる将校も一部は軽い気持ちで厳冬期の山岳に入ろうと考えていた。一方で弘前連隊の徳島中隊長(高倉健)は二十数名の少数精鋭主義をとった。遭難することもあり得ると悲壮な覚悟をもって双肩に責任を担った。将兵は日本海側に生れた者ばかりで雪には多少慣れているが、冬の八甲田山は決して人を寄せつけない(犠牲者はゼロ)。

青森連隊の指揮命令は神田中隊長(北大路欣也)に執らせるといいつつも、日露戦争の開戦を控え(実際2年後)監察と称して山田大隊長(三國連太郎)が伴っていた。彼は気まぐれな命令を連発し、結局はほとんどを死地に追いやった。指揮官としての神田中隊長は有能であったが、不運が重なり過ぎた。小回りのきかない大人数、上司への遠慮、引き返す勇気を持てなかった悲劇、複数回の判断ミス、超弩級の低気圧帯が通過したこと。タラレバを考えたらきりがないが、残念でたまらない。

(今朝松江駅でもらった、自衛官募集キャンペーンのティッシュ。現代の軍隊・自衛隊は隊員の命を大切にしてくれよ)
無常でも明日はまた来る信じてる [2019年06月11日(Tue)]

fumihouse-2019-06-11T21_41_35-1-thumbnail2.jpg2週ほど前のことだが、名画『風と共に去りぬ』の長丁場を乗りきった。我慢しての上映4時間ではない。あれよという間に中休みが来て、退屈する間もないほどの4時間だった。

お馴染みの主題曲がオーケストラの変奏となって続いていく。あるときは短調に悲しくスカーレットの絶望を表し、別の場面では明るく転じて彼女の喜びと一体となる。場面転換に応じた登場人物の心理を表し、運命の行く末を暗示してくれる。

南北戦争の動乱で大切なものすべてを無くしたスカーレット。でも私にはサラがある。南部ジョージア州のここサラで生きると決めた彼女は強かった。スカーレットは強くても、戦争は悲惨な爪痕を残し、アメリカが第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に参加しなかったのもわかる気がする。国際連盟にすら紛争との関わりを恐れて参加しなかった。強国アメリカは第二次世界大戦を経て出来上がったのだ。

ジョージアの大地に今やスカーレットも淑女も農夫も奴隷たちも、全ては亡くなって存在しない。儚い思い出となって風と共に去りぬ・・。そんな詩がうたわれる。諸行無常の響きは儚いけれども、明日はまた必ず来る。

(スカーレットのドレスになりそうな明るいオレンジ色、ザクロの花が咲いている)
真実を求めてコナンそこにあり [2019年06月03日(Mon)]

fumihouse-2019-06-03T18_26_37-1-thumbnail2.jpg『名探偵コナン/紺青の拳(フィスト)』では、コナンが初めて海外に出た。変身状態でパスポートも使えない身だから、特殊スーツケースに忍んでの違法出国だ。かわいそうなコナン。ともあれシンガポールで大事件は起こり、コナンはアクション付きの大活躍をした。

伝説の宝石・ブルーサファイア紺青の拳を狙うのは怪盗キッド。今回はその悪党と組んだコナンが多くの命を救う。しかもキッドは銃で撃たれるケガを負うのだが、奇術のように治してしまったのが驚きだ。マリーナベイを舞台に近代海賊の一派とコナン・警察組が激突する。そこに思わぬ伏兵がいて座を混乱させるが、コナンは先刻承知。鮮やかな推理で事件は解決となる。

工藤新一が江戸川コナンになって既に四半世紀。物語ではまだ数年しかたっていない。未だに結末は見えないのに、人気は高い。今回も楽しめた。映画館の画面からはみ出しそうなほど迫力がありますよ!

(金魚草は英語名はスナップドラゴン。群がる蜜蜂を呑み込むドラゴンのイメージ。マーライオンはドラゴンではないが、伝説の獅子ということで竜に近いかも)
守り神ゴジラとモスラに唄がある [2019年06月01日(Sat)]

fumihouse-2019-06-01T17_04_02-1-thumbnail2.jpgゴジラには歌がある。モスラにも唄がある。その2体がタッグを組んだ。エンドロールでモスラの唄が流れ、笛の二重奏に目頭が熱くなった。メドレーは次いでゴジラ・ソング。伊福部昭の原曲に忠実な編曲に、背中がゾクゾクし涙がこぼれそうになった。低音の管楽器と男性コーラスの掛け声が加わって迫力満点である。

『ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ』には、日本版ゴジラへの尊崇が感じられた。昔のゴジラ映画にあった怪獣の組み合わせ、モスラが鱗粉でゴジラを癒すところ、モスラの哀愁を帯びた甲高い声、1954年初代ゴジラに登場したオキシジェンデストロイアー、初代からずっとゴジラの演技を続けた故中島氏への哀悼などオマージュの要素がたくさんあった。

『アベンジャーズ』に通じるテーマもあった。サノスが全宇宙の生命のうち半分を消滅させたのは、人間をはじめとして力を持ったものたちが宇宙のバランスを崩したから正常に戻すという理屈だった。

『ゴジラ』では人間が覇権の王となって自然の摂理を乱したから、太古の地球で覇権を争った怪獣たちが再びよみがえってきたという設定であった。幸いにゴジラとモスラは人間の味方だが、地球環境がさらに危機に陥ったときに、地球人を守ってくれるだろうか、と。ゴジラよ!どうか私たちを助けてくれたまえ。

(青い熱線を噴射するゴジラ。一方で赤いのはキングギドラ。両者の対決は如何なる結末になったのか)
キングから皇帝への道長い道 [2019年05月19日(Sun)]

fumihouse-2019-05-19T22_05_37-1-thumbnail2.jpg映画『キングダム』、素晴らしかった。終演時間がくるのが惜しかった。

吉沢亮(秦王・政)の美少年ぶり、かつ凛凛しく逞しい。朝ドラ「あおぞら」の柔らかで凛とした、たたずまいに加えて戦う気性がみなぎっていた。山崎賢人(信)が破天荒に演じて目力でも魅了される。ワイヤーアクションもすごい。大沢たかお(王騎)の戦闘シーンやおネエ言葉もなかなかだ。本郷奏多(成蟜)は怪演である。その横暴さ、嫌らしさに心から憎しみを感じた。

戦争に夢なんてクソくらえ、とどめを差そうとした強敵に対し、夢を持って悪いかと反撃した信。夢に託して戦闘力を蘇らせる信は、生真面目にかつ豪放にロマンを語り行動する。真っ直ぐに突き進む。それがこの物語の骨格の一つである。

この映画には、「ロードオブザリング」における集団戦闘の迫力に似て、強い軍隊がぶつかる時の質感を感じることができる。「るろうに剣心」に似て、個人の戦闘能力が極まった超美技と剣先の重さを感じた。2つを合わせた魅力を感じるのだ。

政が「耐え凌げば俺たちの勝ちだ!」と叫ぶシーンには魂を揺さぶられる。ピンチはある。しかしピンチは敵にとっても苦しいところ。ピンチはチャンス。逆転の形勢は必ずやってくる。敵とは人だけにあらず。自分すら自らの敵になりうる。環境だって時には敵となる。一方で味方となって助けてもくれる。日々は敵と戦い、味方を増やしていく毎日なのだ。

(春秋戦国の頃、中原の沃野にもこんな麦が実って、朝日に照らされていたことだろう)
勝ち負けに不条理な生死伴いて [2019年05月01日(Wed)]

fumihouse-2019-05-01T20_56_40-1-thumbnail2.jpg『アベンジャーズ/エンドゲーム』はアメリカンコミックのヒーローがてんこ盛り。ヒーローだけではない。描かれる世界観も同様に派手さ満開であった。アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルク、ナターシャ、スパイダーマン・・・すべてのキャラクターを覚えてはいないが、シリーズ完結というにふさわしい。

前作「インフィニティ・ウォー」では、サノスが全宇宙の生命のうち半分を殺した。ヒーローたちも例外ではなかったが、残りの者が奇想天外な手法で反転攻勢に向かう。

最後のシーンで、キャプテン・アメリカが「自分の人生を歩んでみたかった」と述懐した。ヒーローとしてのものではなく、人として自身の生き方をしたいとの言葉に心が動いた。もし、別の人生を選択することができたらと、たら・ればで考えてみたいことは誰にでもある。激しい戦いを繰り広げるヒーローたちにはもっともな願望であろう。人間も同じだ。しかし、たらればはない。覚悟を決めて今を生きよ!と言われたような気がした。

心ひとつにサノスと戦う絆の強さに胸を打たれる。自己犠牲のもと他のヒーローを救おうとした。皆が同じ気持ちで戦ったからこそ、最強の敵に打ち勝つことができた。

確かに勝った。しかし、どんな勝利にも必ず犠牲者を伴う。不運にも弾丸が体を貫き、爆発に身が裂かれる。そして死んだり重傷を負う。若いスパイダーマンが無邪気にも勝った勝ったと喜ぶ姿にその感を強くした。

(赤系統の色でも噴き出す血の赤はいかん。淡紅色の芝桜は誰をも幸せにする)
埼玉に七百万の人ありて [2019年04月19日(Fri)]

fumihouse-2019-04-19T18_46_18-1-thumbnail2.jpg『翔んで埼玉』で笑った。自虐のギャグに大笑いした。ケラケラと笑わされ過ぎて、中盤以降は強烈過ぎて飽きがきた。眠たくもなったが、こんな映画もたまにはいい。

昔々、埼玉県民は東京都民から迫害を受けていた(いったい何時のこと? 時代考証など無視)。畜生のような扱いを受けて泣く埼玉県民がどんなに多かったことか。東京の探知機が【サ】を察知するや捕物が始まり、埼玉へ強制送還となる。地下に潜った埼玉県民の総意はともかく東京から認めてもらいたいのだ。劣等感に裏打ちされた独立意識の願望である。埼玉県民は、通行手形を発行してもらわなくても東京に行けることを夢見る。ダハハ、超のつくバカ話に笑うのだ。

現実に気分としてあるのは、千葉県とのライバル意識。千葉にあって埼玉にない海やディズニーランドへの憧れと嫉妬。埼玉県民は大変なのだ。しかも副都心の都会地とその他の地域との対立的な感情もあるらしい。一方で、後背地である群馬や栃木の存在。そちらからは埼玉に対して実際応援が寄せられる。複雑な埼玉感情に島根県民は笑ったのであった。

(朝露に濡れるウマノアシガタ。透明で光沢のある春の装いだ。もちろんきょうも黄色)
満開の桜の森に狂う夜 [2019年04月18日(Thu)]

fumihouse-2019-04-18T20_48_28-1-thumbnail2.jpgシネマ歌舞伎『野田秀樹版 桜の森の満開の下』を見た。坂口安吾の同名小説と、これも奇譚「夜長姫と耳男」をモチーフとしている。中村勘九郎主演で、ダジャレにボケ満載の笑える歌舞伎である。歌舞伎という古典文芸に囚われず、自由な発想で脚本がつくられ演出されている。

≪どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、森のまんなかに近づくと怖ろしさに盲滅法たまらなくなる≫

と、坂口安吾は記した。満開の桜の魔力に操られて人間は穏やかではいられない。桜花が持つ抗いがたい魔の力を、鬼の化身の夜長姫に織り込んだ。無明なる人間一般が持つおどろおどろしい欲と合わせて、幽玄な狂気として表現した。

ソメイヨシノの季節は今終わった。木々は来年の春、狂気乱舞するときのために力を蓄えていくこととなる。

(カタバミか咲いている。黄のやつは早春から咲いている)
未知ゆえに遭遇すれば創造す [2019年04月17日(Wed)]

fumihouse-2019-04-17T18_49_17-1-thumbnail2.jpg『未知との遭遇』、古い映画(1977年)ではあるが、蒼然と古びておらず輝いている。スピルバーグが放った渾身のSFを面白く見た。冴えない主人公ロイがUFOに取り憑かれていくのが執拗に描かれて飽きそうになったのだが、伏線がちゃんと張ってある。

宇宙人は地球人に軽いコンタクトだけとって帰っていった。続編を期待する向きもあろう。そもそも一体だけ出てきた火星人のお化けのようなのがボスなのか。何十体も出てきた幼児形態の宇宙人たちは、のちの『E・T』の伏線か、単に借用しただけなのか。

宇宙人は用意周到である。ロイが取り憑かれてデビルズ・タワーを造形するよう仕向ける → 家族が見捨てる → 現地に到着し米軍の監視をくぐり抜けて母船にたどり着く → 心置きなく乗り込んで連れ去られる・・周到に巧まずしては出来ない宇宙人の細工である。

かくてロイはどうなるのだろうか。研究し尽くされて地球侵略の片棒をかつぐのか? そうは思えない。彼らの科学力があれば侵略などたやすいことだ。単なる学究的嗜好だろうか。でもない。

わたしは思うのである。彼らは宇宙に侵略地を広げるなどと非効率的なことは考えない。征服された側がどれだけ強く抵抗するかは、地球の歴史が示すとおりだ。広い宇宙においても同じであろう。

きっと彼らはロイに教育を施して地球に帰す。そして、人びとが暴力抗争を避けて意見を擦り合わせ、仲良く語り合う方法を教える伝道師にロイはなるのだ。彼らが宇宙に連帯の輪を広げることを使命としていたとしたら、嬉しいな・・・。

ともあれ、あの音階が耳について離れない。光と音がハーモニーを奏でる。ソ・ラ・ファ・ファ(オクターブ低)・ドの5つの音階は神々しくもある。

第二次大戦中に行方不明となっていた戦闘機や船舶の乗組員が巨大母船の光に包まれて出てきた。アインシュタインの相対性原理で彼らは年をとらなかったことを示す。救出はされたものの彼らには時代から置いてきぼりになった寂しさだけが残る。どんなに神業を使っても、すべてが丸くおさまることはあり得ない。

(美しい花束も宇宙の造形である。もちろん宇宙によって造られた人類という英知によって間接的に施された造形ではある)
陰謀と欲がひしめく米政治 [2019年03月28日(Thu)]

fumihouse-2019-03-28T21_48_05-1-thumbnail2.jpg3年前の米大統領選挙でロシアとトランプ陣営が結託したのかどうか。特別検察官の捜査報告書を受けて、バー司法長官はロシアと共謀した証拠はないと議会に報告した。民主党は報告書の全文提出を求めて反発しているが、トランプ大統領は完全勝利を宣言した。

映画『大統領の陰謀』ではニクソンのウォーターゲート事件を描いた。古い話だが、共和党大統領が民主党の対立候補を追い落とすために、民主党本部があったウォーターゲート・ビルに盗聴機を仕掛けた事件である。

国家を揺るがした陰謀もワシントン・ポストの若手記者が執拗に追い、綿密に検証したからこそ表に出た。若い記者に扮するロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンがカッコいい。そして大統領弾劾へ、辞任となった。

一方でロシア疑惑。民主党には分が悪い。トランプの腹心だったコーエンの証言と暴露本はあったが、身内の憎み合いの範疇を出ていない。弾劾の動きが広がらないのは、上院では共和党が多数派であることのほかに、かつてのワシントン・ポストのように公器が汗をかいていないように見えるからだ。

トランプはしぶとい。相変わらず強気だ。このままでは楽々と再選されてしまうではないか。トランプのフォロワーたちは脅威であり、SNSの力でトランプを熱く応援する。

幸いに民主党に新星が登場した。46歳元下院議員のオルーク氏である。弁舌よし、集金力も抜群だという。ケネディの再来かもしれない。期待しておこう。

(ニセ物だが稲妻が走る。トランプの味方か、民主党の仲間か)
ピアニスト南部旅して覚醒す [2019年03月14日(Thu)]

fumihouse-2019-03-14T21_50_56-1-thumbnail2.jpgテーマは、覚醒ですね。映画『グリーンブック』を見ました。半世紀以上も前のアメリカの実話です。黒人の天才ピアニスト・シャーリーは、イタリア系移民のトニーを運転手兼ボディーガードとして雇い、アメリカ南部へ演奏ツアーに出かけます。トニーは腕っぷしが強くて短気、教養はなくても硬軟織りまぜたトラブル解決の名人で頼りになります。

トニーは黒人へ差別意識を持っていました。おそらくイタリア系移民として蔑まれた経験もあるのでしょう。黒人より自分はマシという自負があったのではないでしょうか。まさに差別する者が陥りがちな心理構造ですね。

シャーリーは多くの博士号を持つインテリで一流のピアニストです。差別意識を持っていたトニーでしたが、シャーリーの芸術家としての才能に惚れます。差別の心から覚醒していくのです。

シャーリーはどう覚醒するのか。彼は幼いときから恵まれて豊かでした。ケンタッキーフライドチキンなど食べたこともありません。手づかみでなんて下品で恥ずべきことだったのです。トニーの手引きでチキンの美味しさを知ります。手づかみの自由を体験します。覚醒したんです。

シャーリーは性善説の考えだったようです。人間とは信ずべき存在だと思う彼は、南部を旅してもニューヨークにいるのと同じように夜の街に出て酒を飲もうとします。差別主義の連中がたくさんいて、彼を叩きのめします。危ういところでトニーに助けられるのですが、差別の現実を知ります。

奴隷時代そのままに農園で働く黒人たちがいました。高級車に白人運転手付きのシャーリーを見て、彼らは感情のない表情で珍しいものを見る目つきでいました。シャーリーは奴隷根性に凝り固まった黒人にも受けいれられないことを知ります。かといって白人からは差別される。どちらにも属していないことに覚醒したのです。でも、アメリカ社会をなんとかしたいと目を覚ましたのです。グリーンブックなどというものが無くなる時代を目指したのではないでしょうか。

(グリーン・アスパラガスは翡翠色、そしてグリーンブックの色。黒人を受け入れる宿泊施設等のガイドブックは、もちろん今はないんだろうね)
パルプとはどろどろ低俗いうことよ [2019年03月07日(Thu)]

fumihouse-2019-03-07T18_23_56-1-thumbnail2.jpg『パルプ・フィクション』は、名監督タランティーノの映画だが、私にはわけがわからない。チンピラのジュールスと相棒ヴィンセントはボスの命令に従って黒いアタッシュケースを運んでいる。入っている大切なものは何だろう。開けたヴィンセントの顔は金色に輝いていた。金の延べ棒か宝石か? あのこだわりようから考えると単に財物ではない。何だろう?

ジュールスは追い詰めた敵を銃で撃って殺すとき、聖書の一節を暗誦する。何度かそのシーンがあったのだが、緊迫感がありすぎて古文調ということもあって、字幕の内容が頭に残らない。心正しき我は怒りに満ちて汝に懲罰を課し制裁する・・・そんな身勝手な理屈だったように思う。

しかし、ジュールスは神を信じていることをもって神の加護があった。相手方が突然逆襲してきて、ありったけの拳銃の弾を撃ち込まれた。だが弾はすべて逸れて助かった。ジュールスは喜んで、チンピラ稼業から足を洗った。一方でヴィンセントは信仰心がなかった。次のヤマで彼は無惨に撃ち殺された。

オムニバス形式かと思っていたが、それぞれがつながって、なるほど!とは思ったが、それで何? という感じ。タランティーノ監督随一の名画と評判ではあるが、わたしには何の感慨もなく2時間半が過ぎていった。エロとグロが激しくて、少々気持ちがささくれもした。穏やかな映画がみたいなあ。

(映画の本質はどこにある? 布に覆われて先は見えないのかも)
禁酒法陽気なギャングにワンスアポン [2019年02月16日(Sat)]

fumihouse-2019-02-16T20_36_22-1-thumbnail2.jpg4人のミニギャングが暗黒ビジネスで本物のギャングに育っていく。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は100年ほど前、禁酒法時代のニューヨークの暗黒街を描いている。封切り時に見たものとは全く違う映画だった。そのはず、あのときは1920年代と60年代を描いていたが、このリニューアル版は、年を重ねた80年代の主人公ヌードルス(つまり本当に年取った今のロバート・デ・ニーロ)も追加していたからだ。

傑作映画と言われるが4時間11分。長さに辟易した。トンチ、ユーモア、哀愁も希望が描かれてはいても、基本は凄惨な殺しあいの世界。少年たちはのしあがるが、所詮は綱渡りの犯罪行為で悪党の勢力争いでしかない。かりそめの友情も裏切りによって失われる。

ヌードルスが阿片窟でヤクに陶然とする様子は、死んだ仲間たちを追悼するにふさわしいラストシーンだったのだが、今回加えられた筋書きで哀悼痛惜の感じが吹き飛んだ。銃社会アメリカの狂った歴史を思い知らされたような気がする。

儚い人生をギャングが狂気と抗争で終わらすのも、アメリカ・ファーストで歴史に学ばない狂気を振りかざすのも、大国アメリカの一つの姿だろうか、と考えさせられた。

年老いたヌードルスは幻影を見た。禁酒法時代の若者たちが陽気にどんちゃん騒ぐフォードが走り去った。それを古き良き時代のアメリカの夢、すなわち「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の象徴と見るかどうかは、人それぞれだ。わたしには全く感情移入できない映画だった。

(暗黒時代のアメリカ・ニューヨークの工場群ではない。出雲・ビッグハートの黒のホール天井だ)
ホテルにて仮面で舞踏錯綜す [2019年02月03日(Sun)]

fumihouse-2019-02-03T16_09_38-1-thumbnail2.jpg映画『マスカレード・ホテル』は緊張感を保った。眠たくはならなかった。一つには超一流ホテルスタッフのキリッとしたたたずまい、豪華なエントランスに始まり、居心地のよい客室で厚いもてなしを受けている錯覚があったからであろう。気分が良ければ眠くならない。

二つ目は、ホテルの利用客は非日常の場で仮面を付けている。素性を明らかにせず、本性を隠し、本心を表さない。仮の姿で身を飾り、ある者は悪心に踊り、密会を楽しむ。それぞれの仮面舞踏会(マスカレード)が興味深く描かれていたからだろう。非日常で扮装すれば眠くはならない。

三つ目は、プロ意識に裏打ちされたプロの技がみられたからだろう。出会ったときから丁丁発止と火花を散らし、対立関係にあった刑事・新田とフロントクラーク・山岸だったが、職務精神や洞察力、技能に互いが舌を巻き合う。感銘を受ければ眠くはならない。

ホテル利用客は仮面をかぶっている。そのなかで仮面を被った予告殺人犯を捕まえることができるのか。新田は「客」の仮面を剥がそうとし、山岸は「お客様」の仮面を守ってさしあげたい。立場の違う二人は衝突してばかりだったが、尊敬の念から価値観を共有しあうようになる。

二人が真に信頼以上のもので結ばれるのは、事件の核心に至ったときだったが、ここまでにしておこう。原作小説とは違う設定に替えてあったが、その良さを十分引き出した映画であった。

(高級ホテルの日本庭園に設えられた石灯籠もまた高級な素材を使っていることだろう)
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