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«トレモロに水滴流れ異郷かな | Main | お尻から管を入れたらあら不思議»
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日常はさりげなきかな75年 [2020年08月06日(Thu)]

fumihouse-2020-08-06T19_45_43-1-thumbnail2.jpg茂木健一郎氏はJ.S.バッハの足跡を求めて、ドイツ中部に旅した。そこで巨匠と音楽、日常を真摯に見つめることに思いを馳せた。

≪どんな人にも、生活に与えられた時間や空間は平等である。皆、その中でやりくりをしてきたのだ。当たり前のことだが、その場所に行けば、聖地は「日常」となる。そもそも、最初からこの世には「日常」しかないのだ。
(中略)私たちの世界が、生きる限りにおいて日常の繰り返しであるとするならば、私たちはほんの少しの工夫で、日常を底光りさせることができる。今日もまた、私たちの耳にはかくも美しい生命という「音楽」の響きが届いている≫ (『音楽の捧げもの〜ルターからバッハへ』茂木健一郎著,PHP文庫,2009年)

真実とは日常の延長線上にしかない。一発大逆転だって忽然と生まれるものではなく、日常の地道な鍛練の途上にある。

きょうは、広島の被爆から丸75年の日。3日後の長崎も含めて3・四半世紀が過ぎた。被爆して亡くなられた多くの方々。後遺症に悩まされ、差別に苦しんだ人々。あの日いつもの日常を過ごしていたはずの人々はたった一発の悪魔によって、平凡だったはずの日常を剥ぎ取られてしまった。核廃絶運動の原点となったとはいえ、悲しき非日常であった。

日常はさりげなく、柔らかに、ここに存在していなければならない。その日常には「美しい生命という音楽の響き」が、ここかしこに流れている。
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