世は楽し人を考えクリスマス [2018年12月23日(Sun)]
読み終えたディケンズ著・村岡花子訳『クリスマス・カロル』の感想を書く。
守銭奴スクルージにとって、クリスマスを祝うとは、クリスマスを呪うことに等しい。スクルージの口癖は「ばかばかしい」。一銭(英国では1ペニー)の得にもならなければ無駄、と考える極めつけの冷血漢。 クリスマスイブの夜、かつての共同経営者マーレイの亡霊がいた。彼もスクルージ並みに冷たい人格だった。彼は言う。生前の諸業が自身を頑丈な鎖の環で縛り、永久に苦しむ。無慈悲だったことを懺悔しても、死んではどうにもならない。生きている君には希望があると明かす。一晩のうちに3人の幽霊が現れるから言うことを聞けと。 最後にスクルージは改心した。「私は心からクリスマスを尊び、一年中その気持ちで過ごすようにいたすつもりです。私は過去、現在、未来の教えの中に生きます」と誓う。 スクルージの世界観が変わった。感謝と喜びで境涯が広がると、目の前の全てのものがかけがえのないものになる。いま自分は生きているという喜びで満ちて、嘲笑しか浮かべたことのない顔に笑みが広がった。仏法の宿業論的な思想にも踏み込んで、大団円のハッピーエンドであった・・・。 現代の私たちは幸せである。ディケンズのいた2世紀前からすれば魔法のような科学技術に囲まれて、便利な暮らしを享受している。小説の楽しみもそのひとつ。 クリスマス・カロルの筋立ては予定調和だ。性質上やむを得ないにしても、説明調子が続き、和訳も現在の日本語からすると不自然だ。小説の世界も日進月歩して作品数は無尽蔵。ディケンズのクリスマス・カロルの価値が減じるものではないけれど、私たちは小説だけをとっても、昔に比べれて格段に楽しく生きている。私たちは幸せだ。むろん、古今東西全てに平等な死の問題は残されたままである。 (スクルージがクリスマスを祝えるようになって、愛でたしめでたし。大根島・由志園のイルミネーションでサンタが豊かに奏でる) |