人あれば羊と鋼の森なれば [2018年07月25日(Wed)]
映画「羊と鋼の森」。物語はラの音で始まり、ラの音で完結する。調律のベースは音叉が響かす440ヘルツの音。それを基準に音階を合わせる。メロディとハーモニーを奏で、聞く人の琴線に触れる。
冬の北海道、ある高校に調律師が訪れた。ピアノの鍵盤を開き、最初の一音がラ。外村(山ア賢人)は響きに引かれた。板鳥調律師(三浦友和)の所作にも魅了された。卒業後、調律師の門をたたく。 温かくも厳しい、後輩思いの柳(鈴木亮平)に指導を受けながら、外村は調律師として腕をあげていく。だが、客に安心感を与えるほどのハッタリも説得力もなく、つねに忸怩(じくじ)たる思いで自分の力不足に恥じ入っていた。その彼に転機がきた。佐倉姉妹(上白石萌音と上白石萌歌の実姉妹が共演)に頼られたのだ。 佐倉姉が柳の結婚披露宴でピアノを演奏する。スタッフが祝宴の準備を始めた途端、音が響かなくなった。騒然たるホール内の隅々まで音が届くよう外村は懸命に音を追う。開宴まで時間はない。外村は満腔の思いで調整を終えた。どうだ?!と出した音がラ。自信のこもったラだった。彼はコンサートチューナーを目指すと宣言した。 板鳥が外村に、小説家、詩人の原民喜の文を紹介する。 ≪明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体≫ (「沙漠の花」より) 文体を調律に言い替えて彼らは精進する。演奏者が求める音をイメージ化し、言葉に出して伝え、キャッチボールを繰り返して理想の音を追う。裏方仕事の真骨頂と言えるだろう。 原民喜はさらにこう表現する。心が大事だよと。 ≪……私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう≫ ピアノは羊毛でつくったフェルトのハンマーが金属弦をたたく。だから「羊と鋼」。それが良質の木材で包まれて「森」の響きを生む。観る人だれもがピアノを造り、調律し、演奏する人々の心に思いを馳せ、音楽っていいなと思うにちがいない。 (深い森のように白を湛えたカスミソウの束) |