身につけて肌身はなさず宝物 [2016年08月28日(Sun)]
一日中出かけていた。慌てたわけではないが、スマホを部屋に置いたままクルマに乗り込んで、数キロ進んだところで気がついた。なんとかなるとそのまま行ったものの、意外にも待ち時間が多かったりして、本も持って出なかったために、退屈しのぎのツールがなくて困った。
家人は別の場所に行っており、ケータイ番号は控えておらず電話はできない。フェイスブックの書き込みを見ることはできないし、ツイッターで気になる風物をツイートすることもできない。もちろんメールは送れない。ラインで来るかもしれない連絡だって受け取れない。 スマホには様々な機能があるが、他人とつながるツールであることを痛感した。身体の一部をもがれた感じすらあった。私たちはケータイに依存している。この小箱に重要情報を詰め込んで、大事な人との連携を託し、世界で起こることの窓として利用しているわけだ。今やスマホを利用できない環境では、自分の一部がなくなったと感じられても不思議ではない。 いざという時に重要なライフラインであるケータイ。社会で生きる充実感を認識できるケータイ。単なる情報機器を超えた存在といってよい。ケータイは自分の命と同等にまで地位をあげた。 身につけるケータイは宝物。それと私たちはいかにつき合っていくことになるのだろうか。誰もが幸せへの道だと信じているが、必ずしもそうではないところが問題だ。 (スマホも使い方を誤れば痛い目にあう。栗のイガが指に刺さったときのように) |