ひとは皆ダーナすること喜んで [2015年06月19日(Fri)]
「お布施」とは本来自発的にお寺さんにたいして寄進することだ。うやうやしく献じるものである。喜捨ともいい、勧進という言い方もある。しかし今はお金のやりとりに特化されている。
坊さんの生計を支えるのみならず、「事業」に欠くべからざるものとして、周辺の「相場」をつくり「料金」のようにして「徴収」される「ビジネス」となってしまっているが故に、寺から請求されて支払うような印象を受けてしまうのは当然のことだ。 元は梵語のダーナに由来するのが、布施なのだそうだ。DANAとは、人に与えることであり、困っている人に手を差しのべること。その言葉が西洋に行き、英語では慈善事業に寄贈するドネイト(donate)となったり、臓器や血液の提供者を意味するドナー(donor)となった。中国へ向かうとダーナは、檀那や檀家へと転ずる。やはりこれも音がそのまま残っている。そして邦訳されて布施となり、日本語では檀那の意は変った。 もとは、何かを与えることはすべてダーナだった。時間を費やして役に立つ、作物が多く採れた人が寄付をする、知識人が何かを教える。それもみんなダーナという布施だったのに、日本では金に一元化させてしまった。 必要なだけの金は当然なくては困る。しかし、人が他人に何らかの貢献をして社会に役に立つことを喜ぶ。金が自己主張しては本末転倒だ。金は生きて使われてこその金なのだ(と、持たざる者のひがみかも)。 (花は対価を求めない。人が喜んでいるいないに関わらず、ひたすら咲き続ける。唯一求めることは子孫が続くこと) |