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何時だって見張る黄昏ここにあり [2014年07月28日(Mon)]

fumihouse-2014-07-28T18-01-13-1-thumbnail2.JPG目を見はるものは何処にでもある。心うつ出来事は何時だってつかまえられる。映画のなかで、朝日にさざめく波に水面が輝き、波に揺れる水草がいきいきとし、風に吹かれて木々の葉っぱが表情を変え、アビのつがいが睦まじく楽しげに鳴き、湖が夕焼けて残照が金色に煌めく・・・。大きな場面転換ごとに何気ない自然の情景が織り込んであって心なごませる。

1981年のこの映画『黄昏』(原題: On Golden Pond)の製作者は夏の初めから秋が始まる頃のゴールデン湖を描いた。美しいものは美しい、美しいものは見ようとする心があればそこにある、美しいものは感じる者にのみ美しいと描きたかったのに違いない。

映画に出てきたシーンばかりではない。日常いたるところに美しいものはある。旅先の何気ないたたずまいにも、他人の居ずまいにも、繰りかえす季節の移り変わりにも美は存在している。娘チェルシーと父ノーマンとが頑迷な確執を乗り越えて和解し合い睦み合ったことも美だ。

間に立って二人が分かりあってくれるように努力を重ねてきた母であり妻であるエセルも健気であった。元気な彼女も70代の半ば、衰えが感じられる。それ以上にノーマンは容赦なく老いていく。だからこそ彼女は彼との時間を大切にしたかったし、父娘の健全な関係を願った。期せずして媒介となったのは連れ子のビリー。やんちゃなビリーのお陰でノーマンは頑迷さの檻から抜け出した。予定調和的な物語かもしれないが、錦秋の季節に向かう湖畔の柔らかさや温かさが心に響く。

『黄昏』は笑顔を誘いつつ人生の黄昏時を迎えるに当たっての覚悟とは何かを考えさせてくれる。ノーマンを演じたのはヘンリー・フォンダ。チェルシーのジェーン・フォンダとは実の親子。彼は主演男優賞を得て半年後に亡くなり、本作が遺作となったのはなんともうら悲しい。

さて、英語題を直訳すれば『ゴールデン湖にて』。なんとも殺風景だ。それにひきかえ、日本語題の豊かさよ。

【黄昏】 (古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」と、人のさまの見分け難い時の意)夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれとき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。(日本国語大辞典)

エンドロールに広がった秋口のゴールデン湖。あの景観を黄昏ときの際立つ美だとすれば、ノーマンとエセルが老いの残照をこの上なく大切にしたことの美…両者の美を掛けて実に味わい深い題名となった。何度でも観たくなる映画である。

(水辺の睡蓮。形よく健やかな感じで咲いている)
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