透明のマントに隠れて社会なし [2013年06月29日(Sat)]
透明人間になってみたいというのは少年たちの夢でしょうか。私もそんなことを考えていたことがあります。自由に空を飛び回れる鳥になることも含めて、夢想したことのある人は多いのかもしれません。特に透明人間はあこがれです。職員室に忍び込んであらかじめ答を頭に入れてから試験に臨む。好きな女の子がする友だち同士のおしゃべりを盗み聞く。家での生活ぶりをこの目で確かめる……。そんな良からぬ望みを頭にめぐらせていたものです。とても無理だけど透明人間になれれば何だってできるという確信にも似た妄想はいまでもあると思うのです。
ところが、H・F・セイントの書いた『透明人間の告白』(高見浩訳,河出文庫,2011年)を読むとそんな望みは消えてしまいました。確かに誰にも見られません。自分でも自分が見えません。ですが、身体は触れば実体があり、見えない血も流れれば、衣服だって着ている。誰かにぶつかれば相手は驚くし、雨に打たれれば体がそこにあることがわかってしまいます。透明人間の苦労たるや大変なことだなあと感じます。 ≪そこかしこの隅や隙間に逃げ込んで捨て置かれた食べ物にかじりつくネズミのように、いつまでも隠れ場から隠れ場へと逃げまわっているわけにはいかない。そんなことをしているうちに、やがて出口をふさがれ、こづきまわされ、責めたてられ、飢えに苦しんで、ついには万策つきてしまうにちがいない。≫ 主人公ニックは唯一自分の存在を知っている恋人アリスにすら、本当のことを明かしません。これも捕まらないための所作なのですが、結局ニックの真実がアリスに伝わってはじめて彼は安息な思いを抱きます。本音を隠して生きることほど辛いことはない、心おきなくおしゃべりできる人がいなければ人間は心を病んでいく、秘密は決してひとりでは抱えきれない……そういったことをこの物語は示してくれているような気がします。 ≪マンハッタンの街路をあちこちとびまわっていると、どこへいっても巨大な高層アパートメントがいやでも目に入る。人々が鍵をかけて安全に暮らしている部屋の数々。ふつうの人間たちはみな、あそこで食事をし、酒を飲み、風呂につかり、音楽を聞き、安らかな眠りをむさぼるのだ≫ そして普通であることがどんなに貴重でかけがえのないものであるか、ということもわかってきます。普通の範囲で個性を認められ社会生活を送ることの有り難みを普段は忘れがちになります。ニックは普通の証券アナリストという設定ですが、高級マンションに住んでいます。電車中でエリート新聞記者との情事、透明人間になってからの情事、なかなか刺激的な性描写もあったりはしますが、それらも含めて「ふつう」であることは何だろうか、と考えさせられる小説でした。 昨日同級生を刺して高校生が逮捕されました。千葉・習志野での事件です。直接の動機は、消しゴムを後ろから当てられて頭にきたというものですが、たぶん普段からイジメがあったでしょう。イジメのなかでも当事者を苦しめるのが無視されること。透明人間のように扱われてしまうことだと言います。この世に透明人間はいないほうがよいと私は思います。 (写真は透明感のある古代ハス。荒神谷遺跡のハス池は今朝は撮影者でにぎやかだった) |