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ふくトマの思い〜それぞれの思い[2022年07月20日(Wed)]
 ふくトマとしての活動報告の最終回です。

 最終回は10年間の活動をまとめた報告書に載せた、スタッフそれぞれの思いを紹介します。

 活動から10年経っての振り返りなので、被ばくや原発に関する逼迫感は感じられません。
 でも、それぞれの経験を元にした落ち着いたものになっています。
 ふくトマの個性が出ています。

 では最初に副代表、そしてスタッフを五十音順、最後に代表を掲載します。

報告書の表紙
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長尾拓哉(ふくトマ副代表)
takuya.png
 私がふくトマに参加することとなったのは、2015年の夏に行われた4回目の保養活動です。
 ふくトマに加わるきっかけは、活動の中心メンバーからのスカウトです。そのメンバーはラーメン屋を営んでおり、私はその客でした。突然の誘いにはじめは戸惑いましたが、活動内容や目的を聞いているうちに興味が湧き、「これは運命だ」と感じました。 
 大学時代の友人の実家が津波で被災したこともあり、自分にとって3.11は非常に身近な出来事だったのです。「ぜひ関わらせてください」と頭を下げると、トントン拍子で話が進み、数日後にラーメン屋で店主を交えて代表と面談(採用面接のようなもの?)をすることになりました。
 約束の日、緊張していた私は早めに店に到着しましたが、約束の時間になっても代表は現れません。心配した店主が電話すると「すぐに行く!」との返答があり、到着するやいなや深々と侘びられました。「初対面なのに晩酌して遅刻するような代表とは一緒に活動したくないのでは」と心配されましたが、私は全く逆の気持ちでした。緊張の糸が切れ、親近感が沸いたのです。
 
 私は現在、白老町職員として働いており、ふくトマに参加した2015年に採用されました。
 当初は総務課に配属されていましたが、ある時上司に、ふくトマでの活動が評価され「長尾は教育委員会の生涯学習課に異動したらどうだ?」と勧められました。当時はその意味があまり理解できなかったのですが、以前から生涯学習課には魅力を感じており、幸運にも異動希望が叶って2019年に生涯学習課へ異動する事となりました。
 生涯学習課は「社会教育」を推進しています。異動してから気がついたことは、ふくトマの活動自体がまさに社会教育であるということです。私はふくトマで活動しているうちに、知らず知らずに市民活動に興味を持ち始めていたということです。
 社会教育とはなにか?という問いに対してよく言われているのは、「人づくり、つながりづくり、地域づくり」の3つが挙げられます。地域の力が衰退傾向にある中、これらの考え方は教育分野だけではなく、福祉・経済・防災など、あらゆる分野からも注目されているようです。
 例えば、3.11のような大規模な災害が起こったときに、日頃のつながりやコミュニティがしっかりしている地域の避難所は円滑に運営されるということがわかっています。住民同士が共通の課題意識を持ってつながり、目的に向かって自発的に活動することは、自分だけでなく、家族や地域にとってもすごく重要なことです。団体活動に参画する人々が増えることで、人々がつながり、地域が活性化され、市民の心が豊かになっていくのだと身をもって体験しました。私自身もふくトマの活動をとおして人脈が大幅に広がり、物事の考え方や生活が豊かになっているからです。
 
 ふくトマとしての活動は、残念ながら2022年3月に終了してしまいます。しかし、このつながりが途切れることはありません。
 ふくトマで培った経験やつながりを大切にするとともに、今後は新たな活動にも積極的に挑戦していきたいと感じています。これまで関わってくださったすべての方々に感謝を申し上げます。
 本当にありがとうございました。


石田智子
tomoko-ishi.png
 夫(ふくトマ代表)が、2012年、「夏に保養をやる!」と言った時、私は「夏は忙しいので手伝えないよ」と答えた。夫は「1人でもオレはやる!」
 そう言った。

 2011年3月の東日本大震災後、夫は5月にガレキ処理ボランティアに行った後も、ガレキ処理や除染等何度か東北に通っていた。一方、震災時、私は小学校2年生と幼稚園年小の2人の男の子の母。子育てをしながら、次々と出版される原発や放射線被曝に関する本を買いまくり読みまくっていた。「苫小牧の自然を守る会」「震災がれきを考える市民ネット」「肥田舜太郎医師を呼ぶ会」「苫小牧の子どもの未来を守る会(学校給食で使う食材の放射能検査を市に提案する会)」等々にも参加していた。
 そんな中で、「先祖から引き継いでいる免疫の力を守る」(肥田医師)、「食べ物は生死を分ける」「1食1食の質が命の質を左右する」(辰巳芳子)、「結局私たちは微生物(日本の伝統的な発酵食品)に助けられている」(舘崎やよい)、等々の先輩達の言葉に励まされていた。

 夫は、保養にむけて資金集めに走り、保養場所を見つけ、バタバタと思いつくまま一生懸命準備をし、参加者を募り、そしてフェリーに乗って参加者さんを迎えに旅立ってしまった。残されて茫然とした。受け入れ準備は万端ではない。しかし保養はもう動いている。こちらも思いつくままバタバタと準備をした。

 免疫力を高めるために、保養中の食は和食を軸にしたい。食を大事にしたい。そこは譲れない。それは10年の間、変わらなかったところだ。

 母の願いは、もうこれ以上子どもに被曝をさせないこと。
 
 この10年間参加して下さった母達の直の言葉にたくさんの学びがあった。
 日々悩みながら生活せざるをえない現実を聞くにつれ、自分がその立場だったらどう動いただろうかと思った。
 準備不足、至らなさ、迷惑もいっぱいかけたと思う。
 たくさんの人たちの助けがあって続けられた10年だった。それぞれの人の胸の内の語られない思い。その思いを背負っての活動だったと思う。とても重かった。

 世の中は結局たいして変わらないままかもしれないけれど、人と人が出会ってふれあって影響しあったことはきっとこの世界を良い方向に動かす力になっていると信じたい。
 我が家の子どもたちも一緒に過ごした夏。たくさんの子どもたちとの出会いも思い出深い。みんなお元気でしょうか。

 たくさんの出会いに感謝します。ありがとうございました。 


小川智子
tomoko-oga.png
『参加してみました』
 ほぼ現在の苫小牧保養が完成してからの参加となりました。
 長男が家をでる前に、子どもたちに仕事や遊び以外の活動をしている親の姿を見せたいと思ったことが一番のきっかけです。ありがたいことに、そう思った時期に石田さんから、お声をかけていただきました。私にできることがあればと参加させてもらいましたが、優秀なスタッフやボランティアの皆さんが揃っており、正直、私の出番はあるのかな・・・と迷いました。でも、食材調達や調理補助、訪問先の調整手配など教わりながら共に活動できたことがありがたかったです。なにより、みなさんがなかなかユニークで才能にあふれていましたので、私自身が楽しんだという感じです。

『福島への思い』
 福島市に義姉夫婦と姪たちが住んでいたので、何度か福島を訪れたことがあります。震災直後に福島を離れ、白老に避難するまで、そして避難後の記憶も鮮明でした。義姉が小学生と幼児だった姪たちの被曝量検査や検診を受ける相談を福島県や北海道としていたことが一番思い出されます。
 幼い身体への健康被害のほうが大きいことへの不安と子どもたちの成長に対する責任を強く感じました。それでも、子どもたちは新しい地でたくましく元気に成長したことが何よりですが、これからも不安を抱えていくのだと思います。中高生になった今でも地震がくると震えるそうです。
 そんな子どもや親たちがたくさんいるのだと思います。
 保養はごくごく一部への限定された活動に見えます。けれど、一家族ずつを大切にする思いが伝わる活動です。多くの人たちに支援することはその時は効果的ですが、一人ひとり丁寧に対応することで、より継続した支援につながるように感じました。それを実感できるのは、保養最終日の苫小牧フェリーターミナルです。船と港で向かい合って、別れを惜しみ、手を振り合う、あの瞬間です。活動が人につながっていると感じる瞬間です。参加した親や子どもたちに残った思い出は、人生のどこかで誰かに波及していきます。もちろん、受け入れた側の私たちの思い出も共に波及していくのだと信じています。

『これから』
 10年で保養の形での活動は終了。関わりが遅かった私はコロナ禍もあり、2回の保養でした。十分に意味がわかったかと言われると自信はありませんが、子どもたちとの関わりは楽しく笑いに満ちており、お母さんたちのたくましさと気遣いに元気づけられたことは間違いありません。
 心残りは、調理の腕前を磨きそびれたこと、皆さんから人生いつまでも輝き続ける秘訣をまだ聞き出せていないこと、そして、福島で起きていることについて納得できるまで、わかっていないこと。なので、また違う形でお会いできるといいなと思います。
 ありがとうございました!


小林夏美(ふくトマ福島出張所スタッフ)
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 ふくトマのスタッフの経験を通して、小さな子を抱えた母として未来へ向けた思いを書かせていただきます。
 私は長尾さんに誘われてふくトマの活動を知りました。福島出身者として何かできればと思って参加させてもらいました。
 参加当時は自分に子どもはいませんでしたが、今は二児の母となりました。
 ふくトマの活動では、緑いっぱいの綺麗な空気の中で思いっきり遊ぶ子どもたちの姿とお母さんたちのイキイキとした表情が印象的でした。
 私の子どもは現在2歳になり、毎日外で遊んでいて、外で遊べない日はストレスがたまるように見えます。放射能汚染によって外遊びができないという心身への影響はかなり大きなものだなと今は当時より強く感じています。
 放射能汚染の受け止め方は人それぞれで、親が同じ気持ちを持った人と話す場もなかなかある訳じゃない。そんな親の思いと子どもにひだまりのように暖かく寄り添うのがふくトマだったなあと感じます。私もスタッフながら、遠くも近すぎもしない距離感、なんというか親戚のように保養者に寄り添う他のふくトマスタッフから元気をもらっていました。私もそんなふうに振るまう年の取り方をしたいなと思っています。
 今は、隣人との関係が希薄ですよね。私の祖母が子育てをしていた頃、隣の家の子がおっぱい足りないと聞けばその子にもあげに行ったという話を聞きました。反対に近所の人によくお世話にもなったみたいで、そのくらい人の悩みを自分のことのように考えれると良いよなと思います。まさにそれがふくトマのスタッフの人たちで。
 放射能も不安だし、新型コロナウイルスも不安だし、もう色々不安だしっていう世の中ではありますが、将来自分の子どもにもそういった不安を話せる場や相手が少しでもいればいいなと思うし、本人も聞くことができるといいなと思ます。
 あと私は、子どもが分かるようになったらふくトマの活動の事を話してみようと思っています。
 2回しか参加出来なかったですが、私の人生においても影響を受けた経験でした。自分の子どもがどのように受け取るかはわからないですが、東日本大震災や原発事故、こういった活動があったことも風化させたくないです。
 未来へ向けたメッセージといったら大それてるかもしれないですが、こういったことが小さな子どもを持つ私の思いです。


佐藤里美
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 2014年、私はある団体の代表であったのですが、団体の活動の中で福島の現状をお話ししてくださる方を探していました。
 石田さんと初めて会ったのがその時です。
 団体で石田さんをお呼びし、福島の現状について話していただきました。
 自分も一個人として何ができるかずっと考えているということを石田さんにお話しし、その後、ふくトマの活動に参加することとなり、現在に至りました。
 2020年の保養支援は新型コロナウイルス感染症により中止になりましたが、2021年度はマスコミなどの情報に翻弄されながらもなんとか実施できたことは嬉しかったです。
 自分が初めて参加した2015年からの保養を振り返ってみると、どの年もそれぞれ思い出いっぱいの楽しいことばかりですが、特に忘れられないことが多かったのは2015年。
 つまり、自分が初めて参加した年です。
 ふくトマとしては4回目の保養で、その後の活動に良い意味で大きな影響を及ぼした年になったようでした。食事の提供体制や参加者のお母さん達の心のケアに気を配ることなど数々の反省点をプラスに変えることが徐々にでき始め、その後はどんどん保養が楽しくなっていったように思います。
 そして2021年、ついに最後の保養を終えました。
 10回のうち6回活動に参加したことになるのですが、あの時に私に声を掛けてくださった石田さんに感謝しています。
 震災のニュースを見て何かしたいと悶々としていても一人ではきっと何もできなかっただろうと思うからです。
 皆さんと出会えたことがこれからもずっと宝物になるだろうと思います。


高野美樹(ふくトマ福島出張所スタッフ)
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 「放射線から少しでも遠ざかり、子ども達を守りたい」「数日間でも安心した生活を送りたい」という一心でママ友と一緒に保養を探しては、参加して…県外に自主避難している人達もいる中、避難が難しい自分の状況に葛藤しながら、保養はせめてもの精一杯の避難であり、救いでした。
 初めてふくトマに参加したのは2012年、子どもが小3・年長・1歳半で育児休暇中でした。様々な保養に参加しましたが、ふくトマは他とは異なり、スタッフとの距離が近く、何でも相談でき、参加者の要望への対応が柔軟で、ストレスなく参加できたのがとても印象的でした。
 2014年、仕事に復帰し、子どもを保養に参加させる余裕がない中「少しでも放射線から離れて過ごす時間を確保したい…仕事でクタクタでも、ふくトマならば、きっと疲れずに参加できる」と思い、末娘がちょうど年少になり保養対象年齢だったので迷わず2度目の参加を決めました。
 しかし、前回と宿泊場所が替わり、スタッフは手探り状態。参加者の負担も多く、疲れてしまい…。改善の要望を石田さんにぶつけて戻りました。(今思えば、参加者なのに…でも、スタッフの皆さんは、よりよい保養にするために、意見を聞きたいという姿勢でしたから)
 翌年、どう改善されたか楽しみで…それは二の次で、一番は、スタッフの皆さんに会いたい気持ちで参加しました。石田さんには「昨年のことがあったから、参加してくれると思わなかった」と言われましたが、微塵の迷いもなく、参加を決めました。(内容は改善され、充実した保養となりました!)
 その年は、北海道行きのフェリーは、私がスタッフ代行として、引率することとなり、2016年からは正式に福島の現地スタッフとなりました。
 2021年までの保養では、参加者とふくトマスタッフとの架け橋となり、参加者に寄り添い、健康状態や要望、不自由がないか気を配り、ふくトマの保養が“最高”だと感じてもらえるように努力しました。参加者には、かつて、私が感じたのと同じ充実感を感じてほしいという思いで。
 いろいろな保養に参加する度、スタッフの方々の協力のおかげで保養ができていること、私たち福島の人々のために、活動してくれている人たちが大勢いることにいつも感謝の気持ちでいっぱいでした。自分が現地スタッフとして、ふくトマの皆さんと志を同じくし、心をひとつにして、保養に協力できたことは、とても嬉しかったですし、全国で保養を実施して下さっている皆さんの一部として、自分も役に立てたのではないかと感じています。
 郡山市で行った“一緒に作って、一緒に食べよう”のイベントでは、初めて企画運営に携わり、貴重な経験となりました。「自分で声を発して、自分で行動しないと何も始まらない。」石田さんから、その言葉を何度も聞いた気がします。そして、そのような行動力のある方々が、ふくトマにはたくさんいらっしゃいます。私自身、とても刺激を受けました。
 震災で変わったこと、失ったものなど、たくさんありますが、新たな出会い、絆、人の温かさ、そして、行動力の重要性、勇気など、今まで気づかなかったことに気づくことができました。苫小牧という第二の故郷もできました。
 東日本大震災から11年が経ち、子ども達も、高2・中2・小4と大きく成長しました。今まで尽力して下さったふくトマの皆さんの想いは、確実に福島の子ども達に繋がっています。やがて、子ども達がいろいろな形で、社会に貢献してくれると期待しています。これからも、福島で頑張ります。皆さん、長年に渡り本当にありがとうございました。


滝本晴美
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 2011年3月11日、東日本大震災が起きて、私の周りの人がボランティアで参加している話を聞いて、私も何かできることがあったらしたいと考えていました。
 その時、石田さんが福島の子どもたちの被曝を防ぐ「保養」を計画していると聞き、それなら私にも出来ることがあるかもしれないと参加させてもらいました。
 2012年の初めての保養で一番記憶に残っているのは、スタッフの1人が、アルテンでブヨに刺されて足がパンパンに腫れながらも、参加者の世話をしていたことです。初めて出会った他のスタッフとも一日で距離が縮まったのも思い出します。
 ある日の活動先のノーザンホースパークで私が担当した5歳と2歳の男の子と赤ちゃん3人のおかあさんが健気で、私はそのお母さんがとっても可愛かった。
 2年目の保養では、宿舎に泊まったスタッフとお母さん達と夜の会を催して、福島での生活を聞かせてもらいました。住んでいた地域での補償の違い、仕事を続けるために福島を離れられない状況、子どものことを考え、放射能の影響のないところに引っ越したいと真剣に考えていることなど沢山語り明かしました。
 2014年の5月に福島県を訪れ、各地の空間放射線量(福島駅前0.213μ㏜/hなど)がまだまだ高いことを知りました。2013年の参加者と三春ハーブガーデンで昼食会をし、子どもたちの成長を見ることができました。その中の1人の案内で田村市の「えすぺり」に行き、震災以降福島の有機野菜が売れなくなり、農家の人はプライドを傷つけられたのが悲しいと店主から聞きました。郡山では1年目の参加者の1人と再会し、3a郡山(子どもの未来を想う母の会)を紹介してもらい話を聞くことができました。さらに、震災後にできた福島市内の商業者等によるプロジェクト「ライフク」の事務局をしている中学時代の友人に会い、ライフクの人たちとも話をすることができ、復興に向けて諦めない商店街の熱意をひしひしと感じました。
 それ以降福島には行けていませんが、あのとき訪れた三春の森やしいたけのほだぎ用に大分に出荷していたのが、全部なくなったと言っていた大河原さんのことを思い出します。
 2015年からはもっぱら食事担当ですが、私はいつも三浦さんとペアで参加し、福島の子どもとお母さんが食事を美味しいと食べてくれるだけで幸せでした。他のボランティアさんとも仲良くなれ、ふくトマ福島出張所のスタッフをしてくれている高野さんと毎年会うのも楽しみでした。

 福島の方から様々なお話を伺いました。皆、大変な日々を必死に生きている。みんな頑張れ!
 
 ふくとまに参加したことで、沢山の人と関われたことは財産です。
 コロナ禍の中不自由な生活が続いていますが、最澄の言葉で「照千一隅」という言葉に出会いました。一隅を照らすことなら、私のように非力な人間でも、出来るのではないか。それで社会の役に立つなら、一生懸命やってみようと生きてみたい。そういう人が増えれば、平和な平等な世の中になるのではないかと期待します。正しい意味ではないかもしれませんが、それこそ、ふくとまに参加させていただいたことは「照千一隅」を実行できる機会をもらったと感謝しています。


千葉恵美子
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 今から10年前に暮らしの時間の使い方の配分を切り替えようと思えて…。
 それを実行し始めた時期に、何をしようとか何が出来るとかは漠然としていたのだけれど、子供達の何かサポートをする事に時間を使いたいとだけ思えていたのです。
 丁度その時期に良すぎるタイミングで石田さんから声がかかり…。
 内容は「福島の子ども達の保養の受け入れ・幼稚園児対象」と聞いて驚きましたがスタッフとして参加させてもらう事を即決めました。
 顔合わせを含めた会議に出席すると、なんと誰も知らない人達ばかりではないですか…。
 ちょっと緊張でした。が…。
 逆に妙に嬉しかったのは、苫小牧で暮らすようになってからは商売をしているので「ラーメン屋さん」としか認識してもらえずに居たので、この生活からようやく脱出した場所が見つかった事も新鮮さを感じていたのが当初でした。だけど…。
 元に戻るのに時間はかからなかったのです。第一回目の保養の時から代表の石田さんは「らあめんの村役場で昼食を…」と。
 だから・だから・・ふくトマでも「ラーメン屋さん」で10年間。
 10回の保養期間中、昨年の中止があったので正確には9回の保養期間中に参加した親子さんは全員食べてるので宣伝になっているのかなー。
 いやいや…思い出に参加させてもらえて何より嬉しい事となりました。
 ラーメン屋が色濃く印象づいているとは思うのですが、他の活動にも参加もしましたし。
 10年間のうちには、ラーメン屋のおばちゃんだけではなく、福島へ随行員として出向いたのが3回、参加者の洗濯物を持ってコインランドリー通っていつの間にか「洗濯おばちゃん」の名も付き、宿舎泊りもしてお母さん達との楽しいお喋り……。
 保養期間中の私のスタッフとしての参加内容は毎回変わらず、変えようもないのが自営業の辛いところかもしれないけど。
 多くのスタッフと福島からのお母さん達・子供達との縁を繋いでくれた石田さんには感謝しかありません。
 私の人生の10年間に良い時をいただき体験をさせていただいたこと、本当にありがとうございました。
 これからはこの体験を生かし自分で出来る事にエネルギーを使っていこうと考えています。
 人生…楽しいもんです。

橋本智子
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 1986年4月、1歳になった息子が外遊びできるようになったころ、チェルノブイリ原発事故が起こりました。日本でも雨水中に放射性物質が確認されたとマスコミ報道があり、外遊びを控え、欧州からの食品はなるべく購入しないようにしていました。
 2011年東日本大震災当日は2日後に行われるTPPに日本が参加するべきかどうかという政府主催討論会の準備で札幌にいました。テレビで見る大津波に驚きながらも大津波警報が出ている苫小牧に戻ろうと努力しました。
 その4日後、元々計画していた韓国旅行に行きました。どこか遠くの出来事という思いがあり、キャンセルも頭をよぎりましたが、飛行機が飛んでいるということもあって、挙行しました。新千歳空港の国際線ターミナルは人であふれていました。福島第1原発の事故のため帰国者が多いのだろうとわかっていても危機感はありませんでした。
 韓国では汝矣島のビジネスホテルに泊まり、韓国の放送局の他、BBC、CNN、NHKのニュースも見ることが出来ました。最初はNHKを見ていましたが津波の映像ばかりでした。
 他国はどのように報道しているのか見ていると言語はわからないものの明らかにNHKとは違うトーンでした。
 福島第1原発の水素爆発の状況等が何度も映し出されます。帰りの飛行機はガラガラでした。
 福島の幼稚園児の受け入れを行うという話を聞いた時、チェルノブイリの時の外遊びをしたがる息子や東日本大震災後の自分の行動への反省から少しでも手伝いたいと申し出ました。
 初めて福島から来た子どもたちと勇武津資料館の親水公園に行ったとき、お母さんたちが「普通に葉っぱや水に触れることが出来てうれしい」と何度も言っていたことを今でも思い出します。
 「普通に」はその後も何度も聞きました。水産会館の快適とは言えない居住環境の中でも普通に生活できて子どもたちを叱ることも少なくなって安心できると言ってくれました。
 あとで考えると、大広間でみんなと合宿しているような生活は子どもたちにとっては楽しかったと思います。また、お母さんたちもプライバシーがなかったのは申し訳なかったけれど一体感が出来てよかったのではないかと思います。
 津波の被害は同じなのに原発事故という重荷を背負わされて、復興が進まないふるさとです。
 参加者の中にはその後福島から引っ越した家族もいます。放射能汚染に関する考えが家族間で異なり、亀裂が生じているという参加者もいました。
 東日本大震災は自然災害ですが原発事故は人災で、防ぐことのできる災害でした。しかも、原子力発電所が危険な状態であると知らされず、地震後の物資不足のためスーパーなどの屋外で並んでいて、子どもに被爆させてしまったのではないかと後悔しているお母さんがいました。せめて屋内で待機するようにというアナウンスがあってほしかったという声は切なかったです。
 何年かお母さんたちと話していると、原発事故に関する情報が職業やSNSを駆使していた人では全然違っていたことがわかりました。私自身も日本の報道だけでは気が付かなかったかもしれません。
 この10年TPPの議論はなぜか大きく取り上げられなくなり、2018年に発効しました。
 ふくトマでは福島の参加者だけではなく多くのボランティアと出会いました。福島との絆人と人との絆は大切な宝物になりました。一番の情報の確かさは人と人との絆の中から生まれるのかもしれません。


室崎栄子
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 10年って短くて長いようで、でも一つの時代が、変わったと言えるぐらいの時間です。生まれた子は10歳に、10歳の子は20歳に、そして私は40歳から50歳に、、、
 そんなことはどうでも良いですけど( ̄▽ ̄;)

 1年目、勇払に藍の生葉染めに来た子どもたちが、『葉っぱさわっていいのぉ〜』って言いながら、バスを降りてきました。当時、まだまだ認識の浅かった私はものすごく衝撃を受けました。
 地震直後の原発事故のニュースを毎日々、見ながら大変なことが起きたと思っていました。将来子どもたちが差別を受けないだろうか、福島に残ることを選択することは間違っていないだろうか、などなどたくさんの悩みを抱えて当時、保養という言葉もまだ使われていない中で子どもたちの身体を心配して無我夢中で県外へ出かけた親子たち、メディアからもたらされる情報と生の声からの情報では、同じことなのに全く違う情報のように伝わってきました。これはきっと忘れてはいけないことと思って、もっと関わろうと思った瞬間でした。
 それから運営に関わるようになり福島県での『保養相談会』の参加で何度も足を運ぶようになりました。他の保養団体の方から直接お話を聞いたり、保養に出たいお母さんやお父さんたちのお話を聞いたり、たくさん関わるきっかけをもらいました。
 目に見えないしニオイもない、無かったことにしようとも思って生活することも出来るし、目に見えないし本当の答えがわからないから恐怖から抜け出せないし、考え方もいろいろで、はっきりではないけれど分断もして、昔の公害問題のような大きな目に見える分断ではなく、表面上はにこやかに挨拶も会話もするが、ちょっと距離を置いているような感覚。これは時代がそうさせているのか、今の風潮なのかわからないですが。
 
 保養で出会った家族たち、たくさん発見があり楽しませてもらいました。
 毎度々、子どもたちには色々教えられます。
 お母さんたちはたくさんたくさん心配していろんなことに目配りし、踏ん張って、そして子どもたちはみんなそれぞれ自分なりに一生懸命いい子。たくさんのやさしさにつつまれて育ってるんだって、それが伝わりました。悪い子はいないんです。みんないい子なんです。子どもたちには子どもたちなりの理由があって色々な行動をする。
 もしかしたら自分たちにもそんなことがあったのかもしれないけれど、大人になるとすっかり忘れて、そして親になると日々の生活に追い立てられ、余裕をもって向き合える時間もないのかもしれません。この保養を通じて少しだけでも寄り添えていたならそれで良かったなと思います。
 そして一緒に保養を作り上げたスタッフたち、ふくトマに関わらないと出会うことは無かった人たちと出会えたことが、本当に私の宝になりました。世代も違うそれぞれが、それぞれの力を発揮してたくさんの家族を受け入れてきました。だからこそたくさん勉強できたし、たくさん笑って楽しく続けられたのです。
 ふくトマの保養は終了しますが、昔から続く公害問題と同じで、この放射能問題は何も終わっていないむしろこれからが始まりなのかもしれません。


石田英人(ふくトマ代表)
hideto.png
 そもそも、私は福島県に縁はなかった。
 「原発は不要」と思っていたが反原発の活動をしていたわけではない。原発事故に憤りはあったが、震災が起きた年は、宮城県で瓦礫処理等のボランティアをしていたし。
 保養を支援しようと思ったのは震災の翌年だった。被災地に行く資金が尽き、苫小牧にいてできることをと考えたけれど、なぜ、やると決めたのか分からない。大変なことだったのに。
 「保養」は「子ども達の健康を守るため(被曝を防ぐため)」に行うものだ。
 おそらく、やると決めたのは「自分に子どもがいた」からだ。これしかない。だって、阪神大震災の時は「大変だなあ」と思うだけだったから。あの時は独身だった。
 保養支援をやることは決めたけど、2012年5月に組織を立ち上げたときには、資金は無く、宿舎も決まっていなかった。それなのに、よく18人も参加してくれたものだと思う。それだけ、あの時は多くの人が原発の爆発に危機感を感じ、被災者の身を案じていたのだと思う。
 保養支援をしようと思い、準備を始め、協力者を得てそれが始まり、10年間続け、そして2021年に終わり、その中で学んだことはたくさん。
 たくさんある学びの中から2つ挙げてみる。
 私の仕事は苫小牧市職員だが、活動資金集めの中で市職員を市民はどのように見ているのかを強く知った。裏切ってはいけない仕事をしているのだと。勤務しているときより強く知った。
 様々な事業所等に寄付のお願いに歩いたが、当然、応対者の多くが疑いの眼差しを向ける。既に寄付を募る詐欺もあったし。目的を説明すると「ところで仕事は何を?」と尋ねられる。市職員と名乗ると(仕事とは関係ないと何回も念を押す)眼差しは変わる。市職員だからといって寄付がもらえるわけではないのだけれど、話をきちんと聞いてくれることがとても嬉しかった。
 言葉ではない感謝や詫びの仕方を深く考えるようになったのも学びの一つだ。
 保養支援を始める前、始めてから、そして保養支援そのものとは違う部分でも、友人・知人、ボランティアさん、団体等(役所含め)のお世話になった。そして負担や迷惑をかけたこともある。
 裏切りと思われたこともあるかもしれない。でも、それが子ども達のためになることだったら仕方ない。詫びの気持ちは、保養支援をしっかり行うことで示すしかないと思っていた。
 期限がなかった保養支援を「10年続ける」と決めたのも、その意思表示の一つだった。
 書きたい事は色々あるが最後に。
 私を指して「福島のために」とか「素晴らしいことですね」などと言われることがとても嫌だった。保養支援は、自分にとっては自分の心の中のどうしようもない衝動を満足させるためにやったことでしかないからだ。他人はどうあれ、所詮、私は自分のためにしたことでしかないのだ。
 でも、例え私がそうだとしても他の人の感じ方はそれぞれだ。
 私の「思いに共感」してくれた人がいて、そしてその人達が輪を広げていった。そして「輪」は「ふくトマ」になった。
 私の「思い」を、みんなが「ふくトマ」という形にした。だから「ふくトマ」を褒められるのは何も恥ずかしくない、図々しいくらい。
 「共感」してくださった全ての方へ。
 本当に、本当にありがとうございました。



報告書の裏表紙
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 10年間ありがとうございました。

 『離れていても、大人になった子ども達が支え合えるように。子ども達の未来を美しく守るのは、私たち大人の最大の「しごと」』
10年間ありがとうございました〜その2[2022年07月19日(Tue)]
 ふくトマの保養は様々な方に支えられてきました。

 個人、様々な非営利団体、企業、商店、宗教団体、協同組合、労働組合、教育機関、行政機関…。

 ボランティア参加、資金的支援、物資等支援、様々なアドバイス。

 10年間のお付き合いだったこともあれば1回限りの場合もありました。でも、それはいずれも大切な出会いです。

 また、ふくトマが常に変化し、少しずつでもレベルアップできた(と思っています)のは、保養に来た方にいろいろなことを教えられたからですした。
 ふくトマは「保養をする人を支援する団体」でしたが、その活動を向上させる材料は保養支援での交流から得ていました。すなわち保養に来た方たちにもふくトマは支えられていたのです。

 報告会では、苫小牧福島県人会様、錦西町内会様、すずらん町内会様(体調不良により欠席)、国際ソロプチミスト苫小牧はまなす様にご挨拶をいただき、前日のブログで紹介したパネルトークではとまこまい広域農業協同組合様と福島県本宮市の方をパネラーとして招きました。

 多くの方に支えられたふくトマ、それを表現したいと思い、これらの方々の出席をお願いしました。

 福島県人会様は、福島に特に強いつながりはなかったふくトマの精神的な支えでした。
 錦西町内会様、すずらん町内会様は保養をする上で最重要である宿舎すなわち生活の面での支えでした。
 国際ソロプチミスト苫小牧はまなす様は、2年間宿舎を提供してくださり、継続して運営面での支援をいただきました。
 とまこまい広域農業協同組合様は、ふくトマの特徴である「食事」を支えてくださいました。
 そして、本宮市の方はふくトマのスタッフですが、「ふくトマを信頼してくれる人がいる」というスタッフのモチベーションを維持する象徴でもありました。

 そんな報告会の様子をちょっとだけ紹介します。

 展示の様子。
 大きなスペースがないのでこじんまりと。
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 来賓の方々。
 苫小牧福島県人会会長代行(副会長) 渡辺健治 様。
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 錦西町町内会副会長 藤間聰夫 様
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 国際ソロプチミスト苫小牧はまなす レコーディングセクレタリー
 小山恵子 様
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 司会の室崎栄子。
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 最後の保養を終えた後、ふくトマスタッフのうち3人でもう一度被災地を見てきました。
 その報告です。
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 行ったところは車窓見学も含めて、相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、二本松市、郡山市、福島市。
 見てきた内容は、30代の当会の副代表がレポートとしてまとめ、10年間の活動をまとめた報告書に掲載してあります。ここではその締めくくりの部分を紹介することにします。
 
 「私たちふくトマは、毎年夏に被災地から何組もの親子を受け入れ、そのたびに参加者と様々な 会話を重ねてきた。その都度福島の現状を想像し頭の中で解釈してきたが、10年経過した今改め て現状を目の当たりにしたことで、本当の意味で東日本大震災を知ることができた。今回感じた ことは氷山の一角かもしれないが、この震災は過去のものではなく現在も進行している。 何よ り、このことは被災した地域だけの問題ではなく、日本全体で議論しなければいけない問題だと いうことに気がついた。これから先も、自分たちのこととして問題を捉えていきたい。」

 最後は、今日、ステージに出なかったスタッフが短い振り返りとお礼を会場の皆さんに伝え、代表の挨拶で終了しました。

 滝本晴美
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 石田智子
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 小川智子
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 千葉恵美子(仕事のためVTRで参加)
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 代表 石田英人
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 10年間ありがとうございました。

 そして、これからも保養支援を続ける団体の皆さん、始めた時の思いを大切に、どうぞご自身の身体を大切に続けてください。

 明日は、ふくトマの 10年間の「保養支援」報告書に納められた、スタッフそれぞれの思いを紹介して、ふくトマとしての活動報告の最後にします。
10年間ありがとうございました〜その1[2022年07月18日(Mon)]
 すっかり活動報告会の模様を掲載するのが遅れちゃった。

 3月26日の報告会を最後にふくトマは活動を終了しました。

 直接活動に参加してくれたボランティアのみなさま、資金や物資、活動場所、活動紹介などで支えてくださった個人・団体・事業者等のみなさま、そして保養に来てくださったみなさま、10年間、私たちの活動を支えてくださったことに深く感謝します。

 ふくトマの活動最後になった報告会の模様を2回に分けてお伝えします。


 まずは報告会で行われたパネルトーク「多様なボランティア〜2つの災害から」の模様です。

 苫小牧に隣接する厚真町、早来町、鵡川町は2018年9月に大きな地震(胆振東部地震)に襲われました。
 この3つの町で取れる農作物・水産物は、ふくトマの活動の特徴でもある「食」の面を支えてくれていましたし、ここから通ってくれたボランティアもいます。

 ふくトマのスタッフやボランティアは、遠くに暮らす人たちを迎えるボランティアを体験し、そして自身が被災者となったり身近な人を支える立場にもなったのです。

 そんなことを踏まえ、これまでふくトマの保養に参加してくれた方と厚真町で被災し仕事の面で地域を支えることになった方をパネラーとして迎えて「ボランティアの様々な形」を考えたのがこのパネルトークです。

 では、その模様をお伝えします。


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パネルトーク「多様なボランティア〜2つの災害から」

司会 
 橋本智子(ふくトマスタッフ:北海道苫小牧市)
パネラー
 松原正明(北海道厚真町)
 高野美生(福島県本宮市)
 長尾拓哉(ふくトマボランティア:北海道白老町)

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 左から高野さん、松原さん、長尾さん、橋本さん。

橋本
 皆さんこんにちは。
 コーディネーターを務めさせていただく橋本でございます。
 私は第一回の水産会館でのふくトマの保養から10年間ふくトマのボ
ランティアとして参加させていただきました。
 そういう関係でコーディネーターを務めさせていただきます。
 それではまず、自己紹介をお願いします。

高野
 皆さんこんにちは。
 お世話になったスタッフの皆さんお久しぶりでございます。
 今回パネラーとしてこちらに座っていて、先ほどの紹介で特別支援学校教諭とかって言われて、たぶんスタッフの皆さんの中には私がそういう仕事をしているって知らない方がたぶん多かったと思うので、まあ私も言っていなかったので、驚かれている方もいらっしゃるかなと思うんですけれども、教諭をしております。
 住まいは福島県本宮市。福島県の一番真ん中の郡山市よりもその北側の隣にあります。家族は、高校2年の娘が1人、それから、中学2年の息子、あとは小学4年の娘。3人おります。
 ふくトマには2013年の2回目の保養から参加しまして、一番下の子が1歳半で、真ん中の子がちょうど幼稚園児だったのでそこからふくトマに参加させていただいております。
(注:ふくトマの保養は幼稚園世代をメインにしている)
 翌年の2014年は、幼稚園生がいなかったので参加できませんで、次の2015年からは一番下の子が今度は幼稚園の対象年齢に上がったこともありまして、そこから昨年の10年目(9回目。2020年は中止)の保養まで続けて参加させていただいております。
 最初は普通に参加者として、参加しておりましたけれども、途中から福島出張所のスタッフということで、スタッフ側としてふくトマに参加させていただいております。

橋本
 追々もっといろんなお話し聞きますけれども今回自己紹介ということで。
 では、松原さんよろしくお願いいたします。

松原
 はい、厚真町から参りました松原と申します。
 先ほど司会の方からご紹介いただきました、私厚真では農協の隣くらいにあります朝日地区というか、朝日自治会というところに住んでいます。
 4年前は地震の時はその年たまたま自治会長当たっておりました。今日は農協として震災の時に色々こんあことあったよねっていう話なんかをちょっとさせていただければと思います。石田代表とは、石田さんが本当に若い時に、農業の勉強をしたいとかっておっしゃって来てくれたというのがご縁でありましたし、今日コーディネーターの橋本さんは消費者協会の会長だったときに農協の方で員外監事をお願いしたというようなちょっとした経過がありまして、本当はここに来るような立場じゃないんですけれども、断れなかったのでお許し願いたいと思います。また後々よろしくお願いいたします。

橋本
 長尾さんは先ほど自己紹介ありましたけど、なにか付け足すことございますか。

長尾
 特にないんですけれども、一つ自慢話をすると今自分白老町の竹浦っていうところに住んでいて、温泉が蛇口から出ます。

橋本
 この10年間に結婚もしたんですよね。

長尾
 はい。

橋本
 すいません個人情報出してしまって。
 さて、高野さんは東日本大震災その時のご自身の状況や周りの様子、そして、福島第一原発事故の発生から、最初の頃はその発生の状況もよくわからなかったということですが、その情報が間違いないとわかったときの状況や、周辺の様子、まずはお話お願いいたします。

高野
 はい。大震災が起こったときですけれども、私教諭をやっていまして、ちょうど3月11日は中学の卒業式が福島県では行われる日です。
 高校ではそれとちょっとすれた違う日が卒業式だったので、通常の授業をやっていました。
 地震が起きたのは下校時間だったんですけれども、そのときに大きな揺れが2分くらいずっとなんだか続いているような気がしました。そんなに長い揺れは初めてだったんですけれども、とりあえず安全確保ということで生徒を誘導して、体育館に行ったんですけど、体育館の照明もだいぶ揺れていましたから、いつ落ちてくるかわからない状況ということで、寒い3月11日、なぜかさっきまで晴れていたのに地震とともにすごい嵐のような雪が降って来たんですけど、その雪が降り続いているなか体育館は危ないので、みんな校庭に避難しましょうということで寒いなか校庭に生徒を誘導して避難しました。
 で、ちょっとそのままだと寒いということで、うちの学校の寄宿舎がありまして、寄宿舎は建物は古いんですけど安全性ではAランクというか、地震耐震のA評価をもらっていたので、そこにとりあえず生徒を避難させて、そこに保護者の方に迎えに来てもらうように連絡をしました。
 なかなか電話も繋がらないなか、やっと繋がったならば、来てくださいということで、連絡をして来てもらいました。自分の子どものことはすっかりその時忘れておりまして、生徒が帰る目処が立ったときに初めて「あ、自分の子どもはどうだったか」と思いまして、保育所に電話をして、とりあえず避難していますということで近くの小学校の体育館に迎えに行って帰りました。帰っている途中にガソリンスタンドに長い行列ができていまして、「これは並ばないといけないよな」なんかピンと感じるものがあったので、すぐにそこに並んで入れようと思ったんですけど、一人20ℓまでですと言われて20ℓとりあえず入れて帰りました。
 津波についてわかったのは、ちょっと話が戻りますけど寄宿舎に避難してテレビの映像を見たときに初めてわかりました。でも、それ以上の被害はちょっとよくわからず家に戻りました。
 家の中はだいぶぐちゃぐちゃでガラス類もたくさん割れていて、夕方に帰ったんですけど真っ暗だったんで、停電していて片付ける状態になかったので避難所に行って過ごしました。
 地震が起きたのは11日金曜日、土日は家の片付けをしました。
 原発事故で私が身の危険を感じたのは14日月曜日です。
 県職員ですから一応出勤をして、そしたら、原発がちょっと危ないので避難者がうちの学校のたくさん来る予定になっているとのことでした。それで、そのための設営をみんなでやったんです。それで午後になったときに、勤務中ですからテレビは見れなかったんですけど、職員のあいだで原発が爆発したらしいということが話題になって、同僚のメールに「放射線が降ってくるよと、だから逃げたほうがいいよ」というようなメールが来てることを聞いたんですね。放射線が降ってくるってどういうことなんだろう、私は一体どうしたらいいんだろうと思いながら、とりあえず外の空気にできるだけ触れないように家に帰ったのを覚えています。そのときに、放射線についての知識は全くなかったので、どういった対応をしたらいいのかがわからない。その後帰ってからテレビで情報が流れるようになってから、家の換気扇を塞いでみたりとか、家の隙間をちょっとやったほうがいいかなとか、色々対策はしました。大体そんなところですね。
 周りの人も放射線についてはわからない状況で、ちょうど食料がなくなっていったので、金曜日に地震が起きて土日ご飯を食べたので月曜日あたりちょっと食料がないということで、実家から母が来ていたので子どもたちが母と一緒に近くのスーパーに歩いて買い物に行ってくれていたというような状況もありました。

橋本
 ありがとうございます。
 では、胆振東部地震のときのことを松原さんに伺います。
 この時は、私も初めて聞いた地震直後のブラックアウトということもありましたが、それについても松原さんからお話伺いたいと思います。

松原
 ブラックアウトですね。9月6日朝でしたよね、地震。
 私は自分の家の中ではものが飛んできて大変だ、ガラスも割れて大変だ、くらいだったんですけれども、暗いのでそのとき停電ですからなにもできない、明るくなってからでないとできないねっていうことで日が出てから動き出しました。
 農協職員だったんで平成15年のときに十勝沖地震で、お手元にパンフレットあるかと思いますけれども、たんとうまいステーション(穀物用の大型貯蔵施設)というカントリーエレベーターが相当破壊されたときがあったんですよね。それでまたそうなってるんじゃないかなと思って朝に見に行きました。そのときに道路の状況とか橋がずれているとか、あれ、あのときより全然違うなっていうのが第一印象でした。
 それと、地元の自治会長をやっていたということもありまして、自治会内がどうなっているかも気になっていたんですが、山腹崩壊っていうことを後で知りましたが、なんか山が崩れてヘリコプターとか自衛隊の人とかすごい来てる、なんか変だなとは感じましたが、ラジオで聴いてる範疇でしかわからなかったです。この会場に厚真町の三上さんがいらっしゃいますが、三上さんのご実家は高丘という所なんですけれど、そこはヘリコプターで夜中に救助されているとか、非常になんか地元の人間が地元がわからないという。そして道外の方から電話が来て「お前のところ大丈夫か」と親戚の方に言われて、町内も違うところはそんなことになっているんだな、ということが分かるような状況だでした。
 農協の関連施設ではガソリンスタンドやAコープとかあります。当然ぐちゃぐちゃになってますよね。スタンドは電気が通じていないということで営業できませんでした。夜になんとか自家発電できるように処置できましたが。先ほど福島の方もおっしゃっていましたけど、夜になるとスタンドには燃料を入れるために車が大渋滞のように並びましたま。農協ではレジも動かないので一人2千円分までということで対応するという状況でした。
 他の点では、今は震災があると北海道東北連携協定というものがあるらしくて、当時苫小牧のフェリーターミナルに秋田のフェリーターミナルから乗った車両が、9月6日の夕方には着いていました。すごいシステムになってるんだなということなんですけども、緊急自動車がどんどん来ていただくんですけど燃料なくて動けなくなるんですよ。そういうような状況だったときに農協の方でできるだけ入れましたが、次の日には燃料が全部枯渇しまた。そこで、苫小牧港の施設から持ってこようと思ったのですが、そこは電気通じてないのでが動かない。そのため、JAのホクレンネットワークで留萌の方でローカルな、動かすのに電気を使わない古いシステムのタンクがあったんですよね。そっから出してもらって持ってきてなんとかなったなということもありました。ちょっと若干の自慢話になりますけども、農協ネットワークで色んな意味で連携プレーで助かったこともあったなと、こんなことをブラックアウトの一つの例でご紹介させていただきます。

橋本
 ありがとうございます。今のお話を聞くと震災の時って意外と当事者が一番わかってないんだっていうような気がしました。情報っていうのがすごく大切だなっていうふうに思ったんですが、長尾さんは今お二人のお話を聞いて、それぞれの震災時のご自身の状況と、周囲の様子をお話しいただければと思います。

長尾
 私は3.11の時は大学1年生の時で春休みでした。
 2月中にテストが終わって3月から少し休みに入り、3月の14日か15日からは、アイスホッケー部の春合宿という1年間で一番辛い合宿が始まる予定でした。その合宿は苫小牧で行われる予定だったんで、私は苫小牧の実家に来ていました。地震があった時には、それこそ他人事というか、これもしかして合宿中止になるかな?みたいな感じでいたんですよね。今思うと申し訳ないという気持ちでいるんですけど。
 そして春合宿が始まって、これやるの?って思ったんですけど、1日だけやって解散になりました。本当は4月の頭くらいまでやる予定だったんですけど、すぐ中止になってみんな家に帰されて、僕は実家に帰ってすぐまた東京の寮に戻ったんですけど、その時にこの地震のすごさに気づいきました。スーパーに行ったときに食べ物、食料が品薄で、水も全然なくて。
 僕東京の水道水はあんまり好きじゃないんでスーパーでいつも水を買ってたんですけど、全然まずい水しかなくて。それがちょっとこの地震の凄さ、大変さに気がついたなというふうに思いました。
 一方で胆振東部地震の時は、白老町役場の総務課に配属になっていて、それこそ災害対策本部が作られる部署だったんですけど、夜中揺れてすぐ、これはまずいぞと思って仕事行く準備して、職場まで国道36号線を15分くらい走らなければいけないんですけど、ちょっと待てよ、と思って、こんなに大きい揺れだったら津波くるかも?と思ったんですよね。でもテレビも停電でつかないし、ネットでスマホで調べたら震源地が内陸だったので大丈夫かなと思って職場まで走りました。

橋本
 ありがとうございます。いま、災害発生時、食料や燃料が非常に枯渇したというようなお話を聞きましたけれども、高野さんには特に暮らしの中で不足していたことが他に何かあったのか、それから被ばくということに関して心配や悩み事がなかったのかについてちょっとお聞きしたいなと思います。
 高野さんの話にもありましたが、保養に来た他のお母さんからも、物資不足で屋外に並んでいるときに原発の爆発が起きたと。せめて屋外に出ないように言っていてくれれば子どもと一緒に並んでいたので被ばくさせるということがなかったのに、というお話を聞きました。とても悔やんでおられました。そういったところ、高野さんもう一度ちょっとお伺いしたいと思います。

高野
 家に避難してくださいとかってテレビでは言っていましたけれども、その情報を得る前は家を出て買い物に行って普通に外を歩いていました。
 情報を得てからは、放射線は目に見えないので、実際に被ばくしたのか、爆発してからこっちまで飛んでくるのに何時間かかるんだろう、何分かかるんだろうとか、素人の計算で自分でそれを考えるしかない状況だったので、そういう被ばくに対する恐怖っていうのはものすごくありました。
 私は、震災の3日後くらいに妊娠していることがわかりまして、それで怖かったが放射線の影響ですね。子どもがお腹の中で成長していく過程で放射線の影響を受けてなんらかの発達異常みたいなことが起こったりするんだろうかという、そういう情報も全然なくて、なのでとりあえずものすごく不安な中、生活していました。
 あとは自分が教員であることから、なかなか避難を進んでできないっていうところがやっぱりあったり。ちょっと話逸れちゃうかもしれませんが、夫婦間での意見が違うっていうのもありました。放射線に対する考え方とか。うちその当時の夫は公務員で、やっぱり仕事に行かなきゃいけない。けど私子どもと家にいるけど、このまま家にいていいの?福島にいていいのかな?とか、お腹の赤ちゃんになんかあったらどうすんの?とかってすごく言ったんですけど、じゃあ避難しなよとか、そういう声もなかった。なので自分で動くしかないなっていうところで、私はもうそのときに避難を決意しまして、避難したという経緯はありました。こういう夫婦間での意見の違いは結構どの家庭もあったのかなというふうに思います。

橋本
 保養に来た方にも放射線に関する考え方が家族間で違って結構色々揉めたっていうような話はいくつも聞いております。
 ところで、松原さんは、仕事としては東日本大震災のときは恐らく各県のJAさんと連携して支援する側だったというふうに思います。ふくトマには1回目からお米など厚真の安全安心な食材を提供してくださいました。ふくトマの食事は、今日小野寺さんも来ていますがB1トンちゃんのお肉なども利用させていただいたりとかして、JAとまこまい広域をはじめ様々な方に支援していただいたわけですが。
 さて、松原さんは東日本大震災のときは支援する側だったわけですけれども、胆振東部地震ではご自身が被災者というだけではなくて、JAの理事参事として地域の農業の復興であるとか、また自治会の立場として色々な地域の復興にも関られたのだと思います。
 ご自身でどういうようなことをなさってきたのかというのをお聞きしたいなと思います。

松原
 そういう方面では立派なこと全く言えることがなくて本当に申し訳ありません。本当に全国の皆様方からご支援いただきましてありがとうございました。農協系でも特に同業者ということもありまして、色んな多大なるご支援いただきました。個人の積み上げの寄付金というものもありますし、また例えば全農と言いますか、全国農業連合会ですとか、共済連ですとか、そういう組織的な多大なご支援をいただきました。
 農協としての立場でいうと倉庫系ですとか、生産施設なんかが何億円という規模でダメになります。一般的な国の補助金って半分いただけることにはなっておりまして、半分は半分なんですけど、そっからが大変ということもありまして、そういうことが全国の系統組織内のご支援で非常に金銭的には助かったな、というのがあります。
 一つ個人的な方ではご紹介というかコマーシャルになりますけれども、お手元の農協のパンフレットの中に半分くらいの数が農協の建物共済というパンフレットが入っているものがあるかと思います。農家の方々は非常にこの建物共済に入っている方が多かったんですけども、非常に早く迅速でスピーディーで多大なる支援、保険金の出方が多くて、町に対する支援をいただきました。
 町からは、例えば被災された方に建物建てる際の支援があるんですけれど、それ以外にも共済金という形で非常に厚真の方は建て直す意思のある方については非常に助かったかな、というのはあるかと思います。
 あとちょっと蛇足になりますけども、建物・ハード面は結構迅速にうまくやっていただいたな、というところがありますけども、例えば土砂が入りました、それを除去したときの田んぼの成分といいいますか、肥料の効きかただとか、そういうことがまだまだということ、山林の復興というのがまだまだこれから相当な時間かかるな、ということがあります。これらがほんとに進んでいかないとっていうのがこれからの話で大変なことになっていると思います。

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橋本
 ありがとうございます。色々な制度によって復興というものも早くなったり遅くなったりということなんですが、先ほどの高野さんの話だと、もし原発事故がなければそういった制度でもっと早く福島自体が復興できたのかなというふうに思いますし、高野さんのように、悩みというものもなかったのかなというふうに思います。色んな行政であるとか、民間企業、団体、個人ボランティアなどの支援が入ったと思いますけれども、高野さん、松原さんそれぞれお聞きしますが、どういった支援があったのかお聞きしたいと思います。

高野
 私の学校に避難者の方がどんどん来たのでそこにたくさんの物資が届きました。色んな食材が送られてきたり、オムツとか、飲み物とか、色々きたんですけど、私たちがその材料を使って食事作りを手伝ったりしましたけれども、パンとか、すぐ食べられるようなもの、そういうものはものすごくたくさん送られてきました。それは民間から来たのか、どこから送られてきたのかはちょっとわからないんですけれども、たくさんの支援がすぐ届くっていうのはすごいなと感じたところでした。
 個人的なボランティアの方には私は接してはいないんですけれども、郡山にあるビッグパレットっていうものすごく大きな施設にはたくさんの人が避難していました。避難生活が長期化になりましたが、ボランティアをしたいと集まってきてくれた人は大体そこに行って、色んな支援をしていたということをテレビで見ました。

橋本
 ありがとうございます。では、松原さんからもどのような支援があったのかっていうことをお聞きします。

松原
 支援の中身っていうのはあまりよくわかんなくて、すみません。

会場から挙手〜三上
 ちょっとお話ししたいです。
 厚真町の三上といいます。
 その当時、私は再任用で教育委員会で働いていたために、避難してきた人のお世話、避難所にいたもんですから、そういう物資が色んな企業からどんどんどんどん入ってきたんですよ。トイレットペーパーや食べ物が各町に、避難所にたくさんたくさん。
 だから本当にありがたいなって思いました。
 電気が復旧して最初に感じたのは「え、これが厚真町なの?」ということでした。
 テレビに映ったのが、茶色い山肌を見て、え?って疑いました。
 私は厚真町の幌里っていうところに住んでいたんですが、道路が寸断されて真っ直ぐ普通の通りに街まで出れず、息子が中心部でお店をやっていることもあり避難することにしました。避難所に行くには、安平に出て、安平から遠浅に出て、遠浅から美里に出て、ちょっと地名言ってわかんないと思いますけど、やっとたどり着いて避難していました。
 避難所は街の真ん中なんで、自衛隊の車、警察の車、消防車、次から次へと何台も連なって色んな県とか道外の車が来ていることにびっくりしました。これってなんだろう。厚真町で起きていることなんだろうかっていうくらいびっくりしました。地震で亡くなった方々が救急車で運ばれていく。通るんですよね。夜中でも朝でも。そのたび、また見つかったのかな。それがすごく辛かったです。だから、自分の中では厚真で起きていることなのかって信じたくないと思いました。でも事実でした。たくさんの方が亡くなり、土砂の下になったり、数日もかかって。私の知っている友達もたくさん亡くなりました。地震の後も二次災害で、自衛隊のお風呂の中で亡くなった人もいます。だから地震はすごい恐ろしい。まして福島はそれプラス原発ですよね。
 夫婦間での違いは私も思いました。主人は職場に行っちゃうんですよ。明るくなったらすぐ職場行っちゃうんですよ。職場の大変さ。だからうちに帰ってくるの本当に夜だけ。日中は誰もいないから、私たちがしっかりしなきゃいけないんだなって思う。色んなことで向こうも疲れているから夫婦間でぶつかり合うんですよ。電気もまだ来ていない。まる2日でしたかね松原さん、来なかったの。電気もない。だからろうそくと懐中電灯の灯り、だから電池のありがたさとか、ろうそくのありがたさ、火を灯して。孫もいたので、家族、おばあちゃんもいて、ただ、むかわに私の三男坊、次男が札幌にいて、すぐ次男夫婦は駆けつけてくれて、たまたまお店やっていたので、お店の冷凍室に入っているものを、ブラックアウトですから溶けちゃいますから、すぐ炊き出しに使って店の前で。だからなぜわからないかっていうのはそこなんですよ。主人は職場を守らなきゃいけないんですよ、主人のいるところは豚を飼っていたので、豚さんが全部穴に落っこちて死ぬ状態で、すごいことになっていたんですよ。だから、そういうことで、それぞれの職場の方に、自分は家族も守らなきゃいけないし、そうかといって並行で働いているので、避難所の世話も朝早く出て、与えられたローテーションでしなきゃいけないし、帰ったら家のこと。そういう中で並行して動かなきゃいけなかったから、避難所の人たちの病んでる心を少しでも笑顔でカバーしなきゃいけないという。

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橋本
 はい、ありがとうございます。ついこの間のことですので、私も三上さんの息子さんのやっているお店行ったことあるんですけれども、本当に街の真ん中にあって、そういう状況をご覧になったというふうに思います。今、そうやって支援がいっぱいあったということで、先ほど松原さんからAコープがあって、というようなお話があったんですけれども、残念ながらこの間穂別のお店が無くなってしまったんですけれども、そういうお店が地域にあるということで震災の時にこういうような支援ができたということがありましたらちょっとお聞きしたいと思います。

松原
 避難所のお話は今三上さんがしてくれました。それで、9月6日の朝一に厚真町役場の副町長の方から、例えば農協の私だったり商工会の事務局長なんかもすぐ招集ありました。各地から続々、ちょっとタイムラグあって来てたと思うんですよね。その日にすぐ行ったことは、まずは避難所を開設。スポーツセンターだったり福祉センターになりました。その日の夜から商工会女性部の方が中心となって炊き出しをやってくれた、三上さんもやってくれました。その時に、食材だったりなんだったりもう全部農協の方からどんどん持ってきて、それから老人の例えば紙おむつだったりなんだったりと、ちょっとわけわかんないのも掻き出しておいて全部調達してねっていうことが2、3日がすごくありましたね。
 そのあとはだんだん落ち着いてきて色んな支援物資も調達できるようになってきたと思うんですけれども、そのような災害の時のマニュアルってそのときはなかったのですが、私たちみたいに5千人以下の町だと、知っている人間で、エリアでリーダーシップとってやれました。そのことが一番良かったのかなっていうことも感じますし、コーディネーターの方からも言われましたけども、厚真ではAコープからの即座に出せる物資がありましたが、災害には地域インフラとしてそういう施設が大きな存在だなと思います。一方で、今話のあった穂別のAコープはもう建物が壊れて、臨時店舗でやってたんですけど、ちょっと経済的な面で止むを得ず今年の1月に店閉めることになりました。
 このような災害の中で、例えば公助とか共助とか自助って言葉ありますよね。自助と共助と言いますか、農協なんかでも全部がお金でできない、でも全部税金でやるっていうのはまたこれも無理な話だと思うので、その中間くらいな動きが世の中でうまくやれれば本当にいいなと思います。岸田総理の新たな資本主義ってどうなのかなって思いますけど、なんか本当はそんなことなんじゃないかと思って期待も込めながらお伝えさせていただきました。ありがとうございます。

橋本
 ありがとうございます。今までお2人のお話、それから三上さんのお話聞いて、長尾さんなにか感じたことありましたかね。

長尾
 私は実際に本当に震災にあったっていう場所に住んでいなかったので、近くてすごく揺れたんですけど本当に被害っていうのはほとんどなくて、支援する立場だったんですよね。ただ、今本当に被災されたお二方のお話を聞いて、もっと支援する立場としてこういうふうな配慮があったら、とか、こういう気持ちで臨んだらっていうようなことが、今になってちょっと思ったかなっていうのが正直な気持ちです。もっと寄り添ってあげていれば良かったなっていうのが感想です。

橋本
 高野さんは先ほどの説明にもありましたように、最初は一参加者として参加していただいて、そのあと「ふくトマ福島出張所スタッフ」という立場で逆にボランティアとして福島の参加者の人たちを苫小牧に連れて来ていただいたり、苫小牧において色々と参加者の方のボランティアという立場で接していただいたんですけれども、そうしたご自身の変化についてちょっとお聞きしたいと思います。

高野
 はい、私がこの保養に参加したのは、その当時は外で遊べないとか、食べ物の放射線量が気になって、買い物も一つ一つ産地を確認しながら買い物をするとか、水道の水も飲めるだろうかとか、そういう放射線を常に考えなきゃいけないというところからちょっと解放されたいという気持ちで最初参加していたんです。
 自分の子どもがのびのびと自然の中で遊べることの幸せ、葉っぱを素手で触ったりとか、その辺に寝転んだりとか、自由に遊べるっていうのを経験して、ものすごく普通の生活を普通にできるっていうことがすごく良かったなと思って、その後もずっとふくトマに来ていました。そのときに、子どもたちはそうやって遊んでいて、私自身はどうだったかというと、スタッフさんがいっぱい話を聞いてくれる。大変だったでしょう?どうだった?ああそれは大変だったね。みたいな感じですごく聞いてくれて、聞いてもらえるっていうのはやっぱり安心するというか、自分がいつも不安だったことを話すことで、少し心の重荷が軽くなるというか、っていう効果があるんですけれども、そういう感じでそれで私もだいぶ救われたなと思います。ボランティア側、スタッフ側になって、やっぱりそのお母さんたちの話を聞くとか、そういうのは大切にしたいなと思って、お母さんたちにできるだけ寄り添って、自分が苫小牧のスタッフたちにしてもらったことを自分も参加者さんにやってあげたい。で、その参加者さんに「ああふくトマよかった。楽しかった。」って言ってもらえるように、それだけを考えてスタッフとしてやってきました。

橋本
 とっても楽しかったですよ。夜の飲み会も含めて。そうしたパネラーの皆さんのお話を聞いているんですけれども、今日の題である「多様なボランティア」ということで、ボランティアには様々な形があります。災害に関するボランティア、例えば直後に入る救援的なボランティア、そして、今高野さんからお話があった落ち着いてから入るケア的なボランティアというものもあります。そしてふくトマのように被災地ではなく被災地以外のところで行うボランティアなど、様々なボランティアの形態というものがあると思います。これからどこか大きな災害が起きたとき、どのような支援が必要なのか、また、その支援を支える仕組みは、どういったものが必要なのか、もしお考えがあれば高野さんからお聞きしたいと思います。

高野
 災害直後はやはり生活に困ることが多いですから、できるだけ迅速に、まあ、先ほどでもすぐに食料が届いてきたっていうところで、その辺は日本全体としてそういう面はすぐに機能できるような状態になっているのかなっていうふうに思います。落ち着いてから入るケア的なボランティアですけれども、それはやはり震災で傷ついたお母さん、子どもたち、もちろん男性でも親を亡くしたとか子どもを亡くしたとか、色んな方がいますけれども、そういったメンタル的なケアとか、そういうのをケアしていくようなサポート体制も今はだいぶ確立されてきているのかな、と思います。
 本宮市は埼玉県の上尾市というところと災害時相互応援に関する協定を結びまして、本宮で何かあったら埼玉の上尾市で助けてくれるみたいな、そういうのもあちこちで協定もできているということで、あとはその実際に起こったときにボランティアとしてちゃんと人が集まって来てくれること、っていうのが一番今度大切になってくるのかなと思います。

橋本
 では松原さんからお願いします。

松原
 こっちの方はわかんないんでちょっとすいません。でも後々聞きますと、厚真くらいの町ですと社会福祉協議会の方々の活躍っていうのがすごく大きかったと思うんですよね。なってみないとわからないというところも実際にあった中で、もし次の災害があったときに、経験のある方が迅速に派遣してあげれるような仕掛けっていうのがすごく本当は現地ではすごく役に立つんではないかなってなんとなく感じるところです。

橋本
 ありがとうございます。そのボランティアセンターを通じて厚真町にもボランティアに行った長尾さんからなにか。

長尾
 私は行政っていう立場からお話しすると、こういった大きな災害があったときはやはり行政が迅速に主体的に動いて隅々までケアできれば一番いいんですけれども、それにはやっぱり限界があって、これだけ日本も人口減少・高齢化っていう中でいうと、やっぱり震災以前のところに注目して、日々の日常のコミュニティとかつながりとか、そういったのが、福島のコミュニティについてはよくわかってはいないんですけど、厚真町に実際に行ったときにそれを目の当たりにして、普段からやっぱり人付き合いがあったりとか、そういったつながりがあるところっていう、その強さがすごく感じられたんですよね。なので、そういったところがやっぱりこれから必要になってくるのかなというふうに思っております。

橋本
 普段からのお付き合いっていうのが、災害に当たっても非常に大きな役割を果たす。ちょうど、先ほど松原さんが言った、自助と公的な役割の真ん中にある共助といったらいいんでしょうか、そういったところが実際の災害にも役に立つというようなお話を伺いました。
 さて、私はボランティアとしてふくトマに参加させていただきましたが、ネット上などで見ますとボランティアのマナーについて被災者の方が非常に戸惑っているとか、困ったというようなことが書かれてあります。例えば被災地での撮影など、本人はもしかしたらこんなにひどい状態だから皆さんもぜひ応援してくださいねといった意味で出している良心的なものもあるんですが、ただ写されたご本人、自分のうちの壊れた様子を写されてとても悲しい思いをしたということもございます。そうしたボランティアの方のマナーについて、これだけはやっぱりやめてほしいなとか、ちょっと悲しい思いをしてしまうからというようななことがありましたら、高野さんからお願いします。

高野
 私は実際にはそんなに困らなかったですけど、新聞に載りますけど名前書いていいですか?みたいなこと言われて、ちゃんと了承を得て載せてもらっていたので特に問題なかったですけれども。
 私、本宮で水害が2、3年前にあったときに、実際にボランティアに行って、ボランティアした家がたまたま近所の人の実家だったっていうことがあって、その人の実家の中を見てしまったんですけど、ちょっとびっくりした面がありまして、色んなことで。それがやっぱりそこで知った個人情報といいますか、これは絶対誰にも言っちゃいけないと私は思って、誰にも言ってないですけれども、やっぱりそういうのを喋っちゃう、色んな人に喋ったりとか、そういうことをやっぱしてはいけないなと思うので、そういうマナー面ですかね、ボランティアをする側のマナーっていうのがやっぱり大切だなと思います。

橋本
 松原さんからはなにかございますか。

松原
 ボランティアの方のマナーっていうことでの、僕もちょっと情報機能って得意な方じゃないのでリアル感がないんですけど、一方で今回の震災のときに農協の方のマスコミ対応の仕事もさせてもらったんですよね。そうするといい意味で伝えてもらうのと、これって視聴率なのか、やっぱりそこなのかなっていう微妙なところありますよね。なんかそこだけはなんとなく心にちょっと嫌だなと思うところもありますし、これも仕方ないのかなとも、なんかそういう気持ちの半ばでいました。

橋本
 はい、伝えたいという気持ちとはちょっとラグが生じてしまうというようなこともあると思うんですけど、長尾さんはボランティアとして関わって、これだけはしてはいけないよなって思うような事例がありましたらお願いします。

長尾
 先ほど冒頭で30分くらい拙いスライドで説明させていただいた中にも、色んな写真を使わせていただいていて、実は自分もですね、先日福島行ったときに車の中から降りたりして色んな写真を撮ってたところ、石田代表にちょっと怒られてしまって、あんまり大々的に撮るとプライバシーというか、そういった部分があるから控えめに撮ってねっていうふうに言われて、今回こういうような場面なのでスライドで使わせていただいたんですけれども、やっぱりそういう高野さんもおっしゃっていた個人情報というのは本当に今の時代では大事な部分になってくるので、そういうSNSとかに使うのはもちろんダメなのかなって思うのと、一方でしっかりとそういう震災の現場の記録とか、そういうのにはきっと必要なことだとは思うので、そういうことをわきまえた上でボランティアに携わって行ければいいかなと思います。

橋本
 ありがとうございます。もっともっとお話し聞きたいし、会場からもご意見いただきたいところですが、時間が迫って参りましたので、最後に3人から一言ずつ災害を体験して感じるボランティアの社会的役割や可能性について、極々短くお願いいたします。

高野
 私教員やっていまして、中学生、今道徳の授業週一で必ず教科書やりなさいっていうふうになっていて、先ほどご近所の関わりが大切、あとは道徳心を育てるという意味で道徳なんですけど、やっぱりそういう気持ちを育てる。でもそういう気持ちを教科書でやっても、読んで納得はすると思うんですけど、やっぱりそれを見る、目の当たりにする、大人がそれを子どもたちに見せてあげるとか、そういう面がすごく大切なのかなと思います。なので、私はちょっと今後ボランティア参加して、自分たちの子どもたちに、それから周りの子どもたちに、色んなことは教えていけたらいいかなと思います。

橋本
 ありがとうございます。では松原さんお願いします。

松原
 僕もちょっとそこはわからないですけど、色んな意味で実践してくことが次の世代次の世代につながっていくるのかなって、そんな感じはしています。拙い話ですいません、申し訳ないです。

長尾
 はい、これも石田代表の言葉だったんですけど、なんでこういう活動を俺がやっているのかって、一番大きなところは、自分の子どもにその姿を見せたいって言っていたのがすごく印象に残っていて。
 (会場の石田「そんなこと言ったっけ? 苦笑」)
 言っていました。本当にそういう姿を色んな人に見せていくっていうのが大事なのかなっていうふうに思います。

橋本 
 はい、ありがとうございます。
 本当に短い時間の中でちょっと凝縮されすぎて舌足らずの司会になってしまいました。
 災害を体験されたパネラーさんから、そのときの災害の対処の仕方、そしてその後の色々な流れをお聞きしましたが、自分自身がボランティアとして関わると自分が災害に遭った時にまた自分に戻ってくるんじゃないかなと、ボランティアは自分だけのためのものではなく、私や、そして子どもの、もしかしたら孫、そういった世代に返って来るものかもしれないというような思いがいたしました。
 本日は高野さん、そして松原さん、長尾さん、どうもご苦労様でした。
 これで私の司会は終わらせていただきます。総合司会の方にバトンをお渡しします。

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