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胆振東部地震に関連して〜7[2018年10月30日(Tue)]
 さて、9月24日。

 この日も、私は戸別訪問を希望していましたが、前日のボラセンからのメールで、訪問対象件数は少ないと聞いていました。

 当日、とりあえず、戸別訪問のグループに入りましたが、あらためて、残り件数は少ない、そして今日は、ゴミの回収に力を入れたい。そっちは、何人居てもいい、特に男性は...。
 私は、男気を見せるべく「ゴミの方行きます!」と手を挙げました。
 そもそも、体格、体力的にはそっち方面。
 いつ、そっちにまわってくれと言われてもいい様に、安全長靴を履いて、革手袋、耐油手袋を用意して来ていますからね。

 ゴミの回収は6つのグループに分かれ、私のグループは2台のトラックで回ります。
 メンバーは13名くらいだったかな。
 移動のために私は車を出し、私の車には福岡市近くのある街、大阪市、夕張市、そして私の4名の男です。
 行き先は、安平町の安平地区。
 トラックにくっついて出動です。

 一軒一軒を回るわけですが、ゴミは道路脇にまとめられています。
 基本的に、地震で壊れた家具等が対象なのですが、「この際だからゴミ」も沢山出されていましたよ。
 布団袋6玉とかね。
 農家だから、物置から漬物樽から、臼まで出されてた。
 臼は重かったあ、木の幹の皮を向いて、突く部分を丸くくりぬいただけだもの。
 杵はなかったわ。
 衣装ケースがあって、誰かが「空かー?」って開けたら
「わーどんっ(衝撃)あせあせ(飛び散る汗)」って。
 中に、ひからびたネズミの死骸。
 そっと引き出しを閉じました。
 誰が運ぶか、衣装ケースルーレット。

 それにしても、各家庭から古いものが出てくるわ。
 レコードなんて普通のもの。
 元阪神、西武の田淵が大学生だった頃の新聞(50年前だよ!)とか。
 石原裕次郎の若い頃の芸能記事とかね。
 タンスの敷き紙として、16年前に閉店した苫小牧のデパート「鶴丸」の包装紙が出て来たんだけど、包装紙だけ取っておけばよかったなあと。
 あれは貴重だ、博物館でもらってくれたんでないかなあ。
 そして、私が回った家のほとんどから出て来たのが「サケをくわえた木彫りのクマ」。
 昔はどの家にもあったもなあ、北海道土産なのに。
 うちは、テレビの上にレース敷いて、その上にあった。
 捨てられてるのは、今、買ったら1万円以上の大きさのものばかりだよ。
 
 大きな家具やテーブルは、荷台の端に置いて、余計に荷物が載せられる様に壁の様にして使うんだけど、そういう配置やゴミの置き方が上手なのが、福岡市近くから来たAさん。
 この人からタンスの壊し方を教わった。
 自然とリーダー格になってたね。
 東日本大震災も、熊本も今年の広島も行ったって言ってたから経験が豊富。
 
 Aさんから、被災地ボランティアの逸話も聞いた。
 東日本のときの話だけど、IT企業から職場動員されたらしい人たちが居て、そのうちの1人が不平ばかり言って真剣にやっていなかった。
 一緒に活動していた人たちが「あいつはケガするなあ」と思っていたら、本当にケガをした。救急車を呼ぶほどのケガじゃないんだけど、本人が騒ぐから救急車を呼んだ。
 Aさんがが一年後に来て、食堂(だったかな?)でご飯を食べていたら、横の席の方から、その時と似たような話が聞こえて来た。聞き耳を立てていると、まさしくその時の話。
 しかも、自己犠牲的な美談になっている!!
 おもわず、「それは違う」と本当のことを伝えたそうです。
 いや、それはあなたが悪者になったかも(笑)、って突っ込んでおいたけど。

 でも、なんでも嫌々やってるとケガや間違いをするよね。

 Aさんは、泊まり込んでやってるって言ってたけど、お酒が好きみたいなので、一緒に呑んでみたかったなあ。

 近所のお宅からは、「物置を解体した」というゴミが出た。
 初めは、「コレは廃材でボランティアによる回収の域を超えてるんでない〜?」って言ってたんだけど、なんせモチベーションの高いボランティアたち。
 ボラセン本部に問合せ、持って行くことに。
 それがまた早いんだわ〜、あっという間に物置一棟分の廃材をトラックに積込んだ。

 つくづく感じたのは、ボランティアが、本当に「やる気まんまん」なこと。
 ゴミ置き場から離れて置いてあるブロックのガレキを指して、「アレも持って行かなくていいのかなあ」って言うのです。それも、そう言う人が1人じゃないんだよね。
 多分、ボランティアは16時迄に本部に帰るのが基本だと思うんだけど、時間が押し迫ってても、片付けてしまいたいんだよね、「明日のボランティアに任せればいいっしょ」と言っても、とにかく自分が片付けてしまいたい。

 本当に、モチベーションが高いです。
 
 これだも、どんどん片付くわ〜。
 
 
胆振東部自身に関連して〜6[2018年10月29日(Mon)]
 なんで、ボランティアをするのでしょう?

 困っている人が居れば助けたいという気持ちが起きるのは普通でしょう。
 それは、別に高尚なことではなく、うずくまっている小鳥を見れば助けたい、怪我して動けないでいる人を見れば介抱しなきゃと思う、基本的にそれと同じことだと思います。

 同時に、自分が誰かの役に立っている(社会の一員である)という承認欲求を満たすという面もあると思います。
 
 それに、自分の存在の確認という面もあると思います。
 ボランティアをするというのは、全くの自分の意志。
 自分の意志で、その現場に来て、そこで同じ思いを持つ人たちと仕事をする。
 求められている仕事を自分はこなしたのか、誰かに評価されるのではなく、自分で自分を評価する。
 お金を得るための仕事にだってそういう面があるはずなんだけど、仕事には他者との関係性の中で仕方なく自分を変化させる場面が多いから。

 というわけで、安平町1日目のボランティアは終わりました。

 
 コンビを組んでくれた彼女とは、地震のこと以外にも、仕事のこと、家族のこと、その他くだらない話からまじめな話まで、いろいろな話をしましたよ。
 彼女から聞いた話も興味深いことでしたが、個人を特定されたら困るので書けませんけど。
 ボランティアの魅力の一つに、知らない世界の話が聞けるという事もあるんですよね。

 昼食に、彼女は「2日前に作ったポテトサラダを、保冷剤をのせていたとはいえ車内に放置していた。それを食べる」という、自らリスキーだと認めるチャレンジをしようとしていたので(この日は天気がよく暖かだった。車内は当然...)、それは思いとどめましたよ。
 そのため、彼女はお菓子しか食べていなかったので、彼女のリクエストで、追分の帰路の途中に「そば哲」によりました。(評判なんですよ、ココ)
 15時頃なので、お客さんは他に無し。
 中休みが無いのは嬉しいですよね、落ち着いて食事ができました。

 入店したときに、お店の方が「あら、まあ!」とすごく歓迎してくれたような表情を見せたのが不思議でしたが、地震で厨房等が醤油の海のような状態になっていたときに、ボランティアが来て片付けや清掃を手伝ってくれたとのこと。
 とても感謝していますと、そのときには参加していない私たちにまでお礼を言ってくださいました。その時のボランティアさん達は、きっとよい仕事をしたのですね。
 私たち二人は、「安平町災害ボランティア」の大きなシールを服に貼付けたままだったので、「あっ!」と思ってくれたのでしょう。
 そばはもちろん美味しかった、彼女が食べた「そばプリン」も美味しかったそうですよ。

 ボラセンに行って調査結果を報告し、函館方面に行く彼女にどうやって行くのか聞いたら苫小牧からはJRで行くとのこと。
 紳士たる私は、苫小牧駅まで先導して行くことを申し出(ほぼ一本道だけどな)、お土産としてかわいくて高くない、とまちょっぷ水(苫小牧の水はおいしいのだ)とポンエペーレというお菓子を渡して駅で別れたのでした。

 翌日が休みだったら、函館方面まで送ってあげたかったな〜。
 それが紳士の役目だよな〜。
 でも、そこまでする理由がカミさんには説明ができないわ。
 ぜったい、「紳士の務め」という理由は立たないよな、逆の理解にはなりそうだけど雷

 
 ボランティア活動記事の終わり方としてはどうなんだ、コレ。

 あ、次回に続きます。

 
胆振東部地震に関連して〜5[2018年10月28日(Sun)]
 胆振東部地震に関連した記事を書いていますが、これまで写真が一切出ていません。
 
 地震の影響が分かるところを撮影すると、どうしても住宅が入ります。
 壊れた自分の家が、ネット上に掲載されるのは、誰だっていい感じはしませんよね。
 それに、東日本大震災の時も、記念撮影をするボランティアが居て、本当に記録として残したくて撮影をしていたボランティアも批判され、結局、撮影は基本的に禁止となっていったということもあります。
 なので、今回はカメラは持って行きませんでした。
 よって、最後まで写真は出て来ないので、ご了承ください。


 さて、一戸建ての家が並ぶ地区に移りましたが、最初に、昔の町営住宅?というような4階建ての建物があります。
 近寄って見ると、建物の基礎部分土砂が崩れて埋まっていたコンクリート部分が見えます。
 2つある玄関も、上がり口のコンクリートが大きく沈んでいます。
 建物の壁にひびが入っています。
 各戸を訪問しましたが、どの部屋も不在でした。
 「検針不要」とシールが貼ってある水道メーターが幾つもあり電気メーターが取り外されている部屋も幾つもありました。
 もしかしたら、そもそも誰も住んでいなかったのかもしれません。
 私たちは、そういう情報も調査票に記載しましたが、一回目の訪問の際にそういう情報が記録されていれば、あらかじめ訪問対象から外せたかもしれませんね。

 担当した地域は、昭和40〜50年代前半に建てられた家が多いよう。
 ブロック塀をまわしている家が多く、そのブロック塀は、鉄筋が入っていても軒並み崩れています。中には、ブロック作りの煙突が倒れている家も。
 今は、壁から排気口が出ているだけという家が殆どですから、煙突がある家ということ自体、時代を感じさせます。
 訪問した中で、崩れたブロック塀を出すのだけが、ゴミ回収に間に合わなかったという家が一軒有り、ブロック塀のガレキを玄関前に集めましたが、それ以外のお宅では片付けやゴミ出しを手伝うことはありませんでした。
 壊れた家具等の室内からの運び出しは終わって玄関前に出ており、ちょうど、ゴミ回収班が回って来ていて、それをどんどん回収していってました。

 この日は、町外の高校の野球部とサッカー部が合同でボランティアに来ていて、彼らに、どんな状況?って聞いたら「いつ終わるのか分かんないっす」と答えが。
 追分地区は、ブロック塀等のガレキが多く、大変な様です。
 高校生、大活躍でした。

 また、ちょうど、罹災証明の関係で家屋の被害調査も行われていました。
 調査が済んだ家には、調査終了を示す紙が貼られていました。
 被害調査は、苫小牧など町外から応援が来て行われているとのこと。
 いろいろな人が、いろいろな形で被災地に応援に来ています。

 訪問していると地震発生時のことを聞くこともありました。
 1人暮らしのおじいさんは、こんな話をしてくれました。
 いつもなら夜中に目を覚ますことなんか無いのに、あの日は、地震の数分前に目が覚めてトイレに行った。
 寝室に戻ったら、ずいぶん前に亡くなった妻の服が入ったままのタンスはそのままだったが、その脇に立てかけていた家具が、ちょうど枕と足の部分に倒れていた。もし、起きていなかったら...と笑いながらも目に涙をためて話していました。
 ありがちな表現でしかないですが、私もコンビを組んだ彼女も「それは奥さんが守ってくれた...」と励ますしかありませんでした。

 町内の将来に対する不安を感じている方も居ました。
 道端で話をした男性は、地震の前に、立て続けに近所の男性が亡くなった。そこで地震でこんなに被害が出ては...この古いまち...誰もいなくなっちゃうんじゃないのかなと話していました。

 外見では、被害がよくわからないですが、風除室や玄関がいびつになって戸やドアがきちんとしまらなくなっている家は沢山あります。また、室内のペチカが崩れて冬の暖房をどうしようと困っている方も居ました。
 家の建てられた時代による被害の差は明らかで、新しい家ほど被害は小さく、またブロック塀をまわしていないので、片付けにかかる労力も少なくて済んでいるようでした。

 
 ほっとしたのは、訪問したお宅のみなさんが、体調面は問題はないよと言っていたことです。
 もちろん、初対面の、しかも看護婦でも医者でもない者に、自分の体調を詳しく伝える人はなかなかいないと思いますし、相手がボランティアなら余計な心配はかけたくないと思うのは人情でしょう。
 でも、みなさん基本的に「子どもも含めて、みんな落ち着いたし、そんなに心配ないよ」と言っていたのは、ボランティアとしてはとても嬉しかったですね。

 訪問に夢中になり、昼食をとるのが遅くなって13時を過ぎてしまいました。
 コンビを組んでくれた方に悪いことをしてしまいました。
 休憩も取っていなかったし。

 そんなこんなで、15時迄に割当の地域の訪問は済ませ、ボラセンに戻ったのでした。
胆振東部地震に関連して〜4[2018年10月27日(Sat)]
 ようやくコンビが決まり、訪問する地区の地図をもらってスタート。

 訪問するのは追分地区。

 安平町は追分町と早来町が合併してできた自治体です。
 追分町は、室蘭、苫小牧から岩見沢方面へ向かう室蘭線と夕張から千歳へ向う夕張線(現在は石勝線)が交差する地点にあって、交通の要衝として、明治後半から大正、そして昭和の30年代(石炭がエネルギーの中心だった時代)、とても栄えた町でした。
 今は、当時のような勢いはありませんが、SLが保存されている鉄道資料館もあり、国鉄時代の香りが残る、落ち着いた良い街です。

 さて、コンビを組んだ女性は、十勝方面のある町から休暇を取って函館方面にある実家に帰る途中に安平町に寄ったという方。
 前のブログに「何かの縁?」と書いた帽子のイニシャル「b」はロックバンド「back number」のイニシャルだそうです。確か、来ていたシャツも、コンサート会場で買ったっと言っていたような...。
 back numberなら、最近、うちの子どもが聴いていたバンド。
 少しだけ分かります。
 確か、カーステレオに入れてあるSDカードに入ってました。
 (いろんなのが入ってる中で「コレはいいな」と思ってたのがback numberだったということが後に判明)

 ところで、私の帽子の「C」は広島東洋カープ(carp)の「C」。
 アルファベット順以外の関連性は無いのでした。
 洋楽が中心だった私とは、「名前は知っています」という位のつながりだけど、コミュニケーションの入り口には役立ちましたよ、帽子のイニシャル。

 追分にはボラセンから車で15分くらい。
 
 町営住宅と一軒家を回ります。

 最初に5階建て(だったと思う)の町営住宅から。
 比較的新しい建物の様ですが、訪問して話を聞く中で、通路の壁のあちこちにひびが入っているのが分かりました。
 部屋の中にもひび割れがあると言うお宅もあり、やはり震度6というのはすごい衝撃だったんだなあと分かります。
 私たちが担当したのは、前回の訪問で留守だったお宅なのですが、町営住宅は半分くらいが今回も留守でしたね。
 カーテンがあり生活感はあるけど電気メータが止まっているという部屋も多く、やはりどこかに避難している世帯が多かったのかもしれません。

 殆どの家庭で、壊れ物の片付けやゴミ出しは終わっていて、そのことに関連する要望はありませんでした。
 体調面も、特に心配があると言う方はいませんでした。
 今は、通院もちゃんとできるようになっているということでした。
 子どもが居る世帯もありましたが、子ども達はしばらくは怖がって落ち着かなかったけれど、今は問題ないと言っていました。
 玄関前には、水が入った2ℓ、4ℓのペットボトルが並んでいるお宅もあり、「水道は出てるんだけど、しばらくはね」と言っているお宅もありました。
 避難していて、ちょうど今日、戻って来たという方がいたと思います。
 9/22の時点では、私たちが担当した地区は水道も復旧していたので、「日常」が戻り始めた頃だったのかもしれません。

 安平町は、厚真やむかわに比べると、町民の生活のケアに関する対応が早く、混乱も少ない様な印象を持っていたのですが、訪問した中で「町は何も情報を流してくれない」という声もありました。
 また、後日、別な支援に入った人から「地震後ちょっとしてから、役場じゃないところからいきなり文書が投函されて、なんだか要領をえなくて混乱したという人たちが居た」という話も聞きました。(ボラセンがボランティアに依頼して配布した震災ゴミ回収等のチラシだったらしい)
 情報を確実に流すのは、本当に難しいですね。

 地震当日は、苫小牧でも「11時から断水」というデマがネット上で流れたし。
 それを、SUVに乗った男二人組が触れ回っていたという話も。
  ↑ コレもデマの可能性も。

 戸別訪問は、同じようなことを仕事でもしている私から始めました。
 5、6件ごとに交代する形でやりましたが、コンビを組んだ方は、教師をされているとのことでしたが、訪問の仕方がとてもキレイでかつ親身で、困っている人の心を推し量れる人なんだなあと思いました。
 
 そういえば、その方の年齢を、上に見ても30代半ばと思っていたら、「4○(←秘密)才ですけど」と言われてびっくり。
 どうりで、洋楽も「名前は聞いたことある」と言っていたわけですねえ。

 次は、戸建ての地区に移ります。
 
胆振東部地震に関連して〜3[2018年10月26日(Fri)]
 さて、前の記事で「9時半スタート」って書いたけど、9時からオリエンテーションで9時15分からボランティアのマッチング作業だったかな。

 ボランティアセンター(以下 ボラセン)職員から、安平町の現在について説明がありました。
 水道等、生活基盤はほとんど回復したけど、避難所生活を強いられている人は多く、避難所から保育園や学校に通う子ども達が多く居ること。
 校舎が使えなくなった小学校もあり、その学校に通っていた子ども達は中学校で授業を受けていること。(小一の子が中学生のトイレを使ったりするわけです)
 校舎が使えなくなった中学校もあり、そこに通っていた子ども達は避難所で授業を受け、体育の授業ができないなどの問題が起きていること。また、野球等、外でやる部活動は、冬期間にトレーニングする場所がないことや学校祭を行えるかどうかも分からないということ。
 去年、受験生を抱えていた親としては、中三の子たちの受験勉強も心配です。

 また、町民はおしゃべりになっているので、話を聞いてあげてくださいとも言っていました。
 子ども達は遊びの中で不安を昇華させることができるけど、大人にはそれができない。
 話しをすることが、不安を和らげることになっているということなのです。
 そういえば、私が通っている民謡教室でも、地震後の教室では、お姉様達がみんないつもよりずっとおしゃべりになっていましたからね。

 子ども達の遊びには、「地震ごっこ」があるそうです。
 例えば「震度6だ、逃げろー」とさわいでみたり、「ハイ、お水」と給水活動のマネをしたりする、どこから来たの?」と大人がボランティアに尋ねるのをマネしたりするそうです。
 子どもは、そうやって不安な気持ちを調整して行くそうです。

 さて、作業ごとに別れてマッチング作業です。

 前の記事に書いたとおり、私は、戸別訪問という仕事を選びました。
 二人一組で行動するということで、私は、同じような仕事の経験があり、車を出せるということで二人一組のリーダー格の方に。
 リーダー格の方が先に決まり、最初に並びます。(リーダーは性別関係無し)

 そこで、マッチング作業の担当者が、
「二人一組で動いていただきますが、男女のペアになってください。では、残っている方、コンビを組む方をえらんでくださーい!」
 ...おいおい。
 選ばれなかったらショックじゃないか。
 「ねるとん」か?(←古い)
 「ラブアタック」か?(←古いなあ)
 「フィーリングカップル5VS5(プロポーズ大作戦)」かよ!(←どんどん古くなってく)

 幸い、私を早めに選んでくれる方がいました。
 しかし...

 「訪問結果は、スマホで入力していただきます」
 いかん、私はガラケー。
 でも、今は、ほとんどの人がスマホだからね。
 「私、ガラケーなんですが、スマホですよね?」と私を選んでくれた、男性を見る目が確かな方(笑)に確認すると、
 「いえ、私もガラケーなんです」

 ...二人の意志に関係なく破談となりました。
 
 私は、次のコンビ決めの方に回り、今度はスマホを持っている方が私を選んでくれたのでした。
 私を選ぶという、紳士を確実に選ぶことができる(一般的には「彼女チャレンジャーだな」という評価になる様ですが)能力を持った女性が、こんなに続いて現れるとは...
 まさしく、「神のみぞ知る」といったところです。

 選んでくれた、女性のキャップには「b」と。
 そして、この日、私がかぶっていたキャップには「C」。
 おお、本当に神の計らいでしょうか。

 次の記事に期待! ←早く、どんな仕事をしたのか書けよ。
胆振東部地震に関連して〜2[2018年10月22日(Mon)]
 地震の被害が大きかった厚真町、安平町、むかわ町は、東胆振を代表する、お米や青果、乳製品などの産地です。
 フクとまの食事でも、JAとまこまい広域さんからお米、味噌の提供を受け、大変お世話になっています。

 フクとまを代表してというわけではありませんが、私もボランティアとして、9月23、24日、10月8、14日と安平町で、戸別訪問や室内片付け、ゴミ回収の作業をして来ました。

 最初は、フクとまでも個人的にも世話になっている人がいる厚真町に行こうと思ってました。
 震度7、そしてあの山の崩壊のニュースやはり衝撃でした。
 土砂崩れにより家が崩壊し、亡くなった人が出た、吉野、富里地区は、昔、よく通った道路、よく通った場所でした。
 しかし、やはり厚真町は集まるボランティアも多く、ボランティア登録する電話もお話中で繋がりません。
 また、多く集まり過ぎて仕事が無いこともあったということで、行き先を安平町に変更したのでした。

 安平町も、事前にボランティア登録が必要でしたが、HP上で、ボランティア作業の種類や内容が表示されており、自分の能力を生かす作業を選ぶことができるということが、厚真町、むかわ町と大きく違うところでした。
 もちろん、当日、その作業が必ず当たるというわけではないのですが、自分を生かす作業があるということは、ボランティアに取ってはモチベーションが上がることです。

 私が選んだ作業は、9月23日は、家を一軒ずつ訪問して、求めている支援を確認し、困り事や家族の体調等を聞いてくる個別調査。
 困りごと等の話を聞いたり、生活状況を確認する仕事を経験して来ましたから、その経験が生かせるかなと思ったのです。
 本来は体力勝負の仕事が適任なんですけどね、でも、その仕事はこれからも沢山あると思ったので。

 実際にやってみると、健康での不安やその他心配事を相談されるということはほとんどなかったです。地震から2週間過ぎて片付けも進んでいたということもあるのでしょう。
 少し拍子抜けしましたが、カミさんから、「『知らない家を訪問するのを苦にしない』ということが、普通はなかなかできないことだよ」と言われました。
 仕事上、戸別訪問は多々ありましたし、フクとまその他の市民活動でも初対面の人と話をすることが多くありましたから、いつの間にかそういうことになれていたんですね。

 仕事と市民活動、両方の経験が生かせましたよ。
 ( ↑ 年齢を重ねてずうずうしくなっただけでは?)

 ということで、当日は9時からオリエンテーションと各ボランティアが担う作業のマッチングをし、9時半過ぎにはスタートです。

 続きは、次回。
胆振東部地震に関連して〜1[2018年10月21日(Sun)]
 久しぶりの更新。

 本当なら、2ヶ月前に終わったフクとまの保養のことを掲載しなくちゃならないんだけど。

 その前に、9月6日に起きた「胆振東部地震」のことについて書いていきたいと思います。

 地震が起きた日、これまで保養に参加した方々から、心配するメールや電話をいただきました。
 とても嬉しかったです。
 遠い所にも、自分達のことを気にかけてくれる人が居るって、こんなに心強いことなんですね。
 
 保養に来た方が「私たちのことを心配してくれる方が北海道に居る」ということをよくおっしゃいますが、今回の地震で、私たちも同じことを感じた様に思います。


 地震が起きたのは、9月6日の午前3時8分。

 トントンという縦揺れで目を覚ました。
 いや、ケモノのような(ナマケモノくらい)鋭敏な野生の感覚で、ハッと目覚めたときに一拍おいて縦揺れが来たような気もします。

 すぐに短パンを履いて、書斎のふすまを開けて子供部屋を見ると、カミさんが次男をかばう様に抱いて布団の上に居て、階下に降りると、居間で寝ていた長男(←何で居間で寝てたんだ?)が「なんだ、なんだコレ!」って言いながらテレビを付けようとしていました。

 テレビで津波が来ないことを確認し、震度5強は非常召集レベルなので、自分は出勤の準備を。
 カミさんが、全員の持ち出し用のリュックを玄関近くに出していたら停電に。
 手回し式のラジオを付け、自分の非常用リュックからクッキーを出して通勤用のリュックに入れ、その他屋外活動用の準備をして、出かける前に状況を確認しようとしたら、テレビが消えています。
 「誰だ、テレビ消したの!」と言ったら。
 次男に「停電じゃん!」と言われ、
 「あっ、そうか」(←落語の「粗忽長屋」「堀之内」かよ)

 カミさんに「今日は、いつ帰れるか分からない、子ども達をよろしくな」
 高一の長男に「かあちゃんを支えてな」
 という『一家のあるじ』らしい言葉も、
さっきの「誰だテレビ消したの」の一件で何の重みもなく、ラジオの地震速報にかき消されて行きました。

 職場へは、自転車で向かいましたが、街灯は全て消えて真っ暗。
 灯りは、三日月と星、そして車のヘッドライトと不安で外に出て来た人の携帯のライトだけ。
 もちろん信号も消えています。

 強烈に覚えているのは、大きなオリオン座とその横に居る三日月。
 家から職場へは南に向かうのですが、向かってる途中、ずっと正面に大きな大きなオリオン座が輝いていました。

 オリオン座とその横にちょこんと居る三日月。
 とても、心強かった。

 次回以降は、安平町でのボランティア活動について書いていきます。
 

 
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