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10年間ありがとうございました〜その1[2022年07月18日(Mon)]
 すっかり活動報告会の模様を掲載するのが遅れちゃった。

 3月26日の報告会を最後にふくトマは活動を終了しました。

 直接活動に参加してくれたボランティアのみなさま、資金や物資、活動場所、活動紹介などで支えてくださった個人・団体・事業者等のみなさま、そして保養に来てくださったみなさま、10年間、私たちの活動を支えてくださったことに深く感謝します。

 ふくトマの活動最後になった報告会の模様を2回に分けてお伝えします。


 まずは報告会で行われたパネルトーク「多様なボランティア〜2つの災害から」の模様です。

 苫小牧に隣接する厚真町、早来町、鵡川町は2018年9月に大きな地震(胆振東部地震)に襲われました。
 この3つの町で取れる農作物・水産物は、ふくトマの活動の特徴でもある「食」の面を支えてくれていましたし、ここから通ってくれたボランティアもいます。

 ふくトマのスタッフやボランティアは、遠くに暮らす人たちを迎えるボランティアを体験し、そして自身が被災者となったり身近な人を支える立場にもなったのです。

 そんなことを踏まえ、これまでふくトマの保養に参加してくれた方と厚真町で被災し仕事の面で地域を支えることになった方をパネラーとして迎えて「ボランティアの様々な形」を考えたのがこのパネルトークです。

 では、その模様をお伝えします。


***************************

パネルトーク「多様なボランティア〜2つの災害から」

司会 
 橋本智子(ふくトマスタッフ:北海道苫小牧市)
パネラー
 松原正明(北海道厚真町)
 高野美生(福島県本宮市)
 長尾拓哉(ふくトマボランティア:北海道白老町)

paneto-1.JPG
 左から高野さん、松原さん、長尾さん、橋本さん。

橋本
 皆さんこんにちは。
 コーディネーターを務めさせていただく橋本でございます。
 私は第一回の水産会館でのふくトマの保養から10年間ふくトマのボ
ランティアとして参加させていただきました。
 そういう関係でコーディネーターを務めさせていただきます。
 それではまず、自己紹介をお願いします。

高野
 皆さんこんにちは。
 お世話になったスタッフの皆さんお久しぶりでございます。
 今回パネラーとしてこちらに座っていて、先ほどの紹介で特別支援学校教諭とかって言われて、たぶんスタッフの皆さんの中には私がそういう仕事をしているって知らない方がたぶん多かったと思うので、まあ私も言っていなかったので、驚かれている方もいらっしゃるかなと思うんですけれども、教諭をしております。
 住まいは福島県本宮市。福島県の一番真ん中の郡山市よりもその北側の隣にあります。家族は、高校2年の娘が1人、それから、中学2年の息子、あとは小学4年の娘。3人おります。
 ふくトマには2013年の2回目の保養から参加しまして、一番下の子が1歳半で、真ん中の子がちょうど幼稚園児だったのでそこからふくトマに参加させていただいております。
(注:ふくトマの保養は幼稚園世代をメインにしている)
 翌年の2014年は、幼稚園生がいなかったので参加できませんで、次の2015年からは一番下の子が今度は幼稚園の対象年齢に上がったこともありまして、そこから昨年の10年目(9回目。2020年は中止)の保養まで続けて参加させていただいております。
 最初は普通に参加者として、参加しておりましたけれども、途中から福島出張所のスタッフということで、スタッフ側としてふくトマに参加させていただいております。

橋本
 追々もっといろんなお話し聞きますけれども今回自己紹介ということで。
 では、松原さんよろしくお願いいたします。

松原
 はい、厚真町から参りました松原と申します。
 先ほど司会の方からご紹介いただきました、私厚真では農協の隣くらいにあります朝日地区というか、朝日自治会というところに住んでいます。
 4年前は地震の時はその年たまたま自治会長当たっておりました。今日は農協として震災の時に色々こんあことあったよねっていう話なんかをちょっとさせていただければと思います。石田代表とは、石田さんが本当に若い時に、農業の勉強をしたいとかっておっしゃって来てくれたというのがご縁でありましたし、今日コーディネーターの橋本さんは消費者協会の会長だったときに農協の方で員外監事をお願いしたというようなちょっとした経過がありまして、本当はここに来るような立場じゃないんですけれども、断れなかったのでお許し願いたいと思います。また後々よろしくお願いいたします。

橋本
 長尾さんは先ほど自己紹介ありましたけど、なにか付け足すことございますか。

長尾
 特にないんですけれども、一つ自慢話をすると今自分白老町の竹浦っていうところに住んでいて、温泉が蛇口から出ます。

橋本
 この10年間に結婚もしたんですよね。

長尾
 はい。

橋本
 すいません個人情報出してしまって。
 さて、高野さんは東日本大震災その時のご自身の状況や周りの様子、そして、福島第一原発事故の発生から、最初の頃はその発生の状況もよくわからなかったということですが、その情報が間違いないとわかったときの状況や、周辺の様子、まずはお話お願いいたします。

高野
 はい。大震災が起こったときですけれども、私教諭をやっていまして、ちょうど3月11日は中学の卒業式が福島県では行われる日です。
 高校ではそれとちょっとすれた違う日が卒業式だったので、通常の授業をやっていました。
 地震が起きたのは下校時間だったんですけれども、そのときに大きな揺れが2分くらいずっとなんだか続いているような気がしました。そんなに長い揺れは初めてだったんですけれども、とりあえず安全確保ということで生徒を誘導して、体育館に行ったんですけど、体育館の照明もだいぶ揺れていましたから、いつ落ちてくるかわからない状況ということで、寒い3月11日、なぜかさっきまで晴れていたのに地震とともにすごい嵐のような雪が降って来たんですけど、その雪が降り続いているなか体育館は危ないので、みんな校庭に避難しましょうということで寒いなか校庭に生徒を誘導して避難しました。
 で、ちょっとそのままだと寒いということで、うちの学校の寄宿舎がありまして、寄宿舎は建物は古いんですけど安全性ではAランクというか、地震耐震のA評価をもらっていたので、そこにとりあえず生徒を避難させて、そこに保護者の方に迎えに来てもらうように連絡をしました。
 なかなか電話も繋がらないなか、やっと繋がったならば、来てくださいということで、連絡をして来てもらいました。自分の子どものことはすっかりその時忘れておりまして、生徒が帰る目処が立ったときに初めて「あ、自分の子どもはどうだったか」と思いまして、保育所に電話をして、とりあえず避難していますということで近くの小学校の体育館に迎えに行って帰りました。帰っている途中にガソリンスタンドに長い行列ができていまして、「これは並ばないといけないよな」なんかピンと感じるものがあったので、すぐにそこに並んで入れようと思ったんですけど、一人20ℓまでですと言われて20ℓとりあえず入れて帰りました。
 津波についてわかったのは、ちょっと話が戻りますけど寄宿舎に避難してテレビの映像を見たときに初めてわかりました。でも、それ以上の被害はちょっとよくわからず家に戻りました。
 家の中はだいぶぐちゃぐちゃでガラス類もたくさん割れていて、夕方に帰ったんですけど真っ暗だったんで、停電していて片付ける状態になかったので避難所に行って過ごしました。
 地震が起きたのは11日金曜日、土日は家の片付けをしました。
 原発事故で私が身の危険を感じたのは14日月曜日です。
 県職員ですから一応出勤をして、そしたら、原発がちょっと危ないので避難者がうちの学校のたくさん来る予定になっているとのことでした。それで、そのための設営をみんなでやったんです。それで午後になったときに、勤務中ですからテレビは見れなかったんですけど、職員のあいだで原発が爆発したらしいということが話題になって、同僚のメールに「放射線が降ってくるよと、だから逃げたほうがいいよ」というようなメールが来てることを聞いたんですね。放射線が降ってくるってどういうことなんだろう、私は一体どうしたらいいんだろうと思いながら、とりあえず外の空気にできるだけ触れないように家に帰ったのを覚えています。そのときに、放射線についての知識は全くなかったので、どういった対応をしたらいいのかがわからない。その後帰ってからテレビで情報が流れるようになってから、家の換気扇を塞いでみたりとか、家の隙間をちょっとやったほうがいいかなとか、色々対策はしました。大体そんなところですね。
 周りの人も放射線についてはわからない状況で、ちょうど食料がなくなっていったので、金曜日に地震が起きて土日ご飯を食べたので月曜日あたりちょっと食料がないということで、実家から母が来ていたので子どもたちが母と一緒に近くのスーパーに歩いて買い物に行ってくれていたというような状況もありました。

橋本
 ありがとうございます。
 では、胆振東部地震のときのことを松原さんに伺います。
 この時は、私も初めて聞いた地震直後のブラックアウトということもありましたが、それについても松原さんからお話伺いたいと思います。

松原
 ブラックアウトですね。9月6日朝でしたよね、地震。
 私は自分の家の中ではものが飛んできて大変だ、ガラスも割れて大変だ、くらいだったんですけれども、暗いのでそのとき停電ですからなにもできない、明るくなってからでないとできないねっていうことで日が出てから動き出しました。
 農協職員だったんで平成15年のときに十勝沖地震で、お手元にパンフレットあるかと思いますけれども、たんとうまいステーション(穀物用の大型貯蔵施設)というカントリーエレベーターが相当破壊されたときがあったんですよね。それでまたそうなってるんじゃないかなと思って朝に見に行きました。そのときに道路の状況とか橋がずれているとか、あれ、あのときより全然違うなっていうのが第一印象でした。
 それと、地元の自治会長をやっていたということもありまして、自治会内がどうなっているかも気になっていたんですが、山腹崩壊っていうことを後で知りましたが、なんか山が崩れてヘリコプターとか自衛隊の人とかすごい来てる、なんか変だなとは感じましたが、ラジオで聴いてる範疇でしかわからなかったです。この会場に厚真町の三上さんがいらっしゃいますが、三上さんのご実家は高丘という所なんですけれど、そこはヘリコプターで夜中に救助されているとか、非常になんか地元の人間が地元がわからないという。そして道外の方から電話が来て「お前のところ大丈夫か」と親戚の方に言われて、町内も違うところはそんなことになっているんだな、ということが分かるような状況だでした。
 農協の関連施設ではガソリンスタンドやAコープとかあります。当然ぐちゃぐちゃになってますよね。スタンドは電気が通じていないということで営業できませんでした。夜になんとか自家発電できるように処置できましたが。先ほど福島の方もおっしゃっていましたけど、夜になるとスタンドには燃料を入れるために車が大渋滞のように並びましたま。農協ではレジも動かないので一人2千円分までということで対応するという状況でした。
 他の点では、今は震災があると北海道東北連携協定というものがあるらしくて、当時苫小牧のフェリーターミナルに秋田のフェリーターミナルから乗った車両が、9月6日の夕方には着いていました。すごいシステムになってるんだなということなんですけども、緊急自動車がどんどん来ていただくんですけど燃料なくて動けなくなるんですよ。そういうような状況だったときに農協の方でできるだけ入れましたが、次の日には燃料が全部枯渇しまた。そこで、苫小牧港の施設から持ってこようと思ったのですが、そこは電気通じてないのでが動かない。そのため、JAのホクレンネットワークで留萌の方でローカルな、動かすのに電気を使わない古いシステムのタンクがあったんですよね。そっから出してもらって持ってきてなんとかなったなということもありました。ちょっと若干の自慢話になりますけども、農協ネットワークで色んな意味で連携プレーで助かったこともあったなと、こんなことをブラックアウトの一つの例でご紹介させていただきます。

橋本
 ありがとうございます。今のお話を聞くと震災の時って意外と当事者が一番わかってないんだっていうような気がしました。情報っていうのがすごく大切だなっていうふうに思ったんですが、長尾さんは今お二人のお話を聞いて、それぞれの震災時のご自身の状況と、周囲の様子をお話しいただければと思います。

長尾
 私は3.11の時は大学1年生の時で春休みでした。
 2月中にテストが終わって3月から少し休みに入り、3月の14日か15日からは、アイスホッケー部の春合宿という1年間で一番辛い合宿が始まる予定でした。その合宿は苫小牧で行われる予定だったんで、私は苫小牧の実家に来ていました。地震があった時には、それこそ他人事というか、これもしかして合宿中止になるかな?みたいな感じでいたんですよね。今思うと申し訳ないという気持ちでいるんですけど。
 そして春合宿が始まって、これやるの?って思ったんですけど、1日だけやって解散になりました。本当は4月の頭くらいまでやる予定だったんですけど、すぐ中止になってみんな家に帰されて、僕は実家に帰ってすぐまた東京の寮に戻ったんですけど、その時にこの地震のすごさに気づいきました。スーパーに行ったときに食べ物、食料が品薄で、水も全然なくて。
 僕東京の水道水はあんまり好きじゃないんでスーパーでいつも水を買ってたんですけど、全然まずい水しかなくて。それがちょっとこの地震の凄さ、大変さに気がついたなというふうに思いました。
 一方で胆振東部地震の時は、白老町役場の総務課に配属になっていて、それこそ災害対策本部が作られる部署だったんですけど、夜中揺れてすぐ、これはまずいぞと思って仕事行く準備して、職場まで国道36号線を15分くらい走らなければいけないんですけど、ちょっと待てよ、と思って、こんなに大きい揺れだったら津波くるかも?と思ったんですよね。でもテレビも停電でつかないし、ネットでスマホで調べたら震源地が内陸だったので大丈夫かなと思って職場まで走りました。

橋本
 ありがとうございます。いま、災害発生時、食料や燃料が非常に枯渇したというようなお話を聞きましたけれども、高野さんには特に暮らしの中で不足していたことが他に何かあったのか、それから被ばくということに関して心配や悩み事がなかったのかについてちょっとお聞きしたいなと思います。
 高野さんの話にもありましたが、保養に来た他のお母さんからも、物資不足で屋外に並んでいるときに原発の爆発が起きたと。せめて屋外に出ないように言っていてくれれば子どもと一緒に並んでいたので被ばくさせるということがなかったのに、というお話を聞きました。とても悔やんでおられました。そういったところ、高野さんもう一度ちょっとお伺いしたいと思います。

高野
 家に避難してくださいとかってテレビでは言っていましたけれども、その情報を得る前は家を出て買い物に行って普通に外を歩いていました。
 情報を得てからは、放射線は目に見えないので、実際に被ばくしたのか、爆発してからこっちまで飛んでくるのに何時間かかるんだろう、何分かかるんだろうとか、素人の計算で自分でそれを考えるしかない状況だったので、そういう被ばくに対する恐怖っていうのはものすごくありました。
 私は、震災の3日後くらいに妊娠していることがわかりまして、それで怖かったが放射線の影響ですね。子どもがお腹の中で成長していく過程で放射線の影響を受けてなんらかの発達異常みたいなことが起こったりするんだろうかという、そういう情報も全然なくて、なのでとりあえずものすごく不安な中、生活していました。
 あとは自分が教員であることから、なかなか避難を進んでできないっていうところがやっぱりあったり。ちょっと話逸れちゃうかもしれませんが、夫婦間での意見が違うっていうのもありました。放射線に対する考え方とか。うちその当時の夫は公務員で、やっぱり仕事に行かなきゃいけない。けど私子どもと家にいるけど、このまま家にいていいの?福島にいていいのかな?とか、お腹の赤ちゃんになんかあったらどうすんの?とかってすごく言ったんですけど、じゃあ避難しなよとか、そういう声もなかった。なので自分で動くしかないなっていうところで、私はもうそのときに避難を決意しまして、避難したという経緯はありました。こういう夫婦間での意見の違いは結構どの家庭もあったのかなというふうに思います。

橋本
 保養に来た方にも放射線に関する考え方が家族間で違って結構色々揉めたっていうような話はいくつも聞いております。
 ところで、松原さんは、仕事としては東日本大震災のときは恐らく各県のJAさんと連携して支援する側だったというふうに思います。ふくトマには1回目からお米など厚真の安全安心な食材を提供してくださいました。ふくトマの食事は、今日小野寺さんも来ていますがB1トンちゃんのお肉なども利用させていただいたりとかして、JAとまこまい広域をはじめ様々な方に支援していただいたわけですが。
 さて、松原さんは東日本大震災のときは支援する側だったわけですけれども、胆振東部地震ではご自身が被災者というだけではなくて、JAの理事参事として地域の農業の復興であるとか、また自治会の立場として色々な地域の復興にも関られたのだと思います。
 ご自身でどういうようなことをなさってきたのかというのをお聞きしたいなと思います。

松原
 そういう方面では立派なこと全く言えることがなくて本当に申し訳ありません。本当に全国の皆様方からご支援いただきましてありがとうございました。農協系でも特に同業者ということもありまして、色んな多大なるご支援いただきました。個人の積み上げの寄付金というものもありますし、また例えば全農と言いますか、全国農業連合会ですとか、共済連ですとか、そういう組織的な多大なご支援をいただきました。
 農協としての立場でいうと倉庫系ですとか、生産施設なんかが何億円という規模でダメになります。一般的な国の補助金って半分いただけることにはなっておりまして、半分は半分なんですけど、そっからが大変ということもありまして、そういうことが全国の系統組織内のご支援で非常に金銭的には助かったな、というのがあります。
 一つ個人的な方ではご紹介というかコマーシャルになりますけれども、お手元の農協のパンフレットの中に半分くらいの数が農協の建物共済というパンフレットが入っているものがあるかと思います。農家の方々は非常にこの建物共済に入っている方が多かったんですけども、非常に早く迅速でスピーディーで多大なる支援、保険金の出方が多くて、町に対する支援をいただきました。
 町からは、例えば被災された方に建物建てる際の支援があるんですけれど、それ以外にも共済金という形で非常に厚真の方は建て直す意思のある方については非常に助かったかな、というのはあるかと思います。
 あとちょっと蛇足になりますけども、建物・ハード面は結構迅速にうまくやっていただいたな、というところがありますけども、例えば土砂が入りました、それを除去したときの田んぼの成分といいいますか、肥料の効きかただとか、そういうことがまだまだということ、山林の復興というのがまだまだこれから相当な時間かかるな、ということがあります。これらがほんとに進んでいかないとっていうのがこれからの話で大変なことになっていると思います。

paneto-3.JPG

橋本
 ありがとうございます。色々な制度によって復興というものも早くなったり遅くなったりということなんですが、先ほどの高野さんの話だと、もし原発事故がなければそういった制度でもっと早く福島自体が復興できたのかなというふうに思いますし、高野さんのように、悩みというものもなかったのかなというふうに思います。色んな行政であるとか、民間企業、団体、個人ボランティアなどの支援が入ったと思いますけれども、高野さん、松原さんそれぞれお聞きしますが、どういった支援があったのかお聞きしたいと思います。

高野
 私の学校に避難者の方がどんどん来たのでそこにたくさんの物資が届きました。色んな食材が送られてきたり、オムツとか、飲み物とか、色々きたんですけど、私たちがその材料を使って食事作りを手伝ったりしましたけれども、パンとか、すぐ食べられるようなもの、そういうものはものすごくたくさん送られてきました。それは民間から来たのか、どこから送られてきたのかはちょっとわからないんですけれども、たくさんの支援がすぐ届くっていうのはすごいなと感じたところでした。
 個人的なボランティアの方には私は接してはいないんですけれども、郡山にあるビッグパレットっていうものすごく大きな施設にはたくさんの人が避難していました。避難生活が長期化になりましたが、ボランティアをしたいと集まってきてくれた人は大体そこに行って、色んな支援をしていたということをテレビで見ました。

橋本
 ありがとうございます。では、松原さんからもどのような支援があったのかっていうことをお聞きします。

松原
 支援の中身っていうのはあまりよくわかんなくて、すみません。

会場から挙手〜三上
 ちょっとお話ししたいです。
 厚真町の三上といいます。
 その当時、私は再任用で教育委員会で働いていたために、避難してきた人のお世話、避難所にいたもんですから、そういう物資が色んな企業からどんどんどんどん入ってきたんですよ。トイレットペーパーや食べ物が各町に、避難所にたくさんたくさん。
 だから本当にありがたいなって思いました。
 電気が復旧して最初に感じたのは「え、これが厚真町なの?」ということでした。
 テレビに映ったのが、茶色い山肌を見て、え?って疑いました。
 私は厚真町の幌里っていうところに住んでいたんですが、道路が寸断されて真っ直ぐ普通の通りに街まで出れず、息子が中心部でお店をやっていることもあり避難することにしました。避難所に行くには、安平に出て、安平から遠浅に出て、遠浅から美里に出て、ちょっと地名言ってわかんないと思いますけど、やっとたどり着いて避難していました。
 避難所は街の真ん中なんで、自衛隊の車、警察の車、消防車、次から次へと何台も連なって色んな県とか道外の車が来ていることにびっくりしました。これってなんだろう。厚真町で起きていることなんだろうかっていうくらいびっくりしました。地震で亡くなった方々が救急車で運ばれていく。通るんですよね。夜中でも朝でも。そのたび、また見つかったのかな。それがすごく辛かったです。だから、自分の中では厚真で起きていることなのかって信じたくないと思いました。でも事実でした。たくさんの方が亡くなり、土砂の下になったり、数日もかかって。私の知っている友達もたくさん亡くなりました。地震の後も二次災害で、自衛隊のお風呂の中で亡くなった人もいます。だから地震はすごい恐ろしい。まして福島はそれプラス原発ですよね。
 夫婦間での違いは私も思いました。主人は職場に行っちゃうんですよ。明るくなったらすぐ職場行っちゃうんですよ。職場の大変さ。だからうちに帰ってくるの本当に夜だけ。日中は誰もいないから、私たちがしっかりしなきゃいけないんだなって思う。色んなことで向こうも疲れているから夫婦間でぶつかり合うんですよ。電気もまだ来ていない。まる2日でしたかね松原さん、来なかったの。電気もない。だからろうそくと懐中電灯の灯り、だから電池のありがたさとか、ろうそくのありがたさ、火を灯して。孫もいたので、家族、おばあちゃんもいて、ただ、むかわに私の三男坊、次男が札幌にいて、すぐ次男夫婦は駆けつけてくれて、たまたまお店やっていたので、お店の冷凍室に入っているものを、ブラックアウトですから溶けちゃいますから、すぐ炊き出しに使って店の前で。だからなぜわからないかっていうのはそこなんですよ。主人は職場を守らなきゃいけないんですよ、主人のいるところは豚を飼っていたので、豚さんが全部穴に落っこちて死ぬ状態で、すごいことになっていたんですよ。だから、そういうことで、それぞれの職場の方に、自分は家族も守らなきゃいけないし、そうかといって並行で働いているので、避難所の世話も朝早く出て、与えられたローテーションでしなきゃいけないし、帰ったら家のこと。そういう中で並行して動かなきゃいけなかったから、避難所の人たちの病んでる心を少しでも笑顔でカバーしなきゃいけないという。

paneto-2.JPG

橋本
 はい、ありがとうございます。ついこの間のことですので、私も三上さんの息子さんのやっているお店行ったことあるんですけれども、本当に街の真ん中にあって、そういう状況をご覧になったというふうに思います。今、そうやって支援がいっぱいあったということで、先ほど松原さんからAコープがあって、というようなお話があったんですけれども、残念ながらこの間穂別のお店が無くなってしまったんですけれども、そういうお店が地域にあるということで震災の時にこういうような支援ができたということがありましたらちょっとお聞きしたいと思います。

松原
 避難所のお話は今三上さんがしてくれました。それで、9月6日の朝一に厚真町役場の副町長の方から、例えば農協の私だったり商工会の事務局長なんかもすぐ招集ありました。各地から続々、ちょっとタイムラグあって来てたと思うんですよね。その日にすぐ行ったことは、まずは避難所を開設。スポーツセンターだったり福祉センターになりました。その日の夜から商工会女性部の方が中心となって炊き出しをやってくれた、三上さんもやってくれました。その時に、食材だったりなんだったりもう全部農協の方からどんどん持ってきて、それから老人の例えば紙おむつだったりなんだったりと、ちょっとわけわかんないのも掻き出しておいて全部調達してねっていうことが2、3日がすごくありましたね。
 そのあとはだんだん落ち着いてきて色んな支援物資も調達できるようになってきたと思うんですけれども、そのような災害の時のマニュアルってそのときはなかったのですが、私たちみたいに5千人以下の町だと、知っている人間で、エリアでリーダーシップとってやれました。そのことが一番良かったのかなっていうことも感じますし、コーディネーターの方からも言われましたけども、厚真ではAコープからの即座に出せる物資がありましたが、災害には地域インフラとしてそういう施設が大きな存在だなと思います。一方で、今話のあった穂別のAコープはもう建物が壊れて、臨時店舗でやってたんですけど、ちょっと経済的な面で止むを得ず今年の1月に店閉めることになりました。
 このような災害の中で、例えば公助とか共助とか自助って言葉ありますよね。自助と共助と言いますか、農協なんかでも全部がお金でできない、でも全部税金でやるっていうのはまたこれも無理な話だと思うので、その中間くらいな動きが世の中でうまくやれれば本当にいいなと思います。岸田総理の新たな資本主義ってどうなのかなって思いますけど、なんか本当はそんなことなんじゃないかと思って期待も込めながらお伝えさせていただきました。ありがとうございます。

橋本
 ありがとうございます。今までお2人のお話、それから三上さんのお話聞いて、長尾さんなにか感じたことありましたかね。

長尾
 私は実際に本当に震災にあったっていう場所に住んでいなかったので、近くてすごく揺れたんですけど本当に被害っていうのはほとんどなくて、支援する立場だったんですよね。ただ、今本当に被災されたお二方のお話を聞いて、もっと支援する立場としてこういうふうな配慮があったら、とか、こういう気持ちで臨んだらっていうようなことが、今になってちょっと思ったかなっていうのが正直な気持ちです。もっと寄り添ってあげていれば良かったなっていうのが感想です。

橋本
 高野さんは先ほどの説明にもありましたように、最初は一参加者として参加していただいて、そのあと「ふくトマ福島出張所スタッフ」という立場で逆にボランティアとして福島の参加者の人たちを苫小牧に連れて来ていただいたり、苫小牧において色々と参加者の方のボランティアという立場で接していただいたんですけれども、そうしたご自身の変化についてちょっとお聞きしたいと思います。

高野
 はい、私がこの保養に参加したのは、その当時は外で遊べないとか、食べ物の放射線量が気になって、買い物も一つ一つ産地を確認しながら買い物をするとか、水道の水も飲めるだろうかとか、そういう放射線を常に考えなきゃいけないというところからちょっと解放されたいという気持ちで最初参加していたんです。
 自分の子どもがのびのびと自然の中で遊べることの幸せ、葉っぱを素手で触ったりとか、その辺に寝転んだりとか、自由に遊べるっていうのを経験して、ものすごく普通の生活を普通にできるっていうことがすごく良かったなと思って、その後もずっとふくトマに来ていました。そのときに、子どもたちはそうやって遊んでいて、私自身はどうだったかというと、スタッフさんがいっぱい話を聞いてくれる。大変だったでしょう?どうだった?ああそれは大変だったね。みたいな感じですごく聞いてくれて、聞いてもらえるっていうのはやっぱり安心するというか、自分がいつも不安だったことを話すことで、少し心の重荷が軽くなるというか、っていう効果があるんですけれども、そういう感じでそれで私もだいぶ救われたなと思います。ボランティア側、スタッフ側になって、やっぱりそのお母さんたちの話を聞くとか、そういうのは大切にしたいなと思って、お母さんたちにできるだけ寄り添って、自分が苫小牧のスタッフたちにしてもらったことを自分も参加者さんにやってあげたい。で、その参加者さんに「ああふくトマよかった。楽しかった。」って言ってもらえるように、それだけを考えてスタッフとしてやってきました。

橋本
 とっても楽しかったですよ。夜の飲み会も含めて。そうしたパネラーの皆さんのお話を聞いているんですけれども、今日の題である「多様なボランティア」ということで、ボランティアには様々な形があります。災害に関するボランティア、例えば直後に入る救援的なボランティア、そして、今高野さんからお話があった落ち着いてから入るケア的なボランティアというものもあります。そしてふくトマのように被災地ではなく被災地以外のところで行うボランティアなど、様々なボランティアの形態というものがあると思います。これからどこか大きな災害が起きたとき、どのような支援が必要なのか、また、その支援を支える仕組みは、どういったものが必要なのか、もしお考えがあれば高野さんからお聞きしたいと思います。

高野
 災害直後はやはり生活に困ることが多いですから、できるだけ迅速に、まあ、先ほどでもすぐに食料が届いてきたっていうところで、その辺は日本全体としてそういう面はすぐに機能できるような状態になっているのかなっていうふうに思います。落ち着いてから入るケア的なボランティアですけれども、それはやはり震災で傷ついたお母さん、子どもたち、もちろん男性でも親を亡くしたとか子どもを亡くしたとか、色んな方がいますけれども、そういったメンタル的なケアとか、そういうのをケアしていくようなサポート体制も今はだいぶ確立されてきているのかな、と思います。
 本宮市は埼玉県の上尾市というところと災害時相互応援に関する協定を結びまして、本宮で何かあったら埼玉の上尾市で助けてくれるみたいな、そういうのもあちこちで協定もできているということで、あとはその実際に起こったときにボランティアとしてちゃんと人が集まって来てくれること、っていうのが一番今度大切になってくるのかなと思います。

橋本
 では松原さんからお願いします。

松原
 こっちの方はわかんないんでちょっとすいません。でも後々聞きますと、厚真くらいの町ですと社会福祉協議会の方々の活躍っていうのがすごく大きかったと思うんですよね。なってみないとわからないというところも実際にあった中で、もし次の災害があったときに、経験のある方が迅速に派遣してあげれるような仕掛けっていうのがすごく本当は現地ではすごく役に立つんではないかなってなんとなく感じるところです。

橋本
 ありがとうございます。そのボランティアセンターを通じて厚真町にもボランティアに行った長尾さんからなにか。

長尾
 私は行政っていう立場からお話しすると、こういった大きな災害があったときはやはり行政が迅速に主体的に動いて隅々までケアできれば一番いいんですけれども、それにはやっぱり限界があって、これだけ日本も人口減少・高齢化っていう中でいうと、やっぱり震災以前のところに注目して、日々の日常のコミュニティとかつながりとか、そういったのが、福島のコミュニティについてはよくわかってはいないんですけど、厚真町に実際に行ったときにそれを目の当たりにして、普段からやっぱり人付き合いがあったりとか、そういったつながりがあるところっていう、その強さがすごく感じられたんですよね。なので、そういったところがやっぱりこれから必要になってくるのかなというふうに思っております。

橋本
 普段からのお付き合いっていうのが、災害に当たっても非常に大きな役割を果たす。ちょうど、先ほど松原さんが言った、自助と公的な役割の真ん中にある共助といったらいいんでしょうか、そういったところが実際の災害にも役に立つというようなお話を伺いました。
 さて、私はボランティアとしてふくトマに参加させていただきましたが、ネット上などで見ますとボランティアのマナーについて被災者の方が非常に戸惑っているとか、困ったというようなことが書かれてあります。例えば被災地での撮影など、本人はもしかしたらこんなにひどい状態だから皆さんもぜひ応援してくださいねといった意味で出している良心的なものもあるんですが、ただ写されたご本人、自分のうちの壊れた様子を写されてとても悲しい思いをしたということもございます。そうしたボランティアの方のマナーについて、これだけはやっぱりやめてほしいなとか、ちょっと悲しい思いをしてしまうからというようななことがありましたら、高野さんからお願いします。

高野
 私は実際にはそんなに困らなかったですけど、新聞に載りますけど名前書いていいですか?みたいなこと言われて、ちゃんと了承を得て載せてもらっていたので特に問題なかったですけれども。
 私、本宮で水害が2、3年前にあったときに、実際にボランティアに行って、ボランティアした家がたまたま近所の人の実家だったっていうことがあって、その人の実家の中を見てしまったんですけど、ちょっとびっくりした面がありまして、色んなことで。それがやっぱりそこで知った個人情報といいますか、これは絶対誰にも言っちゃいけないと私は思って、誰にも言ってないですけれども、やっぱりそういうのを喋っちゃう、色んな人に喋ったりとか、そういうことをやっぱしてはいけないなと思うので、そういうマナー面ですかね、ボランティアをする側のマナーっていうのがやっぱり大切だなと思います。

橋本
 松原さんからはなにかございますか。

松原
 ボランティアの方のマナーっていうことでの、僕もちょっと情報機能って得意な方じゃないのでリアル感がないんですけど、一方で今回の震災のときに農協の方のマスコミ対応の仕事もさせてもらったんですよね。そうするといい意味で伝えてもらうのと、これって視聴率なのか、やっぱりそこなのかなっていう微妙なところありますよね。なんかそこだけはなんとなく心にちょっと嫌だなと思うところもありますし、これも仕方ないのかなとも、なんかそういう気持ちの半ばでいました。

橋本
 はい、伝えたいという気持ちとはちょっとラグが生じてしまうというようなこともあると思うんですけど、長尾さんはボランティアとして関わって、これだけはしてはいけないよなって思うような事例がありましたらお願いします。

長尾
 先ほど冒頭で30分くらい拙いスライドで説明させていただいた中にも、色んな写真を使わせていただいていて、実は自分もですね、先日福島行ったときに車の中から降りたりして色んな写真を撮ってたところ、石田代表にちょっと怒られてしまって、あんまり大々的に撮るとプライバシーというか、そういった部分があるから控えめに撮ってねっていうふうに言われて、今回こういうような場面なのでスライドで使わせていただいたんですけれども、やっぱりそういう高野さんもおっしゃっていた個人情報というのは本当に今の時代では大事な部分になってくるので、そういうSNSとかに使うのはもちろんダメなのかなって思うのと、一方でしっかりとそういう震災の現場の記録とか、そういうのにはきっと必要なことだとは思うので、そういうことをわきまえた上でボランティアに携わって行ければいいかなと思います。

橋本
 ありがとうございます。もっともっとお話し聞きたいし、会場からもご意見いただきたいところですが、時間が迫って参りましたので、最後に3人から一言ずつ災害を体験して感じるボランティアの社会的役割や可能性について、極々短くお願いいたします。

高野
 私教員やっていまして、中学生、今道徳の授業週一で必ず教科書やりなさいっていうふうになっていて、先ほどご近所の関わりが大切、あとは道徳心を育てるという意味で道徳なんですけど、やっぱりそういう気持ちを育てる。でもそういう気持ちを教科書でやっても、読んで納得はすると思うんですけど、やっぱりそれを見る、目の当たりにする、大人がそれを子どもたちに見せてあげるとか、そういう面がすごく大切なのかなと思います。なので、私はちょっと今後ボランティア参加して、自分たちの子どもたちに、それから周りの子どもたちに、色んなことは教えていけたらいいかなと思います。

橋本
 ありがとうございます。では松原さんお願いします。

松原
 僕もちょっとそこはわからないですけど、色んな意味で実践してくことが次の世代次の世代につながっていくるのかなって、そんな感じはしています。拙い話ですいません、申し訳ないです。

長尾
 はい、これも石田代表の言葉だったんですけど、なんでこういう活動を俺がやっているのかって、一番大きなところは、自分の子どもにその姿を見せたいって言っていたのがすごく印象に残っていて。
 (会場の石田「そんなこと言ったっけ? 苦笑」)
 言っていました。本当にそういう姿を色んな人に見せていくっていうのが大事なのかなっていうふうに思います。

橋本 
 はい、ありがとうございます。
 本当に短い時間の中でちょっと凝縮されすぎて舌足らずの司会になってしまいました。
 災害を体験されたパネラーさんから、そのときの災害の対処の仕方、そしてその後の色々な流れをお聞きしましたが、自分自身がボランティアとして関わると自分が災害に遭った時にまた自分に戻ってくるんじゃないかなと、ボランティアは自分だけのためのものではなく、私や、そして子どもの、もしかしたら孫、そういった世代に返って来るものかもしれないというような思いがいたしました。
 本日は高野さん、そして松原さん、長尾さん、どうもご苦労様でした。
 これで私の司会は終わらせていただきます。総合司会の方にバトンをお渡しします。

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