胆振東部地震に関連して〜5[2018年10月28日(Sun)]
胆振東部地震に関連した記事を書いていますが、これまで写真が一切出ていません。
地震の影響が分かるところを撮影すると、どうしても住宅が入ります。
壊れた自分の家が、ネット上に掲載されるのは、誰だっていい感じはしませんよね。
それに、東日本大震災の時も、記念撮影をするボランティアが居て、本当に記録として残したくて撮影をしていたボランティアも批判され、結局、撮影は基本的に禁止となっていったということもあります。
なので、今回はカメラは持って行きませんでした。
よって、最後まで写真は出て来ないので、ご了承ください。
さて、一戸建ての家が並ぶ地区に移りましたが、最初に、昔の町営住宅?というような4階建ての建物があります。
近寄って見ると、建物の基礎部分土砂が崩れて埋まっていたコンクリート部分が見えます。
2つある玄関も、上がり口のコンクリートが大きく沈んでいます。
建物の壁にひびが入っています。
各戸を訪問しましたが、どの部屋も不在でした。
「検針不要」とシールが貼ってある水道メーターが幾つもあり電気メーターが取り外されている部屋も幾つもありました。
もしかしたら、そもそも誰も住んでいなかったのかもしれません。
私たちは、そういう情報も調査票に記載しましたが、一回目の訪問の際にそういう情報が記録されていれば、あらかじめ訪問対象から外せたかもしれませんね。
担当した地域は、昭和40〜50年代前半に建てられた家が多いよう。
ブロック塀をまわしている家が多く、そのブロック塀は、鉄筋が入っていても軒並み崩れています。中には、ブロック作りの煙突が倒れている家も。
今は、壁から排気口が出ているだけという家が殆どですから、煙突がある家ということ自体、時代を感じさせます。
訪問した中で、崩れたブロック塀を出すのだけが、ゴミ回収に間に合わなかったという家が一軒有り、ブロック塀のガレキを玄関前に集めましたが、それ以外のお宅では片付けやゴミ出しを手伝うことはありませんでした。
壊れた家具等の室内からの運び出しは終わって玄関前に出ており、ちょうど、ゴミ回収班が回って来ていて、それをどんどん回収していってました。
この日は、町外の高校の野球部とサッカー部が合同でボランティアに来ていて、彼らに、どんな状況?って聞いたら「いつ終わるのか分かんないっす」と答えが。
追分地区は、ブロック塀等のガレキが多く、大変な様です。
高校生、大活躍でした。
また、ちょうど、罹災証明の関係で家屋の被害調査も行われていました。
調査が済んだ家には、調査終了を示す紙が貼られていました。
被害調査は、苫小牧など町外から応援が来て行われているとのこと。
いろいろな人が、いろいろな形で被災地に応援に来ています。
訪問していると地震発生時のことを聞くこともありました。
1人暮らしのおじいさんは、こんな話をしてくれました。
いつもなら夜中に目を覚ますことなんか無いのに、あの日は、地震の数分前に目が覚めてトイレに行った。
寝室に戻ったら、ずいぶん前に亡くなった妻の服が入ったままのタンスはそのままだったが、その脇に立てかけていた家具が、ちょうど枕と足の部分に倒れていた。もし、起きていなかったら...と笑いながらも目に涙をためて話していました。
ありがちな表現でしかないですが、私もコンビを組んだ彼女も「それは奥さんが守ってくれた...」と励ますしかありませんでした。
町内の将来に対する不安を感じている方も居ました。
道端で話をした男性は、地震の前に、立て続けに近所の男性が亡くなった。そこで地震でこんなに被害が出ては...この古いまち...誰もいなくなっちゃうんじゃないのかなと話していました。
外見では、被害がよくわからないですが、風除室や玄関がいびつになって戸やドアがきちんとしまらなくなっている家は沢山あります。また、室内のペチカが崩れて冬の暖房をどうしようと困っている方も居ました。
家の建てられた時代による被害の差は明らかで、新しい家ほど被害は小さく、またブロック塀をまわしていないので、片付けにかかる労力も少なくて済んでいるようでした。
ほっとしたのは、訪問したお宅のみなさんが、体調面は問題はないよと言っていたことです。
もちろん、初対面の、しかも看護婦でも医者でもない者に、自分の体調を詳しく伝える人はなかなかいないと思いますし、相手がボランティアなら余計な心配はかけたくないと思うのは人情でしょう。
でも、みなさん基本的に「子どもも含めて、みんな落ち着いたし、そんなに心配ないよ」と言っていたのは、ボランティアとしてはとても嬉しかったですね。
訪問に夢中になり、昼食をとるのが遅くなって13時を過ぎてしまいました。
コンビを組んでくれた方に悪いことをしてしまいました。
休憩も取っていなかったし。
そんなこんなで、15時迄に割当の地域の訪問は済ませ、ボラセンに戻ったのでした。
地震の影響が分かるところを撮影すると、どうしても住宅が入ります。
壊れた自分の家が、ネット上に掲載されるのは、誰だっていい感じはしませんよね。
それに、東日本大震災の時も、記念撮影をするボランティアが居て、本当に記録として残したくて撮影をしていたボランティアも批判され、結局、撮影は基本的に禁止となっていったということもあります。
なので、今回はカメラは持って行きませんでした。
よって、最後まで写真は出て来ないので、ご了承ください。
さて、一戸建ての家が並ぶ地区に移りましたが、最初に、昔の町営住宅?というような4階建ての建物があります。
近寄って見ると、建物の基礎部分土砂が崩れて埋まっていたコンクリート部分が見えます。
2つある玄関も、上がり口のコンクリートが大きく沈んでいます。
建物の壁にひびが入っています。
各戸を訪問しましたが、どの部屋も不在でした。
「検針不要」とシールが貼ってある水道メーターが幾つもあり電気メーターが取り外されている部屋も幾つもありました。
もしかしたら、そもそも誰も住んでいなかったのかもしれません。
私たちは、そういう情報も調査票に記載しましたが、一回目の訪問の際にそういう情報が記録されていれば、あらかじめ訪問対象から外せたかもしれませんね。
担当した地域は、昭和40〜50年代前半に建てられた家が多いよう。
ブロック塀をまわしている家が多く、そのブロック塀は、鉄筋が入っていても軒並み崩れています。中には、ブロック作りの煙突が倒れている家も。
今は、壁から排気口が出ているだけという家が殆どですから、煙突がある家ということ自体、時代を感じさせます。
訪問した中で、崩れたブロック塀を出すのだけが、ゴミ回収に間に合わなかったという家が一軒有り、ブロック塀のガレキを玄関前に集めましたが、それ以外のお宅では片付けやゴミ出しを手伝うことはありませんでした。
壊れた家具等の室内からの運び出しは終わって玄関前に出ており、ちょうど、ゴミ回収班が回って来ていて、それをどんどん回収していってました。
この日は、町外の高校の野球部とサッカー部が合同でボランティアに来ていて、彼らに、どんな状況?って聞いたら「いつ終わるのか分かんないっす」と答えが。
追分地区は、ブロック塀等のガレキが多く、大変な様です。
高校生、大活躍でした。
また、ちょうど、罹災証明の関係で家屋の被害調査も行われていました。
調査が済んだ家には、調査終了を示す紙が貼られていました。
被害調査は、苫小牧など町外から応援が来て行われているとのこと。
いろいろな人が、いろいろな形で被災地に応援に来ています。
訪問していると地震発生時のことを聞くこともありました。
1人暮らしのおじいさんは、こんな話をしてくれました。
いつもなら夜中に目を覚ますことなんか無いのに、あの日は、地震の数分前に目が覚めてトイレに行った。
寝室に戻ったら、ずいぶん前に亡くなった妻の服が入ったままのタンスはそのままだったが、その脇に立てかけていた家具が、ちょうど枕と足の部分に倒れていた。もし、起きていなかったら...と笑いながらも目に涙をためて話していました。
ありがちな表現でしかないですが、私もコンビを組んだ彼女も「それは奥さんが守ってくれた...」と励ますしかありませんでした。
町内の将来に対する不安を感じている方も居ました。
道端で話をした男性は、地震の前に、立て続けに近所の男性が亡くなった。そこで地震でこんなに被害が出ては...この古いまち...誰もいなくなっちゃうんじゃないのかなと話していました。
外見では、被害がよくわからないですが、風除室や玄関がいびつになって戸やドアがきちんとしまらなくなっている家は沢山あります。また、室内のペチカが崩れて冬の暖房をどうしようと困っている方も居ました。
家の建てられた時代による被害の差は明らかで、新しい家ほど被害は小さく、またブロック塀をまわしていないので、片付けにかかる労力も少なくて済んでいるようでした。
ほっとしたのは、訪問したお宅のみなさんが、体調面は問題はないよと言っていたことです。
もちろん、初対面の、しかも看護婦でも医者でもない者に、自分の体調を詳しく伝える人はなかなかいないと思いますし、相手がボランティアなら余計な心配はかけたくないと思うのは人情でしょう。
でも、みなさん基本的に「子どもも含めて、みんな落ち着いたし、そんなに心配ないよ」と言っていたのは、ボランティアとしてはとても嬉しかったですね。
訪問に夢中になり、昼食をとるのが遅くなって13時を過ぎてしまいました。
コンビを組んでくれた方に悪いことをしてしまいました。
休憩も取っていなかったし。
そんなこんなで、15時迄に割当の地域の訪問は済ませ、ボラセンに戻ったのでした。