南三陸町と山元町〜その2[2018年12月24日(Mon)]
南三陸町の後は、山元町に。
山元町は、震災からそんなに時間が経っていない、5月24日から26日に行ったところ。
私が、初めて本格的なボランティアをしたところです。
このボランティアで、知らない土地の人のために自分の時間を使い、知らない土地の人たちと一緒の目的を持って活動するということを学びました。
これまで、人生の転機って2回ありましたが、これは3回目のできごとでした。
私は「パラレルワールド」という概念が好きなのですが、自分については、人生の転機(選択の機会)ごとに、まあ大きな間違いはしていないだろうなと、数えきれなく分岐した私の世界の中で、まあ、いい方の世界に居るんだろうなと思っています。
比較のしようがないんですけどね。
さて、このボランティアの経験が、フクとまに繋がって行くのです。
あの時訪れた山元町は、ガレキと壊れた家と車、海水が混じった池、泥だらけの荒野でした。
初日に行ったのは石巻だったんだけど、行った所は住宅地が集まっているところで、そこに車や船がひっくり返ていて、その時は戦争があったのか、爆弾が落ちたのか、と思うような状態だった。
しかし山元町は、平坦なまちなので、ああみんな波に持って行かれたんだなって、確かに「津波」が来たんだなって思った。
休憩時間に、辺りを歩いて、落ちている車のおもちゃとかを見つけると、一人一人の生活を感じて、そしてそれが一瞬で流されて行ったんだなって、悲しくて。
今回訪れたのは、現在「大地の塔」という慰霊碑の立っている、旧山下駅跡。
現在の山下駅は1kmくらい山側に移っています。
震災の年の5月25日に私が活動した場所は、おそらく旧山下駅から東か西(全く反対方向だけど、全然分からない)へもう少し行ったところだと思うんだけど状態はそう変わらないでしょう。
7年ぶりに訪れた山元町のその場所は、あの時とほとんど変わっていなかった。
もちろん、ガレキや壊れた車もなく無くなっているんだけど、駅から海に向っ行くほど原野に家がぽつんぽつんと建っている風景は変わらない。
駅から山に向って、家の数は多くなるけど、津波の前から建っていた家ばかりで新しい家は見当たらなかった。
津波に襲われた時のままになっている家もあったし。
ボランティアでうかがった家はどうなっただろうと、多分場所は違うんだよなと思いながらも、付近に立っていた古い案内図(個々の家の姓が表示されている)を頼りにうろうろ歩いていたら、2回すれ違った女性に「どちらかお探しですか?」と尋ねられた。
この付近でボランティアをしたこと、その時うかがった家はどのようになっているか、住んでいた老夫婦に会わなくていいから、遠くから確かめたいと思っていることを伝え、老夫婦とボランティアと一緒に撮った写真を見せて、その夫婦の名字を伝えたけど、「申し訳ないけど、このお二人は存じ上げないですね」とのことだった。
声をかけてくれた女性は、依頼を受けて他の地方で震災の様子を話す語り部のようなこともしていると言っていた。
また、この付近で活動したボランティアの中には、活動した家のおばあさん(だったかな?)とつながりができ、毎年必ず会いに来る人も居ると教えてくれた。
そんなふうに被災地の人とボランティアのつながりができるって、きっと他にもあるんだろうね。
何気ない一言がきっかけで関係が深まるってことがあるからね。
もちろん逆のパターンもあるんだけどさ。
もう一回来ることが合ったら、その時は、あのお宅の付近を訪問できればいいな。
最後に、大地の塔の写真。
山元町は、震災からそんなに時間が経っていない、5月24日から26日に行ったところ。
私が、初めて本格的なボランティアをしたところです。
このボランティアで、知らない土地の人のために自分の時間を使い、知らない土地の人たちと一緒の目的を持って活動するということを学びました。
これまで、人生の転機って2回ありましたが、これは3回目のできごとでした。
私は「パラレルワールド」という概念が好きなのですが、自分については、人生の転機(選択の機会)ごとに、まあ大きな間違いはしていないだろうなと、数えきれなく分岐した私の世界の中で、まあ、いい方の世界に居るんだろうなと思っています。
比較のしようがないんですけどね。
さて、このボランティアの経験が、フクとまに繋がって行くのです。
あの時訪れた山元町は、ガレキと壊れた家と車、海水が混じった池、泥だらけの荒野でした。
初日に行ったのは石巻だったんだけど、行った所は住宅地が集まっているところで、そこに車や船がひっくり返ていて、その時は戦争があったのか、爆弾が落ちたのか、と思うような状態だった。
しかし山元町は、平坦なまちなので、ああみんな波に持って行かれたんだなって、確かに「津波」が来たんだなって思った。
休憩時間に、辺りを歩いて、落ちている車のおもちゃとかを見つけると、一人一人の生活を感じて、そしてそれが一瞬で流されて行ったんだなって、悲しくて。
今回訪れたのは、現在「大地の塔」という慰霊碑の立っている、旧山下駅跡。
現在の山下駅は1kmくらい山側に移っています。
震災の年の5月25日に私が活動した場所は、おそらく旧山下駅から東か西(全く反対方向だけど、全然分からない)へもう少し行ったところだと思うんだけど状態はそう変わらないでしょう。
7年ぶりに訪れた山元町のその場所は、あの時とほとんど変わっていなかった。
もちろん、ガレキや壊れた車もなく無くなっているんだけど、駅から海に向っ行くほど原野に家がぽつんぽつんと建っている風景は変わらない。
駅から山に向って、家の数は多くなるけど、津波の前から建っていた家ばかりで新しい家は見当たらなかった。
津波に襲われた時のままになっている家もあったし。
ボランティアでうかがった家はどうなっただろうと、多分場所は違うんだよなと思いながらも、付近に立っていた古い案内図(個々の家の姓が表示されている)を頼りにうろうろ歩いていたら、2回すれ違った女性に「どちらかお探しですか?」と尋ねられた。
この付近でボランティアをしたこと、その時うかがった家はどのようになっているか、住んでいた老夫婦に会わなくていいから、遠くから確かめたいと思っていることを伝え、老夫婦とボランティアと一緒に撮った写真を見せて、その夫婦の名字を伝えたけど、「申し訳ないけど、このお二人は存じ上げないですね」とのことだった。
声をかけてくれた女性は、依頼を受けて他の地方で震災の様子を話す語り部のようなこともしていると言っていた。
また、この付近で活動したボランティアの中には、活動した家のおばあさん(だったかな?)とつながりができ、毎年必ず会いに来る人も居ると教えてくれた。
そんなふうに被災地の人とボランティアのつながりができるって、きっと他にもあるんだろうね。
何気ない一言がきっかけで関係が深まるってことがあるからね。
もちろん逆のパターンもあるんだけどさ。
もう一回来ることが合ったら、その時は、あのお宅の付近を訪問できればいいな。
最後に、大地の塔の写真。