
ふくトマの思い〜それぞれの思い[2022年07月20日(Wed)]
ふくトマとしての活動報告の最終回です。
最終回は10年間の活動をまとめた報告書に載せた、スタッフそれぞれの思いを紹介します。
活動から10年経っての振り返りなので、被ばくや原発に関する逼迫感は感じられません。
でも、それぞれの経験を元にした落ち着いたものになっています。
ふくトマの個性が出ています。
では最初に副代表、そしてスタッフを五十音順、最後に代表を掲載します。
報告書の表紙

長尾拓哉(ふくトマ副代表)

私がふくトマに参加することとなったのは、2015年の夏に行われた4回目の保養活動です。
ふくトマに加わるきっかけは、活動の中心メンバーからのスカウトです。そのメンバーはラーメン屋を営んでおり、私はその客でした。突然の誘いにはじめは戸惑いましたが、活動内容や目的を聞いているうちに興味が湧き、「これは運命だ」と感じました。
大学時代の友人の実家が津波で被災したこともあり、自分にとって3.11は非常に身近な出来事だったのです。「ぜひ関わらせてください」と頭を下げると、トントン拍子で話が進み、数日後にラーメン屋で店主を交えて代表と面談(採用面接のようなもの?)をすることになりました。
約束の日、緊張していた私は早めに店に到着しましたが、約束の時間になっても代表は現れません。心配した店主が電話すると「すぐに行く!」との返答があり、到着するやいなや深々と侘びられました。「初対面なのに晩酌して遅刻するような代表とは一緒に活動したくないのでは」と心配されましたが、私は全く逆の気持ちでした。緊張の糸が切れ、親近感が沸いたのです。
私は現在、白老町職員として働いており、ふくトマに参加した2015年に採用されました。
当初は総務課に配属されていましたが、ある時上司に、ふくトマでの活動が評価され「長尾は教育委員会の生涯学習課に異動したらどうだ?」と勧められました。当時はその意味があまり理解できなかったのですが、以前から生涯学習課には魅力を感じており、幸運にも異動希望が叶って2019年に生涯学習課へ異動する事となりました。
生涯学習課は「社会教育」を推進しています。異動してから気がついたことは、ふくトマの活動自体がまさに社会教育であるということです。私はふくトマで活動しているうちに、知らず知らずに市民活動に興味を持ち始めていたということです。
社会教育とはなにか?という問いに対してよく言われているのは、「人づくり、つながりづくり、地域づくり」の3つが挙げられます。地域の力が衰退傾向にある中、これらの考え方は教育分野だけではなく、福祉・経済・防災など、あらゆる分野からも注目されているようです。
例えば、3.11のような大規模な災害が起こったときに、日頃のつながりやコミュニティがしっかりしている地域の避難所は円滑に運営されるということがわかっています。住民同士が共通の課題意識を持ってつながり、目的に向かって自発的に活動することは、自分だけでなく、家族や地域にとってもすごく重要なことです。団体活動に参画する人々が増えることで、人々がつながり、地域が活性化され、市民の心が豊かになっていくのだと身をもって体験しました。私自身もふくトマの活動をとおして人脈が大幅に広がり、物事の考え方や生活が豊かになっているからです。
ふくトマとしての活動は、残念ながら2022年3月に終了してしまいます。しかし、このつながりが途切れることはありません。
ふくトマで培った経験やつながりを大切にするとともに、今後は新たな活動にも積極的に挑戦していきたいと感じています。これまで関わってくださったすべての方々に感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
石田智子

夫(ふくトマ代表)が、2012年、「夏に保養をやる!」と言った時、私は「夏は忙しいので手伝えないよ」と答えた。夫は「1人でもオレはやる!」
そう言った。
2011年3月の東日本大震災後、夫は5月にガレキ処理ボランティアに行った後も、ガレキ処理や除染等何度か東北に通っていた。一方、震災時、私は小学校2年生と幼稚園年小の2人の男の子の母。子育てをしながら、次々と出版される原発や放射線被曝に関する本を買いまくり読みまくっていた。「苫小牧の自然を守る会」「震災がれきを考える市民ネット」「肥田舜太郎医師を呼ぶ会」「苫小牧の子どもの未来を守る会(学校給食で使う食材の放射能検査を市に提案する会)」等々にも参加していた。
そんな中で、「先祖から引き継いでいる免疫の力を守る」(肥田医師)、「食べ物は生死を分ける」「1食1食の質が命の質を左右する」(辰巳芳子)、「結局私たちは微生物(日本の伝統的な発酵食品)に助けられている」(舘崎やよい)、等々の先輩達の言葉に励まされていた。
夫は、保養にむけて資金集めに走り、保養場所を見つけ、バタバタと思いつくまま一生懸命準備をし、参加者を募り、そしてフェリーに乗って参加者さんを迎えに旅立ってしまった。残されて茫然とした。受け入れ準備は万端ではない。しかし保養はもう動いている。こちらも思いつくままバタバタと準備をした。
免疫力を高めるために、保養中の食は和食を軸にしたい。食を大事にしたい。そこは譲れない。それは10年の間、変わらなかったところだ。
母の願いは、もうこれ以上子どもに被曝をさせないこと。
この10年間参加して下さった母達の直の言葉にたくさんの学びがあった。
日々悩みながら生活せざるをえない現実を聞くにつれ、自分がその立場だったらどう動いただろうかと思った。
準備不足、至らなさ、迷惑もいっぱいかけたと思う。
たくさんの人たちの助けがあって続けられた10年だった。それぞれの人の胸の内の語られない思い。その思いを背負っての活動だったと思う。とても重かった。
世の中は結局たいして変わらないままかもしれないけれど、人と人が出会ってふれあって影響しあったことはきっとこの世界を良い方向に動かす力になっていると信じたい。
我が家の子どもたちも一緒に過ごした夏。たくさんの子どもたちとの出会いも思い出深い。みんなお元気でしょうか。
たくさんの出会いに感謝します。ありがとうございました。
小川智子

『参加してみました』
ほぼ現在の苫小牧保養が完成してからの参加となりました。
長男が家をでる前に、子どもたちに仕事や遊び以外の活動をしている親の姿を見せたいと思ったことが一番のきっかけです。ありがたいことに、そう思った時期に石田さんから、お声をかけていただきました。私にできることがあればと参加させてもらいましたが、優秀なスタッフやボランティアの皆さんが揃っており、正直、私の出番はあるのかな・・・と迷いました。でも、食材調達や調理補助、訪問先の調整手配など教わりながら共に活動できたことがありがたかったです。なにより、みなさんがなかなかユニークで才能にあふれていましたので、私自身が楽しんだという感じです。
『福島への思い』
福島市に義姉夫婦と姪たちが住んでいたので、何度か福島を訪れたことがあります。震災直後に福島を離れ、白老に避難するまで、そして避難後の記憶も鮮明でした。義姉が小学生と幼児だった姪たちの被曝量検査や検診を受ける相談を福島県や北海道としていたことが一番思い出されます。
幼い身体への健康被害のほうが大きいことへの不安と子どもたちの成長に対する責任を強く感じました。それでも、子どもたちは新しい地でたくましく元気に成長したことが何よりですが、これからも不安を抱えていくのだと思います。中高生になった今でも地震がくると震えるそうです。
そんな子どもや親たちがたくさんいるのだと思います。
保養はごくごく一部への限定された活動に見えます。けれど、一家族ずつを大切にする思いが伝わる活動です。多くの人たちに支援することはその時は効果的ですが、一人ひとり丁寧に対応することで、より継続した支援につながるように感じました。それを実感できるのは、保養最終日の苫小牧フェリーターミナルです。船と港で向かい合って、別れを惜しみ、手を振り合う、あの瞬間です。活動が人につながっていると感じる瞬間です。参加した親や子どもたちに残った思い出は、人生のどこかで誰かに波及していきます。もちろん、受け入れた側の私たちの思い出も共に波及していくのだと信じています。
『これから』
10年で保養の形での活動は終了。関わりが遅かった私はコロナ禍もあり、2回の保養でした。十分に意味がわかったかと言われると自信はありませんが、子どもたちとの関わりは楽しく笑いに満ちており、お母さんたちのたくましさと気遣いに元気づけられたことは間違いありません。
心残りは、調理の腕前を磨きそびれたこと、皆さんから人生いつまでも輝き続ける秘訣をまだ聞き出せていないこと、そして、福島で起きていることについて納得できるまで、わかっていないこと。なので、また違う形でお会いできるといいなと思います。
ありがとうございました!
小林夏美(ふくトマ福島出張所スタッフ)

ふくトマのスタッフの経験を通して、小さな子を抱えた母として未来へ向けた思いを書かせていただきます。
私は長尾さんに誘われてふくトマの活動を知りました。福島出身者として何かできればと思って参加させてもらいました。
参加当時は自分に子どもはいませんでしたが、今は二児の母となりました。
ふくトマの活動では、緑いっぱいの綺麗な空気の中で思いっきり遊ぶ子どもたちの姿とお母さんたちのイキイキとした表情が印象的でした。
私の子どもは現在2歳になり、毎日外で遊んでいて、外で遊べない日はストレスがたまるように見えます。放射能汚染によって外遊びができないという心身への影響はかなり大きなものだなと今は当時より強く感じています。
放射能汚染の受け止め方は人それぞれで、親が同じ気持ちを持った人と話す場もなかなかある訳じゃない。そんな親の思いと子どもにひだまりのように暖かく寄り添うのがふくトマだったなあと感じます。私もスタッフながら、遠くも近すぎもしない距離感、なんというか親戚のように保養者に寄り添う他のふくトマスタッフから元気をもらっていました。私もそんなふうに振るまう年の取り方をしたいなと思っています。
今は、隣人との関係が希薄ですよね。私の祖母が子育てをしていた頃、隣の家の子がおっぱい足りないと聞けばその子にもあげに行ったという話を聞きました。反対に近所の人によくお世話にもなったみたいで、そのくらい人の悩みを自分のことのように考えれると良いよなと思います。まさにそれがふくトマのスタッフの人たちで。
放射能も不安だし、新型コロナウイルスも不安だし、もう色々不安だしっていう世の中ではありますが、将来自分の子どもにもそういった不安を話せる場や相手が少しでもいればいいなと思うし、本人も聞くことができるといいなと思ます。
あと私は、子どもが分かるようになったらふくトマの活動の事を話してみようと思っています。
2回しか参加出来なかったですが、私の人生においても影響を受けた経験でした。自分の子どもがどのように受け取るかはわからないですが、東日本大震災や原発事故、こういった活動があったことも風化させたくないです。
未来へ向けたメッセージといったら大それてるかもしれないですが、こういったことが小さな子どもを持つ私の思いです。
佐藤里美

2014年、私はある団体の代表であったのですが、団体の活動の中で福島の現状をお話ししてくださる方を探していました。
石田さんと初めて会ったのがその時です。
団体で石田さんをお呼びし、福島の現状について話していただきました。
自分も一個人として何ができるかずっと考えているということを石田さんにお話しし、その後、ふくトマの活動に参加することとなり、現在に至りました。
2020年の保養支援は新型コロナウイルス感染症により中止になりましたが、2021年度はマスコミなどの情報に翻弄されながらもなんとか実施できたことは嬉しかったです。
自分が初めて参加した2015年からの保養を振り返ってみると、どの年もそれぞれ思い出いっぱいの楽しいことばかりですが、特に忘れられないことが多かったのは2015年。
つまり、自分が初めて参加した年です。
ふくトマとしては4回目の保養で、その後の活動に良い意味で大きな影響を及ぼした年になったようでした。食事の提供体制や参加者のお母さん達の心のケアに気を配ることなど数々の反省点をプラスに変えることが徐々にでき始め、その後はどんどん保養が楽しくなっていったように思います。
そして2021年、ついに最後の保養を終えました。
10回のうち6回活動に参加したことになるのですが、あの時に私に声を掛けてくださった石田さんに感謝しています。
震災のニュースを見て何かしたいと悶々としていても一人ではきっと何もできなかっただろうと思うからです。
皆さんと出会えたことがこれからもずっと宝物になるだろうと思います。
高野美樹(ふくトマ福島出張所スタッフ)

「放射線から少しでも遠ざかり、子ども達を守りたい」「数日間でも安心した生活を送りたい」という一心でママ友と一緒に保養を探しては、参加して…県外に自主避難している人達もいる中、避難が難しい自分の状況に葛藤しながら、保養はせめてもの精一杯の避難であり、救いでした。
初めてふくトマに参加したのは2012年、子どもが小3・年長・1歳半で育児休暇中でした。様々な保養に参加しましたが、ふくトマは他とは異なり、スタッフとの距離が近く、何でも相談でき、参加者の要望への対応が柔軟で、ストレスなく参加できたのがとても印象的でした。
2014年、仕事に復帰し、子どもを保養に参加させる余裕がない中「少しでも放射線から離れて過ごす時間を確保したい…仕事でクタクタでも、ふくトマならば、きっと疲れずに参加できる」と思い、末娘がちょうど年少になり保養対象年齢だったので迷わず2度目の参加を決めました。
しかし、前回と宿泊場所が替わり、スタッフは手探り状態。参加者の負担も多く、疲れてしまい…。改善の要望を石田さんにぶつけて戻りました。(今思えば、参加者なのに…でも、スタッフの皆さんは、よりよい保養にするために、意見を聞きたいという姿勢でしたから)
翌年、どう改善されたか楽しみで…それは二の次で、一番は、スタッフの皆さんに会いたい気持ちで参加しました。石田さんには「昨年のことがあったから、参加してくれると思わなかった」と言われましたが、微塵の迷いもなく、参加を決めました。(内容は改善され、充実した保養となりました!)
その年は、北海道行きのフェリーは、私がスタッフ代行として、引率することとなり、2016年からは正式に福島の現地スタッフとなりました。
2021年までの保養では、参加者とふくトマスタッフとの架け橋となり、参加者に寄り添い、健康状態や要望、不自由がないか気を配り、ふくトマの保養が“最高”だと感じてもらえるように努力しました。参加者には、かつて、私が感じたのと同じ充実感を感じてほしいという思いで。
いろいろな保養に参加する度、スタッフの方々の協力のおかげで保養ができていること、私たち福島の人々のために、活動してくれている人たちが大勢いることにいつも感謝の気持ちでいっぱいでした。自分が現地スタッフとして、ふくトマの皆さんと志を同じくし、心をひとつにして、保養に協力できたことは、とても嬉しかったですし、全国で保養を実施して下さっている皆さんの一部として、自分も役に立てたのではないかと感じています。
郡山市で行った“一緒に作って、一緒に食べよう”のイベントでは、初めて企画運営に携わり、貴重な経験となりました。「自分で声を発して、自分で行動しないと何も始まらない。」石田さんから、その言葉を何度も聞いた気がします。そして、そのような行動力のある方々が、ふくトマにはたくさんいらっしゃいます。私自身、とても刺激を受けました。
震災で変わったこと、失ったものなど、たくさんありますが、新たな出会い、絆、人の温かさ、そして、行動力の重要性、勇気など、今まで気づかなかったことに気づくことができました。苫小牧という第二の故郷もできました。
東日本大震災から11年が経ち、子ども達も、高2・中2・小4と大きく成長しました。今まで尽力して下さったふくトマの皆さんの想いは、確実に福島の子ども達に繋がっています。やがて、子ども達がいろいろな形で、社会に貢献してくれると期待しています。これからも、福島で頑張ります。皆さん、長年に渡り本当にありがとうございました。
滝本晴美

2011年3月11日、東日本大震災が起きて、私の周りの人がボランティアで参加している話を聞いて、私も何かできることがあったらしたいと考えていました。
その時、石田さんが福島の子どもたちの被曝を防ぐ「保養」を計画していると聞き、それなら私にも出来ることがあるかもしれないと参加させてもらいました。
2012年の初めての保養で一番記憶に残っているのは、スタッフの1人が、アルテンでブヨに刺されて足がパンパンに腫れながらも、参加者の世話をしていたことです。初めて出会った他のスタッフとも一日で距離が縮まったのも思い出します。
ある日の活動先のノーザンホースパークで私が担当した5歳と2歳の男の子と赤ちゃん3人のおかあさんが健気で、私はそのお母さんがとっても可愛かった。
2年目の保養では、宿舎に泊まったスタッフとお母さん達と夜の会を催して、福島での生活を聞かせてもらいました。住んでいた地域での補償の違い、仕事を続けるために福島を離れられない状況、子どものことを考え、放射能の影響のないところに引っ越したいと真剣に考えていることなど沢山語り明かしました。
2014年の5月に福島県を訪れ、各地の空間放射線量(福島駅前0.213μ㏜/hなど)がまだまだ高いことを知りました。2013年の参加者と三春ハーブガーデンで昼食会をし、子どもたちの成長を見ることができました。その中の1人の案内で田村市の「えすぺり」に行き、震災以降福島の有機野菜が売れなくなり、農家の人はプライドを傷つけられたのが悲しいと店主から聞きました。郡山では1年目の参加者の1人と再会し、3a郡山(子どもの未来を想う母の会)を紹介してもらい話を聞くことができました。さらに、震災後にできた福島市内の商業者等によるプロジェクト「ライフク」の事務局をしている中学時代の友人に会い、ライフクの人たちとも話をすることができ、復興に向けて諦めない商店街の熱意をひしひしと感じました。
それ以降福島には行けていませんが、あのとき訪れた三春の森やしいたけのほだぎ用に大分に出荷していたのが、全部なくなったと言っていた大河原さんのことを思い出します。
2015年からはもっぱら食事担当ですが、私はいつも三浦さんとペアで参加し、福島の子どもとお母さんが食事を美味しいと食べてくれるだけで幸せでした。他のボランティアさんとも仲良くなれ、ふくトマ福島出張所のスタッフをしてくれている高野さんと毎年会うのも楽しみでした。
福島の方から様々なお話を伺いました。皆、大変な日々を必死に生きている。みんな頑張れ!
ふくとまに参加したことで、沢山の人と関われたことは財産です。
コロナ禍の中不自由な生活が続いていますが、最澄の言葉で「照千一隅」という言葉に出会いました。一隅を照らすことなら、私のように非力な人間でも、出来るのではないか。それで社会の役に立つなら、一生懸命やってみようと生きてみたい。そういう人が増えれば、平和な平等な世の中になるのではないかと期待します。正しい意味ではないかもしれませんが、それこそ、ふくとまに参加させていただいたことは「照千一隅」を実行できる機会をもらったと感謝しています。
千葉恵美子

今から10年前に暮らしの時間の使い方の配分を切り替えようと思えて…。
それを実行し始めた時期に、何をしようとか何が出来るとかは漠然としていたのだけれど、子供達の何かサポートをする事に時間を使いたいとだけ思えていたのです。
丁度その時期に良すぎるタイミングで石田さんから声がかかり…。
内容は「福島の子ども達の保養の受け入れ・幼稚園児対象」と聞いて驚きましたがスタッフとして参加させてもらう事を即決めました。
顔合わせを含めた会議に出席すると、なんと誰も知らない人達ばかりではないですか…。
ちょっと緊張でした。が…。
逆に妙に嬉しかったのは、苫小牧で暮らすようになってからは商売をしているので「ラーメン屋さん」としか認識してもらえずに居たので、この生活からようやく脱出した場所が見つかった事も新鮮さを感じていたのが当初でした。だけど…。
元に戻るのに時間はかからなかったのです。第一回目の保養の時から代表の石田さんは「らあめんの村役場で昼食を…」と。
だから・だから・・ふくトマでも「ラーメン屋さん」で10年間。
10回の保養期間中、昨年の中止があったので正確には9回の保養期間中に参加した親子さんは全員食べてるので宣伝になっているのかなー。
いやいや…思い出に参加させてもらえて何より嬉しい事となりました。
ラーメン屋が色濃く印象づいているとは思うのですが、他の活動にも参加もしましたし。
10年間のうちには、ラーメン屋のおばちゃんだけではなく、福島へ随行員として出向いたのが3回、参加者の洗濯物を持ってコインランドリー通っていつの間にか「洗濯おばちゃん」の名も付き、宿舎泊りもしてお母さん達との楽しいお喋り……。
保養期間中の私のスタッフとしての参加内容は毎回変わらず、変えようもないのが自営業の辛いところかもしれないけど。
多くのスタッフと福島からのお母さん達・子供達との縁を繋いでくれた石田さんには感謝しかありません。
私の人生の10年間に良い時をいただき体験をさせていただいたこと、本当にありがとうございました。
これからはこの体験を生かし自分で出来る事にエネルギーを使っていこうと考えています。
人生…楽しいもんです。
橋本智子

1986年4月、1歳になった息子が外遊びできるようになったころ、チェルノブイリ原発事故が起こりました。日本でも雨水中に放射性物質が確認されたとマスコミ報道があり、外遊びを控え、欧州からの食品はなるべく購入しないようにしていました。
2011年東日本大震災当日は2日後に行われるTPPに日本が参加するべきかどうかという政府主催討論会の準備で札幌にいました。テレビで見る大津波に驚きながらも大津波警報が出ている苫小牧に戻ろうと努力しました。
その4日後、元々計画していた韓国旅行に行きました。どこか遠くの出来事という思いがあり、キャンセルも頭をよぎりましたが、飛行機が飛んでいるということもあって、挙行しました。新千歳空港の国際線ターミナルは人であふれていました。福島第1原発の事故のため帰国者が多いのだろうとわかっていても危機感はありませんでした。
韓国では汝矣島のビジネスホテルに泊まり、韓国の放送局の他、BBC、CNN、NHKのニュースも見ることが出来ました。最初はNHKを見ていましたが津波の映像ばかりでした。
他国はどのように報道しているのか見ていると言語はわからないものの明らかにNHKとは違うトーンでした。
福島第1原発の水素爆発の状況等が何度も映し出されます。帰りの飛行機はガラガラでした。
福島の幼稚園児の受け入れを行うという話を聞いた時、チェルノブイリの時の外遊びをしたがる息子や東日本大震災後の自分の行動への反省から少しでも手伝いたいと申し出ました。
初めて福島から来た子どもたちと勇武津資料館の親水公園に行ったとき、お母さんたちが「普通に葉っぱや水に触れることが出来てうれしい」と何度も言っていたことを今でも思い出します。
「普通に」はその後も何度も聞きました。水産会館の快適とは言えない居住環境の中でも普通に生活できて子どもたちを叱ることも少なくなって安心できると言ってくれました。
あとで考えると、大広間でみんなと合宿しているような生活は子どもたちにとっては楽しかったと思います。また、お母さんたちもプライバシーがなかったのは申し訳なかったけれど一体感が出来てよかったのではないかと思います。
津波の被害は同じなのに原発事故という重荷を背負わされて、復興が進まないふるさとです。
参加者の中にはその後福島から引っ越した家族もいます。放射能汚染に関する考えが家族間で異なり、亀裂が生じているという参加者もいました。
東日本大震災は自然災害ですが原発事故は人災で、防ぐことのできる災害でした。しかも、原子力発電所が危険な状態であると知らされず、地震後の物資不足のためスーパーなどの屋外で並んでいて、子どもに被爆させてしまったのではないかと後悔しているお母さんがいました。せめて屋内で待機するようにというアナウンスがあってほしかったという声は切なかったです。
何年かお母さんたちと話していると、原発事故に関する情報が職業やSNSを駆使していた人では全然違っていたことがわかりました。私自身も日本の報道だけでは気が付かなかったかもしれません。
この10年TPPの議論はなぜか大きく取り上げられなくなり、2018年に発効しました。
ふくトマでは福島の参加者だけではなく多くのボランティアと出会いました。福島との絆人と人との絆は大切な宝物になりました。一番の情報の確かさは人と人との絆の中から生まれるのかもしれません。
室崎栄子

10年って短くて長いようで、でも一つの時代が、変わったと言えるぐらいの時間です。生まれた子は10歳に、10歳の子は20歳に、そして私は40歳から50歳に、、、
そんなことはどうでも良いですけど( ̄▽ ̄;)
1年目、勇払に藍の生葉染めに来た子どもたちが、『葉っぱさわっていいのぉ〜』って言いながら、バスを降りてきました。当時、まだまだ認識の浅かった私はものすごく衝撃を受けました。
地震直後の原発事故のニュースを毎日々、見ながら大変なことが起きたと思っていました。将来子どもたちが差別を受けないだろうか、福島に残ることを選択することは間違っていないだろうか、などなどたくさんの悩みを抱えて当時、保養という言葉もまだ使われていない中で子どもたちの身体を心配して無我夢中で県外へ出かけた親子たち、メディアからもたらされる情報と生の声からの情報では、同じことなのに全く違う情報のように伝わってきました。これはきっと忘れてはいけないことと思って、もっと関わろうと思った瞬間でした。
それから運営に関わるようになり福島県での『保養相談会』の参加で何度も足を運ぶようになりました。他の保養団体の方から直接お話を聞いたり、保養に出たいお母さんやお父さんたちのお話を聞いたり、たくさん関わるきっかけをもらいました。
目に見えないしニオイもない、無かったことにしようとも思って生活することも出来るし、目に見えないし本当の答えがわからないから恐怖から抜け出せないし、考え方もいろいろで、はっきりではないけれど分断もして、昔の公害問題のような大きな目に見える分断ではなく、表面上はにこやかに挨拶も会話もするが、ちょっと距離を置いているような感覚。これは時代がそうさせているのか、今の風潮なのかわからないですが。
保養で出会った家族たち、たくさん発見があり楽しませてもらいました。
毎度々、子どもたちには色々教えられます。
お母さんたちはたくさんたくさん心配していろんなことに目配りし、踏ん張って、そして子どもたちはみんなそれぞれ自分なりに一生懸命いい子。たくさんのやさしさにつつまれて育ってるんだって、それが伝わりました。悪い子はいないんです。みんないい子なんです。子どもたちには子どもたちなりの理由があって色々な行動をする。
もしかしたら自分たちにもそんなことがあったのかもしれないけれど、大人になるとすっかり忘れて、そして親になると日々の生活に追い立てられ、余裕をもって向き合える時間もないのかもしれません。この保養を通じて少しだけでも寄り添えていたならそれで良かったなと思います。
そして一緒に保養を作り上げたスタッフたち、ふくトマに関わらないと出会うことは無かった人たちと出会えたことが、本当に私の宝になりました。世代も違うそれぞれが、それぞれの力を発揮してたくさんの家族を受け入れてきました。だからこそたくさん勉強できたし、たくさん笑って楽しく続けられたのです。
ふくトマの保養は終了しますが、昔から続く公害問題と同じで、この放射能問題は何も終わっていないむしろこれからが始まりなのかもしれません。
石田英人(ふくトマ代表)

そもそも、私は福島県に縁はなかった。
「原発は不要」と思っていたが反原発の活動をしていたわけではない。原発事故に憤りはあったが、震災が起きた年は、宮城県で瓦礫処理等のボランティアをしていたし。
保養を支援しようと思ったのは震災の翌年だった。被災地に行く資金が尽き、苫小牧にいてできることをと考えたけれど、なぜ、やると決めたのか分からない。大変なことだったのに。
「保養」は「子ども達の健康を守るため(被曝を防ぐため)」に行うものだ。
おそらく、やると決めたのは「自分に子どもがいた」からだ。これしかない。だって、阪神大震災の時は「大変だなあ」と思うだけだったから。あの時は独身だった。
保養支援をやることは決めたけど、2012年5月に組織を立ち上げたときには、資金は無く、宿舎も決まっていなかった。それなのに、よく18人も参加してくれたものだと思う。それだけ、あの時は多くの人が原発の爆発に危機感を感じ、被災者の身を案じていたのだと思う。
保養支援をしようと思い、準備を始め、協力者を得てそれが始まり、10年間続け、そして2021年に終わり、その中で学んだことはたくさん。
たくさんある学びの中から2つ挙げてみる。
私の仕事は苫小牧市職員だが、活動資金集めの中で市職員を市民はどのように見ているのかを強く知った。裏切ってはいけない仕事をしているのだと。勤務しているときより強く知った。
様々な事業所等に寄付のお願いに歩いたが、当然、応対者の多くが疑いの眼差しを向ける。既に寄付を募る詐欺もあったし。目的を説明すると「ところで仕事は何を?」と尋ねられる。市職員と名乗ると(仕事とは関係ないと何回も念を押す)眼差しは変わる。市職員だからといって寄付がもらえるわけではないのだけれど、話をきちんと聞いてくれることがとても嬉しかった。
言葉ではない感謝や詫びの仕方を深く考えるようになったのも学びの一つだ。
保養支援を始める前、始めてから、そして保養支援そのものとは違う部分でも、友人・知人、ボランティアさん、団体等(役所含め)のお世話になった。そして負担や迷惑をかけたこともある。
裏切りと思われたこともあるかもしれない。でも、それが子ども達のためになることだったら仕方ない。詫びの気持ちは、保養支援をしっかり行うことで示すしかないと思っていた。
期限がなかった保養支援を「10年続ける」と決めたのも、その意思表示の一つだった。
書きたい事は色々あるが最後に。
私を指して「福島のために」とか「素晴らしいことですね」などと言われることがとても嫌だった。保養支援は、自分にとっては自分の心の中のどうしようもない衝動を満足させるためにやったことでしかないからだ。他人はどうあれ、所詮、私は自分のためにしたことでしかないのだ。
でも、例え私がそうだとしても他の人の感じ方はそれぞれだ。
私の「思いに共感」してくれた人がいて、そしてその人達が輪を広げていった。そして「輪」は「ふくトマ」になった。
私の「思い」を、みんなが「ふくトマ」という形にした。だから「ふくトマ」を褒められるのは何も恥ずかしくない、図々しいくらい。
「共感」してくださった全ての方へ。
本当に、本当にありがとうございました。
報告書の裏表紙

10年間ありがとうございました。
『離れていても、大人になった子ども達が支え合えるように。子ども達の未来を美しく守るのは、私たち大人の最大の「しごと」』
最終回は10年間の活動をまとめた報告書に載せた、スタッフそれぞれの思いを紹介します。
活動から10年経っての振り返りなので、被ばくや原発に関する逼迫感は感じられません。
でも、それぞれの経験を元にした落ち着いたものになっています。
ふくトマの個性が出ています。
では最初に副代表、そしてスタッフを五十音順、最後に代表を掲載します。
報告書の表紙

長尾拓哉(ふくトマ副代表)

私がふくトマに参加することとなったのは、2015年の夏に行われた4回目の保養活動です。
ふくトマに加わるきっかけは、活動の中心メンバーからのスカウトです。そのメンバーはラーメン屋を営んでおり、私はその客でした。突然の誘いにはじめは戸惑いましたが、活動内容や目的を聞いているうちに興味が湧き、「これは運命だ」と感じました。
大学時代の友人の実家が津波で被災したこともあり、自分にとって3.11は非常に身近な出来事だったのです。「ぜひ関わらせてください」と頭を下げると、トントン拍子で話が進み、数日後にラーメン屋で店主を交えて代表と面談(採用面接のようなもの?)をすることになりました。
約束の日、緊張していた私は早めに店に到着しましたが、約束の時間になっても代表は現れません。心配した店主が電話すると「すぐに行く!」との返答があり、到着するやいなや深々と侘びられました。「初対面なのに晩酌して遅刻するような代表とは一緒に活動したくないのでは」と心配されましたが、私は全く逆の気持ちでした。緊張の糸が切れ、親近感が沸いたのです。
私は現在、白老町職員として働いており、ふくトマに参加した2015年に採用されました。
当初は総務課に配属されていましたが、ある時上司に、ふくトマでの活動が評価され「長尾は教育委員会の生涯学習課に異動したらどうだ?」と勧められました。当時はその意味があまり理解できなかったのですが、以前から生涯学習課には魅力を感じており、幸運にも異動希望が叶って2019年に生涯学習課へ異動する事となりました。
生涯学習課は「社会教育」を推進しています。異動してから気がついたことは、ふくトマの活動自体がまさに社会教育であるということです。私はふくトマで活動しているうちに、知らず知らずに市民活動に興味を持ち始めていたということです。
社会教育とはなにか?という問いに対してよく言われているのは、「人づくり、つながりづくり、地域づくり」の3つが挙げられます。地域の力が衰退傾向にある中、これらの考え方は教育分野だけではなく、福祉・経済・防災など、あらゆる分野からも注目されているようです。
例えば、3.11のような大規模な災害が起こったときに、日頃のつながりやコミュニティがしっかりしている地域の避難所は円滑に運営されるということがわかっています。住民同士が共通の課題意識を持ってつながり、目的に向かって自発的に活動することは、自分だけでなく、家族や地域にとってもすごく重要なことです。団体活動に参画する人々が増えることで、人々がつながり、地域が活性化され、市民の心が豊かになっていくのだと身をもって体験しました。私自身もふくトマの活動をとおして人脈が大幅に広がり、物事の考え方や生活が豊かになっているからです。
ふくトマとしての活動は、残念ながら2022年3月に終了してしまいます。しかし、このつながりが途切れることはありません。
ふくトマで培った経験やつながりを大切にするとともに、今後は新たな活動にも積極的に挑戦していきたいと感じています。これまで関わってくださったすべての方々に感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
石田智子

夫(ふくトマ代表)が、2012年、「夏に保養をやる!」と言った時、私は「夏は忙しいので手伝えないよ」と答えた。夫は「1人でもオレはやる!」
そう言った。
2011年3月の東日本大震災後、夫は5月にガレキ処理ボランティアに行った後も、ガレキ処理や除染等何度か東北に通っていた。一方、震災時、私は小学校2年生と幼稚園年小の2人の男の子の母。子育てをしながら、次々と出版される原発や放射線被曝に関する本を買いまくり読みまくっていた。「苫小牧の自然を守る会」「震災がれきを考える市民ネット」「肥田舜太郎医師を呼ぶ会」「苫小牧の子どもの未来を守る会(学校給食で使う食材の放射能検査を市に提案する会)」等々にも参加していた。
そんな中で、「先祖から引き継いでいる免疫の力を守る」(肥田医師)、「食べ物は生死を分ける」「1食1食の質が命の質を左右する」(辰巳芳子)、「結局私たちは微生物(日本の伝統的な発酵食品)に助けられている」(舘崎やよい)、等々の先輩達の言葉に励まされていた。
夫は、保養にむけて資金集めに走り、保養場所を見つけ、バタバタと思いつくまま一生懸命準備をし、参加者を募り、そしてフェリーに乗って参加者さんを迎えに旅立ってしまった。残されて茫然とした。受け入れ準備は万端ではない。しかし保養はもう動いている。こちらも思いつくままバタバタと準備をした。
免疫力を高めるために、保養中の食は和食を軸にしたい。食を大事にしたい。そこは譲れない。それは10年の間、変わらなかったところだ。
母の願いは、もうこれ以上子どもに被曝をさせないこと。
この10年間参加して下さった母達の直の言葉にたくさんの学びがあった。
日々悩みながら生活せざるをえない現実を聞くにつれ、自分がその立場だったらどう動いただろうかと思った。
準備不足、至らなさ、迷惑もいっぱいかけたと思う。
たくさんの人たちの助けがあって続けられた10年だった。それぞれの人の胸の内の語られない思い。その思いを背負っての活動だったと思う。とても重かった。
世の中は結局たいして変わらないままかもしれないけれど、人と人が出会ってふれあって影響しあったことはきっとこの世界を良い方向に動かす力になっていると信じたい。
我が家の子どもたちも一緒に過ごした夏。たくさんの子どもたちとの出会いも思い出深い。みんなお元気でしょうか。
たくさんの出会いに感謝します。ありがとうございました。
小川智子

『参加してみました』
ほぼ現在の苫小牧保養が完成してからの参加となりました。
長男が家をでる前に、子どもたちに仕事や遊び以外の活動をしている親の姿を見せたいと思ったことが一番のきっかけです。ありがたいことに、そう思った時期に石田さんから、お声をかけていただきました。私にできることがあればと参加させてもらいましたが、優秀なスタッフやボランティアの皆さんが揃っており、正直、私の出番はあるのかな・・・と迷いました。でも、食材調達や調理補助、訪問先の調整手配など教わりながら共に活動できたことがありがたかったです。なにより、みなさんがなかなかユニークで才能にあふれていましたので、私自身が楽しんだという感じです。
『福島への思い』
福島市に義姉夫婦と姪たちが住んでいたので、何度か福島を訪れたことがあります。震災直後に福島を離れ、白老に避難するまで、そして避難後の記憶も鮮明でした。義姉が小学生と幼児だった姪たちの被曝量検査や検診を受ける相談を福島県や北海道としていたことが一番思い出されます。
幼い身体への健康被害のほうが大きいことへの不安と子どもたちの成長に対する責任を強く感じました。それでも、子どもたちは新しい地でたくましく元気に成長したことが何よりですが、これからも不安を抱えていくのだと思います。中高生になった今でも地震がくると震えるそうです。
そんな子どもや親たちがたくさんいるのだと思います。
保養はごくごく一部への限定された活動に見えます。けれど、一家族ずつを大切にする思いが伝わる活動です。多くの人たちに支援することはその時は効果的ですが、一人ひとり丁寧に対応することで、より継続した支援につながるように感じました。それを実感できるのは、保養最終日の苫小牧フェリーターミナルです。船と港で向かい合って、別れを惜しみ、手を振り合う、あの瞬間です。活動が人につながっていると感じる瞬間です。参加した親や子どもたちに残った思い出は、人生のどこかで誰かに波及していきます。もちろん、受け入れた側の私たちの思い出も共に波及していくのだと信じています。
『これから』
10年で保養の形での活動は終了。関わりが遅かった私はコロナ禍もあり、2回の保養でした。十分に意味がわかったかと言われると自信はありませんが、子どもたちとの関わりは楽しく笑いに満ちており、お母さんたちのたくましさと気遣いに元気づけられたことは間違いありません。
心残りは、調理の腕前を磨きそびれたこと、皆さんから人生いつまでも輝き続ける秘訣をまだ聞き出せていないこと、そして、福島で起きていることについて納得できるまで、わかっていないこと。なので、また違う形でお会いできるといいなと思います。
ありがとうございました!
小林夏美(ふくトマ福島出張所スタッフ)

ふくトマのスタッフの経験を通して、小さな子を抱えた母として未来へ向けた思いを書かせていただきます。
私は長尾さんに誘われてふくトマの活動を知りました。福島出身者として何かできればと思って参加させてもらいました。
参加当時は自分に子どもはいませんでしたが、今は二児の母となりました。
ふくトマの活動では、緑いっぱいの綺麗な空気の中で思いっきり遊ぶ子どもたちの姿とお母さんたちのイキイキとした表情が印象的でした。
私の子どもは現在2歳になり、毎日外で遊んでいて、外で遊べない日はストレスがたまるように見えます。放射能汚染によって外遊びができないという心身への影響はかなり大きなものだなと今は当時より強く感じています。
放射能汚染の受け止め方は人それぞれで、親が同じ気持ちを持った人と話す場もなかなかある訳じゃない。そんな親の思いと子どもにひだまりのように暖かく寄り添うのがふくトマだったなあと感じます。私もスタッフながら、遠くも近すぎもしない距離感、なんというか親戚のように保養者に寄り添う他のふくトマスタッフから元気をもらっていました。私もそんなふうに振るまう年の取り方をしたいなと思っています。
今は、隣人との関係が希薄ですよね。私の祖母が子育てをしていた頃、隣の家の子がおっぱい足りないと聞けばその子にもあげに行ったという話を聞きました。反対に近所の人によくお世話にもなったみたいで、そのくらい人の悩みを自分のことのように考えれると良いよなと思います。まさにそれがふくトマのスタッフの人たちで。
放射能も不安だし、新型コロナウイルスも不安だし、もう色々不安だしっていう世の中ではありますが、将来自分の子どもにもそういった不安を話せる場や相手が少しでもいればいいなと思うし、本人も聞くことができるといいなと思ます。
あと私は、子どもが分かるようになったらふくトマの活動の事を話してみようと思っています。
2回しか参加出来なかったですが、私の人生においても影響を受けた経験でした。自分の子どもがどのように受け取るかはわからないですが、東日本大震災や原発事故、こういった活動があったことも風化させたくないです。
未来へ向けたメッセージといったら大それてるかもしれないですが、こういったことが小さな子どもを持つ私の思いです。
佐藤里美

2014年、私はある団体の代表であったのですが、団体の活動の中で福島の現状をお話ししてくださる方を探していました。
石田さんと初めて会ったのがその時です。
団体で石田さんをお呼びし、福島の現状について話していただきました。
自分も一個人として何ができるかずっと考えているということを石田さんにお話しし、その後、ふくトマの活動に参加することとなり、現在に至りました。
2020年の保養支援は新型コロナウイルス感染症により中止になりましたが、2021年度はマスコミなどの情報に翻弄されながらもなんとか実施できたことは嬉しかったです。
自分が初めて参加した2015年からの保養を振り返ってみると、どの年もそれぞれ思い出いっぱいの楽しいことばかりですが、特に忘れられないことが多かったのは2015年。
つまり、自分が初めて参加した年です。
ふくトマとしては4回目の保養で、その後の活動に良い意味で大きな影響を及ぼした年になったようでした。食事の提供体制や参加者のお母さん達の心のケアに気を配ることなど数々の反省点をプラスに変えることが徐々にでき始め、その後はどんどん保養が楽しくなっていったように思います。
そして2021年、ついに最後の保養を終えました。
10回のうち6回活動に参加したことになるのですが、あの時に私に声を掛けてくださった石田さんに感謝しています。
震災のニュースを見て何かしたいと悶々としていても一人ではきっと何もできなかっただろうと思うからです。
皆さんと出会えたことがこれからもずっと宝物になるだろうと思います。
高野美樹(ふくトマ福島出張所スタッフ)

「放射線から少しでも遠ざかり、子ども達を守りたい」「数日間でも安心した生活を送りたい」という一心でママ友と一緒に保養を探しては、参加して…県外に自主避難している人達もいる中、避難が難しい自分の状況に葛藤しながら、保養はせめてもの精一杯の避難であり、救いでした。
初めてふくトマに参加したのは2012年、子どもが小3・年長・1歳半で育児休暇中でした。様々な保養に参加しましたが、ふくトマは他とは異なり、スタッフとの距離が近く、何でも相談でき、参加者の要望への対応が柔軟で、ストレスなく参加できたのがとても印象的でした。
2014年、仕事に復帰し、子どもを保養に参加させる余裕がない中「少しでも放射線から離れて過ごす時間を確保したい…仕事でクタクタでも、ふくトマならば、きっと疲れずに参加できる」と思い、末娘がちょうど年少になり保養対象年齢だったので迷わず2度目の参加を決めました。
しかし、前回と宿泊場所が替わり、スタッフは手探り状態。参加者の負担も多く、疲れてしまい…。改善の要望を石田さんにぶつけて戻りました。(今思えば、参加者なのに…でも、スタッフの皆さんは、よりよい保養にするために、意見を聞きたいという姿勢でしたから)
翌年、どう改善されたか楽しみで…それは二の次で、一番は、スタッフの皆さんに会いたい気持ちで参加しました。石田さんには「昨年のことがあったから、参加してくれると思わなかった」と言われましたが、微塵の迷いもなく、参加を決めました。(内容は改善され、充実した保養となりました!)
その年は、北海道行きのフェリーは、私がスタッフ代行として、引率することとなり、2016年からは正式に福島の現地スタッフとなりました。
2021年までの保養では、参加者とふくトマスタッフとの架け橋となり、参加者に寄り添い、健康状態や要望、不自由がないか気を配り、ふくトマの保養が“最高”だと感じてもらえるように努力しました。参加者には、かつて、私が感じたのと同じ充実感を感じてほしいという思いで。
いろいろな保養に参加する度、スタッフの方々の協力のおかげで保養ができていること、私たち福島の人々のために、活動してくれている人たちが大勢いることにいつも感謝の気持ちでいっぱいでした。自分が現地スタッフとして、ふくトマの皆さんと志を同じくし、心をひとつにして、保養に協力できたことは、とても嬉しかったですし、全国で保養を実施して下さっている皆さんの一部として、自分も役に立てたのではないかと感じています。
郡山市で行った“一緒に作って、一緒に食べよう”のイベントでは、初めて企画運営に携わり、貴重な経験となりました。「自分で声を発して、自分で行動しないと何も始まらない。」石田さんから、その言葉を何度も聞いた気がします。そして、そのような行動力のある方々が、ふくトマにはたくさんいらっしゃいます。私自身、とても刺激を受けました。
震災で変わったこと、失ったものなど、たくさんありますが、新たな出会い、絆、人の温かさ、そして、行動力の重要性、勇気など、今まで気づかなかったことに気づくことができました。苫小牧という第二の故郷もできました。
東日本大震災から11年が経ち、子ども達も、高2・中2・小4と大きく成長しました。今まで尽力して下さったふくトマの皆さんの想いは、確実に福島の子ども達に繋がっています。やがて、子ども達がいろいろな形で、社会に貢献してくれると期待しています。これからも、福島で頑張ります。皆さん、長年に渡り本当にありがとうございました。
滝本晴美

2011年3月11日、東日本大震災が起きて、私の周りの人がボランティアで参加している話を聞いて、私も何かできることがあったらしたいと考えていました。
その時、石田さんが福島の子どもたちの被曝を防ぐ「保養」を計画していると聞き、それなら私にも出来ることがあるかもしれないと参加させてもらいました。
2012年の初めての保養で一番記憶に残っているのは、スタッフの1人が、アルテンでブヨに刺されて足がパンパンに腫れながらも、参加者の世話をしていたことです。初めて出会った他のスタッフとも一日で距離が縮まったのも思い出します。
ある日の活動先のノーザンホースパークで私が担当した5歳と2歳の男の子と赤ちゃん3人のおかあさんが健気で、私はそのお母さんがとっても可愛かった。
2年目の保養では、宿舎に泊まったスタッフとお母さん達と夜の会を催して、福島での生活を聞かせてもらいました。住んでいた地域での補償の違い、仕事を続けるために福島を離れられない状況、子どものことを考え、放射能の影響のないところに引っ越したいと真剣に考えていることなど沢山語り明かしました。
2014年の5月に福島県を訪れ、各地の空間放射線量(福島駅前0.213μ㏜/hなど)がまだまだ高いことを知りました。2013年の参加者と三春ハーブガーデンで昼食会をし、子どもたちの成長を見ることができました。その中の1人の案内で田村市の「えすぺり」に行き、震災以降福島の有機野菜が売れなくなり、農家の人はプライドを傷つけられたのが悲しいと店主から聞きました。郡山では1年目の参加者の1人と再会し、3a郡山(子どもの未来を想う母の会)を紹介してもらい話を聞くことができました。さらに、震災後にできた福島市内の商業者等によるプロジェクト「ライフク」の事務局をしている中学時代の友人に会い、ライフクの人たちとも話をすることができ、復興に向けて諦めない商店街の熱意をひしひしと感じました。
それ以降福島には行けていませんが、あのとき訪れた三春の森やしいたけのほだぎ用に大分に出荷していたのが、全部なくなったと言っていた大河原さんのことを思い出します。
2015年からはもっぱら食事担当ですが、私はいつも三浦さんとペアで参加し、福島の子どもとお母さんが食事を美味しいと食べてくれるだけで幸せでした。他のボランティアさんとも仲良くなれ、ふくトマ福島出張所のスタッフをしてくれている高野さんと毎年会うのも楽しみでした。
福島の方から様々なお話を伺いました。皆、大変な日々を必死に生きている。みんな頑張れ!
ふくとまに参加したことで、沢山の人と関われたことは財産です。
コロナ禍の中不自由な生活が続いていますが、最澄の言葉で「照千一隅」という言葉に出会いました。一隅を照らすことなら、私のように非力な人間でも、出来るのではないか。それで社会の役に立つなら、一生懸命やってみようと生きてみたい。そういう人が増えれば、平和な平等な世の中になるのではないかと期待します。正しい意味ではないかもしれませんが、それこそ、ふくとまに参加させていただいたことは「照千一隅」を実行できる機会をもらったと感謝しています。
千葉恵美子

今から10年前に暮らしの時間の使い方の配分を切り替えようと思えて…。
それを実行し始めた時期に、何をしようとか何が出来るとかは漠然としていたのだけれど、子供達の何かサポートをする事に時間を使いたいとだけ思えていたのです。
丁度その時期に良すぎるタイミングで石田さんから声がかかり…。
内容は「福島の子ども達の保養の受け入れ・幼稚園児対象」と聞いて驚きましたがスタッフとして参加させてもらう事を即決めました。
顔合わせを含めた会議に出席すると、なんと誰も知らない人達ばかりではないですか…。
ちょっと緊張でした。が…。
逆に妙に嬉しかったのは、苫小牧で暮らすようになってからは商売をしているので「ラーメン屋さん」としか認識してもらえずに居たので、この生活からようやく脱出した場所が見つかった事も新鮮さを感じていたのが当初でした。だけど…。
元に戻るのに時間はかからなかったのです。第一回目の保養の時から代表の石田さんは「らあめんの村役場で昼食を…」と。
だから・だから・・ふくトマでも「ラーメン屋さん」で10年間。
10回の保養期間中、昨年の中止があったので正確には9回の保養期間中に参加した親子さんは全員食べてるので宣伝になっているのかなー。
いやいや…思い出に参加させてもらえて何より嬉しい事となりました。
ラーメン屋が色濃く印象づいているとは思うのですが、他の活動にも参加もしましたし。
10年間のうちには、ラーメン屋のおばちゃんだけではなく、福島へ随行員として出向いたのが3回、参加者の洗濯物を持ってコインランドリー通っていつの間にか「洗濯おばちゃん」の名も付き、宿舎泊りもしてお母さん達との楽しいお喋り……。
保養期間中の私のスタッフとしての参加内容は毎回変わらず、変えようもないのが自営業の辛いところかもしれないけど。
多くのスタッフと福島からのお母さん達・子供達との縁を繋いでくれた石田さんには感謝しかありません。
私の人生の10年間に良い時をいただき体験をさせていただいたこと、本当にありがとうございました。
これからはこの体験を生かし自分で出来る事にエネルギーを使っていこうと考えています。
人生…楽しいもんです。
橋本智子

1986年4月、1歳になった息子が外遊びできるようになったころ、チェルノブイリ原発事故が起こりました。日本でも雨水中に放射性物質が確認されたとマスコミ報道があり、外遊びを控え、欧州からの食品はなるべく購入しないようにしていました。
2011年東日本大震災当日は2日後に行われるTPPに日本が参加するべきかどうかという政府主催討論会の準備で札幌にいました。テレビで見る大津波に驚きながらも大津波警報が出ている苫小牧に戻ろうと努力しました。
その4日後、元々計画していた韓国旅行に行きました。どこか遠くの出来事という思いがあり、キャンセルも頭をよぎりましたが、飛行機が飛んでいるということもあって、挙行しました。新千歳空港の国際線ターミナルは人であふれていました。福島第1原発の事故のため帰国者が多いのだろうとわかっていても危機感はありませんでした。
韓国では汝矣島のビジネスホテルに泊まり、韓国の放送局の他、BBC、CNN、NHKのニュースも見ることが出来ました。最初はNHKを見ていましたが津波の映像ばかりでした。
他国はどのように報道しているのか見ていると言語はわからないものの明らかにNHKとは違うトーンでした。
福島第1原発の水素爆発の状況等が何度も映し出されます。帰りの飛行機はガラガラでした。
福島の幼稚園児の受け入れを行うという話を聞いた時、チェルノブイリの時の外遊びをしたがる息子や東日本大震災後の自分の行動への反省から少しでも手伝いたいと申し出ました。
初めて福島から来た子どもたちと勇武津資料館の親水公園に行ったとき、お母さんたちが「普通に葉っぱや水に触れることが出来てうれしい」と何度も言っていたことを今でも思い出します。
「普通に」はその後も何度も聞きました。水産会館の快適とは言えない居住環境の中でも普通に生活できて子どもたちを叱ることも少なくなって安心できると言ってくれました。
あとで考えると、大広間でみんなと合宿しているような生活は子どもたちにとっては楽しかったと思います。また、お母さんたちもプライバシーがなかったのは申し訳なかったけれど一体感が出来てよかったのではないかと思います。
津波の被害は同じなのに原発事故という重荷を背負わされて、復興が進まないふるさとです。
参加者の中にはその後福島から引っ越した家族もいます。放射能汚染に関する考えが家族間で異なり、亀裂が生じているという参加者もいました。
東日本大震災は自然災害ですが原発事故は人災で、防ぐことのできる災害でした。しかも、原子力発電所が危険な状態であると知らされず、地震後の物資不足のためスーパーなどの屋外で並んでいて、子どもに被爆させてしまったのではないかと後悔しているお母さんがいました。せめて屋内で待機するようにというアナウンスがあってほしかったという声は切なかったです。
何年かお母さんたちと話していると、原発事故に関する情報が職業やSNSを駆使していた人では全然違っていたことがわかりました。私自身も日本の報道だけでは気が付かなかったかもしれません。
この10年TPPの議論はなぜか大きく取り上げられなくなり、2018年に発効しました。
ふくトマでは福島の参加者だけではなく多くのボランティアと出会いました。福島との絆人と人との絆は大切な宝物になりました。一番の情報の確かさは人と人との絆の中から生まれるのかもしれません。
室崎栄子

10年って短くて長いようで、でも一つの時代が、変わったと言えるぐらいの時間です。生まれた子は10歳に、10歳の子は20歳に、そして私は40歳から50歳に、、、
そんなことはどうでも良いですけど( ̄▽ ̄;)
1年目、勇払に藍の生葉染めに来た子どもたちが、『葉っぱさわっていいのぉ〜』って言いながら、バスを降りてきました。当時、まだまだ認識の浅かった私はものすごく衝撃を受けました。
地震直後の原発事故のニュースを毎日々、見ながら大変なことが起きたと思っていました。将来子どもたちが差別を受けないだろうか、福島に残ることを選択することは間違っていないだろうか、などなどたくさんの悩みを抱えて当時、保養という言葉もまだ使われていない中で子どもたちの身体を心配して無我夢中で県外へ出かけた親子たち、メディアからもたらされる情報と生の声からの情報では、同じことなのに全く違う情報のように伝わってきました。これはきっと忘れてはいけないことと思って、もっと関わろうと思った瞬間でした。
それから運営に関わるようになり福島県での『保養相談会』の参加で何度も足を運ぶようになりました。他の保養団体の方から直接お話を聞いたり、保養に出たいお母さんやお父さんたちのお話を聞いたり、たくさん関わるきっかけをもらいました。
目に見えないしニオイもない、無かったことにしようとも思って生活することも出来るし、目に見えないし本当の答えがわからないから恐怖から抜け出せないし、考え方もいろいろで、はっきりではないけれど分断もして、昔の公害問題のような大きな目に見える分断ではなく、表面上はにこやかに挨拶も会話もするが、ちょっと距離を置いているような感覚。これは時代がそうさせているのか、今の風潮なのかわからないですが。
保養で出会った家族たち、たくさん発見があり楽しませてもらいました。
毎度々、子どもたちには色々教えられます。
お母さんたちはたくさんたくさん心配していろんなことに目配りし、踏ん張って、そして子どもたちはみんなそれぞれ自分なりに一生懸命いい子。たくさんのやさしさにつつまれて育ってるんだって、それが伝わりました。悪い子はいないんです。みんないい子なんです。子どもたちには子どもたちなりの理由があって色々な行動をする。
もしかしたら自分たちにもそんなことがあったのかもしれないけれど、大人になるとすっかり忘れて、そして親になると日々の生活に追い立てられ、余裕をもって向き合える時間もないのかもしれません。この保養を通じて少しだけでも寄り添えていたならそれで良かったなと思います。
そして一緒に保養を作り上げたスタッフたち、ふくトマに関わらないと出会うことは無かった人たちと出会えたことが、本当に私の宝になりました。世代も違うそれぞれが、それぞれの力を発揮してたくさんの家族を受け入れてきました。だからこそたくさん勉強できたし、たくさん笑って楽しく続けられたのです。
ふくトマの保養は終了しますが、昔から続く公害問題と同じで、この放射能問題は何も終わっていないむしろこれからが始まりなのかもしれません。
石田英人(ふくトマ代表)

そもそも、私は福島県に縁はなかった。
「原発は不要」と思っていたが反原発の活動をしていたわけではない。原発事故に憤りはあったが、震災が起きた年は、宮城県で瓦礫処理等のボランティアをしていたし。
保養を支援しようと思ったのは震災の翌年だった。被災地に行く資金が尽き、苫小牧にいてできることをと考えたけれど、なぜ、やると決めたのか分からない。大変なことだったのに。
「保養」は「子ども達の健康を守るため(被曝を防ぐため)」に行うものだ。
おそらく、やると決めたのは「自分に子どもがいた」からだ。これしかない。だって、阪神大震災の時は「大変だなあ」と思うだけだったから。あの時は独身だった。
保養支援をやることは決めたけど、2012年5月に組織を立ち上げたときには、資金は無く、宿舎も決まっていなかった。それなのに、よく18人も参加してくれたものだと思う。それだけ、あの時は多くの人が原発の爆発に危機感を感じ、被災者の身を案じていたのだと思う。
保養支援をしようと思い、準備を始め、協力者を得てそれが始まり、10年間続け、そして2021年に終わり、その中で学んだことはたくさん。
たくさんある学びの中から2つ挙げてみる。
私の仕事は苫小牧市職員だが、活動資金集めの中で市職員を市民はどのように見ているのかを強く知った。裏切ってはいけない仕事をしているのだと。勤務しているときより強く知った。
様々な事業所等に寄付のお願いに歩いたが、当然、応対者の多くが疑いの眼差しを向ける。既に寄付を募る詐欺もあったし。目的を説明すると「ところで仕事は何を?」と尋ねられる。市職員と名乗ると(仕事とは関係ないと何回も念を押す)眼差しは変わる。市職員だからといって寄付がもらえるわけではないのだけれど、話をきちんと聞いてくれることがとても嬉しかった。
言葉ではない感謝や詫びの仕方を深く考えるようになったのも学びの一つだ。
保養支援を始める前、始めてから、そして保養支援そのものとは違う部分でも、友人・知人、ボランティアさん、団体等(役所含め)のお世話になった。そして負担や迷惑をかけたこともある。
裏切りと思われたこともあるかもしれない。でも、それが子ども達のためになることだったら仕方ない。詫びの気持ちは、保養支援をしっかり行うことで示すしかないと思っていた。
期限がなかった保養支援を「10年続ける」と決めたのも、その意思表示の一つだった。
書きたい事は色々あるが最後に。
私を指して「福島のために」とか「素晴らしいことですね」などと言われることがとても嫌だった。保養支援は、自分にとっては自分の心の中のどうしようもない衝動を満足させるためにやったことでしかないからだ。他人はどうあれ、所詮、私は自分のためにしたことでしかないのだ。
でも、例え私がそうだとしても他の人の感じ方はそれぞれだ。
私の「思いに共感」してくれた人がいて、そしてその人達が輪を広げていった。そして「輪」は「ふくトマ」になった。
私の「思い」を、みんなが「ふくトマ」という形にした。だから「ふくトマ」を褒められるのは何も恥ずかしくない、図々しいくらい。
「共感」してくださった全ての方へ。
本当に、本当にありがとうございました。
報告書の裏表紙

10年間ありがとうございました。
『離れていても、大人になった子ども達が支え合えるように。子ども達の未来を美しく守るのは、私たち大人の最大の「しごと」』