• もっと見る
« 2009年11月 | Main | 2010年01月»
<< 2009年12月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
国旗による世界旅行 C [2009年12月31日(Thu)]







ケベック州旗。白百合(fleurs-de-lis)はフランス・ブルボン王家に由来する。



カナダ最大の州はケベック州である。154万平方キロというから我が国のほぼ4倍もある。準州のヌナブトはケベック州より広いが、極北の地で人口も希薄、比較するに当たらない。

2009年現在、州の人口は778万人、これは大都会トロントを抱えるオンタリオ州に次ぎ第2位。

カナダの連邦政府としては英仏両国語が公用語である。これは徹底していて、たとえば、東京・青山の駐日大使館ではトイレの表示でさえ、英仏同じTOILETなのに、わざわざ2行にして2つ書いてある。大使館のレセプションや晩餐会に何度も招かれたが、歴代の大使はスピーの際、必ず、英語とフランス語で同じことを繰り返す。客の全てが英語を解することが分かっているような場合でも、これは徹底している。

だが、州人口の8割がフランス語で生活するフランス系住民であるケベック州だけは、フランス語のみを公用語としている。州旗もフランスの王朝時代の象徴である白百合を4つ組み合わせたもの。

首都オタワとモントリオールは隅田川の半分程度の幅の川を挟んで隣接しているが、端の両端ではレストランで渡されるメニューも言葉が違うし、料理はやはりフランス系が良いということで、ディナーは時間があれば橋を渡ってモントリオールまで行った。

州都はケベック市(ヴィル・ド・ケベック)だが、州最大の都市はそのモントリオール。モントリオールはフランス語圏の都市としてはパリに次ぐ規模である。州人口の約半分がモントリオール大都市圏に集中している。ケベック市の人口は約53万、周辺を含めても72万であるが、1608年にサミュエル・ド・シャンプランによって造営された城郭都市。南北アメリカ唯一の城壁に囲まれた市街であり、1985年にはユネスコの世界遺産として登録されている。

七年戦争(1767〜63)は当初、英国の財政的支援を受けた新興勢力プロイセンとオーストリア、ロシア、フランスなどとの戦争だったが、次第にドイツ諸邦やスエーデン、スペインをも巻き込み、さらに戦場がインドや北米フランス植民地にまで拡大した。あたかも、「第0次世界大戦」のような形で世界的な規模にまでなった。

 1759年、北米フランス植民地ではケベックが英軍の攻撃を受け、郊外のアブラハム平原での会戦でフランス軍が大敗を喫した。このため1763年のパリ条約で、カナダ全体がイギリス領となった。

  だから、私が話したJさんというフランス系のジャーナリストいわく「我々は七年戦争以来、250年間、イギリスの占領下にある。いつの日か独立を果たす」。

  そういえば、ラ・シタデル という観光名所がケベックにある。七年戦争の最後の舞台となった「ケベック要塞」のこと。1820年代からイギリス軍補修して完成したこのだが、今ではカナダで唯一カ所、フランス語で命令し連絡のやり取りをする部隊が駐屯している。そこでのフランス語で行われる衛兵交代が、アメリカ人など外国人観光客には大変な人気だ。また、ケベック大司教座所在地であるノートルダム聖堂は、南北アメリカで最初に建設された聖堂であり、旧ラヴァル大学 は1635年の創立で、米国マサチューセッツ州のハーバード大学より1年早い、新大陸最古の大学であった。現在は博物館になっている。

 ケベック州の課題はカトリック教会を基盤とする保守的農民層が多く、企業経済の多くを英国系に握られ、英語の支配人の命令でフランス語の労働者が働いているといわれる状況が続いたことであろう。

  独立問題が再燃するたびに、独立に反対、つまりケベック州はカナダの連邦を構成する一員であるべきだとする英国系の資本は、ケベック州から逃避し、世界的な不況の時などカナダの他の州と比較しても、ケベック州の経済事情は一層、右下がりとなる状況であった。こうした中でモントリオールに本店を置いていた主力銀行がトロントに実質上の本店を移してしまうというような出来事もあった。
                          (つづく)
国旗による世界旅行 B [2009年12月31日(Thu)]











アラスカ州旗。
北極星と北斗七星の関係については、小学校の理科の授業で
よく出てきたことを思い出します。
アラスカ準州の旗を公募した際、当時13歳の
ベニー・ベンソンの作品がコンペを制したもの。
1927年5月2日に正式に採用された。





  カナダは
今でこそアメリカ最も友好的な国の一つになっているが、
かつては執拗な国境争いが続き、
一触即発の危機的状況まで至ったこともある。

 アメリカの独立戦争の時でさえ、
新大陸軍はケベックの要塞を攻めようとして、
待ち構えたイギリス/カナダ軍に追い返されるということさえあった。

 国境はまず、
この大西洋岸の最東部の画定にあたってもめた。

  英米両国間で厳しい交渉の末、
1842年、アシュバートン・ウェブスター条約で
アメリカのメイン州が大きくカナダ側に膨れ上がった現在の形で
なんとか決着した。

 19世紀初めの南北アメリカ諸国の相次ぐ独立に遅れ、
英領北アメリカ植民地だったカナダが
独立に向けて第一歩を踏み出したのは、
1848年のこと。英国が同植民地に
自治政府を作ることを容認し、内政の自治が始まった。

 1867年、財政難を抱えたロマノフ王家が
アメリカへアラスカを売却した。

 わずか720万ドル(1エーカー=2セント)で、アメリカは
この広大な土地を手に入れた。

 それでもバカな買い物をしたと
実務にあたったスーアード国務長官は
低い評価しか受けなかったが、
1898年にはゴールドラッシュが起こり、
その後人口も増え、1912年には準州となり、
冷戦時代にあってはその戦略的重要性は計り知れず、
また、1959年に州に昇格、現在では、
さまざまな天然資源と水産資源の宝庫として、
アラスカはアメリカの重要な一部となっている。

  しかし、カナダにとっては、
アラスカの売却はさまざまな影響を与えた。

  1867年7月1日、カナダで連邦ができ、
アメリカと人為的に国境線が引かれた。すなわち、
アラスカとは西経141度線、
アメリカ本土とは北緯49度線を国境とすることに決まった。

 それでも、ロシアが太平洋岸づたいに南下し、
「アラスカ鍋の取っ手」といわれる部分の細部が
はっきりしなかった。

 シトカなどカナダ最西部のブリティッシュコロンビア州の
半分にまで伸びる太平洋岸に食い込んだこの地域については、
国境交渉が長期間続いた。

 北緯49度線にまたがるサンフアン島は1872年、
ドイツ皇帝の裁定によってアメリカ領となり、
また、金鉱山への出入り口となるリン・キャメルは
1903年の国際調停団による裁定で
全体がこれまたアメリカ領となった。すなわち、
いずれもカナダ側が押し込まれる形での
決着となったのである。

 このため英本国へのカナダの信頼は大きく減じられ、
カナダでは自ら国際的に
自立した国づくりをめざすようになった。

 このため、19世紀後半になってカナダは
オーストラリアや南アなど他の自治植民地と連携し、
次第に外交権を拡大し、
第一次世界大戦への参戦で、
ヴェルサイユ講和会議に他の独立国と対等な
独自の代表団を派遣できるような
国際的地位を確立した。

 1926年のバルフォア宣言で
英本国とこれらの自治植民地とは
「真に対等で、いかなる意味でも相互に従属しない」
友好関係となり、
1931年にこのつながりが法的に
確認された(ウェストミンスター条例)。

 第2次世界大戦でもカナダは
香港で日本軍と戦ったのをはじめ、
欧州戦線でも厳しい戦闘を続けた。

  このため、
1945年4月にできた国連には原加盟国として参加した。

  今も国連のPKO活動のための常備軍を持つなど、
国連の平和構築・平和維持活動の
中心的なメンバーになっている。
                 (つづく)
国旗による世界旅行 A [2009年12月31日(Thu)]












 オタワはウランバートルに次、世界で2番目に寒い首都。
ちなみに3番目は北京。

 空港には静かに何本かのカナダ国旗が並んでいた。

 中に、1本、モザンビークの国旗があった。
 緑黒黄に赤い三角形、その中に、農民を表す鍬と
知識階級を表す書物に加えて、
ポルトガルからの独立戦争に次ぐ内戦を勝ち取った
兵士の象徴であるAK47の銃を描く国旗が、
静かな町に異様に見えた。

 緑黒黄が白の細い帯で分けられているのは、
ポルトガル人を中心とする白人がモザンビークでは結構、
活躍していることを示唆しているのであろう。
1985年に首都のマプートを訪れた時、
外相とお目にかかったが、この人も白人、
他にも半数近い閣僚が白人だと聞いて驚いたことがある。

 もっとも、独立から4半世紀を経て最近は、
ずいぶん白人の大臣は減ったと聞く。
 
 それにしてもオタワになぜ?
 この平和な国にモザンビークの国旗は
いささか異様な印象を与えてくれた。

 訊くと、モザンビークから要人がやってきているから
だとのこと。

「それにしてもあの旗をよくご存じですね」
と返す金髪の若いグラウンドホステスの微笑に
きっと私は少年のように得意そうな顔をしていたに違いない。
嬉しかった。

 そして思いだした。そうだ、
モザンビークはポルトガル語が公式な言語だが、
英語もかなり通じる国として、
1995年に英連邦に加盟したのだった。
思わぬ機会に英連邦の紐帯をを思い出した。

 ところで、現実のカナダを理解するには各国、
とりわけ英仏両国の厳しい勢力争いと
隣接する大国アメリカとも何度かきしんだ建国の歴史を
知る必要がある。

 まずはカナダの歴史をさらってみよう。
 
 アメリカには7月4日という独立記念日がある。
1776年のこの日、独立宣言を発したことに由来する。
1783年の独立戦争を一応終えて、
当時、新大陸軍を形成していた13州が
国旗・星条旗の紅白の条となって今でも讃えられ、
現在の州の数は50の星で示される。

 今の旗は1960年1月にハワイが州に昇格し、
その年の独立記念日(7月4日)に50星になって以来のものである。

 カナダにはこうした明確な独立記念日がない。
長い時間をかけて段階的にイギリスからの独立性を
高めていったからである。現在でもなお、
カナダの国家元首は形式的にはエリザベス女王であり、
現実にはその任命するカナダ人の総督が
元首の代行をしていることになっている。
                         (つづく)

国旗による世界旅行 @ [2009年12月30日(Wed)]











カナダは日本の東の隣国、古くは1976年にはモントリオールで、2010年の早々にバンクーバーで五輪も開催されるにかかわらず、日本人のこの国への関心は、どうだろうか、いまいち高くないように思う。

多くの日本人、特に若い女性は「『赤毛のアン』の国ね」と答える。確かにそうだ。この作品はプリンスエドワード島で生まれたルーシー・モード・モンゴメリ(1874〜1929)の世界的ベストセラーとなっている。

だが、これはいかに感動的で素晴らしいものであっても、これだけでカナダを知りえるというわけにはいくまい。これはあくまでも少女向けの物語にすぎない。

カナダへの理解が低い原因の1つはG8の一員でありながら、日本のメディアはどの社も支局や特派員を置いていないことにあるのではないか。
 
訊けば、「ワシントン総局がカバーするようになっている」と各社とも口をそろえる。

私が初めてカナダを訪れたのは、2001年、
そうだ、私もボストンから飛んだ。

「9.11事件」の直後のことだ。

 テロリストたちの出発点であったボストン空港の厳戒ぶりは
大変なものだった。

 2日前にボストンについた時、
必ず出発3時間前までに来てください。必ずですよ」といわれ、
生来のまじめな性格である(?)私は3時間40分も前に空港に到着した。

 ボストンではあらゆる自動車が星条旗を立てていた。
アメリカ人の星条旗好きというだけでは語れない、
もう熱狂的な愛国心と団結の社会現象という感じだった。

 これはいまに始まったことではないが、星条旗の数が尋常ではなかった。

 空港前のポールにはひときわ大きな星条旗、
空港の売店にも旗、旗、旗・・・。
自家用車もタクシーもトラックも・・・。 

 空路なら約1時間半でオタワに着く。
 
 オタワは静かな首都である。
 1826年、オンタリオ湖とオタワ川との間に運河を建設するために作られた町。「オタワ」とは、アルゴン・インディアンの言葉で「取引」を意味するのだそうだ。この1826年、日本ではその前年、異国船打払令が出され、2年後にはシーボルト事件が起きている。葛飾北斎、間宮林蔵、近藤重蔵らが活躍していた時代であり、幕末期の外圧がじわじわと押し寄せてきた時期だ。

 1854(安政元)年に「日本惣船印」として「日の丸」を制定した阿部正弘はまだ7歳の幼児だった。
 
 そんなときに、今、カナダの首都となっているオタワの町づくりがようやく始まったのだった。

 ちなみに「カナダ」という国名は、イロコイ・インディアンの言葉で「村落、小さな家が並ぶところ」といった意味とされる。

 そのカナダではオンタリオ湖畔のトロントが最大の都市、セントローレンス川に沿ってモントリオール、ケベックの大都市があり、
他にもウィニペク、エドモントン、バンクーバーなどの都会があるが、政治の中心は人口80万余り(周辺地域を入れても113万)のオタワ。カナダ第4の都会であるはずだが、喧騒がまったくなく、大都会という感じさえしない。
                             (つづく)

下地島空港の活用に賛成 [2009年12月30日(Wed)]

     



     あなたのがんばりどころですぞ、小沢さん








毎日新聞電子版によると、
民主党の小沢一郎幹事長は29日夜、
東京都内で開いた与党3党の幹事長・国対委員長の忘年会で、
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題について
「(同県宮古島市の)下地島に使っていない空港がある」と述べ、
現行計画に基づく米
軍キャンプ・シュワブ沿岸部に代わる移設先として、
下地島を検討すべきだとの認識を示した、という。

 こんな話が今頃出てくるのがおかしい。

 下地島空港は10数年前に開港した、
国内有数の3000mもの滑走路を持つ
ほとんど使用していない空港。

 全日空と日本航空がパイロットの訓練用として使っていたが、
噂によると、労働組合が周辺に何もなくあまりに退屈であり、
英語の訓練も同時にできる米本土で行いたいと申し出、
今では、年に10日間ほど使用されているだけ。

 この下地島、人口はほとんどゼロに近い。隣接する伊良部島からは
それでも6本の橋がかかって、事実上1つの島になっている。
あと数年で、この地域の中心である宮古島とも大きな橋がかかる。

 そうなると、宮古市には大きな空港が2つもあるということになる。

 これまでにも”軍事活用”のはなしは何度も出たが、宮古市当局が、
断固「平和利用」を主張して、話は立ち消えになってしまったところ。

 私たちは、それでも、台風の避難空港として、また、
中台武力衝突になった時には、
双方の航空機の緊急避難空港としての使用を認め、
武装解除して乗組員を帰国させるということにすべきであり、
普段は自衛隊の訓練にも活用し、
整備を完全にしておくべきだと提言している。

 現に、数年前、航空自衛隊最高幹部OBと台湾空軍の幹部を
下地島空港に案内したこともある。

 これ以上は機密にかかわる部分もあるので、書かないが、
関係者の宿舎も完備し、風光明媚な下地島空港を
このまま眠らせておくのはあまりにおしい。

 小沢さんの剛腕は、こういうところに発揮してほしい。
今の連立与党の結論なら、
宮古市も徹底抗戦派できないのではないか。
富士、甲斐駒、八ヶ岳 [2009年12月29日(Tue)]









年の初めは富士山が一番だが、年末もこんなにきれいです。












 南アルプスの雄峰・甲斐駒ケ岳。標高2967mの火山。












      もしかしたら噴火前は富士山より高かったのではないかと思われる
     八ヶ岳。標高2899m。





   冬山登山? 夢のまた夢、というより夢にも見たことがない話。

   しかし、見るのはいいですよね。下界からあおぐのもよし、
 近くから眺めるのもよし。自動車の中からなら、なおよし・・・
 と、だんだん手抜きになってきた。寒いですよ。

  おのおのがた風邪などめさるるな。小生、8割回復。で、この写真が
 撮影できました。「日本で2番目にうまいコーヒー店」と店主がのたまう、山梨県大泉町の風草屋コーヒー店の前一カ所で撮影。
近衞さん連盟会長就任祝賀会 [2009年12月29日(Tue)]





  これは昨年の2月8日、共通の恩師・橋本祐子(さちこ)先生
 生誕100年を祝う会(日本青年館)で。中央の近衞社長と
 吹浦(右)、高橋くん(年齢順・・・念のため)。たまたま、
 同じ日になったのは、近衞さんの日程の都合によるものだが、
 橋本先生とのジュネーブでの出会いから日赤入社となった
 わけで、この偶然にも、そういうことをあまり信じな私でも
 奇縁を感じる。







  日本赤十字社社長近衞忠Wさんが
日本人で初めて、アジアではじめて
国際赤十字赤新月連盟の会長に選任されました。

元会長で大富豪のベネズエラ赤十字社の社長を破っての
快挙です。

  これを祝い、
さらなる活躍を期待すべく
下記により、祝賀会を開催します。

お誘い合わせのうえ、奮ってご参加ください。
参加資格を問いません。

必ず事前にお申し込みください。

  多くの方々から、
なぜ早く企画せぬのかとお叱りをいただいておりましたが、
いかんせん、
新会長の海外出張の日程が決まらず、
遅くなりましたことをお詫びします。

  なお、急な事情で変更になるような場合もありますので、
恐縮ですが、随時、小欄をご覧いただき、
変更にご注意ください。

  世話人:
   吹浦忠正 (ユーラシア21研究所理事長)
   高橋重宏(東洋大学教授、4月より
      日本社会事業大学学長就任の予定)

              記

主 賓=近衞忠Wご夫妻

と き=2010(平成22)年2月8日(月)
            午後6時30分より

ところ=都内(未定)
  (日赤会館に先約あり他の場所を検討中)

会 費=一万円以下

参加申し込み=
   お名前、ご住所(郵便番号)、電話番号、
携帯電話番号、メルアド、所属(元でも可)を
お書きの上、吹浦あてお知らせください。
勝手ですが、できるだけ、メールをご使用ください。
メールでお申し込みくださった方には
着実に変更などのお知らせを即刻することが
   できますので。
   
    fukiura@eri-21.or.jp

電話:03−3500−1215
Fax.:03−3500−0215
   所在地:105-0001 港区虎ノ門1−15−16 6F
 ユーラシア21研究所
             担当:吹浦忠正、石川雅子

申し込み締切=2月1日(月)正午必着   
                  以 上
クリスマスそしてお正月へ [2009年12月28日(Mon)]
























 1年間の最後の数日になりました。

 我が家ではこのクリスマス・リースが26日まで
玄関を飾り、皆さんにいろいろ感嘆の言葉をいただきました。

 作者は、石井満弓さんという
舞鶴で出会った素敵な芸術家です。

 その26日、今度はわがユーラシア21研究所のある
海洋船舶ビル(東京・虎ノ門)には、この質実剛健(?)型の
門松が建てられました。管理会社であるBMCが毎年、
心配りをしてくれるのです。

 日本の季節はとても四季などというものではないですよね。

 クリスマスをそれぞれが楽しく送り、
今日で仕事納め、あとは
「もういくつ寝るとお正月」という気分です。

 おかげさまで、幸せな国でしあわせな1年を送ることができました。

 来年もみなさまにとって、
すばらしい1年でありますようにと祈念します。
通算28回目の日露対話 [2009年12月28日(Mon)]



   




ユーラシア21研究所(吹浦忠正理事長)と
安全保障問題研究会(袴田茂樹会長)が
ロシア政府に大きな影響力を持つロシア世界基金、ロシア文化基金
(ともにニコノフ総裁)と共催する「日露専門家対話2010」が
新春3月15,16の両日、モスクワで開催されることになった。

 これは1973(昭和48)年、わが師・末次一郎がはじめたもので、
通算28回目にあたる。今回は、財団法人東京倶楽部と
日本財団の大きな支援をいただいている。

 きょうまでに合意した今回のテーマは、以下の4つ。

Новые политические
аспекты в отношениях
Японии и России
 (日露関係における新たな政治的側面)

Возвышение Китая и
японо-российские отношения
 (中国の台頭と日露関係)

Экономический и
финансовый кризис и
современный мир
 (経済金融危機と現代世界)

- Роль культуры в
японо-российских отношениях
 (日露関係における文化の役割)

 これまでの積み重ねを基本に、建設的な話し合いができるよう、
これから詰めて行きたい。

 蛇足:まったく偶然なのだが、袴田氏(青山学院大学教授)と私は
ともに3月17日生まれで、ここ数年、毎年、その日は
ロシア代表団とこの会議をしているという、
奇妙な伝統?がある。
尊敬する看護師Tさん [2009年12月28日(Mon)]










 いまは一時の母であるTさんとは
いろいろ啓発し合ってきた仲です。

9か月ぶりでしょうか、メールをいただきました。
出産と育児で大変だったのでしょう。

 この人は日赤看護大学を出、臨床を重ねつつ、
東洋英和女学院大学の大学院で白血病について
研究された看護師さんです。

 4年前の12月、私の兄が、
私からの造血幹細胞移植もむなしく、
国立ガンセンターに入院し、で亡くなるまでも、
多くのことを教えてくださいました。

 それでいながら日本酒の利き酒鑑定士のような
資格をお持ちなのです。

私が出会った多くの看護師さんの3本の指にはいる、
人物的にも素晴らしい人です。 

  幅広い知識と深い教養をお持ちの方です。これで
美人と書くとだれだか
バレそうですから(笑)止めましょう。

 1年の終りにこういう人からお便りをいただくことは
うれしいことです。

    ☆       ☆       ☆

吹浦先生
お久しぶりです。随分、ご無沙汰して申し訳ありません。

 しばらくぶりに、先生のブログを拝見して、
110万アクセスを超えたことを知りメール致しました。
おめでとうございます 。

その中の、三浦朱門先生との「ワープロの話」を、
私は日赤看護大学での授業の中で聞いたのを思い出しています。

詳細は覚えてないのですが、こんな話もありましたね。

バングラデシュでの救援物資の配布についての話でした。
盗難や二重受給を防ぐために配布券には漢字で
「吹浦」というサインをした、
ということを話されたときだったと思います。それでも途中で
サインも模倣されたため、
変更した(漢字を使用した)ということまでは、覚えています。

 気がつけば、もう16年も前のことになります。

ブログの影響力は、本当に大きいですね。
レスポンスの速さも凄いです。あっという間に
大量の人間に意見を伝えることが、
出来るのですものね。

少人数の直接の授業とは対極にあるように思えました。

日赤での『政治学』の授業は印象深く、いろいろ覚えております。
自分の中での考えるきっかけを沢山頂きました。

それをきちんと解決に向けているかと言われると、
出来ていませんが。

東洋英和の大学院での授業もですが「人気ブロガー?」の
授業を直接お聞きすることが出来、今考えると贅沢でした。

ありがとうございます。情けない学生のままに終わらないように、
努力したいと思っております。

今年もお忙しい毎日を過ごされていたことと存知ます。
お体には十分お気をつけて今後もご活躍ください。

 来年、年女になります。飛躍の年にしたいと思っております。
今後とも、どうぞよろしくご指導お願い致します。

年末になると、白血病で亡くなられた先生のお兄様のことを
思い出します。

骨髄バンクのボランティアは、継続しています。
臨床現場の厳しさを改めて感じたり、
たるんでる?様に感じることもあります。

私の立場で何が出来るかを考えて、行動したいと思います。
年末年始は寒い様ですので、
どうぞインフルエンザ等には気をつけて、お過ごしください。

 また、お姿を拝見できることを楽しみにしております。
| 次へ