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枝豆の突然変異? [2009年09月20日(Sun)]







「笹塚駅近くで紫色の枝豆発見!

花はどうみても豆の花です。
名前はわかりませんが、
初めてみました。
よく見かける植物でしょうか?」

 わが歌仲間、もとい、
尊敬する声楽家のY先生から、
こんな写真が送られてきました。

 浅学非才にして経験不足の小欄は、
70年近くも人間をやってて、
こんな豆は見たことがないのです。

 枝豆、コンニャク、タコを食するために
人生があると思っているほど
熱心な枝豆ファンでありながら、
これはなんとなんと、見たことも
聞いたこともありません。

 どなたかぜひ、解説してください。
 
古代世界の旗 [2009年09月20日(Sun)]











古代の旗は中国で最も発達したが、他の文明の発祥地や
ギリシャ、ローマではどうだったか。
拙著『日の丸を科学する』(自由国民社)
『日の丸の履歴書』(文藝芸春秋社)などを参考に、
見てみたい。

 確認されている最古の旗は、
紀元前3000年以上も前の古代エジプト時代のものとされる。

単純な飾り模様だったり、ファルコン像を頂いた
飾り棒(スタンダード)であった。また、アッシリアが1頭の雄牛や
2頭の雄牛がしっぽで繋がっている様子を描いた円板のしるしだった。

 インドでも古代インド(紀元前4,5世紀に成立か)の
宗教的、哲学的、神話的叙事詩であり、
ヒンドゥー教の聖典とされる『マハバラータ』に
動物を描いた旗があったことを示す記述がある。

 ギリシャの都市国家でもアテネがフクロウ、コリントが天馬、
ビオティアが雄牛、テーベがスフィンクスなど
それぞれのシンボルを決めていた。

 ナポリの国立考古博物館には
中部イタリアで勇猛果敢な部族として知られたサムニウム人が
軍旗を掲げている様子を描いた石がある。

ナポリ西方のサレルノ湾に添った古代都市パエストウムの遺跡から
掘り出されたものだ。
それは兵士の捧げる竿に吹き流しと
4つに仕切られた赤い旗からなる縁の付いた旗である。

『大百科事典』には極彩色の写真が出ている。
完成された形態の旗が紀元前4世紀に存在していたということだ。
 
ローマでは当初はどの部隊も干し
草の束をさまざまな形に結んだりして竿の先端に付け、
目印にしていた。その後は、皇帝の肖像画、
メダル、王冠、オオカミ、半牛半人、馬、猪などを
旗印にする部隊もあった。

これを統一し、部隊間の無用の競争や反目を防ぐべく、
BC140年にコンスルに就任した
ガイウス・マリウス将軍(BC157〜86)がワシを
正式にローマの標識として採用した。

無産市民を武装させて初の職業軍人を出現させたり、
編成や装備の面でも独創的な大改革をしたことでも
知られている人物である。

 ローマ帝国のキリスト教化が進むにつれ旗は
宗教上の目的をもって使用されるようになった。

ローマの騎兵隊が用いたのは、
ヴェクシルム vexilum という、竿の先に
十字架のように横棒を取付け、そこに縁取りした赤い正方形の布を
たらしたもので、そこに軍団の名や絵を描いたものである。

313年の「ミラノ勅令」で
キリスト教を公認したことで知られるコンスタンチヌス帝(272〜337)が
キリスト教に帰依してから、その旗に
キリスト教シンボルである十字架を描いて各地に立てた。

これが西洋での最初の布製の旗とされる。
シンボルと人間 [2009年09月19日(Sat)]











  旗の始まりは「目じるし」だった。
木の枝や葉などを用いたり、簡単な布切れをそれにつけたりし、
やがて、棒や槍に布を巻いたりしたのが
旗の始まりではなかったと思われる。

 それが次第に、集団や国家の象徴とされ、
権威や支配の標識、到達すべき目標や理念、
儀式などでの装飾などの目的で使用されるようになった。

国旗の成立はもちろん国家の成立に伴うものである。
国民統合のシンボルであり、
領有や支配の範囲を示す役割を果たし、旗は古来、
シンボルの中のシンボルというべき
コミュニケーションのための存在であった。

  国立奈良文化研究所の佐原誠研究指導部長によると、
集団で同種族が闘争し、殺し合うのは人間だけだという。

悲しくも恥ずかしい話ではあるが、そこで戦時、平時を問わず
それぞれの集団を表す印が必要とされたのかも知れない。

人間は何か共通のシンボルを決め、
そのもとに集まるということが必要だ、ということではないか。

『シンボル形式の哲学』全4巻で知られる
ユダヤ系ドイツ哲学者エルンスト・カッシーラ(1874〜1945)は
「人間はシンボルを使う動物 animal symbolicum である」
といっている。

 また、主としてグラフィック・デザインの分野から
シンボルを総合的に研究している
米国カリフォルニア大学バークレー校教授で哲学者の
ヒューバート・ドレイファス(1929〜)は
「文化の始まりにあたり、人間はシンボルをこしらえた」と言い、
さらに、だからその延長として、
シンボルによって言語や異文化を超えた普遍的な
未来のコミュニケーションが可能であろう、
と多年、シンボルの発展を研究している。
旗・旅・族は仲間です [2009年09月18日(Fri)]





  
去年の11月、難民を助ける会に「沖縄平和賞」が授与され、
家「族」づきあいしてきたボランティアと旅行社の「旗」に引率されて
南部沖縄慰霊「旅」行に行きました。
その時に出会ったハスです。











「旗」という文字の「其」を除いた部分が、
そもそもハタを表すと書いたところ、では、
「旅」や「族」はハタとどう関係するのかとの質問を
2,3の方からいただきました。

     =======================

「旅」「族」のほか「施」「旋」などが日常使用されている。

「旅」は旅行、旅館、旅団などと用いられる「旅」は、
「多くの人が軍旗をおしたてて行く」の意から、
旗を掲げて連れ立って歩くさまを表し、「
族」は家族、遺族、民族、貴族、血族、豪族などとして用いられ、
「軍旗のもと多くの矢があつまるさまから、
集まるの意味を表す」、すなわち、
同じ旗のもとに守りぬくべき集団を表す。

「施」は実施、施策などとして用いられ、
「うねりゆらぐ旗のさまから次第に及んでゆく、
うつる、ほどこすの意味を表す」。

旋律、斡旋、凱旋、旋回、旋盤などの「旋」は
「ふきながしがめぐるようにぐるぐるあるきまわるの
意味を表す」(「」内は、大修館書店『漢語林』)。

 漢字にはまた、ハタを表す文字がいろいろあり、
既に『周礼』に先秦時代の旗の種類や用途についての
さまざまな記載がある。
酒井法子がかわいそう! [2009年09月17日(Thu)]












 「酒井法子がかわいそう」
と言ってはいけないのでしょうか。

 偶然、実況生中継を見ました。なぜ、あんなにもマスコミが集中し、
NHKさえも7時のニュースの2番目に報じなくてはいけないのでしょうか。

 憲法は「法の前の平等」を説いています。

 ほかにも同じような罪を犯した人が
大勢いるはずなのに、
その人たちは報道されないし、
されても顔は隠したままです。

 もちろん、とんでもない罪を犯しましたが、
ここまで社会的制裁を科していいのでしょうか。

有名人も所詮は一個人であり、
人権が保護されるべきは当然です。

 幼い子供もいるんですってね。
あとは、法の裁きをうけるだけにしてあげましょうよ。

 これが私の率直な感想です。
五木寛之氏と拙著(最終) [2009年09月17日(Thu)]










 20年近く前の拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)を引用しての
五木寛之氏のエッセイの前半最終の記事である。つづきは
この表紙の本をお求めください。拙著はAMAZONでかな?

   =======================

 このような事件の細密正確な真相を確かめることは
きわめてむずかしい。しかし、
当時の参謀総長、有栖川宮熾仁親王が現地に要求した
機密報告に対して、
大山司令官はその一部をはっきりと
肯定していることからみても、
事件は幻ではなかったはずだ。

 それから10年後、日本政府と軍は、
あらためて代表的な学者を多数各軍に配し、
前出の有賀長雄は総司令部の首席法律顧問として従軍した。

 乃木・ステッセル間の通訳をつとめながら
旅順開城の規約作成、交渉の件にあたったのも、
この有賀である。

 ロシアとの戦いで再び欧米諸国の批判をあびては
国運にかかわりかねない。

まして相手は赤十字条約、
国際戦法規の整備に熱心なニコライU世の帝政ロシアである。

万が一にも国際世論の批判をこうむるようなことが
あってはならない。それは日本を危うくする。

 政治の立場からすると、そういう一面があった。しかし、
この問題にひそむもう一方の人間的側面を忘れては
大きなまちがいを犯すことになるだろう。

   ☆☆ ★ ☆ ★★ ☆ ★ ☆☆

 さすが、見事に拙著をお読みくださっている。著者として
こういう読者に情報を提供できたというのは
嬉しい限りだ。
五木寛之氏と拙著A [2009年09月17日(Thu)]







 昨日に続き、五木寛之氏が
拙著『捕虜の文明史』を引用されたエッセイを
ご紹介したい。

    =======================

 日露戦争の開戦直後に、寺内陸軍大臣はいちはやく
34ヵ条からなる《陸軍俘虜取扱規則》を制定したという。

 この《俘虜規則》の根本精神は、
<俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加ヘルヘカラス>
と、いうものだ。<虐待>は当然禁止さるべきだとしても、ここで
<侮辱>という問題をあえて冒頭においた姿勢には
感心させられるところがある。

 つづいて、
《俘虜取扱規則》、《俘虜労役規則》、《俘虜収容所条令》、
《俘虜自由散歩及民家居住規則》などの勅令や通達が
つぎつぎとだされている。

 捕虜が母国へ送る郵便料金がすべて無料サービスだったのも、
《俘虜郵便規則及俘虜郵便為替規則》によって定められたものだった。


 こうして見てくると、
明治の政府・軍部がいかに細心の注意をはらって
戦時国際法を遵守しようと努力していたかがうかがえる。

 吹浦氏の紹介ではじめて知ったのだが、
作家の小田実氏はその著作
《「民」の論理と「軍」の論理》のなかで、
日露戦争のころ出征軍人が携行した当時の
<軍隊用手帳>をはじめて見たとき、
ある種のショックをうけたと書いているという。

<軍隊用の手帳というので、まず
「軍人勅諭」でもあるのかと思ったら、
そういうたぐいのものはいっさいないので意外に思った>
 というのである。手帳を開けると最初に「戦時国際法」の条文が
でてきた。そして、
<われわれは文明国人として捕虜と非戦闘員に接するように>と、
くどいほどその取扱い方法が述べてあった、というのだ。

このエピソードを読んで、
小田さんならずとも意外な気がするといえば、
明治の人たちに叱られるだろうか。

 日露戦争に先だつ明治27、8年の日清戦争の際に、
あまりに簡単に占領できたことが、
10年後のロシアとの戦争の際の乃木軍の旅順攻撃計画に
不幸な先入観としてあったらしい。

 それはともかく、この日清戦争の旅順口占領にあたって、
日本軍は欧米各国のジャーナリズムから
袋叩きにあう不祥事を起こしている。

旅順口の清国人に対する無差別攻撃事件がそれだった。

司令官大山巌の第二軍とともに参加した第一線の国際法学者、
有賀長雄は《日清戦役国際法論》のなかに
このように記録しているという。

<市の北の入口より其の中央に在る
天后宮と称する寺(航海保護の神を祭る処)まで
道の両側に民屋連列せり。而してその戸外及戸内にあるものは
屍体ならざるはなく、
特に横路の如きは累積する屍体を踏み越ゆるに非ざれば
通過し難かりき(後略)>

 この事件の直後から、
アメリカの新聞がセンセーショナルに報道した
<6万人虐殺説>をはじめ、各国記者、観戦武官などの痛烈な報告が
世界中に打電される。

<条約改正をして文明国の仲間入りをしようとしていた
日本にとって致命的ともいえる悪評が、たちまち世界に拡がった>
と、吹浦氏はその反響について述べている。
                     (つづく)
三宅雪子議員に苦言 [2009年09月16日(Wed)]










 初登院の9月16日午前2時47分に
国会正門前に到着。コンビニで買ったサンドイッチを
朝食として食べるなどして、
開門までの約5時間を費やした。

 これが民主党の新人衆議院議員・三宅雪子さん(44)。

 秋田の先輩で、早稲田の先輩というご縁で
あなたの祖父の石田博英元労相(バクさん)にはお世話になったし、
お母様とは
早稲田の同じ政経学部政治学科の同期だったし、
ご尊父の三宅和助元シンガポール大使とは、
とても親しい関係で、バクさんの後を継いで
秋田1区から立候補する相談をした仲だった。

 時の安倍晋太郎外相に、日本の外相として事実上、
初めてのアフリカ歴訪を仕掛けて実現し、
一緒に数カ国を周ったこともある。

 和助氏が外務省アフリカ局長だったとき、
協力して「アフリカへ毛布をおくる会」を立ち上げ、
そこでは、森繁久也会長、
吹浦実行委員長、三宅事務局長という関係だった。

 そんなご縁のある先輩としての苦言を1つ。

「こういうお馬鹿さんはお止めなさい」。

健康管理をしっかりし、志を磨き、政策勉強に励み、
政治家としての経験を積んでもらいたい。

 バクさんも、和助大使も草葉の陰で
恥ずかしさで、がっくりしてますよ。
五木寛之氏と拙著@ [2009年09月16日(Wed)]











 熊本県在住のW氏から作家の「五木寛之氏が書いたものに、
キミの名前が出ているよ」と
エッセイ集『みみずくの宙返り』(幻冬舎)をお送りいただいた。

その中の「明治の戦争とその側面」と題する一編は
五木さんが、1993年7月11、12の両日、
日本経済新聞に掲載したものだ。久しく失念していたが、
この機会にご紹介したい。

      ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 もう25年以上もむかしのことになるだろうか。<朱鷺の墓>という
長篇小説を書くために、金沢の地元の新聞社の倉庫に
日参したことがあった。私がまだ金沢に住んでいたころの話である。

 その小説は、日露戦争の終わったあと、
金沢へ大量のロシア軍捕虜(ほりょ)が送られてくる場面から
はじまるはずだった。

 明治37、8年のころの金沢の雰囲気を知るには、
地元の古い新聞を調べるのがいちばんである。

新聞は世論をリードするために、
かなり好き勝手な偏向(へんこう)報道もするが、一方では
その立場と逆の真実も行間からおのずとこぼれだすところがあって、
そこがおもしろいのだ。

 そんなわけで、私はせっせとカビくさい資料室の倉庫に
朝から晩までこもりきりで、古新聞のページをめくって
過ごしたものだった。

 明治のころの日本政府および日本国民が、
捕虜となって内地に送られてきた敵国ロシアの将兵に
どういう態度をとったか、というのが、
そのときの私の関心事だった。

 一般には、当時の日本が大国ロシアを相手に
最後まで長期の戦争をつづけることは、実際上、
不可能だったといわれている。

それはたしかにそのとおりだったろう。最初に
強烈なパンチをあびせておいて、あとは
ロシアと利害が対立する欧米列強の調停を待つしかない
というのが政府と軍の判断だった。

死力をつくし、天佑(てんゆう)に期待して緒戦(しょせん)の勝利をかちとる。
そして当時の大国間の冷戦構造を外交によって
最大限に利用する、そういう期待が最初からあった
綱渡りのような戦争なのだ。

 そして、そのためには先進諸国への日本の印象が
重要である。残酷なアジア的野蛮国、というイメージは、
決してあたえてはならない。

ことに人権問題は慎重に配慮する必要があった。

つまり戦時における捕虜、市民、傷病者などの
取扱いの近代化である。

 日本側では、この点を重視し、
<ジュネーヴ条約>にくわえて<ブラッセル宣言>の内容を
徹底的に学ぼうとつとめたらしい。

 吹(ふき)浦(うら)忠(ただ)正(まさ)氏のユニークな労作
《捕虜の文明史=新潮選書》には、
そのあたりの事情が詳細かつ具体的に例をあげて
述べられている。以下、同書にそって
当時の事情をかいまみてみることにしよう。
                  (つづく)
クイズ雑楽王に今夜も [2009年09月16日(Wed)]



        







 クイズ雑楽王に今夜も回答者として出演します。

 テレビ朝日ですから、
東京周辺ではデジタルの5チャンネルです。

 放送は7時から2時間番組ですが、
私がチラっとですのは8時前後だとか。

 問題はこの旗のことです。

 国旗ブームというか、昨今、実に国旗についての問い合わせが、
多方面から沢山きます。いろいろな企画も進んでいます。

 国旗は国際理解の第一歩ですので、この番組もそうですが、
国旗のことでしたら、出演料なしで、何処にでも出かけます。

 私はほんとに国旗によって育てられたようなものですし、
国旗はいろいろなことを学べば学ぶほど、
知れば知るほど、奥が深いのです。

 テレビ番組への出演がそうした若い仲間を増やすことになればと
願っています。