国旗の拙著をどうぞ [2008年03月29日(Sat)]
拙著『地球を結ぶわたしたちの旗 世界の国旗』が約10年ぶりに全面改訂され、 本日、発売になりました。ほるぷ出版から、1680円です。
この10年間で、いくつもの国旗が改定され、 また、新たな独立国の誕生となりました。
たとえば、イラク戦争で敗北したイラク、 1960年代の国旗に似た形に戻したアフガニスタン、 国名にちなんだ聖ジョージ旗にしたグルジア、 政変の旅に国旗が変わるコモロ、 流血の悲劇から離脱すべく国旗を一新したルワンダ、 チャペス大統領の気分?で一部を変更したベネズエラ、などなど。
さらに、新たな国連加盟国東チモールないし 分離して2つになったモンテネグロ、セルビアといった国々の国旗も、 もちろん掲載した。
レソトやバーレンのように、 特段の政変があったわけではないのに変更という国もある。
拙著は、おそらく、コソヴォの国旗を掲載した 世界でも最初の国旗の本ではあるまいか。
去る3月18日、日本政府はこの国を承認した。
国旗の出版物はもう30冊は越えたと思うし、 まもなくさらに別のものもでるよう進めている。
そのつど紹介したい。
本書は、すべての国旗を平等に紹介するのではなく、 小学校高学年から高校生が知り、 親しんでもらえるよう、 全面ルビつきで、かつ、 主要国を大きく扱った。
こういう国旗の本というのは、実は意外に、例が少ない。
自分で言うのもなんだが、北京でのオリンピックを前に「必携の本」という、ホルプ社の謳い文句に異論はない。
北京五輪が2倍楽しめますよ。
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吹浦 忠正
at 10:44 |
国旗 |
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昼下がりの情事と英語 [2008年03月29日(Sat)]
ビリー・ワイルダー監督の名画『昼下がりの情事(Love in the Afternoon)』を見た。
何をいまさらと言うなかれ。先日、小欄で1947年製作の『第三の男』について、ウィーンが舞台となっているだけに、ドイツ語と英語の使い分けが良く、英語が世界制覇をしていないのがいいといった趣旨のことを書いたので、その10年後の作品はと思い、借りに出かけたのだ。
またこの作品、英語の勉強にすこぶるいい。泣き笑い、緊張、気取り・・・さまざまな心の動きを表現している。かつて、尊敬するサイマルインターナショナル共同創業者村松増美氏(日本屈指の日英語同時通訳者)から、「自分は、『カサブランカ』を30回見て英語を勉強した」という話を聞いて感心したことがあるが、『昼下がりの情事』はそれに勝るとも劣らないと、私は思う。
さて、ストーリー。Gooに出ているものに加筆する。
☆―――――― ・・・ ―――――― ・・・
クロード・シャヴァッス(モーリス・シュヴァリエ)はパリの私立探偵。御依頼ともあれば、アメリカの億万長者フラナガン(ゲイリー・クーパー)とX夫人の濡れ場を盗み撮るという仕事も、やらねばならない。
依頼人のX氏がその写真を見て、フラナガンを殺すといきまく。
これを聞いたのが、父の扱う事件記録を読むのを楽しみにしている、シャヴァッスの娘アリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)。この事件が気になってたまらない。
フラナガンの泊まっているホテルリッツに来てみると、X氏がピストルをポケットに忍ばせているところにアリアーヌは出くわした。アリアーヌはバルコニーから忍び込み、X夫人と入れ替わるという起点でフラナガンを救う。
あんな浮気男となんてとおもいつつも、アリアーヌは翌日ホテルを訪れる。食事と美しいムードミュージック、フラナガンのお定まりの手に、アリアーヌはすっかり参ってしまう。しかし、やがてフラナガンがパリを出発する時刻が来て、2人はいかにも世慣れた遊び人同士の如く、あっさり別れた。
が、車が見えなくなると、アリアーヌはしおしおと音楽院へ向うのだった。何ヵ月後のある夜、アリアーヌはオペラで恋しいフラナガンに再会し、明日の逢瀬を約束する。
翌日ホテルを訪れたアリアーヌに、皮肉にも今度はフラナガンが参ってしまい、彼女がことありげに話した男たちのことに、気が揉めてたまらない。
偶然、蒸し風呂で再開したX氏の勧めで、シャヴァッスに調査を頼むことになった。話を聞く伊達で、なんと自分の娘アリアーヌであると知ったシャヴァッス。事実を告げることもできず、フラナガンに、「あの婦人は箱入り娘で当人の言ったことは全部作り話、あの娘を愛しいと思ったら、パリを離れることだ」と報告する。
アリアーヌがホテルを訪れた時、フラナガンは荷造りを済ませていた。世慣れた風を装い、アリアーヌはリオン駅ホームまで見送るが、お互いに別れがたい。やがて発車の時、フラナガンは、遂にアリアーヌを列車に抱えあげる。プラットホームには、ふたりを微笑んで見送るシャヴァッスの姿があった。
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妖精のようなヘプバーンの可憐さと、クーパーの「男の魅力」で、このコメディ、結構楽しませてくれる。
そうそう、肝心の私の語学的興味だが、映画のセリフ、99.99%が英語。フランス語は挨拶の瞬間だけ。1957年にはハリウッドの英語映画が、世界を制覇していたということか。
しかし、私には、なんとなく日本人の演じる西洋芝居・新劇やイタリアオペラを日本語で演ずる不整合な雰囲気が感じられて、今ひとつすっきりしないのだが、どうだろうか。
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吹浦 忠正
at 09:56 |
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男のやきもち? [2008年03月29日(Sat)]
「世間は広くて狭いもの」「知ってるようで知らないお付き合い」、 この2つを地で行った話。
昨日、畏友・古賀武夫君のあまりに早い逝去をいたむ一文を小欄が書いたところ、 日々、NHK放送文化研究所の要職にあり、欧州総局長だった大貫康雄氏から、「学生時代からのお付き合い」という、以下のメールがきました。
大貫氏は、わがユーラシア21研究所の理事(私は理事長)であり、東京財団の理事(私は前常務理事)であり、社会福祉法人さぽうと21の理事(私は理事長)であり、社団法人協力隊を育てる会の理事(私は元・常任理事、現・参与)なのです。
つまり、私が関係しているいくつかの団体で、同僚なのです。それでいて、こんな関係とは知らずに、古賀君を含めて、互いに何十年かのお付き合いをしていたということになります。
なにやらお付き合いに空洞があったのかと、わが身の処し方を反省しています。
それにしても学生時代から啓発しあった仲とやら、最後の一行を読んで、急に私が疎外されたような気分にも、ちょっとなりました。
これって、「男のやきもち」かも。
今度は、古賀君へ献杯の上、大貫氏と一晩、やらなくては。
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吹浦さんが 古賀武夫君と親しいとはついぞ知りませんでした。
彼の性格、考え方からして また末次一郎さんと同郷であることからしても
古賀君が末次さんと 知り合いにならない筈がなく 末次さんに私淑しないはずが無いと、
そして当然のことながら 吹浦さんと古賀君が知り合いにならないはずがない、と
考えが及ばなかった私のお粗末さ 取材不足 想像力不足を痛感します。
古賀武夫君は フランス語で空手部 私はドイツ語で剣道部 学科は異なっても 小さな東京外語、 また同じ武道倶楽部に属する者同士 大学時代から知り合い、 共に酒を飲んだりしていました。
またフランスとの縁を通して EUとの親善・交流活動も積極的に推進しており、 帰国後最初のEU関係者忘年会で 古賀君と会い、 それ以来旧交を温めあっていました。
今年は佐賀の人たちに話す機会を とも言ってくれていた処でした。
今回の急死は残念、無念でなりません。
心温まる彼への追悼文、有難うございました。
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吹浦 忠正
at 08:28 |
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「協力」の中国語は? [2008年03月29日(Sat)]
「協力」ということばについて。
小学館の「プログレッシブ中国語辞典」には、「協」のところに、 「協定」「協和」「協理」「協力」「協商」「協調」「協同」「協議」「協助」「協奏曲」「協作」とならんでおり、「協力」には「協力する」「助け合う」とあるだけです。
日本語の「協力」については「協助」というのが普通のようですが、どなたか、実際にはどちらが多く用いられているのか、教えてください。
最終的に知りたいのは、日本語の「協力」ということばは誰が最初に考え出したかですが・・・。
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吹浦 忠正
at 00:17 |
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協力という言葉 [2008年03月28日(Fri)]
「協力」という言葉は、いつ、誰が使いはじめたのだろうか。
小学館の「日本国語大辞典」によれば、明治元年2月28日の「幕府御親政の詔」に「同心協力(ケフリョク)、各其分を尽し」とあるのが最初のようだ。
ということはどういうことだろう?
その詔を起草した人が、案出した言葉なのか?
どなたか教えてくださいませんか?
先日、久々に、青年海外協力隊の支援団体、 社団法人協力隊を育てる会の理事会に出て以来、 気になってしょうがないのです。
30年以上も前に理事になって、今さらという感じですが、 思えば不思議な言葉ですよね。2文字でありながら「力」が 4つもならぶのですから。
もし、中国語でも協力というなら、日本語から入った単語の1つでしょうか。
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吹浦 忠正
at 23:36 |
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東京・桜の名所 [2008年03月28日(Fri)]
出歩くには最高の季節。都内は、桜が満開。
これはいずれも弁慶橋から、 赤坂プリンスホテルの新館方向に向った桜。
昼、大事な客人をお待たせしつつも、 思わず立ち止まってしまいました。
花を人を間違わせます。
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吹浦 忠正
at 23:19 |
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島の考現学@ [2008年03月28日(Fri)]
日本の最東端・南鳥島(東京都) 海上保安庁提供。 私は「島」が大好きである。だから、ここ数年、各地で島々を訪ね歩いている。風光明媚で海産物の美味しいところが多いので、友人に話しても、とかく「結構なことで・・・」と、話題を換えたがる(とまでいうのは私の僻みか)。
しかし、しつこい私は何度でも島について書きたい。辺境の地、日本の島々はいまさまざまな困難に直面しながらも、新しい進路を模索している。
昨年10月から、月刊総合雑誌『リベラルタイム』に「最崖の島・考現学」と題して連載している。それに補筆して小欄で再録したい。
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「島」ってなんだろう、と時々考える。
国際法的には、「周囲を水面で囲まれており、満潮時にあっても水面上に出ている陸地」なのだが、それはいわば地学や法律学の話。
しかし、現実の「島」には、安全保障、外交、交通、開発、動植物、環境、感染症、町づくり、噴火、沈下・・・などなどあらゆる課題が山積し、歴史上もドラマにこと欠かない。 これまでも「島」は、進攻や防衛の最前線、外交の拠点、文化の移入地や架け橋、交易のフロントからはては漂流の地、流刑地まで、さまざまな役割を担ってきている。現に、対馬の松村良幸市長は、刑務所の誘致を政策に掲げているほどだ。
小欄では、わが国にとって死活的な利害を有する海洋の基点である島々をさまざまなアングルから見つめなおして、21世紀の日本の最前線を総点検してみたい。
ところで、「日本の最前線」、まず日本は領土はどこからどこまでなのか、復習してみよう。まずは、現在の日本の東西南北端を思い起こしてほしい。
日本の領土で、肉眼により直接、外国を見ることができる場所は、どこだろうか。
正解は、4カ所。 @ 北海道稚内市とその周辺からサハリンが、 A 北方領土の択捉島北端であるカムイマッカ岬とその周辺から千島の得撫(ウルップ)島が、 B 長崎県対馬の鰐浦付近から釜山が、そして C沖縄県与那国島の西浦とその周辺から台湾が見える。
ここ数ヶ月の間に、そのいずれにも立ってみた。多くの史実が、そして現実の課題が頭をよぎり、思わず、深刻にならざるを得なかった。
宗谷岬には「日本最北端の碑」が建ち、はるかにサハリンを臨めることから、同市最大の観光スポットとなっている。しかし、ここを「最北端」と、私は認めない。最北端は、あくまでカムイマッカ岬である。
対馬には2007年7月末に行くことができた。ここには「日本最西北端の碑」という少々ややこしい碑が建っていた。なるほど地図帳に三角定規をあててみると納得できる。
最南端となると、東京都小笠原支庁傘下の沖の鳥島となり、最東端となると同じく南鳥島になる。民間人が実際に住んでいる最南端は波照間島、最東端は根室市である。
沖の鳥島は満潮時には人間一人の腕の中に入る程度であり、中国はこれを「島」ではなく「岩」だといって、日本のEEZ(排他的経済水域)設定を認めたがらない。
これに対して国土交通省は数百億円をかけて同島の保全をはかり、日本財団や海洋政策研究所がさまざまな調査を行い、国連海洋法に従って経済活動の顕在化を図りつつある。
南鳥島には海上保安庁、海上自衛隊、気象庁の職員約30人が概ね2ヶ月交代で勤務している。太平洋戦争時、最初に米軍の空襲をうけた「本土」である。
与那国町は人口わずか1,700人に過ぎないが、この5月、目と鼻の先の台湾・花蓮市に在外連絡事務所を開いた。対馬市は釜山に、稚内市はユジノサハリンスク(旧豊原)に同様の事務所を持っている。
根室市は市内の病院が医者不足で困っていても、北方領土のロシア人に緊急医療協力をしている。「島」は住民も、行政もその維持と伸展に懸命になっている。
日本国民全体が、もう少し「島」に関心を抱いてもいいのではないか。
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吹浦 忠正
at 20:07 |
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古賀武夫くんを悼む [2008年03月28日(Fri)]
去る3月17日、私は二人の親しい友人を亡くした。盟友・古賀武夫くんとロシア科学アカデミー会員ウラドレン・マルトゥイノフ世界経済国際関係研究所(IMEMO)の元所長である。マルトゥイノフ氏のことは、葬儀にも出たことだし、早急にご報告したいがここではまず、古賀くんについて。
肝臓がんと正面から取り組む数年に及ぶ闘病生活を経てのことだった。享年57歳。あまりに早い他界。洋子夫人やご遺族、ご親戚の悲しみは如何ばかりかと思うと胸が詰まる。
佐賀県下の友人知人はもとり、全国、そして世界の各地から弔意が寄せられている。
佐賀で英語塾や空手道場を開きつつ、地球市民の会を率いて社団法人協力隊を育てる会の佐賀県支部としての働きをしていた
君は若くして東京外国語大学でフランス語を学び、渡仏後は空手道の指導に当たりつつ、日仏両国の友好親善に尽くした。君を慕って日本から駆けつけた若者も多かったと聞く。
現在、福岡でベテラン県議として活躍している井上幸春くんもその一人。厳しくも真摯に指導する姿に打たれたという。その井上くんと結婚した紀子夫人(看護師)が私の教え子という縁からだ。そんなわけで職種は違っても3人とも英語とフランス語が出来る。
それはともかく、1990年4月、君は、協力隊創立者の一人である、わが師・末次一郎のアシスタントとして、モスクワを訪れた。40歳だった君は同郷の若き後輩ということもあり、師には叱咤激励を超える厳しい指導を受けた。
要するに、気働きが不足で、立場をわきまえないことが未熟者であるというお叱りだった。
追って合流した10歳年長の私に涙を浮かべて哀訴した。
「末次流」の指導法を熟知している私は君の話を聞くだけに留めた。
あとで君は手紙を寄越した。「私は一度も上司に使われたことがない。お山の大将だった」。
その話をすると末次は「しかも、小さなお山のな。しかし、自己改革であいつは大きな花を咲かせうる人物だ」と笑った。
その後の「地球市民」づくり、世界に通用する日本人の育成に、君がどれだけ尽くし、大きな功績を挙げたかは今さら数え上げるまでもあるまい。タイやスリランカの教育に尽力し、いのちとの戦いの中で、最後まで、日本で「夢の学校」を作ろうと文字通り、献身した。
いくつものタネを蒔いた。それぞれの花が咲きかけた矢先だった。
好漢、天国から、佐賀のみならず日本と世界を見守ってくれ給え。
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吹浦 忠正
at 15:00 |
人物 |
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桜と辛夷(こぶし) [2008年03月27日(Thu)]
今週末、都内は春爛漫の桜見物で さぞ賑わうことでしょう。
上の2枚は、目黒の拙宅前で今朝 撮影したものです。
下の2枚は、辛夷、こぶしです。
撮影場所は、港区虎ノ門病院前。
わがユーラシア21研究所から 日本財団に行く道の両側が辛夷の並木なのです。 昨日撮影したものです。
いい季節ですね。
先ほどは上野公園の近くを通りました。 明日はさぞ大勢の人出でしょう。
日本の春、大都会の春もいいですね。
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Posted by
吹浦 忠正
at 17:09 |
季節 |
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