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2007年 D [2007年12月30日(Sun)]
















 今年は、国旗関係で4つの「著書」を刊行、日ロ関係で1冊の共著を出すことができました。

『国旗ビジュアル大図鑑』『国旗パズル』『国旗かるた』の3つは学習研究社、『美しい日本の国旗』『ロシアへの反論』は自由国民社からです。嬉しいことに、どれもわりに好評のようで、増刷がなったり、クリスマスと新年に向けて書店で山積みされたりしているようです。

『ロシアへの反論』は、日ロ関係に関する、詭弁ともいうべきロシア側の「論理」に対し、きちんと反論したもので、先日のユーラシア21研究所主催虎ノ門フォーラムの受付で、ロシア大使館の書記官が買い求めて行きましたから、先方にも渡っています。いずれ、ロシア語への翻訳出版がかなえば、正式にお届けしようと思っていますが、これは、10年近い反論のやり合戦のようなものなのです。

 来年3月にモスクワで開かれる「日露専門家対話2008」にはとりあえず日本語で持ってゆきますが、これからが勝負です。
2007年 C [2007年12月30日(Sun)]







 単冠湾から真珠湾へ向ったのも2007年の思い出です。

 北方領土の1つ択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を8月末に訪問しました。
 戦後、公式に日本人がこの地に立ったのは初めてです。

 そして、10月初めにはハワイの真珠湾を訪れたのです。連合艦隊の空母6隻を中心とする機動部隊31隻は、1941年11月26日に単冠湾に集合し、真珠湾攻撃に向ったのでした。12月7日、無通報の奇襲攻撃に「成功」しました。

 単冠湾は、ハワイに一番近い、霧が多い、人口の少ない島・・・といったことから集合地に択ばれたのでしょう。

 この攻撃で、特殊潜航艇に乗り組んで攻撃に参加した酒巻和男少尉はただ一人、捕虜になりました。生前、私には体験を話してくれました。小欄で派酒巻さんへのインタビューとしてご紹介しました。詳しくは、拙著『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)をご覧ください。

 攻撃開始の暗号が「ニイタカヤマ(新高山)ノボレ」でした。9月には台湾でその新高山の上空を飛行しました。奇妙な縁を感じた2007年でした。

 佐々木譲の『エトロフ発緊急電』をこの後読みましたが、現場を知っていることもあって、手に汗握る面白さでした。お勧めです。
弔意を表す半旗 [2007年12月30日(Sun)]







 静岡県清水市にお住まいのW氏から、「半旗の揚げ方となぜそうなったのか教えてほしい」という質問をいただきました。

 回答します。

   ☆―――――― ・・・ ―――――― ・・・

 半旗は、不幸があった家や、他者の不幸に弔意を示すために掲げられます。

 黒布で竿頭を覆うとか、竿頭の付け根に黒いリボンを巻くのも同様です。

 昭和天皇が崩御されたときに、全国の地方自治体からどうしたらよいのかずいぶん問い合わせがありました。そのときには、国旗掲揚塔のあるなし、室内・屋外、旗の大きさなどさまざまな状況に合わせて、どうすべきか教えてあげました。

 在日アメリカ大使館の構内には大きな国旗掲揚塔があり、しばしば半旗が掲げられています。特に、「9.11事件」の時にはすぐ、そのようにしていました。

 日本側では、このときも大変無頓着で、わずかに日本財団ビル(管理者は、BMC株式会社)の屋上の日の丸がいち早く半旗になりました。

 首相官邸、外務省、国会議事堂が半旗になったのは1週間以上たってからです。その間、私はなんども電話をして注意を喚起しましたが、その対応のお粗末さは、恥ずかしくて小欄には書けません。

 ロープを使って半旗を掲揚する場合は、いったん、最上部まで上げてから、少し下げるというのが正しい扱い方です。

 近代の海戦で敗れたほうが恭順の意を示して自らの国旗を少し下げ、その上に勝者の国旗を掲げられるようにしたというのが始まりとされています。

 忘れもしない1963年11月23日のことでした。オリンピック東京大会組織委員会式典課の職員旅行で山中湖方面に行ったとき、なぜかところどころで、半旗にした星条旗が見られるのです。

 これは何かあったなと直感した私はマイクロバスのラジオを入れてもらい、ジョン・F・ケネディ米大統領の暗殺を知ったのでした。

 2007年は最後になって、ブット元パキスタン首相が自爆テロに斃れました。新しい年はさまざまな選挙が待ち受けています。テロのない、半旗を揚げるようなことのなくてすむ1年であってほしいと願うのみです。
外務省の在外公館数 [2007年12月30日(Sun)]











小欄の読者でいらっしゃる「セフィロス」さんから、12月27日に、
「中国の青島で総領事館を創設する話ついて、どう考えているのでしょうか
よろしければ、ご意見をぜひ聞かせていただきます」という趣旨の一文が「コメント」欄に送られて来ました。

そこで、翌日までに私は、
「私は青島に総領事館を置くことに賛成です。
但し、今日の福田首相の台湾の国民投票について中国にとやかく言う必要はない、余計なことをしたと思います。わが国にとっての台湾の重要さをもっとしっかり認識すべきです。
日本の外務省は今の50%は人数を増やしても言いと思います。在外公館も、スクラップ&ビルドではなく、大幅に拡充すべきです」と返信しました。

するときょう30日、「セフィロス」さんから重ねて、
「福田さんは、言わされたのだと思う」とのコメントとともに
「在外公館の増設について
中国の沿岸地域に増設することは分かりますけど。
内陸のほうへ『深入り』することについてのご意見もよろしければ聞かせて頂きたいですが」と送られて来ました。

 私は、こういう話は、日本の外交のあり方や進路を考える
まじめなやり取りでしたら、
ほんとうは、1対1で、お互いに名乗って対話し、
意見を交換したいと思います。

 さもなくば、総論で終るか、解説のような話になってしまいます。したがって、これ以上、小欄で続けることは避けたいのですが、今回は、一応、できるだけのお返事させていただきます。

 ご承知のように、わが国は北京に大使館を設置しているほか、重慶、広州、上海、瀋陽の4カ所に総領事館を、大連には出張駐在官事務所を設置しています。

 ちなみにこれを在米公館と比べてみると・・・
同盟国であり世界唯一の超大国アメリカには、ワシントンの大使館のほか、アトランタ、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、デトロイト、デンバー、ニューオーリンズ、ニューヨ−ク、ハガッニャ(グアム島)、ヒューストン、ポートランド、ボストン、ホノルル、マイアミ、ロサンゼルスの15ヵ所に総領事館を構えています。ほかに、総領事館から格下げされたアンカレッジ(アラスカ)には出張駐在官事務所があり、サイパンにも同事務所があります。

ついでに他も見てみましょう。日系人がとても多いブラジルには、ブラジリアの大使館のほか、サンパウロ、アマゾン河口のベレン、アマゾン河流域中央部のマナウス、リオデジャネイロ、最東端の港町レシフェ、南回帰線の少し南の都市クリチバの6ヵ所に総領事館、

面積最大の国ロシアにはどうでしょう。
戦前はシベリア鉄道沿いにずらっと領事館を並べていましたが、これはいわば、情報収集の要路に配置したからと言うことでした。今は、モスクワの大使館のほか、サンクトペテルブルク、ハバロフスク、ウラジオストク、ユジノサハリンスクの4カ所に総領事館があるだけ。

オーストラリアには、キャンベラの大使館のほか、シドニー、メルボルン、パース、ブリスベンの4ヵ所に総領事館、ケアンズに出張駐在官事務所があります。

ドイツにはベルリンの大使館のほか、デュッセルドルフ、ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘンの同じく4ヵ所に総領事館、カナダにはオタワの大使館のほか、すぐ隣のモントリオール、最大の都市トロント、太平洋岸のバンクーバーの3ヵ所に総領事館があります。

 そうした例に比べると、中国の4総領事館、1出張駐在官事務所というのはあまりに少ないと、私には思えるのです。

 青島にできても、例えば、南京、旅順、杭州、武漢、天津、西安、成都、福洲、長春、ハルビン、丹東(中朝国境)、海南などのうちのいくつかに総領事館があっても不思議ではないように思います。

 進出企業、在留邦人、留学生、日本人観光客などの数や全体の配置を考慮して決めて行くのでしょうが、中国の巨大な人口、面積、人的交流、貿易額、世界的な地位・・・を考えると、現状の日本の対中外交の体制はあまりに貧弱ではないでしょうか。

 また、海岸部と内陸部の格差、大都市と地方との格差など、さまざまな問題を抱えている中国にあっては、内陸部を含め各地に日本の公館を設置することが重要だと考えます。

 日本の外務省が、国土交通省北海道局1つよりも職員数がすくないという現実は、悲しくなるほどです。もちろん、一騎当千の外務官僚たちでしょうから、一概に数だけではないでしょうが、職員数も公館数も拡充すべきではないでしょうか。

 このほか、香港には古くから総領事館がありますが、澳門(マカオ)にもあっていいと思います。

 ちなみに、中国からは、東京の大使館のほか、大阪、福岡、札幌、名古屋、長崎の5ヵ所に総領事館が設置されています。
2007年 B [2007年12月30日(Sun)]






  「河口湖」。挿画は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 2007年の旅を振り返ってみます。

 3月にラオスに、9月に台湾に、10月にハワイに行きました。12月にはクリスマスを前に「音楽の都」ウィーンを訪問することになっていたのですが、突発的な多忙が重なり、ドタキャンの憂き目にあいました。

 一番迷惑をかけたのは、「妙齢の美女」Sさんの結婚披露宴への出席。埼玉県立大学時代の私のゼミ生でした。ウィーン行きのため欠席と返事していたのですが、旅行をキャンセルしてもなお出席できず、本当に申し訳ないことをしました。どうぞ末永くお幸せに。

 台湾には、東京財団と台湾国際関係学会(会長=許正楷台北経済文化代表処長)共催の「日台次世代対話2007」に顧問として参加したのです。昨年、この対話の創設に当たりましたので、こういう機会に恵まれたのです。北投温泉のすばらしい雰囲気にも接することができました。

 この対話は、参加者は45歳以下、3分の1以上が女性、今まで台湾と縁が少なかった人が中心ということではじまったもの。新鮮な対話により、双方にとってとても得るところの大きなものでした。「南の隣国」を日本は本当に重視し、大切にする必要があります。

 その意味で、年末の福田首相による北京での発言には疑問を呈さざるをえません。

 ハワイは私にとって初めてのところ。82カ国を訪問したはずのい私なのに、ハワイにはご縁がありませんでした。日露関係を含む東アジアの安全保障と、有事(戦争と天災)における国際協力について2日間、真剣なディスカッションを行ないました。

 一行は、私が団長で、かの山田洋行に迎えられた航空自衛隊幹部が事務局長でした。事件が公になる直前でしたのに、この人は実に良くやってくれました。ちなみに、私は同社に1度もゴルフにも飲み会にも連れていっていただいたことはありません(笑)。ご夫妻で拙宅にお越しになられたことも、一緒に食事をしたことも、台湾、インド、韓国にも何度もご一緒しましたが、「幸か不幸か」、「きれいな関係」です。

 ハワイでは真珠湾を訪問、戦艦アリゾナ号の上にある記念館で、花輪をささげました。
そのすぐ前に、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を訪問していましたので、ことのほか感慨にふけっておりました。    (つづく)
2007年 A [2007年12月30日(Sun)]





   兼六公園(金沢)





 2007年を振り返っての2番目は、小欄の読者のアクセス数が35万を超えたことです。昨年2月から本格的にスタートしたのですが、みなさまのご厚意に感謝するばかりです。

 本を書き、講演をし、メディアにでても、実は反応は本当につかみにくいのです。ところが、ブログはほとんど即刻反応があります。プロフィールにアドレスも公開していますし、
自分の身分を明らかにしていますから、電話を下さる方もおられます。

 お訪ねくださる方(もちろん「妙齢の美女」?)もいらっしゃいます。

 ブログをはじめ、インターネットはきっと、世界のメディアを変えるのではないでしょうか。

 そこに気づきはしていましたが、まさか自分がブログなんぞを始めるとは夢にも思わなかっただけに、まるで異次元の日常に入ったような気分です。

 何度も強く勧めてくれた笹川陽平日本財団会長、寺内昇同ブログ室長、そして、PC能力の乏しい私にいろいろアドヴァイスしてくれた「妙齢の美女」たちに感謝しています。

 小欄から派生・進展した、さまざまな出会いについては項をあらためます。
                      (つづく)


2007年 @ [2007年12月30日(Sun)]







 長野在住のH氏からこんなメールをいただきました。

☆―――――― ・・・ ―――――― ・・・

一年を365日にしてくれた神様はすばらしいですね。

 今に満足している人も、そうでない人も、
みんなが次の飛躍を必ず感じて、
来年はいい年になりそうだなと感じることができるのですから。

 でも、もうすぐ終わってしまう今年にも感謝したいと思います。

 いつも吹浦さんのブログを拝見して、
その大きさを感じて、私なりに充実した素敵な毎日でしたから、
来年も、たくさん更新して、大いに発進してください。

 ▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲

 そこで、私の2007年、365日を「10大ニュース」ふうに、
少し振り返ってみたい。

@ユーラシア21研究所の創設と順調なスタート

 日本財団のご厚情によりスタートできました。ロシア、日露関係研究を中心に、
今年は、その研究成果をロシア語で発進し続けることができました。

 また、毎月1回以上、虎ノ門フォーラムと称する後援会を開催し、
大勢の方々にお集まりいただいています。

 2月には、「」(通算25回目)を、

 9月には、「サハリンフォ−ラム2007」(通算10回目)東京で開催
できました。

 日ロ関係や北方領土問題に対するロシア側からの詭弁とも言うべき
「反論」に対し、12月に『ロシアへの反論』(自由国民社)を
とりあえず日本語で出版できました。

 来年はこれをなんとかロシア語で、刊行したいと資金集めに奔走しています。
 スタッフは私以下5人、それでも、理事・監事、客員研究員のみなさまのご協力で
研究会は頻繁に開かれ、充実した日々を送ることができました。

 スタッフも実によくやってくれました。

 2008年は3月18,19の両日、モスクワで
「日露専門家対話2008」を開催します。

 年末ぎりぎりまで、「チーム日本」の団構成に腐心しています。
 全員エコノミークラスでモスクワ往復と言うのは、
功成り名遂げられた大先生たちには申し訳ないのですが、
みなさま「自費ででも協力しよう」。それこそ、慈悲です。
 
 
 日ロ関係は、水面下はともかく、大きな進展がなかったのは残念ですが、
このくらいのことでへこたれては、日本の負けです。

 矜持を保ち、4島返還を貫きましょう。

 お一人お一人に感謝の気持ちいっぱいで、
新年を迎えられそうです。
               (つづく)
 
弘田龍太郎 [2007年12月30日(Sun)]



弘田龍太郎




 90うん才の、元NHK歌のおばさん・松田トシ先生から、レッスンの合間にきいたお話。

 その2は弘田龍太郎(1892〜1952)。松田先生が「上野」に在学中の恩師の一人である。

「春よこい」「鯉のぼり」「浜千鳥」「あさね」「雨」「雀の学校」「雀の学校「叱られて」「千曲川旅情のうた」などの作曲者。オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』といtった作品もある。

「あの先生ね、足袋を履いて靴を履かれるのよ。面白い方でしょう」。
南京事件の視点 [2007年12月30日(Sun)]








 ジョージ・ワシントン大学歴史学部のダーチン・ヤン(楊大慶)教授は、南京出身の中国人であり、日中戦争の研究において、新たな成果を勇気を持って発表し、日中米などの専門家に大いに注目されている人。

 昨年6月に来日したとき、東京財団研究推進担当常務理事だった私が進める少数の研究会で、「戦陣訓」の執筆者について質問を受けた。

 以下はその速記録でみる、私の発言。私自身の記録として南京事件への視点を考える参考になればと、小欄に掲載しておきたい。

☆―――――― ・・・ ―――――― ・・・

 南京事件に関連して、私が一つ気になるのは、その当時の日本の軍の綱紀の問題、モラルの問題で、これを私は考える必要があるのではないかと思います。

 私が最初に捕虜に関する本を書いたのは今から25年ぐらい前ですが、それは「戦陣訓」をつくろうとした人、その人のインタビューを、ただ本人が言ったとおり活字にした記録をつくったんです。

 それは白根さんという、当時の若い中尉なんです。中尉にすぎない若者が、中国戦線で余りに日本軍の乱れがいかんということで、クビになるかわからないのに、日本政府に手紙を書いたり、雑誌に投稿したりしていました。大変勇気あることだと思います。

 ところが、それが軍の幹部の目にとまって、特命で帰国を命じられ、中国戦線から中央に呼び出されたのです。そして、日本軍の綱紀を引き締めるための陸軍大臣命令を書けと言われました。

 それで彼は大張り切りで、せっせと書いたんです。彼には上司にあたる1人の少佐がいて、あとは名目的な中将が1人いるだけなんです。

 そこで起草したものを、彼は島崎藤村に持っていくんです。

 それに島崎藤村がちょっと筆を入れて、いい文章というか、日本語としてですよ、だから「戦陣訓」には独特の言い回しがあの中にはありますね。

 詳しくは、私が図書出版社から出した『聞書き 日本人捕虜』に、白根中尉へのインタビューとして、掲載してあります。
 そのときに、自分がどうしてこんな提案をして、こんなことをやらされるか、自分でもわからなかった。だって最前線の中隊長にすぎないのが、いきなり行ったこともない陸軍省に行って、毎日毎日、机に向かって字を書かされるなんて思いもしなかったと。

 ほんとうにそうでしょうね。しかし自分としては、ほんとうに日本軍がこれではだめだと。上と下の関係の乱れを一番言っていました。

 下の者が上の人の命令を聞かないで、それから兵、下士官たちの無秩序状態というかな、それを非常に自分は嘆いて、それを中央に首を覚悟で書いていたと。その辺を思うと、「戦陣訓」という名前で発表されたあの陸軍大臣命令は、当時の軍としての必要性は極めて高いものがあったと思うんです。白根さんが起草者に選ばれたことはきわめて偶然でしょうが。

 その人は戦後がらっと変わりまして、今度は視聴覚教育の大先生になって、結局、視聴覚教育の第一人者として後半生を終わったんです。

 その辺の、日本軍の当時の軍規の乱れというもの、南京事件を考えるときには、そういう文脈もちょっと見ていいのかなという思いがします。

 だから楊先生がおっしゃったような、その当時の日本軍将兵個人の日記ですね。南京にかかわらずこれは重要な史料です。それからその当時についての回想録というのは、これはその後に書いたものですから第2次的な資料ではありますが、それでも、ことの真相を考究するうえでは、こうしたものを広く見る必要があるなと思いました。
日の丸の特徴 [2007年12月29日(Sat)]







 
 年の瀬をいかがお過ごしですか?

 福島県立安積高校2年生のSくんから、
各国旗と比較して「日の丸」にはどんな特徴があると言うべきかという質問がありました。

 「日の丸(日章旗)」にはいくつかの特徴があり、いろいろ挙げることができますが、ここではとりあえず、3つ挙げてみましょう。

まず第1に、赤と白の2色ということです。
旗の色で最も古くから用いられたのはこの2色です。日本では源氏の白い旗、平家の赤い旗がよく知られています。

いまでも世界中の国旗で、赤と白の2色だけという国旗は・・・さてみなさん、国連に加盟している192カ国のうち、この2色だけの国旗はいくつあるでしょう。

2番目の特徴は、太陽を描いた国旗ということです。これまたバングラデシュ、ニジェール、アルゼンチンなど世界中の国旗にはいろんな色や形の太陽が出てきます。

中には、同じような円ですが、パラオやラオスのように、月というのもありますから気をつけてくださいね。

3つ目の特徴は、「日の丸」はいつの時代にも日本の国旗、日本を代表し、象徴する旗であるということです。

明治維新でも、敗戦でも、基本的には同じ図柄の「日の丸」が日本の国旗です。

日本の国旗が、縞模様、星、縞模様、動植物・・・といったデザインになることはちょっと考えられません。

そのくらい伝統的な日本人の気持ちと「日の丸」が表裏一体になっているということでしょうか。

ほかにも、掲揚を巡るトラブルが依然、なしとは言えないこと、赤の厳密な色が決定していないこと、国旗に文字を書く習慣が残っていること・・・などでしょうか。

詳しくは、お近くの図書館で、拙著『日の丸の履歴書』(文藝春秋社)、『日の丸を科学する』(自由国民社)、『美しい日本の旗・日の丸』(同)、『日の丸ヒノマル』(三浦朱門氏との共著、海竜社)をご参照ください。