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NGOによる政策提言 [2007年04月26日(Thu)]
 





 日本の対人地雷政策を変えるのに決定的な役割を果たした絵本『地雷ではなく花をください』(自由国民社)は56万部のベストセラーとなり、各国語版も出た。NGOの新しい活動手法を開拓した意義も大きい。




 NGOをもっと活性化させ、国家・社会で重要な役割を担うようにしてゆくための第2は、政策決定のための提言や決定への参画である。定期的に関係官庁と意見交換を始めているのもよいし、各種の審議会や懇談会へ参加したり、議会に議席を持つことも有効であろう。

 難民を助ける会では創立メンバーの一人である藤田幸久くんが衆議院議員に2度当選、今度は7月に茨城地方区から参議院議員選挙に立候補する。

 しかし、NGOは開発、環境、難民、地雷などテーマ別の専門家集団であり、その専門性を磨くことが肝要である。加えて、政府や地方公共団体、特殊法人などいわば「官」とは十分相互補完性を持っている。事実、98年8月には、難民を助ける会のメンバーは当時の国際協力事業団(JICA)の旧ユーゴ対人地雷調査団の一員として参加しているし、また、難民を助ける会では総理府PKO本部や外務省の選挙監視団の多くに協力してきた。

 政策提言も数多くしてきた。@日本はインドシナ難民を受け入れるべきだ、A日本は対人地雷全面禁止条約に加入すべきだ、BODAを日本のNGOを通じて活用すべきだ、C難民認定の再審には法務省以外の声も反映させるべきだ・・・といった提言は、ご承知のように、既に実施された。

 このように内外で、対話と協調が進みつつあるのが政府とNGOの関係と言ってよいのではないか。今後は、現地事情などの情報、軍事用語や特殊言語などの語学、内戦に巻き込まれたような場合や交通に関する安全研修、予防接種などで「官」の援助と協力がほしい。


■資料リンク
サニーのおねがい 地雷ではなく花をください

サニーのおねがい 地雷ではなく花をください
日露戦争と捕虜 (24) [2007年04月26日(Thu)]





●ロシア軍負傷者救護の絵馬
 
 以下の一文は既にその概略を小欄で紹介したが、今少し詳しく、お伝えしておきたい。

 伊予岡の日露の絵馬や若葉風―これは1987年、「百壺庵」こと島津豊幸愛光高校教諭(当時)の作。「伊豫岡八幡神社」(愛媛県伊予市上吾川、武智盛浄宮司)の絵馬を見ての句である。

 この絵馬(1.81×2.14b)は赤十字の腕章を付けた衛生兵たちが、戦場に程近い場所でロシア軍の負傷者(軍靴の様子からおそらくは将校)を救護している様子を描いたもの(写真)。日露戦争から凱旋した下吾川出身第22連隊(松山)の兵士たちが奉納した。額の木枠に沖多三郎以下の名前と奉納された時期を示す「明治三十九年五月」と記入され、京都の画家「其峰」のサインが絵の右下の部分に入っている。このときに島津教諭が「ロシア兵を救護している様子をえがいたものだ」と指摘してから大いに注目されるようになった。

 このため、ソ連時代の1989年に大阪からワレンチン・アレクセイエフ総領事が見に来たり、カラマツの苗木数本が贈られたこともある。

 さらに、ロシアになってからも96年にゲオルギー・コマロフスキー大阪総領事が訪問したりしている。同参事官は『円空』の著書もある日本通、退官後も天理大学教授などとして日露文化交流の推進に努めたが、2004年夏、まだ60代半ばで急逝した。

 日露戦争時に松山で収容されていたロシア人学生(志願兵)が書いた美麗な本を私に渡し、その翻訳出版を勧めた人でもある。この本は、私がプロデュースして、中央公論社から『松山捕虜収容所日記』の題で公刊された。

 伊予の絵馬は、1990年には伊予市の指定文化財になった。

 これには島津教諭の努力も大きい。島津教諭は「絵馬と薫風」なるエッセイを書き、「絵馬発見」の経緯を詳しく述べている。このエッセイのすばらしさは89年度の文藝春秋ベストエッセイに選出されたことでも明らかだ。(創風社『絵馬と薫風』所載)

 それによると、同教諭は「第22連隊が参加した旅順港最大の要塞・ひがしけいかんざん東鶏冠山攻撃の図ではないか」と推定する。同連隊はこの攻撃で千百人もの兵隊を喪った。

 そしてこの「従軍兵士たちの多くが看護兵であって、そうしたことからこのような画面構成になったのであろうか」と推測し、「私がたどり着いた一応の結論は」として「彼らはロシア兵を看護したことの方を画題の中心にすえたかったのではないであろうか。戦場にあって、負傷した敵軍将校を救護するという異常な体験こそ、郷党の人々に誇らかに伝えたかったのではないであろうか」と述べている。

 この絵馬と対面した私も同感であり、この誇りこそ、後世に伝えられてしかるべきものと考える。伊予の誉れというだけではなく、これは日本の誉れを絵馬に託したものと言えよう。
大濱信泉先生の揮毫 [2007年04月25日(Wed)]













 先日、小欄で大濱信泉(のぶもと)元早稲田大学総長のことを書いたところ、早稲田の卒業生や沖縄の関係者の方々から、激励のような言葉をいただいた。そうした中にそれとともに、せっかく、日本の最南端・波照間まで行ったなら、そこにある大濱先生が揮毫した文字を彫った記念碑のことにも触れるべきだというご助言を下さった方もおられる。

 そこで、きょうは島の最南端にある、「波照間之碑」を紹介し、また、そこにいたる道に全国から寄せられた都道府県の石を敷き詰めた様子をご紹介したい。

 ここが日本の最南端なのである。










与那国島の花 C [2007年04月25日(Wed)]
 日本の最西端・与那国島と有人最南端・波照間島の風物をもう少し紹介したい。





 波照間島の民家の庭先で






 波照間島の城址公園で







 与那国島の道端で



与那国島の花 B [2007年04月25日(Wed)]




















 日本の最西端、台湾までわずか111キロ、台北よりはるか南に位置する与那国島は、動植物の専門家にはなかなか興味深いところらしい。

 そのほうの知識の乏しい私はせめていくつかの動植物を引き続き紹介するほかない。

 パイナップルが海辺にこんな大きな実をつけていた。私ははじめてみた。もっと、地表に近く生っているのはベトナムほかで見たことがあるが、手の届かないようなところに生っているのは自生したものなのか。

と、ここまで書いたところにちょうどど具合よく、植物に詳しい友人から電話があった。さっそPCで写真をお送りしたところ、これはアダン(阿檀)といって、タコノキ科の植物だとのこと。 学名:Pandanus odoratissimus。

 実は食べられない。葉は乾燥させて民具の材料などに加工することがある。実が赤く熟すこと,緑の葉に白いく大きな鋸状の歯があるところが特徴とのことだ。

  話は違うが、ピーナッツは地中にできるのですか? 千葉県か埼玉県の人にしっかり聞いておくんでした。

  おなじようなもので、カシューナッツは結構高い木に鈴なりに生っていました。私はモザンビークで結構見たし、食べました。

  以上は、閑話として受け止めてください。
 

外相談話を評価する [2007年04月24日(Tue)]




   クレムリン




 エリツィン元大統領の逝去にあたって、日本政府は麻生外務大臣の名前で「談話」を発表した。

 けさほど外務省から我が家に届いたファックスによれば、全文以下の通り。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

1.エリツィン・ロシア連邦初代大統領の御逝去の報に接し、ご遺族並びにロシア連邦政府及び国民に対し、日本政府及び日本国民を代表して謹んで哀悼の意を表します。

2.エリツィン初代大統領は、新生ロシアの改革路線を進める上で多大の努力を払い、領土問題解決への努力を含め、日ロ関係の進展のための新たな基礎を築かれれました。

3.エリツィン初代大統領のご冥福を心よりお祈りするとともに、ロシア政府と国民がこの悲しみを乗り越え、ロシア連邦のさらなる繁栄に引き続き邁進されることを希望します。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 まことに必要にして十分な「談話」であると評価する。

 平和条約が締結されていない国に対しては、陛下や首相の談話である必要はない。

 また、2で、「領土問題解決」「日ロ関係の進展」「新たな基礎」という重要なキーワードをあげているのがすばらしい。

 ロシアにいつまたエリツィンのような、「聞く耳をもった」指導者、「話の通じるリーダー」が現れないとも限らない。

 私たちは、いたずらに策を弄することなく、ロシアが日本と良好な関係を築くことが大きな国益を得ることだと理解するのを待っていい。それが矜持ということだ。

 追って行われる葬儀には、「東京宣言」が発せられた1993年10月の首脳会談の当事者である、細川護煕元首相が特使として出席するのが最善であろう。
 

与那国島の花 A [2007年04月24日(Tue)]
 

















 日本の最西端・与那国島は気候においても台湾に近いとされる。動植物学的に貴重な
ものも少なくないそうだ。

 そこでまず、私が見たこれはというものを少し紹介したい。まずは、花と馬。
予防外交とNGO [2007年04月24日(Tue)]


拙著『海外ボランティア入門』(自由国民社)


  朝日新聞社や広島市などの主催により98年8月4日、広島で国際シンポジウム「核廃絶へ今、私たちは何をすべきか」が開催された。

 そのとき基調講演を行ったジョセフ・キャロン駐日カナダ公使(その後、カナダ外務省アジア・アフリカ局長、中国大使を経て現在、駐日大使)は、 「<オタワ・プロセス>は、志を同じくする国家と国際及び国内NGO、メディアの連合によって積み上げられた集合的協調キャンペーンで、冷戦後の世界が直面した大きな課題に立ち向かう地球規模のパートナーシップ作業だった」 と述べた。  

    キャロン氏は続けて、 「政府がNGOの関与を望んだのは、政府にはない強みや技術、知識、経験があるからだ」とNGOを評価し、同プロセスの成果を考えるフォーラムでは、

@ 根底に明白な人道的メッセージがあった、

A 軍備管理ではなく、人道的規範が重要視された、

B 中間勢力の国々(ミドル・パワーズ)が協力し国際交渉で主導的役割を担った、

C 政府とNGOとの協力関係が大きな特徴となった、が挙げられた」と報告した。 さらに、同公使は自説を加えて、

D 世論を長年かけて啓発してきた結果があり、

E メディアが扱いやすい問題だった、

F 地雷は軍事的に有用ではないという調査もあり、擁護派もいなかったので、広範囲なコンセンサスが得られた

とし、インド、パキスタンの核実験で「開いてしまったパンドラの箱を閉めるには、積極的な多国間外交と積極的な市民の参加という2つのチャンネルを使うしかない」と閉めくくった。

 NGOが予防外交に手を出すことには、知識や経験のある人材が不足であり、社会的理解や認識も未だ不足なわが国では、しばしば支持基盤の弱さや脆さで活動が頓挫したり、壁にぶつかって、希望倒れ、提案倒れになりかねない。

   そこで、明石康元国連事務次長を会長に、日本紛争予防センターが創設されたが、聞くところによれば事務局運営で混乱し、活動は頓挫しているようだ。こういう活動が日本になかなか根付かないだけに残念でならない。


■資料リンク
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
NGOを通じてのODA [2007年04月24日(Tue)]



 ラオス国立リハビリテーションセンターで車椅子の製造過程を見学する筆者。この活動は、難民を助ける会とJICAの協力で行われているもので、ODAのNGOを通じての活用の典型的な事例である。2007年3月、ビエンチャンで。




●NGOを通じてのODA

  アメリカ政府は西暦2000年までに対外援助の40%までをNGOを通じて行うと発表し、昨今、35%といわれているので、ほぼそれに近い数字を達成できたようだ。もっとも、アメリカのNGOには、半官半民とは言わないまでも、かなり公的な性格を持ったNGOがあるので、あまり単純に比較するのはいかがかという議論はある。

  ちなみに日本は1990年代には0.1%にも及ばなかったが、2004年には2.8%、05年には1.0%となっている。05年の比率が減ったのは、対イラク支援が急増し、同地域では日本のNGOがほとんど活動していないので、こういう比率になった。

  しかし、援助だけが国際協力NGOの役割ではない。

  1998年6月25日、駐日カナダ大使館会議室で、カナダ外務省の担当局長とNGOに詳しいウォータールー大学の教授が来日した機会に、「平和構築(PBO)とNGO」についての研究懇談会が開かれた。呼び掛けたのは、近衞忠輝・日赤副社長、菅波茂・AMDA(アジア医師連絡協議会)代表と私。近衞さんが「日本のみならず世界のNGOにとって今後の重要な検討課題である」と趣旨を説明、私のつたない進行で、2人のゲストとともに20近いNGOの幹部が活発に意見交換を行った。

   PBOとは、「暴力に訴えずに紛争を処理するため、紛争地の社会固有の能力を高めるための包括的活動」のこと。

  紛争地の社会・経済開発を支援して、平和の回復を図ろうというもので、92年に難民を助ける会の5名を含む日本人がUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構、明石康代表)の活動に参加したのは、「人道支援、武装解除、選挙監視など現地社会を支援し、PBOにもつながる活動といえる」(宝利尚一・読売新聞論説委員、98年9月25日付、同紙)。PBOは紛争当事国の支持を得ながら、国連や地域の国際機構など国際機関、各国政府、NGOが連携して行う支援活動でもある。

  たまたま翌日、私は(財)日本国際フォーラムの「予防外交におけるNGOの役割に関する研究会」(座長=堂之脇光朗・外務省参与、元駐メキシコ、ジュネーブ軍縮各大使)から課せられた「NGOと予防外交(プリヴェンティヴ・ディプロマシー)」という報告を行った。予防外交というのは、紛争の発生や悪化を事前に防止する外交であり、これについてNGOの立場でその果たすべき役割と可能性について述べよ、というものであった。
 
  私は、NGOは、
@ 対話、交流、協力などさまざまな活動を通じて、相互理解の促進、相互依存性の拡充を図り、和解や平和のための雰囲気や環境づくりなど、予防外交の基盤づくりにあたり、
A 情報の収集、実態調査、学術研究、適度な発信、働きかけ・説得・介入、早期警報、政策立案、提言などにより、予防外交の主体としての役割を担い得るが、NGOが使える予防外交の手段はいろいろあるとしても、限界も大きいと指摘した。

  今少し詳しくいうと、NGOが用うる手段の第1は、国連、各国政府、議会、研究機関、NGO、メディアなどとのネットワークにより、問題解決のための基盤づくり、すなわち、内外世論の確立と結集である。

  言い換えれば、共通テーマや理想のもとにできた国際的ネットワークによる情報交流と監視である。

  こうした点においては、対人地雷禁止条約締結への<オタワ・プロセス>が成功例の典型だろうが、小火器(スモール・アームズ。小型武器)の制限や核廃絶まで、この手法と経験をどう活用できるかについては、未だ希望と願望の段階に過ぎないといっては言い過ぎだろうか。

  ODAとNGOとの有効な結びつき、「ODANGO(オダンゴ)効果」がもっと発揮されていいと思うが、そのためには、緊急支援活動以外に、NGOと官財の協力機関であるジャパン・プラット・フォーム(長 有紀枝代表理事)の活動を拡充するのが、当面、重要ではないか。


 
エリツィン元大統領逝去 [2007年04月24日(Tue)]




 1993年1月、モスクワで行なわれたSTARTU調印式でのエリツィン。政治的にも健康的にも全盛期だった頃。





  ロシア大統領府が23日に発表したところによれば、ロシアのボリス・エリツィン前大統領が23日午後3時45分(日本時間同8時45分)、心血管不全症のためモスクワの病院で死亡した。享年76歳。

  エリツィンが行ったことをざっと列挙してみよう。

@ 91年7月に新生ロシアの初代大統領に就任し、同年8月の騒擾事件にあたっては勇気を持って対応し、果敢に民主派と世論を結集してクーデターを未遂に終わらせた。
A 同年12月のソ連解体を主導し、独立国家共同体(CIS)創設を決めた。
その後、ロシアの民主化と市場経済化を推進、国際社会で「大国ロシア」の地位再興に努めた。
B 93年10月、保守派が占める議会と対立、議会ビルに立てこもった国会議員らを武力鎮圧砲して同ビルから追い出した。
C その直後に来日し、細川首相との間で「東京宣言」を発表、北方四島の問題を3原則で解決することを約束した。
D 97年11月に橋本龍太郎首相(当時)とクラスノヤルスクで会談し、「2000年までの平和条約調印に全力を尽くす」ことで合意。日露関係改善の流れを作った。
E 98年4月には川奈で橋本首相と、同年11月には小渕首相とモスクワでと首脳会談を続けたが、2000年までにとした、国境画定問題は解決できなかった。
F 後継者にプーチン現大統領を指名した。

  しかし、東京宣言直後の12月に行なわれた国家院(下院)選挙で与党は力を失い、また自らの心臓病がもとで、エロツィン大統領は95年7月と10月に入院。96年11月には心臓バイパス手術を受けた。その後も肺炎や胃潰瘍などで入退院を繰り返し、内政や外交活動に支障が出た。

  急速な日露関係の進展が期待され、期限内の平和条約締結に向けて双方がさまざまな努力を重ねたが、同大統領の健康問題もあり、「四島返還」が実現し、「日露平和条約」の締結に至ることができなかった。

 1999年12月31日、エリツィン大統領は突然辞任した。

  フランスのシラク大統領は23日、エリツィン前ロシア大統領の死去に関し、「ロシアを民主主義に向けて導き、自由を勝ち取ったその勇気と一貫性、政治感覚が忘れられることはないだろう」とするエリツィン氏のナイナ夫人あての追悼書簡を出したとのことだが、この点については、世界共通の評価であろう。