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標高の基準点 [2006年12月31日(Sun)]



 JR最高駅のプラットフォームに立つ筆者。1345.67mとの表示がある。
(2006年5月)。





 前回、北岳と甲斐駒ケ岳の標高を記したところ、読者の方から、標高は何処の地点が基点になっているのかという質問があったので、お答えしたい。

 日本における標高は、東京都千代田区永田町1丁目7番地の水準原点(水準標石の零分区画線)の高さを24m4140としこれを基準として測定されたもの。
 
 関東大震災まではこの地点を24m5000としていたが、震災後、再計測してこの基準となった。

 水準原点のある場所は、今では国会議事堂のまん前というほかないが、戦前は陸軍参謀本部のあった場所のはずだ。追って正確に調べて報告したい。
日本から見える外国 [2006年12月31日(Sun)]






 日本から見える外国の領土はどこかご存知かな?

 わが国の防衛や通商上重要な海峡として、対馬海峡の西水道と東水道、宗谷海峡、津軽海峡、大隅海峡の合計5つがある。これを「5海峡」と呼んで、防衛省や海上保安庁は特に重要視して警戒を怠らない。

 これらの海峡は、十分監視されているとはいえ、核を搭載した外国の軍艦や輸送船も航行できる。

 そのうち宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡がいわゆる「3海峡」として戦略上、最も重視されている。自衛隊やアメリカ軍基地の配置や武器・観測機器の配備もおのずからこれと関連している。佐世保(長崎県)、対馬(同)、三沢(青森県)、車力(同)、稚内(北海道)の駐屯地はその典型である。

 対馬海峡の西水道は対岸の韓国まで23海里(1海里は1852km)の距離で、天気がよければ釜山との間で互いに遠望できる距離。反対の東水道は壱岐島まで25海里。宗谷海峡は23海里あり、サハリンを遠望できる。

 ほかにも与那国、波照間両島からは台湾が見え、択捉島からは千島の得撫(ウルップ)島を見ることが出来る。かつての日本は占守(しゅむしゅ)島から、カムチャツカ半島を眺めることが出来た。

 1992年に「北方領土ビザなし訪問」団の一員として初めて現地の島々を周った時、乗船「コーラルホワイト」号の船長から、A地点からB地点が見えるか見えないかを計算する数式を教わったが、すっかり忘れてしまった。どなたかご教示くださるとありがたいのだが。確か√を使った式だった。
東西南北端は? [2006年12月31日(Sun)]





 日本の東西南北端はどこだろうか?

 現在の日本の東端は東京都南鳥島、南端も同じく東京都に所属する沖ノ鳥島、西端が沖縄県与那国島、北端が北海道択捉島。

 だから、東京都というのは、実に北回帰線よりも南まで広がっている大きな領域を持っていることになる。

 この東西南北異端は、日本の国土が最も広域に展開していた1939(昭和14)年に比べると、首都・東京にずいぶん近づいたことになるが、それでも今なお、これだけ遠いところまで日本の領土は広がっている。

 地球が丸いということもあって、日本で最も早く日の出が見られるのは、南鳥島。最も遅い日没は与那国島。与那国島は、台北よりも南に位置し、石垣島よりも台湾までのほうが近い。
 
 少しややこしいのが最北端。本来は北方4島の1つ、択捉島のカムイ岳の麓、カムイマッカ岬なのである。

 ところが、北海道の稚内に行くと宗谷岬に「日本最北端の碑」というのが建っていて、観光客はここで記念写真を撮って帰る。

  私は北方領土の返還運動に関係している者として、いくら何でもこれはちょっと問題ではないかと市長に申し上げたが、「わが稚内市にはこれしか観光資源がないから、これだけは択捉島返還の日までこのままにさせてほしい」と言われ、「せめて、本来は択捉島の・・・とのパンフレットででも解説したらと粘ったことがある。

 こういうのをご都合主義という。
日本は広いぞ [2006年12月31日(Sun)]




  南アルプスの山々。写真左は日本第2の高さの北岳(3192m)、右は甲斐駒ケ岳(2967m)。


 年末年始くらいは日本と世界を少し考えてもいいんじゃないのかな。と思いつつ、まずその基本となる、領土について述べてみることにした。


 日本の領土は約37.8万平方`b.

 最大だった1939(昭和4)年に比べるとずいぶん少なく、小さくなった。当時は、全千島、台湾、朝鮮半島、さらには今でいう南沙(スプラトリー)群島が新南群島との名前で日本の領土になっていた。

それでもこの約37.8万平方`b.の国土面積、ロシアを除くヨーロッパ各国と比べてみると日本より広いのは、ウクライナ、フランス、スペイン、スウェーデンの3カ国のみ。ドイツやポーランドよりも広い。

 日本の領土を囲む領海は約28万平方`b、そしてEEZ(排他的経済水域)は約405平方`bもあり、これらを合わせると日本は世界的に見て、大変広い領域を保有しているということになる。
 
 EEZで比較すれば、アメリカ、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、カナダ、ロシアに次いで第7位。さらに海岸線の長さを比較すると、ロシア、インドネシア、オーストラリア、アメリカ、カナダ、フィリピン、メキシコに次いで、日本は世界第8位である。
紅葉と干し柿と美酒 [2006年12月30日(Sat)]


  包み紙は、石田良介画伯特製の剪画。熱い干し柿です。





       
 今年の秋はあたたかかった。「暖秋」というのは、私の語彙にはなかった言葉であり、現象である。「それゆえに紅葉がいまいちだった」という人もいるが、私は今年は実にタイミングよく、各地で紅葉を見ることが出来た。

 小欄の挿画でおなじみの石田良介画伯(日本剪画協会会長)の令夫人・秀夫子(ほうこ)さんは、干し柿作りの名手。八ヶ岳山麓のひときわ豪邸の軒下に吊るすのが年中行事の風物詩のようになっているが、「今年は秋がいつもと違って・・・」とおっしゃりながら、包装もまたすばらしい干し柿を下さった。これで年が越せる。

 ところで、モミジとカエデ(楓)は何処が違うのか。

 結論から言うと、モミジはカエデの別称。秋に落葉樹が色づくことを上代には黄葉と記し、以後は紅葉と書くようになった。

 カエデ、ウルシ、ドウダンツツジ、ツタの場合は、葉の細胞液中のアントシアンが増加して葉緑素が分解するために葉の色が赤く変化する。また、イチョウ、ナラなどの葉はカロチノイドが残るために黄色に変化する。

 唱歌『もみじ』(岡野貞一作詞、高野辰之作曲)は「山に紅葉が照り輝く姿と「川」に流れる紅葉という、古代や平安以来の日本人の美学に沿った歌。詳しくは拙著『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)に拠られたい。

 明治文壇にその名を残す尾崎紅葉(本名=徳太郎、1867〜1903)が「モミジ」を意識して紅葉としたのか、「カエデ」を意識してかはわからない。

 高齢者ドライバーのマークは「モミジ」。あんなものは許せない。失礼である。

 枯れ落ちる姿を象徴しているのであろう。「枯れ落ち葉」「濡れ落ち葉」、挙句の果ては「粗大ゴミ」「産業廃棄物」「賞味期限切れ」・・・

 よくぞ言ってくれたな、ガキども! 私は絶対「モミジマーク」は付けまいぞ! そして、こんなことは言わせないぞ! 

 諸兄姉ドノ!
 あなたたち、諸先輩のご苦労あってこその、日本の平和と繁栄なのですから、自信を持ち続けてください。

 いやはや、今宵は石田ご夫妻と少々、美酒に酔いすぎたかも。

 ご夫妻には、「干し柿」はもとより、1年間、小欄でもお世話になりました。感謝です。

最先端医療に期待 [2006年12月30日(Sat)]




 骨髄異成形症候群(白血病)で、青島幸夫元都知事とコメディアンのカンニング中島(忠幸)が、つい最近、相次いで亡くなった。カンニング中島はわずか35歳だった。

 もっと若くして、否、まだ小学生の身でも、この病気は突然発症する。風邪か思って小児科で診てもらっても、なかなか回復せず、これはおかしいということになってから大騒ぎになる。

『広辞苑』によれば「小児」とは「小さなこども、幼児」。

 但し、「小児」はほとんど小児科、小児喘息、小児結核、小児麻痺、小児癌といった場合にのみ使う言葉といえよう。「小児の内科的疾患の治療を専門とする医学の一分野」であるのが小児科。ところが、現行の保険医療では、使用する薬品が少ないことを初め、何かと手間がかかる割に医療施設側の報酬がすくないため、小児科の経営は難しく、ここ数十年、小児科医や小児科が急速に減少してしまっている。

 しかし、実際には小児科の役割はすこぶる大きい。こうした病気の早期発見だけでも重要な役割だ。

 私は2004年3月、骨髄異成型症候群(白血病)を患った兄に造血幹細胞移植ミニ移植という、最先端医療を行なうためドナーとして国立癌センターに入院した。そのときに、小児癌治療を受ける多くの子供たちと出会った。

 放射線治療のためほとんどの子に頭髪がない。それでも明るく、患者仲間と遊んだり、特別授業のためにやってくる教師になついて、文字通り懸命に勉強していた。小児科の医師たちと子供たち自身の努力に敬意を表したい。

 そんな気持ちでいるなかで、わが親友・K氏の孫の一人が、骨髄異成型症候群を再発症した。きょう聞けば、赤十字病院医療スタッフの懸命な努力で、熱も下がったというので、ご両親やご家族も少しは気持ちが落ち着いてきたようだ。

 幸い、15歳のお兄さんYくんと骨髄のタイプが合致したため、最先端医療である造血幹細胞移植をすべく、Yくんも一昨日までに移植するための大量の血液の採取を終え、この移植に不要な赤血球や血小板などを戻してもらって、きょうは元気に出かけているとのことだ。

 骨髄バンクに登録している人は関係者の努力で30万人近くなった。しかし、いざとなると仕事や学業の忙しさや、よくわからないことから来る怖さなどもあり、上司や家族の反対などの理由で、実際に骨髄移植(骨盤付近に針をさして骨髄液を採取する方式)や造血幹細胞移植(腕の静脈から採血する方式)にまで至らないケースが少なくない。

 まずは登録者の倍増(米国では150万人以上が登録)、協力時の休暇や保障など社会的な理解と支援が必要だ。そのための啓発活動に、国もそして私たち経験者が努める必要がある。

 ちなみに私は入院3日前にミャンマーとラオスへの訪問から戻り、5日入院して造血幹細胞移植(約2時間半の間、「釣りバカ日誌」を鑑賞で終わり)、4日後には、「エコノミークラスのアエロフロート」(それがどんなに「快適」なものかは搭乗した人にしかわかるまい)で、モスクワに向かい、4日間滞在して帰国した。提供する側の負担は概略その程度のものである。

 考えてみてほしい。もし、あなたが突然、骨髄異成形症候群なりを発病したら、今、それで苦しんでいる何万人かのひとりである、その人に協力をお願いするかもしれないのだ。

 元気な頃は最年少の「妙齢の美女」として小欄に登場したHちゃんの全快を祈るや切である。


右利きと「左利き」 [2006年12月30日(Sat)]





ホテルの仮設リンクですべる未来の麻央ちゃん?たち






 年末年始、ホテル住まいの方も多いことかと思う。最近のホテルは総合レジャー施設化し、図書館、会話室、温泉、キッズランド、温水プール、サウナ、スキー場への送迎はもちろん、冬には靴を無料貸与してのスケートリンクの開設をしている所もある。

 浅田真央選手の大活躍で、フィギュア人口が増えたとか。スケート連盟に不正があろうと、今年の新語・流行語大賞に「イナ・バウアー」が選ばれ、「真央ちゃん、昨年に続き大活躍」となっては、「私も未来の・・・」と思う子が続出するのも無理はない。

 最近のホテルは浴衣ではなく、綿製のガウンのようなものを置く所が多くなった。バスタオルの代わりにもなるし、室内着にもなるようだ。

 しかし、あれはどうして男性用のしつらえになっているのだろうか。もう少し具体的にいうと、ボタンが右利き用になって、左の穴に入れるようになっているのはなぜだろう。

 宿泊客はあきらかに女性が多い時代ではないか。もちろん女性にだって右利きの人が多いに決って?いる。

 いろいろ考えた末の私の仮説は、もともと中世以前にあっては、ボタンは貴族や富裕な階層の女性しか使うことが出来なかったに違いない。すると、そういう女性には、メイドがいて、着脱はその人に任せていたのではないか。このメイドたちもまた右利きときているから、今日に至るまでメイドにしてもらう人に都合がいいようになっているのではないか。

 他方、日本の着物は男女とも同じ。こちらは、「自分のことは自分で」という伝統か。

 それにしても、もしボタンが逆だったら私など、簡単には着脱できそうにない。21世紀の世界の女性は、ホテルでたとえ、普段と逆の位置関係のボタンでも文句を言わないものなのか。それとも「左利き」の女性が増えたということか(このオチよろしくご理解を!)。
回答です [2006年12月29日(Fri)]





  挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 先般のクイズの回答をせよとのメイルがありましたので、書きます。


 @剣橋=ケンブリッジ
 A紐育=ニューヨーク
 B倫敦=ロンドン
 C莫斯=モスクワ
 D櫻府=サクラメント

 では、@牛頓
     A莎士比亜
  は誰でしょう。ヒントは、ともに近世初期の欧州人です。
海と島 [2006年12月29日(Fri)]





  硫黄島の擂鉢山山頂から(2006年7月、筆者撮影)




 日本財団グループでは毎年、12月28日の御用納めには、同財団ビル8階にある小さなお社の下に、関連団体の幹部約30人が居並び、奉謝祭を行なう。

 神主は靖国神社からお越しくださる。開始前は「あのお神酒はどこの酒造会社のものだろうか」「今は鯛もきっとスーパーで買うんだろうね」などと世間話をしていた面々も、カランコロンと、遠くから木靴の音が聞こえてくると、いっぺんに厳粛な気持ちになる。

 開始を告げる横笛の音がなんともいいがたく、厳粛な気分にさせる。

 祝詞、玉串奉呈と続き、なおらいのお神酒で終わる。同グループではこのあと尾形理事長以下有志が伊勢に向かい、29日早朝、内宮、外宮を参拝する。できれば、来年こそは私も随行したいものだ。

 正午からは、関係団体の全役職員が集まっての納会だ。笹川会長はまず「今年は自分でもずいぶん働いたという気持ちがする」と述べ、特に「海洋基本法」の制定について触れ、「法案の起草にまで関わる関与ができ、主要な各政党の賛同を得、次の通常国会で成立しそうなところまで来たことを喜びたい」と述べた。

 その中で「日本はかつては海に守られて来た。これからは海を守る日本にしたいものだ」とおっしゃったのが、印象に残った。

 私は新年早々から「日本の領土」を総点検する。理論ばかりではなく、報道や実地に足を踏み入れた自分の経験も加えて、海に浮かぶ「辺境の島々」を考えたい。

これで新年を迎えられる [2006年12月28日(Thu)]





 30箱ほどの段ボールに詰め込んだ本や書類との苦闘を終えて、ユーラシア21研究所のわが理事長室を、ようやくなんとか片付けることが出来た。腰痛寸前、あちこちが痛む。

 この間、アメリカ大使館の「妙齢の美女」が大使の紋章入りのチョコレートを持って駆けつけてくれたり、朝日新聞記者の同じく「妙齢の美女」、さらには東京財団虎ノ門DOJOにいつも来てくれた方や、東京財団の研究員である「妙齢の美女」、さらにさらに、東洋英和女学院大学大学院の「妙齢の美女」が訪ねて来てくれても、いずれもほとんど座っていただけるところがないほど雑然としていた。

 いずれ、お詫び方々、感謝の気持ちを込めてゆっくりお話できる機会をつくりたい。

「わが社」の事務局長である宮本昇氏は、この間、本当によくアシスト、否、リードしてくれた。彼の事務所に私が受け入れてもらったようなものだ。わけあって、私は約10日間、この立ち上がりで多忙な12月を「戦力外通告」を受けた野球選手のような存在でいるほかなかった。

 また、若手大抜擢で常務理事になった吉岡明子嬢は1、2月の重要な会議の準備と自らの研究のまとめ(それと自室の整理?)で、「あすも明後日も、たぶん正月は2日から出勤することになるでしょう」というほどの、尋常ならざる忙しさで、これまた引越しではほとんど「戦力外」であった。

 にもかかわらず、宮本事務局長はめげず、怒らず、ベテランらしい舵取りで、研究所を立ち上げてくれた。身内を褒めたり、感謝したりするのは従来の日本の慣習でいうとおかしいかもしれないが、曲がりなりにも「21(世紀)」と名乗っている「わが社」としては、そういう慣習にとらわれず、仕事(話)を進めたい。

 昨日は吉岡常務理事と駐日ロシア大使館のガルージン臨時代理大使(ベールイ次期大使は現在インドネシア大使として在勤中、2月末に日本に着任の予定)に研究所創設の挨拶に行った。一昨日も書いたように、2月には、安全保障問題研究会と共催で、通算25回目の「日露専門家会議2007」を、日本財団ビルで開催するが、そのことについても協力態勢を十分話し合うことができた。

 これで、みなさまに感謝しつつ新年を迎え、1月4日には他の職員も合流し、「ユーラシア21」は正式にスタートが出来る。


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