• もっと見る
« 2006年05月 | Main | 2006年07月»
<< 2006年06月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
「花」は源氏物語から [2006年06月30日(Fri)]







     挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





花                 作詞 武島羽衣
                   作曲 瀧廉太郎
   一、春のうららの隅田川
     のぼりくだりの船人が
     櫂のしずくも花と散る
     眺めを何に喩うべき

   二、見ずやあけぼの露浴びて
     われにもの言う桜木を
     見ずや夕ぐれ手をのべて
     われさし招く青柳を

   三、錦織りなす長堤に
     暮るればのぼる朧月
     げに一刻も千金の
     眺めを何に喩うべき


●田辺聖子さんからのご教示
  2002年に、歌い継ぐべき愛唱歌を調べていた過程で、作家の田辺聖子さん(1928〜)から貴重なご教示をいただいた。

『花』(武島羽衣作詞、瀧廉太郎作曲)の歌詞の一番が『源氏物語』からの「本歌取り」であるということだ。

『文藝春秋』(2002年9月特別号)での永六輔(1933〜)との対談によれば、長年介護に努めたご主人・川野純夫(通称・カモカのおっちゃん)を2002年1月に亡くされたばかりの時に、ご指導をいただいたことになる。感謝に耐えない。

  田辺さんは「歌い継ぎたい日本の愛唱歌」の筆頭に『花』を挙げられた上でのことである。まずは、田辺さんからいただいたお手紙の全文を紹介しよう。

 「花」は日本の誇る天才の一人、瀧廉太郎が明治三十三年に作曲したものですが、日本の歌曲第一号であり、誠に美しい曲で、世界に発表して誇るにたるもの。子どものうちから歌わせ、日本人ならすぐハーモニーよろしく合唱できるようにしたいものです。
なお、作詞の武島羽衣さんが、一番の歌詞を『源氏物語』から採っているのをご存知でしょうか。『源氏物語』の【胡蝶】の巻、六条院の宴のところ、女官の一人が歌います。歌は横書きでは書けませんので下に書きます。(ちなみに、私は日本語の横書き反対派の一人です)。
 「花」と『源氏物語』が美しいハーモニーを奏でているところも、われわれ日本人を誇らしく、力づけてくれます。

   春の日のうららにさしてゆく舟は 棹のしづくも花ぞ散りける  
                   
  田辺聖子さんの『新源氏物語』(3巻。新潮文庫)を私は以前、読んだことがある。タイの難民キャンプに向かう機上でだったので、よく憶えている。タイムスリップしたような気分だった。

  しかし、これまた古典文学の素養に乏しく、加えて感度の悪い私は、その「中巻・春の夜の夢に胡蝶は舞う」の章に、この歌が取り上げられていたことにまったく気づいていなかった。

  六条院の宴での出来事が見事に描かれているところだ。そこで、今回あらためて、日本古典文学大系15『源氏物語』(山岸徳平校注。岩波書店)にあたってみた。   (つづく)


文科省は「作者不明」 [2006年06月30日(Fri)]
 余談はさておき、1914(大正3)年6月発行の『尋常小学唱歌』第6学年用で初登場の『朧月夜』であるが、この16人のいずれかが作詞し、作曲したというのは当時の事情から明らかであったが、上笙一郎は次のように推測した。

 まず、「作詞部門の8人の内、芳賀矢一、上田万年、高野辰之は国文学者で、有職故実その他には詳しくても、じっさいに歌をつくり詩をつくることには、さほど堪能とはいえませんでした」と切り捨て、「これにたいして」、尾上紫舟、武島羽衣、佐佐木信綱は、として既によく知られていた曲名を挙げ、そうした作品「などで知られている詩人でした。いずれも伝統的な美意識に加え、十分な表現の技術を身につけた人であったいうことができます。ものごとを論理的に考察してゆく学者と、対象を直感的にとらえ、かつこれに文学作品としての形をあたえる詩人とで、どちらが作詞者としてふさわしいかは、いうまでもなく明らかです」と締めくくっている。

 私は何も先学の非をあげつらうためにこれを引用したわけではなく、
@ 作者の確定はかくも難しいものである、
A 高野辰之の詩人としての研究は最近まで、あまり進んでいなかった、という2つを言いたかっただけである。

そしてこの間の事情を明らかにした点で、猪瀬直樹の『唱歌誕生−ふるさとを創った男』(小学館)を高く評価するのだ。

 但し、文部科学省に問い合わせてみたが、依然として、「作詞・作曲者は発表していない」との返事しか返ってこなかった。


「冬景色」の謎解き [2006年06月30日(Fri)]



挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



 次に、『故郷』と『朧月夜』が日本の唱歌・童謡では珍しい3拍子の曲であり、『冬景色』も3拍子の曲であることからの、いわゆる「岡野の旋律」ではないかという推測が出てくる。

 さらに、発表年と適用する学年の空白を考え合わせると、状況証拠しかないが、『冬の夜』と『冬景色』、これも二人の曲といいたくなる気持ちもよく解る。

 これに対し、『唱歌・童謡ものがたり』では、金田一春彦(1913〜)が、自然の描き方が『美しき天然』に似ていること、作詞委員会の中心メンバーが武島羽衣(1872〜1967)であったことなどを挙げ、「『冬景色』の作詞者は武島ではないか」、少なくとも「武島が叩き台となる詞を作ったか、彼の意見が大きく影響したか」と見ていることを紹介している(金田一春彦『童謡・唱歌の世界』教育出版)。ただ、浅学非才の私には『美しき天然』との共通性といわれてもあまりピンと来ない。

 そこで、素人の大胆な想像が許されるならば、是非、国文学の専門家にお願いしたい。
 既に小欄で紹介したように(近く、短くして再録の予定)武島のもう一つの代表作『花』(滝廉太郎作曲)は、『源氏物語』から本歌取りをしている。もし、あくまでも「もし」の話である。古典に精通している専門家が、この『冬景色』についても、本歌を発見?してくれるなら、作詞者探しは一挙に進むように思えるのだが、どうだろうか。

 もっとも、作者探しはしばしば大きな失敗を冒しかねない。

 日本児童文学者協会理事の上笙一郎(かみ・しょういちろう、1933〜)の『童謡のふるさと』は1962年に上下2冊で上梓され、74年に合冊新版されたもの。その合冊本の「あとがき」によれば、当時、「童謡作品の個々について五、六行くらい言及した文章はあっても・・・童謡作品論はどこにもなく、その意味で小著は、日本最初の童謡作品論であったといっても過言ではありません」ということだが、上は『朧月夜』の作詞者を、尾上紫舟、武島羽衣、佐佐木信綱のいずれかではないか、と推論している。

 ちなみに、1909(明治42)年に作詞委員に任命されたのは、『鎌倉』『三才女』の芳賀矢一を委員長に、高野の師である東京帝大教授上田万年(作家・円地文子の父)、『花』や『美しき天然』の武島羽衣(又次郎)、『夏は来ぬ』『水師営の会見』の佐佐木信綱、『早春賦』の吉丸一昌、歌人として著名な尾上八郎(紫舟)、八波則吉と高野の8人。

 作曲委員は、東京音楽学校校長の湯原元一を委員長に、『夏は来ぬ』の小山作之助、『一寸法師』『大こくさま』『青葉の笛』を作曲した田村虎蔵、『一月一日』の上真行(うえ・さねつら)、『村祭』の南 能衛、『星』(オヒサマ、ニシニ、カクレテ…)の楠美恩三郎、ほかに島崎赤太郎、そして岡野の8人である。

 芳賀矢一については、金田一春彦(1913〜2004)が『童謡・唱歌の世界』(小学館)で、文部省唱歌『われは海の子』の作詞者であることが判明した、と紹介している。

 それによると、玉井幸助博士という国文学者から思い出を訊かれた岩井良雄東京教育大学教授(国語学)は若い頃、神田の料亭で芳賀矢一の酒の相手をした。

 そのとき「芳賀博士は、ぼくはあしたまでに、文部省から依頼された唱歌を考えなければいけないと言われながら、酒盃を重ねておられたが、何分酒仙と言われた方なので、とうとう正体もなく酔ってしまわれた。

 玉井氏は芳賀博士を人力車でお宅に送り届け、翌朝心配だったので、芳賀博士を訪ねて見られた。 すると、芳賀博士はさわやかなお顔で出て来られ、けさ早く目がさめたから、こんなのを作ってみたよといって示されたのが、今の『われは海の子』の原稿だった」というのだ。

 ただ、金田一は同じ本で、その後、@北海道で新聞記者をしていた宮原晃一郎が募集に応じて作った、A灘中学の真田範衛初代校長が作詞者だという2説もある」と紹介している。なお、文部省唱歌『三才女』については、石原和三郎作詞という説もある。

作者の謎解きはいろいろ興味のわくところだが、やはり、今後の専門家の研究に委ねたい。
自分にも呆れてます、この批判 [2006年06月30日(Fri)]


こうですよね。








 まずもって6月18日付の小欄を再び掲載したい。

  ☆―――・・・・・・  ☆―――・・・・・・

 昨日の午後、NHKの「そのとき歴史は動いた」の番組担当者から電話があった。

「番組のなかで英国の旗(ユニオン・ジャック)を何人かが振るシーンがあり、旗竿を左右逆に付けてしまった。どうしよう」という相談だった。

 小欄の読者はすでに何度か英国旗の逆掲揚についてはお読みいただいたかと思うが、よくあることなのです。旗竿を左右逆に付けたら英国旗は逆さまになってしまう。

「特にNHKは英国旗を何度も逆掲揚してますね。私だけでも5,6回は抗議していますよ。その都度、全部対応が違いますが・・・」

「出演者を集めなおして今からそのシーンを撮影しなおすことは不可能なんです」

「最悪、テロップでお詫びするしかないでしょう」

「それでは番組としての雰囲気が壊れてしまうんです。英国政府関係者や英国の方が見ればすぐ分かりますか?」

「はい、すぐ分かります。日本人だって少し国旗を知ってる人なら(まして、小欄の読者なら)すぐ分かります。また、分かるわからないの問題ではないんじゃないでしょうか」

「よく考えて見ます」

  気の毒なくらいショゲていたが、さて、21日(水)が on air とのこと。みなさまご注目を!

  ☆―――・・・・・・  ☆―――・・・・・・

  そして私は昨夜、7月に刊行する『従軍看護婦たちの大東亜戦争』の校正でへとへとの状態で、誤字脱字、変換ミスのまま、NHKに直截な怒りをぶつけてしまいました。

  きょうは、いささか冷静になりましたが、やはり、私にはNHKの尊大な体質が許せません。

  先週の水曜日6月21日に放映した、NHKの看板番組の1つ、「その時歴史は動いた」についてです。詳しく書いてみます。題して「幻の大艦隊――イギリス側から見た薩英戦争」での英国旗(ユニオンジャック)が大半の場面でさかさまに掲揚されていたのです。

  採録してお伝えしましたように、NHKの番組担当者はあらかじめこのことに気付いていたのです。

  昨夜、DVDで実際の番組をみましたが、「ユニオン・ジャックを何人かが振るシーン」といった、そんな小さな雑然とした場面ではありません。

  英国のオ−ルコック大使が公使館内で幕府の役人と交渉するシーン、薩英戦争の英国軍艦の中などで、大きな英国旗が逆さまに掲揚されているのです。しかも、場面が変っても何度も何度も出てくるのです。

 ゲスト出演した、私の畏友・小川和久さんは「Show the flag」の話をし、「ユニオン・ジャックを見せることが諸外国の人々を威圧することになる、英国の権威を示すことになるのだ」と話をしています。その英国旗がさかさまでは、威信は丸つぶれです。

 難しく言えば、英国旗は縦横比1:2ですから、公使館で2:3の旗を使っているのはおかしいとか、他にも問題点はあります。砲丸型の鉄の固まりを砲弾にしていた薩摩軍と、「椎の実」型の砲弾の英国軍では飛距離が違うから英国軍は実力が上だったといったようなことを松平定知さんがしゃべっていましたが、これも少しおかしいです。

  両者の違いは、飛距離もさることながら、砲丸型の砲弾はそのまま落下しれゴロゴロ転がるだけであり、破裂はしないのです。それに対して「椎の実型」の砲弾の中には爆薬が詰っていて、着弾後爆発しますから、殺傷能力がまるで違うのです。

  でも、それは「国旗の逆掲揚」とは比較にならないマイナー問題といっていいでしょう。
「国旗の逆掲揚」について、番組では、英国や視聴者にお詫びの言葉一つなく、そのままオン・エアしたのです。その神経の図太さ、否、無神経さに呆れるほかありません。

  「いまさら取り直すわけに行かないし、どうすればいいか」というので、私は「その程度ならばテロップでお詫びして訂正しますとでも書いたらどうですか」と、今思えばいささか安易に応えました。

 するとその担当者は「番組の雰囲気を壊してしまいますので、それもしにくいですね。ほとんどの視聴者は気付かないでしょうし」

「そういう問題ではないんじゃないでしょう。イギリス人なら瞬間で分かりますよ」

といったやり取りをしました。

  ちなみに「まっすぐ、真剣、NHK」が昨今のキャッチ・コピーです。「さっさかさま、尊大、NHK」ではないんですよね。

  ああ、われながらこんな品のわるいブログは書きたくありませんでした。読者に、「まっすぐ、真剣に、お詫びします。
「冬景色」も高野・岡野か [2006年06月30日(Fri)]





挿画「冬の小渕沢」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



  ところで、高野・岡野の二人で作った名曲6つをもう一度、列挙してみよう。

    曲 名    発表年    掲載教科書  
  『春がきた』  1910(明治43)年 「尋常小学読本唱歌」
  『日の丸の歌』 1911(明治44)年 「尋常小学唱歌(1)」
  『紅葉』    1911(明治44)年 「尋常小学唱歌(2)」  
  『春の小川』  1912(大正元)年  「尋常小学唱歌(4)」
  『故郷』    1914(大正5)年  「尋常小学唱歌(6)」
  『朧月夜』   1914(大正5)年  「尋常小学唱歌(6)」

  文部省唱歌は戦後になって実際の作者が明らかになっていったが、依然、いくつかは不明のままである。

  『冬の夜』   1912(明治45)年 「尋常小学唱歌(3)」
  『冬景色』   1913(大正2)年  「尋常小学唱歌(5)」

 この2つも、作者不明のまま、童謡・唱歌の名曲として歌い継がれている。作者探しも盛んで、これも高野辰之・岡野貞一のゴールデンコンビによるものではないか、と考える説に私も組みしたいところだ。

 まず、さきの6曲のうち春の曲が2曲、秋の曲が1つある。読売新聞文化部による『唱歌・童謡ものがたり』では『故郷』を秋の歌に分類しているが、そこは意見の分かれるところだろう。

 それはともかく、そこで、この二曲、『冬の夜』(囲炉裏の端で衣縫う母は…)『冬景色』(さぎり消ゆる水の江の…)が二人の曲であってもおかしくないのではないか、となる。
美智子皇后様が大好きな曲という噂が流れたこともある『冬景色』、名曲中の名曲ではあるが、しかし、これはいささか危険な推測だ。

 現に、同じ時期に発表された作者不祥の文部省唱歌に『雪』があり、これで、春夏秋冬の四季がそろうという見方をされる研究者もいるようだ。しかし、季節感のはっきりしているものには『茶摘』『村祭』『案山子』などがある。

 これらにさえ高野・岡野コンビの詩風・曲風が一致するとか酷似するという人もいるが、何度聴いても私にはあまりに無理があるような気がする。将来の研究にゆだねたい。
NHKの無神経さ [2006年06月29日(Thu)]





ポールは左側です。これが正しい英国旗・ユニオンジャック





  これが、NHKが看板番組の大半のシーンでで掲げた英国旗の逆の姿。こうして紹介するのさえ、申し訳ないほどです。


 6月21日に放映した、NHKの看板番組の1つ、「その時歴史は動いた」の録画をようやくきょう見る時間があり、丁寧に拝見しました。題して「幻の大艦隊――イギリス川から見た薩英戦争」。英国旗(ユニオンジャック)が主役です。

 驚き、あきれるほかありません。何度も出てくるユニオンジャックの過半が逆掲揚なのです。

 詳しくは明日書きますが、先日お伝えしましたように、NHKはあらかじめ気付いていました。私に問い合わせてきたのですから。しかし、そのときは「群集が旗を振っているシーン」と言ってました。そんな小さな雑然とした場面ではありません。

 公使館内や軍艦内で逆掲揚なのです。お笑いどころか、私は恥ずかしくなりました。

 番組では、英国や視聴者にお詫びの言葉一つなく、そのままオン・エアしたのです。その神経の図太さ、否、無神経さに呆れるほかありません。
剪画展、盛況裡に幕 [2006年06月29日(Thu)]






   これが、今年の展覧会における、「会長作品」でした。横2.4mです。




  小欄でおなじみの石田良介画伯が主催する、日本剪画協会第22回協会展、昨日で終了いたしました。小欄で知って、暑い中を大崎までお越しくださった方もかなりおられました。ありがとうございます。ご満足いただけたにちがいありませんが、いかがでしたか。感想をお聞かせください。

  石田画伯には、裾野を広げるため、来年の展覧会では常時、会員のどなたかが実演していてほしいと、提案しておきました。

  石田先生からは、私にまで、丁重なお礼状が来ました。私だけで留めておいては申し訳ありませんので、ここにご紹介します。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

  昨日、無事、22回展が終了する事が出来ました。最終日のご案内までブログにご掲載下さいまして、感謝するばかりです。お蔭様で最終日まで鑑賞者で賑わいました。

  4時閉館でもまだ入館者があって片付けが始まっても、壁に残っている作品を覗き込む様に観ている方もおりまして嬉しい限りでした。「秋田の観光大使」までお越しいただき、美味しいお菓子まで頂戴いたしました。入館者は二千人ほどになりました。

  来月は8日から21日まで群馬県みなかみ町カルチャーセンターで巡回展を開催致します。昨夜、友人に作品を現地まで運んで頂きました。皆さんの献身的で温かいご協力とご支援を頂いて、剪画が益々発展する兆しが見えて来た様に思います。

  毎年入場者が多くなって、今年の特徴として、作品の作り方への質問が多くありました。また、ワークショップには予想外の参加者があり2、3回に分けて行いました。そして中年以上熟年の方の男女の参加者が多く、異常なほど熱心で担当者は緊張の余り最初は顔が引きつっているほどでした。

  お世話になった方々にはお礼状と来年のカレンダー、作品集をこれからお送りさせて頂きます。

  少し疲れましたが、引き続き「森繁の霜夜狸」の舞台で使うイメージコンテの制作に取りかからなくてはなりませんが、今、窓辺に流れている初夏の爽やかな風に癒されて一息ついて居ります。

  いくら感謝の言葉を書き綴っても感謝の気持ちは表わし切れませんが、心から感謝申し上げます。有難うございました。                      石田良介
続・「故郷」考 [2006年06月29日(Thu)]




    挿画「春霞」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




志をはたしての帰郷
 1925(大正14)年2月、高野辰之は長野県の故郷に帰った。
 飯山線替佐駅に降り立った。文学博士号を得た直後の「志をはたして」の帰郷である。

 高野がこのとき遺した5首の「帰郷吟」がある。現在、豊田村の記念館で二つ折りの屏風に表装されてそれがのこっている。

 停車場に並みゐる子ども礼(いや)正し 聞けば皆これわが姪わが甥

 ふる里に芹味へば地づくりの 新酒にも打つ舌鼓かな

 よろこびを抱きて来れば今更に 雪なす髭の父は尊し

 雲雀啼く野にもまさりぬひと心 よに暖けき雪のふるさと

 狐見し岡は水田にかわりいて 子ども石油を知らぬ故郷

 また、
 ふるさとに明日は立んと告げやりぬ 窓押しひらき 母はまつらむ

の歌もある。今に至るまでの、親子に共通の切ない思いであろう。

 1900(明治33)年春、22歳の国文学徒であった高野は、島崎藤村の『破戒』のモデルとなった飯山の古刹の住職の娘・つる枝と結婚した。

 長野出身の猪瀬直樹(第18回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家)の『唱歌誕生−ふるさとを創った男』によれば、つる枝の母は「将来、人力車に乗って山門から入ってくる男になるなら」といって娘を手放したという。高野は四半世紀を経て見事にこれを実行した。

 
●唱歌で「まちづくり」する鳥取 
 他方、作曲した岡野貞一はめったに帰郷しなかったようだ。

 毎週日曜日に教会でオルガンを弾くとなると、当時の交通事情では、鳥取に帰るのはただ事ではない。

 それでも1935(昭和10)年ころ、夫人と共に帰省していると、岡野夫人が作家の鮎川哲也に語っている。

「砂丘で喜んだ顔が忘れられません。砂丘に寝ころがったり、はだしで歩いたりして大満足でした」「『故郷』を作曲するとき、鳥取の大砂丘を思い浮かべたであろう」(『教育音楽』1988年11月号)。謹厳居士のような岡野の“人間らしさ”が伝わる貴重なエピソードである。

 なにぶん、阪田寛夫(「さっちゃん」の作詞家)によれば、文部省唱歌の著名なものが岡野の作曲であるということを「その死に至るまで、家族自身が知らないでいたらしい」「極端に言葉少なで右手のしたことを左手にも知らせない」というほどなのであるからというほどだったようだ。

 蛇足ながら、文部省唱歌は戦後まで、いっさい作詞作曲者名を明らかにしてこなかった。文部省が全版権を握って実際に曲を作った特定個人の著作権を認めなかったからだ。

 私は2002年10月、ロシア問題に関する国際シンポジウムに参加するため3年ぶりに鳥取市を訪ねた。長期低迷の日本経済を象徴するかのように、県都に活気はなかったが、ひとり岡野貞一ブームだけはやや気を吐いていた。

『故郷』音楽祭に『故郷』音楽賞、ふるさと歌の道、ボタンを押すと岡野の曲がいろいろ流れてくる装置、県の発行になる『童謡・唱歌のふるさと鳥取』をはじめさまざまな関連図書やVTRの出版刊行などが続いている。
株主総会に初めて出席 [2006年06月29日(Thu)]




再び花咲くか、日本経済。回復基調ではあるが・・・




 昨6月28日は全国でいっせいに株主総会が開かれた。

 私は「生まれて初めて」、縁あってA社(建設業界)の総会を覗いてみた。わずか14分で終わった、「シャンシャン株主総会」ではあったが、経営陣があらゆる場合を想定して準備していること、吟味された実績資料の作成要領、社長による議案説明の簡潔明瞭さと堂々たる態度、案内するスタッフの気のきいた対応など、参考になる点も少なくなかった。

 中でも、「議案集」にある、日本経済の現況分析が気に入った。

  まず「当期におけるわが国の経済は、IT関連分野の在庫調整の終了や輸出の持ち直しなどにより着実な回復を続け、企業収益は改善基調を堅持しており、設備投資は増加傾向にあります。さらに雇用・所得環境も改善し、安定的な回復局面に入っております」とし、ついで、「一方、当建設業界におきましては、公共工事は一層減少しており、民間建設投資は増加傾向が続いているものの、価格競争が一段と厳しさを増し、併せて原材料の高騰もあり、受注環境は依然として厳しい状況が続いております」」と業界の現状を端的に説明している。

  以下、数字を挙げて「営業報告」を行い、最後に「会社が対処すべき課題」として、「今後の見通しとしましては、輸出は穏やかな増加傾向が続き、個人消費の回復、堅調な企業収益を背景にして設備投資も増加が続く等、わが国経済は景気回復基調を持続するものと予想されます」と日本経済を予測し、そのうけで、「しかし、建設業界におきましては、民間工事は続伸するものの、建設市場全体では縮小傾向が予想され、厳しい価格競争が継続するものと見込まれます」。

「日本経済新聞」を初めとするメディアで知る日本経済とは別に、こうした一流企業の見方を具体的に知ると、大いに参考になり、確信が持てる。

  私事で恐縮だが、私は床屋やタクシーのオヤジに必ずと言っていいほど現場感覚による経済論、景気を尋ねる。経済学者の理論、新聞の報道、現場の人たちの感覚、これらを全部まとめたようなこの「議案」に、日本経済の着実な回復、「改革の余波」などを垣間見る思いがした。
東京財団の若者の意見 [2006年06月29日(Thu)]




「択捉島を臨む」挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



わが東京財団にはもちろん、全国各地の出身者がいるが、北海道出身のAくんから、こんなコメントが来た。昨日の、藤原弘根室市長の市議会における「2島選考返還論」についてである。

なかなか志のある見方だと思うので、あえて紹介したい。

☆―――・・・・・・ ☆―――・・・・・・

根室が北方領土返還運動の原点であることは、地理的・歴史的に明確であり同意する。

しかし、条約の締結は主権国家間で最大の責務のひとつである。
「運動」の単純な延長線上に位置するものではない。

日露関係の打開には、野球で言う「フォークやシンカーが突破口に」と訴えているが、日本外交が「くせ球野球」でいいのか。

抑えやリリーフ投手の切り札として、フォークやシンカーは有効だが、先発を任される本格投手はストレートが基本だ。

秋の選挙を控えての政治的発言と勘ぐってはいけないが、この時期(サミット前)に表明することは残念だ。

☆―――・・・・・・ ☆―――・・・・・・

藤原市長はこれで秋の選挙は完全に無理であり、その後継者たる人もこれではもつまい。

| 次へ