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米軍にも死活的ワケあり [2006年05月29日(Mon)]



擂鉢山の山頂からはるか本土の方角に沈む夕日(5月24日撮影)。


 古澤忠彦元海将(元海上自衛隊横須賀基地司令)から教えていただきました。「なぜ米軍は硫黄島で徹底的に日本軍の壊滅を図ったのか」についてです。

「それにはね、2つ理由があります。第1は、B29が本土を空襲するにあたり、結構、高射砲や迎撃機で被害を受けるからなんです。するとサイパンまでの長距離を戻ることが出来なくなるのです。硫黄島ならその半分の距離ですから、戻れる可能性が全然違ってきます。
 第2は、ムスタング以外の護衛戦闘機が、サイパンからだと、本土までの往復が出来なかったのです。そのために硫黄島の滑走路がほしかったわけです」。

 目からウロコの説明でした。古澤さんとはここ数年、台湾、インドなどでの国際会議でごいっしょし、9月には韓国での日韓台米のシンポジウムに参加します。

 ですから、米軍は硫黄島で直ちに滑走路の復興を図ったのです。日本軍は元山飛行場など3本の空港を持っていましたが、元山の滑走路をただちに整備しました。この飛行場とその周辺には日本軍の将兵の無数の遺体が残されていたのですが、それをろくに片付けないままのあわただしさでの空路建設でした。

ですから、私が降り立った滑走路のアスファルトの下には、今でも遺体のほとんどがそのままになっているはずなのです。

梯久美子さんの『散るぞ悲しき』(新潮社)によれば、硫黄島が返還されて2年後の1970年から、日本政府は本格的な遺骨収集を行なっていのですが、「今なお1万3千柱を超える遺骨が地下に眠っている」ということです。栗林忠道中将は、階級章を外して部下とともに突撃したため、米軍も特定することはできなかったといいます。「栗林は部下の兵士たちと同じく、誰のものとも分からぬ骨として島の地価に眠ることを選んだのである」と、梯さんは記しています。

そこまでして米軍が硫黄島の制覇を急いだのは、3月10日の日本の陸軍記念日に東京を大空襲するということが、既定事実として決められていたということなのでしょうね。この日は、その40年前の日露戦争の奉天の大会戦で、日本軍が勝利した日なのです。東京では下たちを中心に、10万人もの民間人が一夜にして殺害されました。
各国大使を招いての講演会 [2006年05月29日(Mon)]





              チューリップはオランダの国花です。


 東京財団では毎週、虎ノ門DOJO(道場)という勉強会(講演会)を行なっています。私が来てから始まりましたが、それでもこの5年ほどで230回になりました。

 政治、経済、外交、安全保障、教育、文化といったテーマが多いのですが、こんど、駐日各国大使をお招きしようということになったのです。

 つきましては、みなさまのご推薦、ご希望などをお寄せ下さい。「あの大使は実は・・・」などという話も参考になります。

虎ノ門DOJOは原則として、毎週火曜日、1230から。入場無料。外国語での講演の場合は同時通訳つきです。どなたでも自由に参加できます。詳しくは、東京財団のHPをご覧下さい。

本件のご連絡は、電話で03−6229−5513にお願いします。
「支那」は「秦」から [2006年05月29日(Mon)]




挿画「レンゲツツジ」は、作者・石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 「支那」が「中国」の蔑称であるかどうか、考えてみたい。

まず、今も盛んに使われている「大辞林」(三省堂)は、
しな 【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦(しん)」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。

次に、1889(明治22)年発行の「言海」。これには「支那」はないが「支那人」という項がある。

シナじん (名) |支那人| 〔支那、或ハ、震旦トモ記ス、印度ヨリ稱シタル名ニテ、文物國ノ義ナリと云、舊約全書ニSinoaトアルモ是ナリトゾ、或云、秦ノ威、胡(えびす)ニ震ヒシカバ、其名ヲ印度ニ傳ヘタルナリト〕唐土ノ人、カラビト。唐人。

畏友・田代秀敏氏はこのあたりに精通して、いろいろ教えてくれる。それによれば、中国の国名であった「秦」がインド人により、そのまま梵語(サンスクリット語)化し、その言葉が尊称として仏典とともに中国に逆輸入された時、中国人自身が「支那」という文字をあてたというのである。

  だから、「支那」という言葉は、中国人の創作になる中国語であって、日本人の祖先はその中国語を借りて使っているということになるのだという。

  ところが、例えば、『東京外国語大学百年史』によれば、1946(昭和21)年7月31日をもって「支那語科」を「中国語科」(同時に、「シャム語科」を「タイ語科」)に名称変更したという。

「これは、同年6月6日付に外務省の岡崎総務局長とやらからの申し越しがあり、それに基づいて当時の文部省文書課長名で、今後、支那という言葉は使うべからず、と言ってきたことに基づくんだよ。不用意な通達を出して、それが今もって多くの国民を惑わせている」と、中嶋嶺雄前東京外国語大学学長が、5月22日の東京財団虎ノ門DOJOで説明した。

 「支那ソバ」が「ラーメン」になったのもこの通達がもとになったのか。戦争直後のあわただしい中で十分な検討を経ずして物事が決められ、それがそのまま60年も日本と日本社会を大きく拘束してきていることがたくさんある。

 ようやく国会審議に入りそうな教育基本法、そして憲法である。
「買いだめ」私考 [2006年05月28日(Sun)]





      挿画「さくら草」は、作者・石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。



  昨日、噂を報じたテレビ番組に反応して買いだめをした「妙齢の美女」の話を書いたが、そういえば、わが母(これがまた私に似て?「妙齢の美女」)は、米英両国と開戦した1941年から2年ほどたってから(私が満2歳のとき)、5歳の兄と私のためにわら半紙(なぜか母は、西洋紙と呼んでいた)を千枚ほど買ってくれていた。

これには小学校時代の私が大いに助かった。ガリ版印刷(正式には、孔版印刷)で日本の白地図を作って鉄道路線を書き込んだり、各地の山岳・湖沼・河川、そして産物を記したり、世界地図を作って国別にクレヨンで色を塗ったりしたのだった。

今日、国旗に詳しくなったのも、紙が不足だったあの頃、「西洋紙」に描いて覚えたものだった。紙はクラスメイトにも分けてあげた。

子どもの教育を考えてくれた母に感謝すべきであって、あるいは昨日の「妙齢の美女」たちのティッシュ買いだめも、同じような思いからだったのかな。きょうは複雑な気がする。


不倫草?と偽善草? [2006年05月28日(Sun)]




    挿画は「くりん草」、石田良介画伯作。どう画伯のご厚意で掲載させていただいております。「さくら草」は次回のおたのしみに。





 東京でも、もう入梅かというようなジメジメした日が続いていましたが、きょうはごごから絶好の散歩日和となり、今もまた、窓を開け放って「執筆」しています。
 そんなときに八ヶ岳山麓でお過ごしの石田良介画伯から、周辺を歩かれたときに描かれたのでしょう。「季節の花」の絵が送られて来ました。こんな文を添えて。

   ☆━━━━…‥・   ☆━━━━…‥・

 硫黄島、ご苦労様でした。ブログ拝読させていただきました。
今度は是非、こちらにお越しください。白州(はくしゅう)の温泉は如何でしょうか。あそこの露天風呂は昼間、甲斐駒や八ヶ岳を観ながらゆっくりと浴られたら天国です。ご案内させて頂きます。楽しみにして居ります。
 先日、水彩画教室の仲間と「くりん草」の群生をスケッチに行きました。ところが、盗掘と水源の水が少ないので僅か数本しか残っておりませんでした。
そうしたら、仲間のひとりが「あれー、ふりん草がないっ!」と叫びました。周りの仲間は「えっ、今何といった?!」と目を合わせ、暫し、し〜んとしてから、大笑いしました。
ご本人は本当に「ふりん草」と思っていて、今迄そう言って人に教えて居たそうです。「ぎぜん草」とか「ふりん草」とか、面白い花の名がいっぱいありますね。花が聞いたら戸惑うのではないでしょうか。
 その時のスケッチと「さくら草」のスケッチをお送りさせて頂きます。

   ☆━━━━…‥・   ☆━━━━…‥・

 恥をさらしますが、私は本当に動植物のことを知らないのです。ですから、数年前に、石田画伯から「ざぜん草」のスケッチをいただいたとき、文字だけを読んで、すっかり「ぎぜん草」だと思い込んで、以後、「軽蔑の眼」で蔑まれているのでございます。嗚呼 Zzz・・・…

「くりん草」は「九輪草」、「ざぜん草」は「座禅草」なのでしょうか。また笑われるかも。
・゜゜(>д<)゜゜・     

 石田画伯が創立者であり、会長を務める日本剪画協会の第22回剪画展は6月24日から、東京・大崎駅前のO(オー)美術館で開催されます。駅の構内から山手線の外側方向に雨に濡れずに回廊を行くことが出来ます。みなさま、是非、お越しください。24日の遅めの午後、私も伺うつもりです。
『散るぞ悲しき』(梯久美子) [2006年05月28日(Sun)]



 硫黄島の死闘の果てに、栗林中将が詠んだ辞世の歌3首をさきに紹介した。
 その1つ、

    国の為 重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

の最後が、当時の新聞では、「散るぞ口惜し(くちおし)」と改竄されていると、ノンフィクション作家梯久美子さんが、その名も『散るぞ悲しき−硫黄島総指揮官・栗林忠道』 (大宅壮一ノンフィクション賞受賞作、新潮社)で教えてくれている。

 梯さんはそのことについて「国のために死んでゆく兵士を、栗林は<悲しき>とうたった。それは率直にして痛切な本心の発露であったに違いない。しかし国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されないことだったのである」「私はまだ知らなかった。死んでゆく兵士たちを<悲しき>と歌うことが、指揮官にとってどれほど大きなタブーであったかを。エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵を質に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議ともいうべきこの歌を詠むまでに、どのような日々があったかを。」とその「プロローグ」を結んでいる。

 同様に、大本営に宛てた決別電報からも「宛然(=まるっきり)徒手空拳を以て」も削られているというのだ。

 大東亜戦争時の報道のあり方については、これまでにもさまざまな研究がなされて来ているが、梯さん(1960年代生まれ)の世代の人たちが、こうした事実を究めておられることに敬意を評したい。

 拙著はどうでもいいから、この本を全国民に読んでもらいたいほどだ。
国会議員と代議士 [2006年05月28日(Sun)]



 

  普段、自動車で動く習慣がついてしまっているので、週末や夜間に散歩に出かけるよう、心がけている。今も、目黒、恵比寿方面を歩いて、書店を3軒、覗いてきた。拙著『社会人の社会科』(祥伝社、1400円)の並べ方も気になったし、書評や広告を見てメモしていた本を買いあさったら、帰路は電車ということになった。

  それでも、天下の著名作家が専門家の本の中に、拙著がつつましく並んでいるのを見るのは、もしかしたら初孫を初めて見るような気分?だ。

  公益ブログを使って自の宣伝をするのはけしからんという声もあるやも知れないが、過分な給料をいただいている著者としては、私利を求めるためではなく、若い人が楽しみながら社会の常識を見につけることが、国益ないし公益であると確信して書き上げ、PRしているつもりである。

  先日、硫黄島に同行した9人の小泉チルドレンには贈呈してお読みいただくつもりである。

  その9人は、「チルドレン」ではあっても、いずれも「立派な」代議士さんなのですから、ハイ。 

  ところで、国会議員を代議士と呼んだり呼ばなかったり、どうしてかな?

  代議士というのは、文字通り「国民に代わって政治を議する人」。ならば衆参両院の議員を全部そう呼ぶかというと、そうではない。

 衆議院議員のみの通称。「大日本帝国憲法(明治憲法)」ができた1889年に衆議院は300名の議員でスタートした。

 当時から二院制で上院は、華族、高級官僚、高額納税者などから任命された議員で構成され、貴族院と呼ばれていた。

 したがって、その時代には、貴族院議員は民意を直接反映していないということで代議士とは言わなかった。

「日本国憲法」下で、衆議院議員の定数は当初、中選挙区制で選ばれた466名であった。沖縄返還後の1975年に511となり、その後、都市部と農村部の間の定数格差が問題になり、86年に有権者数比で8増7減の調整が行なわれて512に、92年には9増10減で再び511に、93年に小選挙区比例代表制の導入で500に削減された。

  さらに2000年には比例区選出議員数を一挙に20人減らし、現在は481名である。

  ちなみに、参議院242名。代議士とはこの480名のこと。現行憲法で民選によることになっている参議院議員については、旧来の習慣により代議士とは呼ばない慣行が続いている。

  天皇陛下が臨席しての国会の開会式は参議院の議場で行なわれる。これは1936(昭和16)年に現在の国会議事堂が竣工したとき、貴族院の本会議場がより広く、玉座が設けられているため。但し、日本共産党の議員は出席しない。


独立を回復するモンテネグロ [2006年05月28日(Sun)]





挿画「クレムリン」は、恩師・末次一郎先生の絵。画集『挑戦のはざまで』より。


 7月13日にモンテネグロ共和国が誕生しそうだ。セルビアにとって旧ユーゴスラビアの最後の連邦の相手がモンテネグロだったが、先日の国民投票で、55.5%が分離独立を支持した。

 私が首都のポドゴリツィアを訪れたのは1979年のことだからずいぶん昔のことになる。もちろんユーゴスラビア健在というか、チトー大統領存命中の頃だ。今で言うと、クロアチアの有名な観光地ドゥブロブニクで、青少年の国際交流をどう発展させるかという国際会議に参加したときのことだ。会議の合間にオプショナル・ツアーがあったので、そのなかからモンテネグロ観光を選んだのだった。

 ドゥブロブニクはアドリア海沿いに延びたクロアチアの領土。海賊が拓いた町として中世からその名が知られている。町並みは世界遺産。今上天皇が皇太子時代に、ご夫妻で訪問された。皇族が「共産圏」を公式訪問した初めてのケースであるが、とても印象に残る旅だったと、もれ伺ったことがある。

 ポドゴリツィアへの道は、日光の「いろは坂」より険しく長い。風光明媚とはこのことかといういい眺めだ。天国に上って行くような、とでも言いたくなる気分だった。

 その首都で驚いたのは、明治天皇から贈られた象牙作りの白鷲である。旧王城の正門の中に飾られていた。

 モンテネグロは1878年に独立した。露土戦争の講和条約であるベルリン条約締結の際、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの調停で誕生した。そのとき、まだ明治11年であるが、わが国は逸早くこの国を承認した。おそらく日本外交史上、最初の国家承認行為であったと思われる。

 それを記念して送り届けられたのが、くだんの「象牙の白鷲」なのだ。

 実は私は1968年に初めてモスクワに行ったとき、全く同じものをクレムリンの「武器庫」博物館で見た。大津事件(1891年5月11日)で警察官に切りつけられたニコライU世が、その3年後に即位したとき、同じく明治天皇が送ったものだ。

 明治期の日本は、本当に真剣に外交的配慮を行なっていたと、ポドゴリツィアで、再度、「象牙の白鷲」と対面して感慨深いものがあった。

 ところがそのモンテネグロ、第1世界大戦で、恐らくは自らの予想していなかったであろうトラブルを、国際法的に惹起した。

 当時の戦争は、ジュネーブ条約(陸戦と海戦における戦傷者や溺者の保護に関する一連の条約)とハーグ条約(陸戦の法規慣例に関する条約とその付属文書)に拘束されていた。

 ところが、両条約には、参戦国全てが条約当事国である場合にのみ、この条約が適用されるという条項があった。「総加入条項」clausula si omnes (ラテン語) Allbeteiligungsklausel (ドイツ語)という。

 モンテネグロは当時、両条約に未加盟のまま、宣戦布告して連合軍側に立ったのである。このため、両条約は全参戦国に適用外となった。

 そこまでは仕方がない。しかし、「それまでに確立された慣例」まで無効になったという、誤解がしばしば生じてしまったのである。戦争に適用される法がない、戦場では好き勝手なことをしてもいい、という傾向になったのである。これではそれまで人類が苦心して培ってきた国際人道法(成文法、習慣法)が無意味になってしまうのだった。

 だから、モンテネグロの名前を聞くと、少し国際法を勉強した人は、この「悪夢」が思い出されるのだ。

 この秋にはモンテネグロは192番目の国連(連合国)加盟を果たすだろう。5月24日の朝日新聞によれば、ミロ・ジュカノビッチ首相は、今後の優先課題として「EU(欧州連合)とNATO(北大西洋条約機構)への早期加盟だ」の述べたという。

 バルカンに新しい国家が誕生することが、地域の安定につながることを切望したい。


   (本稿の一部につき、岡本千晶さんにご教示いただきました。記して謝意を表します−吹浦)
韓国の政治情勢に注目を [2006年05月28日(Sun)]




 5月18日、韓国の李忠錫将軍をお迎えして、池口恵観師をはじめ、国会議員や大企業の幹部など14人で食事をしながら、韓国情勢や日韓関係を談じた。李将軍は「憂国の士」であり、「古武士」の風格の人である。私と同じ歳であり、国際情勢や日韓関係についての考え方も近く、話が弾む。李将軍は陸軍の最高幹部を経て、現在、大韓民国特戦同志会、北朝鮮自由化国民協議会、韓半島戦争防止国民協議会などの会長や理事長の要職にある。

 並みいる諸先輩、著名人をさしおいて、私が主賓席に置かれての会食は緊張しないことはないものの、直接、李将軍の声咳にふれて、啓発されることはありがたい。

  最近の韓国情勢について私は、来年秋の大統領選挙を一番注目している。

 韓国では、慮武鉉大統領の支持率が急激に下がっている。それを反映して、与党ウリ党はここ2年間に行なわれた国会議員の再選挙や補欠選挙、そして7つの地方自治体首長選挙など、主要な選挙でほとんど全敗している。

  最大の失敗は、「露骨な親北朝鮮政策」が国民に社会不安を与えていることだ。加えて「親中」「反米」「反日」政策による混乱も挙げることが出来よう。この点について、李将軍は日米中朝の4カ国の基本的な状況をどう捉えるべきかを説き、「北東アジアの未来」と題する論文を日本語に翻訳して配ってくれた。共感するところ極めて大きい。
 
  韓国について当面、注目すべきはあさって(5月31日)の統一地方選挙である。事前の世論調査では、野党ハンナラ党の大勝利とでている。ウリ党がここで惨敗すれば、次の大統領選挙で、最有力候補と目されている鄭東泳氏のウリ党議長の座にも影響しよう。ほかにも、金槿泰(党代表委員)、高建(前国務総理)両氏をという声もある。

  これと対抗する最大野党のハンナラ党からは、朴槿恵(パク・クネ)ハンナラ党代表、李明博ソウル市長が有力だ。その朴党首は10日ほど前、「暴漢」によってカッターナイフで顔面を切りつけられ、右頬から首にかけて60針も縫う大怪我をした。まずは全快を祈ろう。

 犯人やその裏にいると目される勢力への反感や同情票は集まるかもしれないが、朴槿恵さんは大統領になれるだろうか。朴槿恵さんは故・朴正煕元大統領の令嬢だ。しかし、韓国は儒教精神の特段に強いお国柄。李将軍も名言は避けた。

  韓国の場合は、大統領が代われば国の進路が大きく変化する。金大中大統領が北朝鮮への融和を図った「太陽政策」がその典型であるが、慮武鉉大統領の最近の言動には、李将軍も私も、立場こそ違え、大いに危惧している。唐突な「歴史認識発言」、「竹島問題」への不必要な騒ぎ立て、「拉致問題」へのほとんど無関心ないし無視の姿勢、「靖国神社」への降って沸いたような反感、挙句は、「北朝鮮の核実験」への「理解」。要するに、親北、親中であり、反日、反米で独走ないし暴走しているというほかないのである。

  民団が総連に歩み寄っての協調というのも、理解しにくい要素がたくさんある。「民団の総連化」は、わが国の安全保障、社会の安定に危険な面が多々ある。

 日本にとっての最悪は、北朝鮮によって韓国の政治・経済・民心が自由に操られるようになることだ。その極限は、南北が統一して、朝鮮労働党が第1党になり、反日・反米の核保有国が玄界灘の向こうに出現することである。

 幸い、慮武鉉大統領への支持率は1ケタ程度に落ち込んでいるとはいえ、「北」によるさまざまな工作、韓国特有の地域対立、昂揚した気分での政治行動などにより、今後一年半、どんな事態が起こるかわからない。

  李将軍との会食の場では、「韓国での内乱」という言葉も飛び交ったが、これは日本や米国など民主主義諸国の認めるところではなく、「北」を喜ばせるだけではないか。韓国内が細かく割れれば割れるほど、「北」に乗じられることは、これまで何度もあったことなのだ。

「歴史認識」「情報収集」そして「情勢判断」、国際問題に対処するこの3つ、はたして日本は大丈夫なのかと、わが身を含めて省みたい。
硫黄島グラフティ [2006年05月28日(Sun)]


   
  硫黄島の死闘から8年後、日本政府はまだ米国占領下にあった硫黄島に小さな碑を建てた。「戦没日本人の碑」とある。北端の栗林中将終焉の地に近い。







   擂鉢山の山頂には1960年代に日本側ガ建立した追悼碑もある。その碑にある敢闘を称えた監視。



擂鉢山の山頂にある米軍の記念碑。星条旗を立てた場所にある。





 自衛隊司令部前にて、筆者。