SAPIO・中曽根元首相が語る末次先生E [2011年10月10日(Mon)]
沖縄返還問題で日米両国の輿論と政権に 決定的な影響を与えた 日米京都会議(1968年)の報告書。 末次先生が全身を捧げて企画実施したもの。 両国の有力な国際政治学者、 政府に強い影響力を持つ専門家、 沖縄の代表が集まった。 私ができたのは、 アメリカから参加したご夫妻のアテンド役に 10数名の、すばらしい通訳兼アシスタントの 女性ボランティアをそろえたことだった。 ──末次氏はなぜ政治家を 目指さなかったのでしょう。 中曽根 そこが末次君の 末次君たる所以だな。 今の政治家もそうですが、 相手と交渉する時、 人はどうしても自分の 「立場、肩書」に頼る。 大臣は「官僚」に頼る。 官僚は「国家権力」に頼る。 しかし、そういうものに頼っているうちは、 相手は胸襟を開きません。 難しい問題であればあるほど、 一対一、人間同士で向き合わなければ、 活路は見出せない。 末次君はそれがよくわかっていた。 だから、肩書や地位を得ようとせず、 一生涯を在野の士として 過ごしたのです。 官につかず権力にも阿(おもね)らず、 という姿勢に徹した。 もちろん、政界に誘われることは 何度もありました。 自民党執行部から 人も資金も用意されて、 あとは頷くだけで 出馬が決まるということもあった。 しかし断わり続けた。 私は断わられることがわかっていたから、 一度も「選挙に出ろ」とは 言いませんでした(笑)。 ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ 吹浦注: 特に強く勧められたのは 1970年代の前半、 自民党の橋本登美三郎幹事長には、 資金、支援団体、スタッフ、 選挙事務所まで 具体的な内容を示されて、 立候補を求められました。 その時、断る最後のセリフは 「女房とつめた話をしたが、 最終的に、選挙運動をするなら 別れると迫られた」といってのがれたとか。 その30年近くたってから、 私にも同じような話が別の党を含めて きました。せっかくの話ですので、 2か月近く熟慮させていただきましたが、 辞退させていただきました。 今にして思えば、投票機械のような 政治家や財政立て直しだけが 最優先するような役割の首長に 成らなくてよかったと思います。 1個人として、またはNGOを率いて まだまだやりたいこと、 やらねばならないことが 山積しているように思います。 このあたりもわが師・末次一郎先生の 教えかもしれません。 (つづく) |