眼と耳の保養にいかが? 山季一門のコンサート [2011年10月07日(Fri)]
山季布枝(やまき・のぶえ)先生は 長年にわたりウィーンで 活躍されたピアニスト。 その一門のコンサートが このように開かれます。
昨日、チラシが送られて来ました。
私はその後援会の役員なのです。
会長は、尊敬する大貫康雄NHK元欧州総局長にして 山季先生が高校生の時のドイツ語の家庭教師。
わがユーラシア21研究所の理事でもある。
チラシを見て、いやぁ、 どこの美人コンテストかと みまごうばかりの麗人ぞろいなのに まずは「圧倒されました」、 というのが、正直な第一印象。
しかし、演奏曲目を見て、また感心、 これなら「当日の感動は間違いなし」と 今から拍手の練習かなとうれしくなりました。
もう、何人かの演奏は 何度か拝聴していますので保証できます。
山季先生はまた次世代への 指導力も抜群の人。
だからこれだけ優秀な若手が 育つのです。
もしかして、「若手」の世代は 過ぎたかもしれない紳士淑女諸君!
耳の保養と、ついでに目の保養に いらっしゃいませんか。お勧めです。
お申し込みはメールで下記へ。
info@salondeart.com
もちろん、私も参ります。
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Posted by
吹浦 忠正
at 22:03 |
音楽 |
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SAPIO・中曽根元首相が語る末次先生C [2011年10月07日(Fri)]
1968年、京都国際会議場で開催された「日米京都会議」。 末次先生が事実上、一人で仕切った会議である。ここで、 両国のオピニオンリーダーが「72年、核抜き本土並み返還」で、 一致した提言を発表したことが、沖縄返還に 決定的な影響を与えた。 SAPIO10月号に掲載されている 同誌記者の中曽根元首相への インタビューです。
ゴルバチョフ大統領の訪日時には、 末次先生が「抑留3団体」代表と 大統領との会談を設営した。
混乱する会場の中で私は大統領夫人と 高齢の抑留者代表をお守りするなど、 会談のロジを担当した。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾
冷戦時代のソ連は事実上、 「日本との間で領土問題は存在しない」 という姿勢を取り続けた。
それが大きく変化したのは90年代に 入ってからだ。
平成3(91)年4月、 海部首相とゴルバチョフ大統領との間で 日ソ共同声明が署名され、 北方四島が解決されるべき領土問題の 対象であることが初めて確認された。
そして、ソ連が崩壊しロシアとなっていた 平成5(93)年、 細川護煕首相とエリツィン大統領との間で、 日ロ間の領土問題は 北方四島の帰属に関する問題であると位置づけ、 解決のための交渉指針などを示した 東京宣言が署名された。冷戦の終了により、 末次氏らの努力が実を結び始めたのである。
ところが、平成12(00)年に プーチンが大統領に就任してから 資源強国と化すと、ロシアは強硬姿勢に転じ、 平成20(08)年に メドベージェフ大統領が誕生すると、 歯舞、色丹の二島返還すら認めなくなった。
そして、去年11月には、 メドベージェフがソ連、ロシアの大統領として 初めて国後島を訪問するなどして 不法占領の既成事実化を大きく進めた。
──21世紀に入って 交渉が行き詰まり始めると、 国内の二島先行返還論者らとの対立も 表面化してきました。
例えば、00年の夏、 日ロ友好議員連盟の総会で 鈴木宗男氏(当時、衆議院議員)は 末次氏の名を挙げて批判し (吹浦注・ロシア大使や100名近い 超党派の国会議員の前で、 招かれて記念講演をした末次先生を突然、 面罵した。いずれ詳しく書きたい)、
末次氏もその後、講演会などで 二島先行などの妥協案を批判した。
中曽根 「今世紀(20世紀)の問題は 今世紀にケリをつけなきゃいかん」というのが 末次君の考えで、 問題を先送りにして 次の世紀に持ち越させまいと 奔走したのです。
戦後処理は領土問題が 解決しなければ終わらない、という信念です。
そしてこの揺らぎのなさは、 じつはソ連側からも尊敬されていました。
「二島返してくれると言うから 貰っておけばいい」という安易な姿勢から 解決はあり得ない。
官につかず 権力に阿(おもね)らずの精神です。
──今年の7月11日は末次氏の 10回忌でした(吹浦注・正しくは“没後10年”)
中曽根 その前日、 彼を偲ぶ会が開かれた (吹浦注・吹浦は司会を務めた)のですが、 私はそこでこう挨拶をしました。
「末次さんは野人でありながら 日本国民を代表する仕事をされた。 戦後稀に見る国士である」
北方領土問題にとどまりません。 日本兵の引き揚げ援護運動、 戦犯釈放に向けた活動、沖縄返還…… 彼の果たした役割は非常に大きい。
彼がいなかったら、 同じ成果を得られていたかどうか。
末次君は一民間人でありながら 常に国のことを考え、 その生涯は国に奉仕し続けた一生でした。 (つづく)
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:34 |
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