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東北民謡の楽譜を差し上げます [2011年08月10日(Wed)]









 5月20日、東京オペラシティで開催した
「被災地出身演奏家も祈りに応える
チャリティコンサート<故郷>」は
東京藝術大学の
杉木峯夫、松下功、成田英明3教授を
はじめとする同大学音楽学部卒業生、
大学院生らによる演奏と
特別出演した岩手県立大船渡高校3年生の
佐々木瑠璃さんの奮闘で、
極めて感動的な一夜となったことは、
小欄で何度も紹介しました。

そのときのために
同大学の作曲家・大曽根浩範先生が
特に作曲・編曲したのが
「東北地方の民謡によるパラフレーズ」、
被災地である岩手の「南部牛追い唄」、
宮城の「斉太郎節」、そして
福島の「相馬盆唄」をアレンジしたもの。

5月20日のコンサートでは、
この曲演奏中に涙ぐんだ奏者もpいましたし、
会場でも目を潤ませた人が
たくさんおられました。

この楽譜を大曽根先生と
出版社の特別のご厚意により、
被災地の吹奏楽部に
寄贈できることになりました。

また、購入ご希望の方にも有料でお頒けできます。

詳しくは、12日(金曜日)以降、
私の携帯090-3213-5281に
お電話ください。
最後の″綜mに学ぶー末次一郎先生のこと [2011年08月10日(Wed)]




   7月10日、早稲田のリーガロイヤルホテルで開催した
  「没後10年、末次一郎先生に学ぶ会」にて。私は司会を務めた。






元産経新聞ボン、モスクワ特派員で
現在、外交評論家でいらっしゃる
澤 英武さんが、
週刊「世界と日本」の最新号に
【緑陰随想】<最後の″綜mに学ぶ>を
掲載されましたのでご紹介いたします。

  ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀ 

 梅雨明けしたとたん、
東京に炎暑が続いた。

7月の日曜日午後、早稲田にある寺で、
大勢の人に混じって墓参した。

自然石に「留魂」の2文字が刻
まれた墓石である。

墓参後、近くのホテルでの催し、
「末次一郎先生に学ぶ会」に案内された。
 
末次一郎
 一般にはあまり知られていない。

生涯無冠、カネにも栄誉にも関心がなく、
皇室を敬愛し、国家の尊厳にこだわり、
在野のまま生涯を通した。

その没後10年を記念して、
弟子や関係者約200人が集まったのである。
 
末次さんは陸軍中野学校出身の
情報将校だった。敗戦は内地で迎えた。

戦友の多くが戦死した。仲間の、
そしてその親族の無念を思い、
山中をさ迷って自決も考えたという。

そして、生涯を、
戦死者の志に捧げる決心をした。

 戦後の混乱期、
焼け跡の上野駅周辺を拠点に、
若者たちを集め、
外地から復員してくる兵士たちの
援護活動を始めた。

靴磨きまでして生活費を稼いだ。

シベリアから帰国する兵士を舞鶴に迎え、
列車に同乗して、
共産主義に染まった復員兵の
代々木行き(共産党入党)阻止に努めた。
 
その頃、学生・小渕恵三も
末次さんとその仲間の溜まり場に
出入りしていた。

以後、死ぬまで、末次さんを「師」と仰いだ。

 末次さんは健青会という青年運動を組織し、
極左極右の政治とも闘った。

青年海外協力隊の育成にも力を尽くした。

健青会出身者が中年になって新樹会を組織、
これが末次さんの活動の拠点となった。

いま、新樹会出身の政治家が
中央地方に輩出している。

 沖縄返還の土台を作ったのも
末次さんとその仲間の学者たちだった。

しかし、末次さんは一貫して、黒子役に徹した。

 最後に取り組んだのが、
「北方四島」の返還だった。

1970年代の末、末次さんが
日本の学者グループを率いて
モスクワ入りしたとき、
新聞特派員だった私は
初めて末次さんを知った。

物腰のやわらかな、
そして礼儀正しい紳士だった。

 帰国して以来、
私は末次さんの安全保障問題研究会に入って、
北方領土問題に取り組んだ。

末次さんとソ連の学者・政治家との
会談・会合が繰り返されるうち、
次第に、末次さんの器量の大きさを
実感するようになった。

 末次さんと会ったロシア人が
感化されてゆくのだ。

 相手に対する誠実さ、
心配りを見せる一方、
北方領土問題では、
国際法・国際正義の原則から、
一歩も引かなかった。

そのうえで、北方四島の
日本への返還こそロシアの利益になる、
と諄々(じゅんじゅん)と説き聞かせた。

 ソ連が崩壊した後、
日露会議で来日したロシアの学者はすべて、
末次さんの主張に賛成、
北方四島は日本に返すべきだ、
と発言を改めたのである。

末次さんは病苦を押して記者会見し、
北方四島返還の原則を
曲げるなと訴えて死去した。

 「学ぶ会」に出席した中曽根康弘元総理は、
「ロシアの多くの政治家が、
『日本で最も手ごわい敵が末次一郎である、
そして最も尊敬する人物が
これも末次一郎だ』と評価している」と述べ、
対露姿勢で一貫してぶれなかった
末次さんを讃えた。

 「学ぶ会」集会では今の劣化した
政治状況を憂うる声が会場に満ち、
「最後の国士だった」と改めて
その偉大さを偲ぶ声や、
「末次先生が存命だったなら」と、
救国の士不在を嘆く声続出した。

 墓石の「留魂」は末次さん自著の
ものである。

先生の魂は北方四島の
一括返還が実現するまで、
安まることはない。

弟子たちは重い宿題を背負って会を閉じた。

外はまだ焼けるように暑い陽射しだった。
190万アクセスに感謝 [2011年08月10日(Wed)]











 今朝、PCを開いてみたらアクセス総数が
190万を超えていました。

 皆さんのご愛読に心から感謝いたします。

 乱文乱筆、変換ミス、
繰り返し、しつこさ、ピンボケ写真・・・は、
生来の不注意と老生の認知症の始まりとでも
ご理解のうえ、ご寛恕ください。

 友人や仲間からはよく、
テーマの多様さにあきれられ、
更新数と変換ミスが多いと
嘆かれますが、
本人としては「思い余りて言葉たらず」、
否、真相は、
「思い余りてPC技術足らず」なのです。

毎日、5本以上は書きたいのですが、
立場上、公表できない話も多く、
日々の時間も足りなくて、
自分でもイライラするくらいです。

6年前、ブログ執筆を強く勧めてくれた
笹川会長からは「文章はともかく」と
言われたかどうかは、
よく聞こえなかったとして
「写真がいいね」と何度か褒められました。

この一言で、忙しい時には
撮りためた写真で逃れてしまうのですが、
それさえ、溜まる一方です。

 今月は東京を離れることが多く、
執筆も抱えており、
更新数がやや少なくなるかと思いますが、
引き続き、ご愛読くださいますように、
また、率直なご叱正、助言を
賜りますよう、お願い申しあげます。

最後になりましたが、
Canpanグループの一層の発展と
ネットワークの拡充により、
さらに社会的役割をはたして行くことを
祈念します。
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