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デュナンとトルストイF [2010年12月17日(Fri)]


   

   デュナン              ルソー








    大岡昇平


 アンリ・デュナンも、
ルソーから多くの影響を受けた。

単に同じジュネーヴが生んだ(互いの生家もごく近い)
偉大な先人だからというだけではなく、
赤十字やジュネーヴ条約は『社会契約論』
(民約論、1762年初版)をはじめとする、
ヨーロッパ諸国で広く受け入れられつつあった
近代人権思想をベースにしたものであることは明らかである。

 ちなみに大岡昇平が、代表作『俘虜記』に
「米軍が俘虜に自国の兵士と同じ
被服と食糧を与えたのは、
必ずしも温情のみではない。それは
ルソー以来の人権思想に基づく
赤十字の精神というものである」と書き、
かつて、
所用のため成城のお宅を訪ねた筆者に
「『俘虜記』は芝の日赤本社の図書館に通って
書き上げたんだよ」という秘話とともに、
「ルソーあっての赤十字だよ。デュナンは
たまたまマッチで火を付けた人
といっていいんじゃないかな」と
印象的に語ってくれたことを紹介しておきたい。

 ルソーとほぼ同時代のスイス人国際法学者に
エメリック・ドゥ・ヴァッテル(1714〜67年)がいる。

仏語圏スイスのヌーシャテル州クーベの生まれ。
後にアメリカ独立戦争に理論的根拠を与えた人
としても有名である。

そのヴァッテルは国際法の立場から、
戦争についても人道的なルールが存すると説き、
ルソーは
戦争にも国家(社会)と個人との契約関係が
存すると説いた。
                          (つづく)
デュナンとトルストイE [2010年12月17日(Fri)]


   

    ルソー(1712〜78)



     


     デュナン(1828〜1910)




   

    トイルストイ(1828〜1910)


   

      チャイコフスキー(1840〜93)










ジュネーブの取り持つ縁
トルストイが少年期においてルソーの全集を読破し、大いに感動し、自身の偉大な先行者として尊敬していたことは、この文豪の評伝作家たちの共通して指摘するところである。

悩める心を癒さんと、1857年、29歳のトルストイはルソーのゆかりの地を求めてジュネーヴやレマン湖周辺を巡礼のように旅している。

デュナンがジュネーヴで投資者を募り、アルジェリアでの農業会社経営に没頭していたころのことである。

20年後(西南戦争で日本赤十字社の前身である博愛社が創立された年)、同じく傷心のチャイコフスキーもレマン湖周辺に滞在し、ここで有名なニ長調のヴァイオリン協奏曲を一気に書きあげて立ち直った。

ヨーロッパの人々にとってジュネーヴはそんな地でもあるようだ。
                         (つづく)
デュナンとトルストイD [2010年12月17日(Fri)]



  二人に影響を与えたジャン・ジャック・ルソー



 ルソーの影響を受けた二人

 ところで、こ小欄で論ずるデュナンとトルストイには、ほかにもいろいろ共通点があろうが、ここでは日本との縁、日本への強い関心を持っていたということ、そしてJ・ジャック・ルソーの影響を受けたということもあげることができよう。

 トルストイは25歳の時にワシリー・ゴロヴニンの『1811年〜13年に日本の捕虜になったゴロヴニンの手記』を読み、江戸の事情に興味を持ったり、鎖国について考えを巡らせたりした。

また、日露戦争の翌年(1906年)に、38歳の徳富蘆花が78歳のトルストイをヤースナヤポリアーナ(モスクワの南約200キロ)の邸に訪ねて行ったことはよく知られている。

 一方のデュナンも『極東の諸国民に告ぐ』の執筆(1897年)やハイデンの福祉病院で知り合ったスイス婦人を日露戦争時に日本に派遣して調査させ、その報告を求めたりして日本への関心を示している。
                               (つづく)
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