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ミャンマー新国旗の図 [2010年10月22日(Fri)]



















NHK,時事通信、共同通信などからいただいた昨日変更の
ミャンマー国旗の掲揚写真と整理した図です。


 NHKによれば、「新憲法は発効しておらず、総選挙まで2週間余りとなった今、軍事政権がなぜ突然、国旗の変更に踏み切ったのか理由は明らかにされていません。現地の外交団の間では、総選挙を前に軍事政権が新憲法の有効性を強調したいのではないかという見方がある一方、新しい国旗によって国民の愛国心を高め、総選挙への参加を促すねらいがあるのではないかとする見方も出ています」とのことです。



「海行かば」の楽譜 [2010年10月22日(Fri)]









「海行かば」について昨日、小欄で書いたところ、宮崎県のIさん、北海道のY氏、山梨県のW氏、福井県のK氏など数人の方から、楽譜の掲載をとのメールを頂戴しました。

「信時潔独唱曲集」はわざとペイジを開いた形でしか掲載しませんでしたが、
これは著作権法との関係からです。あしからず。

別に商売をしているわけではないので、この法律に抵触しないと思うのですが、
念のため、メロディだけ、最初に音源から採譜してくださったものがありますので、
それを掲載させていただきます。ご了承ください。

 原曲はハ長調のようですが、この楽譜は変ロ長調です。
たぶん、吹奏楽の演奏から採譜してくださったのかと思います。
革命20年のルーマニアI [2010年10月22日(Fri)]






ルーマニアは地政学的位置から来る民族、宗教、言語、文化など、簡単には説明ができないほどさまざまなファクターが混在し、輻輳している国である。

 国土はバルカン半島北東部の一角を占め、東は黒海に面している。沿岸の北はウクライナ、南岸はブルガリアと続き、ほかにセルビア、ハンガリー、モルドバと直接国境を接す。国土の面積は約23万8千キロ。わが国の本州とほぼ同じ広さであり、ウクライナ、ポーランドに次ぎ東欧では3番目に広い面積を持つ。

19世紀後半になって、ワラキアとモルダヴィアが連合公国としての合体を進め、ルーマニア公国を形成し,1877年5月9日にオスマン・トルコからの独立を宣言した。露土戦争(1878)の講和条約であるサン・ステファノ条約と、同年、ビスマルクが主導し、露土戦争後の新秩序を決めたベルリン会議で、この国はルーマニア王国として列強に承認された。

このとき、カロル1世(1839〜1914)が即位(ルーマニア公としての在位は1866〜81、次いでルーマニア国王として1981〜1914)した。

カロル1世は血統的にはドイツ人であり、超然として国民に臨んだ。また、自ら制定した憲法によって男系男子による王位の継承と、王がルーマニア人と結婚することを禁じた。

しかし、自らは必ずしも家庭的幸福に恵まれなかったこともあり、王家は欧州の各王室と複雑かつ親密な婚姻・友好関係を築いた。

これによって、晩年までのかなり長期間、独裁的治世を続け、独立国としての基礎をつくった。

その権勢の象徴ともいうべきなのが、8年の歳月をかけて1875年にカルパチャ山脈の山里というべきシナヤに建立した夏の離宮ペーシュ城。

昨今、観光ブームとでもいうべき人気スポットとなり、欧州各地からはもとより、日本からの観光客も絶えない。


第一次世界大戦でルーマニアは連合国側で参戦して勝利を得、これにより、崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国からトランシルバニアを獲得し、ハンガリー系の国民を多数抱え込むこととなった。

しかし、これはハンガリーとの領土問題の発端であり、係争課題として今日まで尾を引いている。また、この戦争で北東部のベッサラビアをも回復した。

第2次世界大戦では最初は枢軸国側に与して参戦した。

これに対し、ソ連は東部地域北ブコビナとベッサラビアを要求、ドイツは北トランシルバニアをハンガリーに割譲させた。

全権力を握っていたはずでありながら、こうした領土の喪失になすすべのなかったカロル2世は、1940年の軍部により退位させられ、王位を息子で前国王のミハイに譲り、実権をイオン・アントネスク将軍に委譲した。

ルーマニアの将兵たちはドイツの軍隊と肩を並べてクリミア半島に攻め入り、ヴォルガ川に迫り、スターリングラードを囲んだ。

しかし、その後戦況は大きく動き、ドイツとソ連の狭間でルーマニアの立場は大きく揺らいだ。

だが、戦局は激変した。スターリングラードを落とせなかったドイツ軍は退却を余儀なくされ、今度は、ソ連が東欧に迫った。

これによりルーマニアはドイツに反旗を翻さざるをえなくなり、先端部隊はドイツ国境内ベルリンの近くまで攻め込んだ。

しかし、終戦はこの国を一層混乱させた。

ルーマニアは事実上、敗戦国扱いとなり、一時は奪い返していたブコビナ北部とベッサラビアをソ連に併合され、ソ連軍の強い圧力の下、王政は廃止に追い込まれ、1947年12月30日に人民政府、共産党の一党独裁によるルーマニア人民共和国が成立したのである。

かくして、ルーマニア王国で始まった国名は、約1世紀ほどの間に1947年に人民共和国、65年に社会主義共和国、そして89年の革命で単にルーマニアとなった。現在は共和制で市場経済に基づく民主国家を標榜している。

ベッサラビアはソ連邦の一員としてのモルドバ人民共和国となり、1991年のソ連崩壊により、同国はモルドバ共和国の名で国連加盟国となった。

しかし、その先にはロシア人居住者が多いということで、暫定的に沿ドニエストル共和国(国連未加盟)と称しているロシアの1支配地域がある。
                              (つづく)
革命20年のルーマニアH [2010年10月22日(Fri)]








「望郷のバラード」演奏の話はまた、
作家・高樹のぶ子が朝日新聞に連載した『百年の預言』の下敷きになった。

朝日新聞社から刊行されたこの小説はあくまでもフィクションであり、「百年前の楽譜に秘められた謎とは・ウィーンを濡らす恋」(上巻)、「永遠に流れゆく生と死のメロディー・ルーマニアを焦がす性の炎」(下巻)とあるように、外交官・「真賀木」とヴァイオリニスト「悦子」とのすれ違いの多い恋愛の進行にはらはらさせられつつ、チャウシェスク独裁政権下のルーマニアから逃れてきた作曲家でバオイリニストの「センデス」の携る楽譜をめぐる謎解きと、1989年12月のルーマニア革命に至る激動とが巧みに織り交ぜられている作品だ。

しかも、さすがは芥川賞作家というべき筆致で、ルーマニアの政治・経済・価値観にまで興味をそそられる。

ショパンの一連のマズルカやバラード、シベリウスの交響詩「フィンランディア」、スメタナの交響詩「わが祖国」、コダーイのマジャール語による合唱曲や歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」を聴かずして、フィンランド、チェコ、ハンガリー、ポーランドが語れないように、天満の演奏による「望郷のバラード」は必聴の演奏であり、高樹の『百年の預言』は4半世紀前のルーマニアを手軽に理解するには格好の小説といっていい。    (つづく)
革命20年のルーマニアG [2010年10月22日(Fri)]












日本において、ルーマニアに関心をもつようになった意外な起点が、バイオリニスト天満敦子の演奏する「望郷のバラード」であるという人は結構多い。

年間160回ものコンサートをこなすというこの「売れっ子」演奏家は毎回、必ずこの曲を奏でる。

この曲自体、日本的とさえ思わせる哀切の叙情がたっぷりと込められたもので、これを聴かないうちは帰れないというファンが大勢いる。

ここまでに至った経緯を、天満のCD「Balada」の解説から紹介する。

演奏家としての天満の育ての親ともいうべき中野雄(たけし)プロデューサーの筆になる。


     ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

19世紀末、29歳の若さで薄倖の生涯を閉じたルーマニアの鬼才プリアン・ポルムベスクの作になる《望郷のバラード》。

愛国者であったポルムベスクは、オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた母国の独立運動に参加して逮捕投獄の憂き目に遭う。

曲は獄中で故郷を偲び、恋人に想いを馳せながら書き上げた哀切のメロディーであり、ルーマニアでは誰知らぬもののない懐かしの名曲であるが、エクゾチズム濃厚の故であろうか、国外では知られることの少ない文字通りの“秘曲”であった。

天満敦子に《望郷のバラード》の譜面を渡し、「広く日本に」と依頼したのは、当時外務省東欧課長の職にあった外交官・岡田眞樹である。

岡田は数年前、ウィーンの日本大使館在勤中、郊外のレストランで哀愁に満ちた音楽を奏でる亡命ルーマニア人楽人と出会い、感動して親交を結ぶ。イオン・ヴェレシュと名乗る亡命楽人は、8年後にスイスで再会を果たした別れぎわ、「この曲を、日本に紹介してくれるヴァイオリニストを探して」と、黄ばんだ1枚の楽譜を岡田に差し出した。

ヴェレシュがチャウシェスク共産主義政権の圧制を逃れるべく、夜陰にまぎれて国境を越えたとき、ヴァイオリンとともに携えてきた愛奏の譜面であった。

そして岡田が、1992年の初夏天満敦子というヴァイオリン奏者の存在を知り、演奏を依頼した。

1993年12月16日、横浜市青葉台のフィリアホールで初演されたが、「ホール内には鳴咽
の声が満ち、ルーマニアの外交官夫妻、岡田氏夫妻もじっと涙を押さえておられた」(中野)という状況であった。

「この夜を境に、天満敦子は一挙に楽壇の脚光を浴びる存在になった」(同)。

ちなみに、岡田は1973年入省の現役外交官。但し、現在は農畜産産業振興機構に理事として出向中。2009年春までは特命全権大使としてアフガニスタン支援調整担当兼国際貿易・経済担当であり、それまでに駐デンマーク大使、大臣官房広報文化交流部長、在フランクフルト総領事などを歴任している。ヴェレシュからこの曲を託されたのは1985年、東欧課長の時であった。
                                        (つづく)
ミャンマーが国旗を変更 [2010年10月22日(Fri)]




新憲法草案でも提示され      
2010年10月21日に変更になったミャンマーの新国旗と国章。
図が不鮮明になっているのは憲法草案の原本の印刷の質の
政であり、CNNなどで見る限り黄色、緑、赤は諸外国のものと
共通である。    
このデザイン、バガン王朝(1044〜1287)の
3人の優れた王を表すという説があるそうだが、
詳しくはわからない。














軍事政権下のこれまでのミャンマーの国旗








ミャンマーの国営放送は軍事政権が10月21日、同日午後3時(日本時間同5時)新たな国旗を使用すると発表しました。

 ミャンマーでは民主化をめぐってアメリカその他と熾烈かつ微妙な駆け引きがつづいているため、事態がなかなか先に進みません。軍事政権の強引な進め方は欧米で厳しく糾弾され、2009年12月に東京のサントリーホールで行われた「オバマ演説」でも、私は会場で注意深く聞きましたが、日本が同国を呼ぶミャンマーとは一度も言わず、終始、ビルマの呼称を用いていたことでも明らかです。

 他方、軍事政権もなんとか自分たちに都合のいい形での「民主化」の折り合いをつけようとはしているようです。

 2003年8月、当時のキン・ニュン首相が民主化に向け、7段階の「ロードマップ」を発表しました。

 その第一段階として、同年5月、憲法制定のための国民会議が開催されました。国民会議の開催は実に8年ぶりでした。しかし、翌年10月、路線や政治姿勢がヤワであるとして、同首相が更迭され、ソー・ウインSPDC第一書記が首相に就任し、憲法制定のための諸準備が進められました。

 2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都をヤンゴン(ラングーン)からネーピドー(ヤンゴン市の北方約300キロ)に移転すると発表し、約4カ月で政府機能の大半を移転しました。

 もちろん、こうした動きに反対する人々は、弾圧にも拘わらず行動しました。まず、2007年9月、燃料費大幅値上げに端を発して、僧侶を中心に市民を巻き込んだ大集団が立ち上がったのです。

  同月27日、デモを取材中の日本人カメラマン長井健司さん(50)が射殺され、多数の死傷者がでました。

 長井さんの殺害の様子を含む実写フィルムが秘かに持ち出され、渋谷の小さな映画館で公開され、改めてショックを受けました。映画は「ビルマVJ――消された革命」です。デンマーク人のアンダース・オステルガルド監督が実写フィルムをベースに一部再現映像をつなげたドキュメンタリーです。

  文字通り決死の覚悟で撮影し、そのたデータを各地に転送しては世界に知らしめていこうとする「ビルマ民主の声」なるVJ(ビデオジャーナリスト)のみなさんの努力には、ただただ敬服し、ビルマの民主化を願わざるを得ません。

  ただ、だからといって、国際社会を含めて、「軍事政権=悪、民主勢力=善」という単純な図式化で思考停止し、その現実的解決策や展望を示さないのはいかがなものでしょうか。

  2009年2月、ミャンマー政府は、5月に新憲法草案承認のための国民投票を、翌年中に総選挙を実施すると発表。5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生する中で、5月10日、国民投票を実施(洪水の罹災地域では24日に実施)しました。投票率99%、内92.4%が賛成したとして新憲法案は承認された形となりました。

  その憲法案には付属図として、国旗と国章がカラー印刷で示されています。

  毎月、ユーラシア21研究所で開かれているメコン研究会の席上、2010年2月に奥平龍二駒澤大学教授がその憲法全文(英語とビルマ語で書かれた1冊の本の形)をお持ちくださり、説明してくださいました。このデザイン、バガン王朝(1044〜1287)の3人の優れた王を表すという説があるそうですが、詳しくはわかりません。

  アウン・サン・スー・チー女史も頻繁に書簡を提出し、軍事政権と何らかの妥協点を見出そうとしている様子です。また、アメリカもまた軍事政権に強い働きかけをしています。中国もまた、インド洋への出口であり資源の豊かなというこの国の戦略的重要性に目を付け、資金援助や人的協力などを通じ、具体的に進出を始めています。

  オバマ大統領の言うスー・チーさんのunconditional release(無条件釈放)となれば、その政治活動の自由、立候補の自由も伴うわけで、そのあたりがはっきりし、予定通り2010年11月7日に総選挙が実施され、タン・シュエ国家元首率いる軍事政権側が勝利すれば、ほどなく憲法は正式に発効し、国旗の変更もその憲法で追認されることになるのでしょう。

 そんな国旗の変更よりも、この国の真の民主化と発展の具体化を祈るのみです。
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