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大新聞の取材に思う [2010年04月05日(Mon)]












今出ている週刊新潮(4月8日号)の「墓碑銘」欄に
私の談話が出ていますので、ご紹介します。

1967年から3年余りお世話になった大森実氏についてです。

謹んで哀悼の意を表しつつ、転載します。

文中の上田泰一君という人も、当時、いっしょに走り回っていた
仲間です。今、電通の最高顧問をしておられる
成田豊氏といっしょに企画した
「太平洋大学」もいっぱい思い出があるし、その人脈は
今に続いています。

 ほかのみんなどうしているかなぁ。偲ぶ会で会おうね。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

社会部出身の「国際事件記者」
大森実さんが取材した半世紀の世界


 大森実さんは「国際事件記者」と呼ばれた。どこか
野暮ったい響きは、その経歴や取材姿勢に重なる。

毎日新聞の大阪社会部からワシントン特派員に
抜擢された異色の経歴の持ち主なのだ。

40年以上の縁がある
ユーラシア21研究所理事長の吹浦忠正さんは述懐する。

「徹底して現場と人にあたる社会部の手法を海外でも行い、
事件記者のように斬り込んだ。国家元首が相手でも
ひるむな、対等に堂々と取材しろ、
人間の思考はそんなに変わらない、自分が元首なら
こう考えると分析していけ、というのです」。

 同じく40年以上の縁がある、
ジャーナリストの上田泰一さんも振り返る。

「事前に嫌というほど調べて分析し本人にあたる。
問題の核心をつかみ質問していることが
相手に伝わりますから、大統領だろうが軽くあしらわれなかった。
相手の言い分も書き、秘密は守った」

 大正11年、神戸生まれ。姉は、
柴田錬三郎の兄である剱太郎に嫁いだ。

神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)で英語を鍛えた。
記者を志したが、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。
敗戦翌日に退職願を出す。進駐軍が来れば英語に堪能な記者が
必要になると先を読んだのだ。

 毎日新聞大阪社会部に配属。マッカーサー夫人の
単独会見に成功したり、朝日新聞が囲った取材源を追い、
社屋に押しかけてインタビューをした武勇伝も。

 だが、結核で休職。懸賞小説の賞金で糊口を凌いだり、
請われて森繁久彌のラジオドラマの脚本を書いた時期もある。

復職し29年、大阪からワシントンに。
米国ばかりか国連を通じ、各国要人と関係を築き頭角を現す。

 37年に帰国、外信部長になっても
署名原稿を書き続けた。大森ファンの読者により
毎日の部数は急増。新聞販売店から絶賛され、
他社からも執筆依頼が相次ぐ。

「勘が良く、要所を押さえ、文章力があり読ませる。
こんな記者は他にいなかった。しかし、
有名になりすぎました」(『中央公論』の元編集長、粕谷一希さん)。

 その名が世界に轟いたのは、
40年9月に西側記者として初めて北ベトナム入りした時だ。
「米軍は病院を爆撃している」と報じた記事は、
翻訳され世界に衝撃を与えた。ライシャワー駐日大使は
「北ベトナムの宣伝を鵜呑みにした報道」と批判、
問題は大きくなった。

「反米や北ベトナム寄りではないんです。
イデオロギーよりもヒューマニズムで、病院を攻撃するのは
人間として許されないだろうという視点でした」(上田さん)

 社内での立場は次第に難しくなる。記事の臨場感や
物語性が共感を呼んでも、時に情緒的とも指摘された。

 翌41年、44歳で退社。
週刊の新聞『東京オブザーバー』を創刊する。若い記者や
カメラマンを育て、沖縄で核兵器の撮影にも成功した。
 
船を借り当代一流の講師と学生を乗せ渡米した「太平洋大学」も
反響を呼んだ。

「学生のベトナム反戦に理解を示しながらも、
マルクス主義かぶれはおかしい、
とアメリカを見せようとしたのです」(吹浦さん)

 経理担当者の不正により3年で休刊に追い込まれる。
2億円の負債は執筆と講演で完済した。
政界入りの勧めを固辞し、
51年に居をカリフォルニアに移してからも
『戦後秘史』などを旺盛に著す。ベトナム戦争の敗北を
早々に予測したように、バブル絶頂期に株と地価の暴落を
警告したり勘は衰えなかった。

 平成5年には山火事で自宅を焼失。数度の
心臓麻痺を乗り越え、19年には日本の新聞社が
イラクから特派員を撤退させたことに
「兵士と戦場に行くのが本来の使命」との記事を寄せた。

 2月に入院、日本時間の3月26日、肺炎のため、
88歳で逝去。再婚した妻の恢(ひろ)子さんの兄、
伊藤眞さんは言う。

「支え合う夫婦でした。3月上旬にお見舞いに行った時には
笑って喜んでくれた。スポーツ好きで、
西海岸に移ってきた松井選手の活躍を楽しみにしていました」。

     ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 おりから、アフガニスタンでフリージャーナリストが
拉致されました。

 ベトナム戦争当時もそうでしたが、日本人の全国紙の記者は
まず、「現地」に入りません。安全第一なんです。

 1971年11月22日、私は東パキスタンで
国際赤十字の仕事をしていました。前日、戒厳令が出され、
日本航空の飛行機が2機、邦人救出のためにやってきました。

 朝日新聞の記者がこの便で早速インドに出た。
「本誌記者、危機一発の脱出」と一面トップに大見出し。

 私たちはそこからが仕事だったし、檜垣正忠総領事も
残留した。残ったアメリカ人の記者二人がその記事と写真で
ピューリッツア賞を取った。あのころから新聞の衰退は
始まっていたのでしょうね。

 もう、大森さんのような仕事の仕方をする大新聞の
記者はいなくなったのかなぁ。
郷隼人の歌、今朝も朝日に [2010年04月05日(Mon)]




幻冬舎から出されたこの本は2万部も売れ、読者の心を揺さぶった。









 カリフォルニアで収監されている身の
郷 隼人氏の短歌が、きょうの朝日新聞でも選ばれている。

 朝日歌壇、先週に次ぐ、連続入選である。

 ドア閉ずる。春は曙 囚人の
  調理師(コック)ら房を出てゆく気配

 選者は、馬場あき子さん。「アメリカの収監房の一場面がユニーク」と
選評を述べておられる。

 今月末、ウェブサイトを管理するなど、
郷さんを長年サポートしてこられ、た、二人の女性と京都でお目にかかる。

 この人のすばらしい才能を文化の”公益と”して、
何か考えることが出来ないものだろうか。

 1996年以来、朝日歌壇で、おそらく最も入選回数の多い人
ではないだろうか。
イチゴの食べ方 [2010年04月05日(Mon)]











 ある若夫婦にお招きをいただいた。

 夕食の最後に出たのがこの「とちおとめ」。

 ヘタを持って先端から食べていると、
「イチゴってまずヘタをとり、甘みの少ないヘタ付近から食べ、
最後にみの先端を食べるんですよ。すると一層おいしくいただけます」。

イチゴ栽培農家から聞いた話だそうです。

 なるほど、納得。論より証拠、やってみてください。
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